ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。

<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?

 

A 回答 (77件中1~10件)

kobareroさん 了解しました。



なかなか充実した楽しい数週間でした。こちらからも 感謝申し上げます。

わたしの相変わらずのでしゃばり精神については ご海容のほどを 重ねてお願いしておきます。

またお会いしましょう。(そう言えば この言葉をすでに一度申し上げてしまっていましたね)。
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この回答へのお礼

長らくお付き合いいただきありがとうございました。

お礼日時:2007/08/28 08:08

kobareroさん こういうふうに理解しました。



つまり kobareroさんは 新しい言語学を構想するという主題を持って対処していかれる。わたしは 単純に シニフィアンとシニフィエとの間に何の絆もないという恣意性を論駁するという目的のためにのみ 議論をしている。

ですから 音素=意義素説が――そうはおっしゃっていないのですが―― たとえ一部分で成立していても これを新規に言語学を構築するのには用いられないのだと。

ただ 細かいことをほじくり出すことになりますが 次のような表現には あいまいさが残るとは思います。つまり

《それぞれの言語を使う人々の歴史的背景や文化的背景に応じて、適切に分節することが、第二の恣意性の意味である。》(No.71)

というとき 《歴史的背景や文化的背景》は ソシュール学説に立てば 言語の生成のあとのことではないかと考えられるからです。

なるほど 《文化的背景》には 無文字社会と文字を持った社会との段階区分が出来るように 《歴史的背景》にも たとえ言語を持つ以前の段階だとしても 人間は生存していたし 生活をいとなみ しかも 社会的な生活だったのだろうと思われるその限りで 言語能力が潜在的に活動し始めていたと言えるかも知れません。つまり 潜在能力が眠っていた段階と それがうごめき始めた段階とがあって 後者の段階の歴史が 言語発生に力を添えているとは考えられます。

もしこのこと《に応じて、適切に分節する》というのでしたら たしかに 《「絶対的普遍的概念が、まず、有って、それに名前を付けたものが言語だ」ということの全面否定です》とおっしゃるとおりになるかと思うのですが これは《恣意性》とは切り口が別なのではないでしょうか。

《シニフィアンとシニフィエとの間の無根拠による成り立ち あるいは そのシーニュどうしの無縁性》という内容を いまの《恣意性》という概念からは 新規の言語学にあっては 取り除くという意味になるのだと理解したわけです。その当否を問わない。いや その問題の立て方を そもそも しないと。

あと 関連して 

《「日本語における、音素=意義素の事例は、日本の歴史的・文化的背景の下に動機付けられて決まってきた」ものであり》(No.71)

これにつきましても あいまいな感覚が残ります。一方で 人間の身体自然にかかわる音素の調音の仕方――その自然的な性格――にもとづいて 語が成り立つ〔部分がある〕ということと 他方で 《歴史的・文化的背景》が 語の意味の確定を動機づけるということとは 区別しうる事柄だとは考えます。あるいは その上で 両立します。

細かいことですが つまりなぜなら 意義素が同定相だからといって 語は全部 《同定》という意味になるのではないわけですから。何に同定するか 何と何とを同定・比定するかで 語の意味は 決まるはづですから。

同定相が 発音にかんして働いたあと 語の意味のほうは 社会的に――つまり個々の人間関係においてと共に 社会の総体としての人間関係における取り決めにおいて――決まってきたのだと考えられます。そして おそらく 同定相がああだ否定相がこうだと 意識してはいなかったと推測されます。

こんなふうな感想を持ちました。今回は 感想です。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>つまり kobareroさんは 新しい言語学を構想するという主題を持って対処していかれる。

なるほど。確かに、ソシュール言語学を、私が勝手に自己流に解釈して捻じ曲げているという意味ではおっしゃる通りですね。私は「自分が理解できるかどうか」が第一義なので、ソシュール言語学の正当な理解者には成れないのだと思います。

「恣意性」については、自己流ではありますが、私なりには納得できましたので、次の課題は、”新しい言語学を構想する”ことなどでは、もちろんなく、「言語は即自的存在ではない。示差的存在だ。」に関する疑問を解くことです。言語は、示差的存在であることは十分理解できるのですが、そのことは「同一性」と表裏の関係にあるのではないかと私は思います。また、「同一性」は「即自性」と同義であるようにも思うのですが、その辺が、まだ、はっきりと見えていません。brageloneさんが#66で述べておられる「関係主義」という話をもう少し突き詰めてみたいと思います。

>《シニフィアンとシニフィエとの間の無根拠による成り立ち あるいは そのシーニュどうしの無縁性》という内容を いまの《恣意性》という概念からは 新規の言語学にあっては 取り除くという意味になるのだと理解したわけです。いや その問題の立て方を そもそも しないと。

端的に言うと、私の自己流ねじ曲げ解釈です。

>これにつきましても あいまいな感覚が残ります。一方で 人間の身体自然にかかわる音素の調音の仕方――その自然的な性格――にもとづいて 語が成り立つ〔部分がある〕ということと 他方で 《歴史的・文化的背景》が 語の意味の確定を動機づけるということとは 区別しうる事柄だとは考えます。あるいは その上で 両立します。

「自然的な性格」とは何かを考えていくと、結局、「言語の起源」に行き着きますね。一番初めに、日本語を使って、「腹減った」(に該当する日本原語)を発した人は、どんな気持ちで、その音素列を選んだのかということは大変興味深い話です。ジャン・ジャック・ルソーの「言語起源論」P30に以下のような文があります。

「自然の声は音節がはっきりしていないのだから、単語には音節のはっきりした発音がほとんどないだろう。そしていくつかの子音が母音の間に入って母音の重複をなくせば、それで音がなめらかになり、発音しやすくなるには十分だろう。その代わり、音色は実に変化に富んでいるだろうし、多様に異なったアクセントは同一の声をさまざまなものとするだろう。そこで音の長さとリズムが新たな組み合わせのもととなるだろう。そんなわけで、自然のものである声、音色、アクセント、諧調は、約束事であるはっきりと区切った発音(調音)に対して、ほとんど働きの余地を残さないだろうから、人々は話す代わりに歌うだろう。そして語源となる語は大部分、情念のアクセントとかまたは感覚で感じられる事物の結果とかを模倣した音(擬音)だろう。そしてそこでたえず擬音語が感じられるだろう。」

<語源となる語は大部分、情念のアクセントとかまたは感覚で感じられる事物の結果とかを模倣した音(擬音)だろう。>という辺りで、brageloneさんの「音素=意義素」説に通じる部分があるように感じました。と言っても、brageloneさんの場合は、オノマトペとは一線を画しているのだとは思いますが。


さて、当初の質問「「もの」が先か「言語」が先か?」を出発点として、brageloneさんからは、様々な視点から大変貴重なご回答をいただき、それをヒントに、この1ヶ月以上もの間、日々、調べたり考えたりの充実した時間を持たせていただきました。本当に良い勉強になり、感謝、感謝です。どうもありがとうございました。当初の質問に対しては、自己流ではありますが、私なりに何とか納得できる回答を得ましたので、そろそろ、この質問をクローズしようかと思っています。

また、機会がありましたら、是非、よろしくお願い致します。

補足日時:2007/08/26 15:42
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子音/ C /一個で考えるよりは 形態素の/ CV /=相認識というかたちで捉えるとよいと思いました。



1.ha / hV : 息の音の順出→順出・順定相〔ハイ(諾)〕;

    中心主題〔ハ(主題提示格)・晴・計haka・日・火・生エ・映エ・祝キhoki・誇リ・褒メ・誉レ〕・副次中心〔ハ(副次主題の取り立て)〕;
    周縁(葉・端・葉・辺・淵hu-ti・畔ho-to-ri);反復(経hu・古)・習慣(計ラヒhaka-ra-hi・古ビ)

2.ka / kV :息の音( ha )の遮り→反出・反定相〔カ(疑問法・詠嘆法)〕;

    疑問・反省・思考〔ガ(関係主題提示)・遥カharu(≒晴)-ka〕・誇ラカhokora-ka・気ke〕;
    変化・移行・過程〔計ha-ka・祝キho(秀)-ki;言祝ギkoto-hogi→kotobuki寿;二日hutu-ka (cf. hito-hi=一日)・暦ko-yomi =日‐読ミ(数える)〕

3. ma / mV : 息の音の確認→認定相(目・真・見);

    認定〔褒メho(秀)-me・果敢無ミhaka-na-mi・確言・意思(‐ム-mu(補充用言=助動詞)〕
    推定 〔モmo (主題条件詞);‐ム-mu(補充用言=助動詞)〕

4. sa / sV : 歯を閉じて息の音を一たん遮断しつつさらに息の音を推し進める→ 指定相( so 其 );

    肯定〔誇ラ‐シ hokora-si・早シhaya(生ヤ)-si〕;
    再言〔欲シho-si(形容詞。中立的には 《いいもの(ho秀)だ》と言っているのみ)〕;
    起動(欲リ‐スhori-su>欲スhossu);
    人為・使役〔生ヤ‐シ⇒林;映ヤ‐シ⇒囃子)

5. ta / tV : 唇を開けて 息の音の確認( ma )から離れ また歯の閉じも開いて 息の音の推進( sa )からも やはり一たん離れ そこにも 何らか一定の分節のあとを示そうとする:不定指示相(誰ta・手・跡to・処to・道ti);

    隔定〔果テha(ハ=一定の主題)-te〕;
    一回性・放出・完了〔果敢無ンデ←果敢無ミ‐テte(完了法)〕

6. na / nV : 不定という相で一定させた《ta(誰) 》と違って つまりは舌をさっと歯茎の裏につけて素早く離す( ta )のではなく きちんと触れることで 何かをそのものとして確定させようとする:同定相;

    同定・属性(炎ho-no-ho=火ノ穂);
    否定(果敢無し-na-si)・消滅(終了)〔夏ハ来‐ヌki-nu(完了法)〕

7.ra / rV : 舌先を口の中の天井のどこかに当てるようにして調音する子音――日本語ではただ一個の――/ r /は 息の音を遮ろうとする子音一般の現われを しるしづけるもののように見られる。これが ごく一般的な自然想定相にもなれば 他の子音いづれに対しても それぞれの子音を一般に代理しているものの如く 位置づけられる:自然想定相〔晴ha-re=《中心主題( ha )が自然に想定( re )され得た》と言っている〕 ;

    自然生成相〔流行リhaya(生ヤ)-ri ・見ルmi-ru〕
    親愛称相(誰ta-re)
    一般代理相(計リhaka-ri・パニク‐ルpaniku-ru)



・・・・・・・・・・・・

つまり あらためて こうです:息の音を順出するという自然の事態とその性格のゆえに / ha /は順出相であり これにもとづきものごとを順定する相であり そして 順出は 頻出しやすいゆえ 反復習慣相などを得るという想定です。また 順定したものは 中心的な位置に立たされます。それゆえ 中心主題相をも帯びるという仮説です。

その他その他 同じように想定しています。いま一度 ご検討ください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

#75の「補足/お礼」に書かせていただきましたように、残念ながら、私の言語の感性が付いて行けるのは、「/cVc-/=意味素」の世界までです。

「/c//cV/=○○相」の妥当性に付いては、私の判断能力を超えています。そのため、せっかく、ていねいに書いていただいて申し訳ないのですが、コメントは控えさせていただきます。

お礼日時:2007/08/25 19:30

No.72・73です。



kobareroさんは 恣意性説を否定する見解に立たれたのでしょうか。
《・・・シニフィアンとシニフィエの関係は、「全く、いかなる根拠もなく、デタラメ」に決まっているというのも、むしろ、有り得ないことではないかと思うのです。》=No.73

また
《弁別規準のはっきりしている例を読ませていただきました。確かに、この場合、/sVg-/や/sVk-/などが、一定の意味と深く関連しているように感じられました。》=No.72
――《感じ》では まだ 曖昧ですが この事例を否定されていないということは / nVkV ・ nVgV /の場合を合わせて これらのシニフィアンとシニフィエとの間には 論理的な絆があると認められたのでしょうか。

もしそうでしたら あとは――この段階では (1)この弁別基準の明確な形態素での全言語における実証と(2)言語の構造上の・あるいは類型論としてのやはり全言語に通じる論理的な絆についての実証とを提案・模索されるということですが――
あとは それほど むつかしくはないと思います。

シニフィアンとシニフィエとの間の《論理的な絆》のほかに 《自然的な絆》が見つかればよいはづです。論理的な絆だけでは 即自的な存在だとは言い難いからです。なぜ/ nVk(g)V /=《障害の消滅》の相だと言えるのか つまり なぜ/ n ・k(g) /でなければいけないのか ほかの/ m ・s(z) ・t(d) / などでもよかったではないか これに答え難いからです。

ところで すでに音素=意義素説をお示ししました。シニフィアンをさらに原子にまで分析したものですが 《すなわち 子音/ n /=同定相の根拠として
_______________________
上歯茎の裏あたりにかなり粘っこく舌を当てて調音する子音/ n /は その粘着性という自然によって シニフィアン/ na /の要素として用いられたとき――つまり この例では 一般対象に同定したと捉えることができるように シーニュ:《na =名》として――たしかに同定相を 《自然のかたちで》無意識の内に帯びたという想定も出来ます。(#65・73)
________________________
すなわち 調音は 人の身体自然とその能力の発揮にかかわっており この自然性を基にして 同定相を帯びる・しかも この同定相が 意味を確定していると考えられる。

ですから 《たとえばsoeur(姉妹)という概念は いかなる性格 いかなる内的関係によっても これに対応する聴覚映像を形成する一連の s + oe + r という音とは結ばれてはいない。》(SM115;《ソシュールを読む》p.196)という説は 成立していないことを立証している。

以上のようにお考えにならないでしょうか。《ギヴアップ》という表現は よく分かりません。

***
No.72で / mVk(g)V /の例に触れておられたので 参考になればと思います。たとえば

   / m /=認定相(自体にかかわる);推定相

について いま得ている結果は 次のように例示することができると思います。

――moe 身(= mo モ/ mu ム)の帯びる相認識 (≒意味)――

  (A) 身体・自身
  (B) 自体の充実性・集合性
  (C) 対極として 欠落性(これは / m /=推定相というのが デタラメの推測で 根拠がないという相を持つと思われることより。)

――《moe 身(=モ / ム)》からの語の形成〔上のA・B・Cの用例の区別あり〕 ――

  moe-i > mui > mi 身(み)〔概念相(末尾母音-i)で確定させた形〕
  mu-ki 向(む)キ :(A)=(身+移行 k )
    →muka-hi 向カヒ;muka-he 迎へ

  mu-ki 剥(む)キ :(C)
  mo-gi 捥(手偏に宛)(も)ギ :(C)

  mo-si 若(も)シ :(A)(《それ自身(moe)である(si)〔とせよ〕》)
  mu-si 生(む)シ :(B)(=身+起動 s :《自体の充実性の動態》)
     →musu-ko / musu-me 息ス‐子・息ス‐女

  mo-to 本・元(もと) :(A)(/ t /は不定指示相・隔定相)
     →moto-me 求(もと)メ
  mo-no 物(もの):(A)(/ n /=客体の同定相)

  mo-hara ( > moppara ) 専(もは)ラ :(A)
  mo-mi 揉(も)ミ :(A)

  mo-ro 諸(もろ):(B)(《両方の・多くの》)
  mo-ro-si 脆(もろ)シ:(C)

  mu-re 群(む)レ :(B)(/ r /は自然想定相・自生相)
    →mu-ra 村(むら)
    →mu-ra ムラ(=不揃い) :(C)( 《曖昧に推定された身》として)

  mo-ri 盛(も)リ :(B)→mori 杜・森
  mo-ri 漏(も)リ :(C)
  mo-ri 守(も)リ :(A)(あるいはつまり mo が ma・me 目・mi 見と共通相であろう)

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>kobareroさんは 恣意性説を否定する見解に立たれたのでしょうか。

恣意性説は、「恣意性」という言葉を私なりに解釈することによって、私としては納得できましたので、否定しているわけではありません。「恣意性」についての私の解釈というのは、最も短く表現すれば(詳しくは、#71補足)、「恣意性とは、歴史・文化的背景から生まれる様々な要因で決められること」です。従って、brageloneさんの「音素=意義素」論は、私の解釈では、「恣意性」の範囲に入ることになります。これは、あくまで、私個人が納得できる解釈という意味ですので、ソシュール論者が納得されるかどうかはわかりません。

また、「全く、いかなる根拠もなく、デタラメ」云々については、私の説明不足でした。私が考えていたのは、結局、言語レベルの話ではないようです。多分、メタ言語レベルの話ではないかと考え直しました。

>――《感じ》では まだ 曖昧ですが この事例を否定されていないということは / nVkV ・ nVgV /の場合を合わせて これらのシニフィアンとシニフィエとの間には 論理的な絆があると認められたのでしょうか。

そうではなくて、<「リンゴ」というシニフィアンが、「リンゴ」の概念と結びついている>のと同じ意味で</sVg-/や/sVk-/などが、一定の意味と結びついている>と言う意味です。何だ当たり前ではないかと思われるかも知れませんが、私にとっては、正確にはシニフィアンではない/sVg-/や/sVk-/などが、一定の意味と結びついているという事例が新鮮に感じられたのです。

>もしそうでしたら あとは――この段階では (1)この弁別基準の明確な形態素での全言語における実証と(2)言語の構造上の・あるいは類型論としてのやはり全言語に通じる論理的な絆についての実証とを提案・模索されるということですが――

この部分については、私としては、これまで、何度か議論したつもりでしたが、何故か、問題意識が共有できていないように思います。私の問題意識は、「語幹(/nVkv/など)=意味素」の話と「音素(/n/など)=意義素」の話は、「別の問題として完全に分けて考えないと意味がないのではないか」ということです。なぜならば、「語幹(/nVkv/など)=意味素」は、「単語=意味」と基本的には同じことであり、brageloneさんがおっしゃっているような「シニフィアンとシニフィエの動機付け」を示唆するものではないからです。もし、この部分がピント来ないということであれば、/nVgv/を/mVrv/に置き換えたとしても、その結果、言語として成り立たなくなるということはないことを考えればわかるのではないでしょうか? 例えば、「投げる」の発音を、生まれたときから/mareru/と聞かされていたとすれば、それはそれで言語として成り立つのではないでしょうか?

一方、「音素(/n/など)=意義素」の問題は、これとは全く別で、/n/そのものが「絶対的音(他の音と置き換え不可能な音)」として、人間に(あるいは、日本人に)何らかの意味なり意義なりを与えるかどうかの話だと思います。

そこで、私がギブアップと言ったのは、brageloneさんの以下の文についてです。

_______________________
上歯茎の裏あたりにかなり粘っこく舌を当てて調音する子音/ n /は その粘着性という自然によって シニフィアン/ na /の要素として用いられたとき――

つまり この例では 一般対象に同定したと捉えることができるように シーニュ:《na =名》として――たしかに同定相を 《自然のかたちで》無意識の

内に帯びたという想定も出来ます。(#65・73)
________________________

<以下、お礼に続く>

補足日時:2007/08/24 17:54
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この回答へのお礼

率直に言うと、この文章の意味は、私にはよく理解できないということです。何故、理解できないかを考えたのですが、#73の補足に書かせていただきましたように、これは、音楽的センスと同様に、言語に対する特殊な感性、あるいは、臭覚とでもいいましょうか、そういうレベルの話ではないかと思うのです。別な例で言うと、作曲家なら、川の水の流れを見て、あたかも、その川から特定のメロディーが沸きあがってくるかのように感じるかも知れません。しかし、作曲家でない人からみると、「その川の流れ」と「特定のメロディー」がどうして結びつくのかわかりません。同様に、言語に対する特殊な感性がある人なら、/n/と「同定」の間に自然な結びつきを感じ取れるのに、言語に対する特殊な感性がない人にとっては、/n/と「同定」の間にあるという自然な結びつきを感じ取れないということではないかと思います。

そのような意味で、私には、言語に対する特殊な感性がないように思います。ということで、ギブアップです。

以上、私の説明が下手で申し訳ないのですが、ご理解いただけましたでしょうか?

お礼日時:2007/08/24 17:57

「恣意性」の議論については、その言葉自体が初耳の私には付いていけなかったところがたくさんあります。

 (読み進めてはいましたので、大いに学習となったところやわたしにとって価値的な気付きを得た部分はたくさんありました。 また今後さらに繰り返したどりつつ学びたいこと多数あり、あらためて言語学の深さに驚いています。)

しかしながら、その議論から派生した‘「絶対的普遍性」の「否定」が、その議論に「結論」を導き出しているくだり’や、その後のburageloneさんの「しかも、この第一の恣意性を論駁できればすべての論理が崩壊すると思います」と最後に書かれている文面から(理論が崩壊する→ソシュール=丸山の恣意性に関する理論、したがってその理論の根本も、 というふうに受け取ってるのですが‥)、

いよいよ、恣意性についての何か新しい見解がお二人の議論から生まれでようとしているように思える場にて、

その新たな見解を生む因となっていると思われる「絶対」について、またそこからも派生する「無意識」についての私の考えをここで述べさせていただくことによって、この論議の最後に何らかの参考になるならばと、再び一般庶民(この規定のしかたが正確な言葉遣いのものかは、私には解りませんが、本がなかなか読めない環境の中でも思索を愛し物事を深く考える庶民はいっぱいいると思ってます。)からの筆をここに伸ばしてみたしだいです。

 「唯一無二絶対」という言葉は私もキリスト教の世界で言われていることを聞きかじってはいます。しかし、「唯一無二」というのは解りますが、ここにいきなり「絶対」という概念が「神」について出てくるびっくりさせられてしまう通念について、  私はこれがほんとうに西洋キリスト教徒の哲学者や思索家の通念なのか?どうしても信じられなかったところです。

 「絶対」も「絶対的」も、正確に定義するなら同じことを意味してると私は「絶対」という事の性格からして思っていますが、 一般的には「絶対的」となると「絶対」そのものを現す言葉として使われているのではないことは解っています。
しかしいずれにしても、これはどうしようもない苦しみや悲しみの中からの「「信仰という事」」の中での弱い人間の真実の一つとして生まれた言葉としての「絶対的な神」という概念ならば、キリスト教の中に生まれた価値的でもある言葉であり文化的言葉だというふうに私には理解できるのです。

言ってる意味合いを理解して欲しいのですが、もし「神」が哲学的に正確に「絶対」であるならば、なんで相対的は我々に「神」を理解できるよすががあるというのでしょう。  まったく理解不可能な存在の事を哲学する意味もなくなりますが、それよりなにより、キリスト教的ではないと思います。
愛もなにも、まったく信じられなくなると思いませんか?

でも キリスト教徒たちは、絶対的な神を信じることで始めててっとしばやくというか復活とかも信じれたし、苦しみの渦中にもなぐさめや希望を手に入れたのだと思う者です。  それがあまりにせつせつとした者であったということも充分想像のつくことです。

 だから哲学者たちも、そこに生まれた「絶対」という概念をありもしないことについてまで(「神」の存在を否定しているのではないので誤解のないように。「絶対」ということが幻想だということです。)さすがに西洋キリスト強国の方々の一員として影響を受けてしまったのではないだろうかという推理が、私の中には生まれています。

 ほんとうは「逆」であってこそ、「全知全能」という事を正しく相対的我々も思索できるのに、またその「全知全能」を「愛」と理解できるのに

 という想いがなんらか、哲学者でもあるところの西洋言語学者のソシュールの中に生まれたにではないかという推理が同時に私の中に生まれることになったわけです。

 うだるような暑さが続いてますが、「うだるような‥」という言葉以前にそのような物理的状況が「神」によっってかどうかはともかくすでに生まれていたことは、ここでは(にの論議の場では)とっくに結論づけられていましょう。

 しかし そのような「物理的状況」が生まれる因に、「神」という知性の力があったのかどうか? あったとすれば神という知性の中にはそれが超自然であれなんであれ(その議論も、神経の乱れとかいった論議の中でどこかで関わる議論となりそうだったのですが‥) はてさて言葉は予定されていたのか?   このへんもソシュールの哲学の中にはあったのではという推理が私が最初にふと書いてしまったことの内容ですが、

 これも「神」が「絶対」であったら私たちの考えようも無い世界となります。

 でもそうでない限り、手がかりは「言の葉」→「事の端」の「事」と「言」の端々の整理と、その全体の鳥瞰的視やの模索の中に必ずなんらかの回答があるに違いないところです。 

 神に与えられた知性の性格とも言えそうなところなのですが‥。

またまた長く書きすぎました。 どうか不必要ならば私からの言語はすべて切捨てることで切り取ってください。

無意識については 簡単にします。

 人間の場合 阿頼耶識とかの仏典でも五感とかの奥にある意識状態として
自我とか欲望とか本能的に身を守る世界の人間バージョンのような世界がまずあり、 次にお互いが人間同士でもあることをもサルの仲間意識とは別にも見えてしまう人間の自我を越えた世界の葛藤の世界がその次の意識状態(無意識状態)として語られ、その葛藤や努力の世界の向こうに『愛」とか「慈悲」の世界を見出せたらそれが「九識親王の都」でしたかそんなふうな表現で「仏」のせかいなんだというふうに語られていて、こうして無意識界の全体像が述べられてるわけですが、

 その最奥の価値とか最高の価値とか、あるいは「愛」であっても同じなんですが、そこにどうしたら弱い人間が近づけるのかの具体的な道筋は必ずしも仏典とか聖書では具体的に深く突っ込まれてなくて、いきなり悟りや信仰の世界が語られているのは何故なのかと思ってしまうところもあるのですが、たしかにそうした世界にはわたしは謙虚にならざるを得ないものを感じます。

神が その最高価値より低い存在であるはずが無いならば、絶対でないかぎり神はその「愛」でありまさに最高価値であり「希望」。

「神のとっては、言語以前の物質界も「「混沌とした」」「もの」ではなかった」という正確な何かを、ソシュールはなんとか、 言語学者の中の無意識の良心の叫びとして逆説的になんか表現したかったのではないか?とふたたびそんなふうに思われてならないのですが。

なおソシュールとアナグラム(でしたっけ)とか火星語(?)とかの晩年の彼の興味についてもこうなると興味深くりますが、とりあえずわたしの求めている言語の限界性についての答えがそこにあるとは思えないので、今のいそがしい身にては 後回しの学習課題としております。(インターネットでの勉強法というのもあったんですね。これからもっと模索していってみようと思います。ありがとうございます。 ネット音痴な人間ですので、ヒョンなところでも、おおいに気付きをえました。)

             以上です。   うだりつつ。 arayata。




 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>もし「神」が哲学的に正確に「絶対」であるならば、なんで相対的は我々に「神」を理解できるよすががあるというのでしょう。 

これは、両極性と両義性の関係ではないかと思いました。もし、「相対的なる人間が、絶対的なる神を理解できるはずがない」という論理が成り立つとすれば、まさに、その問題を解決するために、キリストが「人間として」生まれてきたと考えることができるのではないでしょうか。

絶対(神)と相対(人間)は両極にありますので、同一平面での交流はできないと考えた場合、その仲介役として、<絶対(神)=相対(人間)>という論理的には矛盾した存在(キリスト)を生み出すことで、両者の間に交流をもたらすことができるのだと思います。すなわち、キリストは、神であると同時に人間でもあるという両義的で矛盾した存在であるからこそ、神と人間の間に立って、愛を説くことができたのではないでしょうか。

そういう意味では、イスラム教やユダヤ教は、神でもあり人間でもあるキリストという存在を認めていないわけですから、絶対(神)と相対(人間)の両極性がそのまま維持されているのかも知れません。興味はありますが、詳しいことはよくわかりません。

キリスト教の場合は、この他に、マリア信仰や三位一体など、本来、調和できないはずの両極性を、両義性に置き換えることによって柔軟に歴史に対応してきたのではないかと思います。そのため、資本主義とも矛盾せず、むしろ、初期においては資本主義を推進する力にさえ成り得たのではないかと思います。イスラム教が、イスラム金融やイスラム銀行を生み出せるようになったのは、ごく最近のことであることから見ても、両極性のままにおかれた、絶対(神)と相対(人間)の調和がいかに難しいかが推測されます。

お礼日時:2007/08/24 16:48

No.70を承けます。



《子音の調音の自然的な性質を取り上げると それが 意義素の内容と 自然的にして論理的な絆をつくっている。》(#70)

すなわち 子音/ n /=同定相の根拠として

《上歯茎の裏あたりにかなり粘っこく舌を当てて調音する子音/ n /は その粘着性という自然によって シニフィアンに用いられたとき 同定相を――つまり たとえば一般対象に同定して シーニュ:〈na =名〉というごとく―― 自然に無意識の内に帯びたという想定も出来ます。》(#65)

〔《シニフィアン》という言い方は 取りやめました(#70)。ここでは その箇所は 《シニフィアン/ na /などの一部として用いられたとき》という意味です〕。

すなわち この音素/ n /は 《調音のときの粘着性という自然の性質にもとづき 同定相という意義素を帯びる》。したがって 《たとえば〈 na 〉なる形態素=シーニュは 即自的な存在として成り立っている》と仮説されます。《自然的かつ論理的な絆はない》とは言えないとなります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(SM115)第一原理もしくは基本的真理。言語記号は恣意的である。与えられた聴覚映像と特定の概念を結ぶ絆は そしてこれに記号の価値を付与する絆は 根底的に恣意的な絆である。
つまり たとえばsoeur(姉妹)という概念は いかなる性格 いかなる内的関係によっても これに対応する聴覚映像を形成する一連の s + oe + r という音とは結ばれてはいない。
(ソシュールを読む p.196)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そして ここでの《記号の価値》のうち 文法規則 なかでも 動詞活用組織についても 検証し始めていました。この活用の形態は 母音という音素が 自然的に持つ《性格》にもとづき その論理的な《内的関係》によって規則づけられており やはり 即自的に成り立っていると 言おうとしています。

そして 以上が 《「音素=意義素」の実証方法》そのものなのです。/ n /=同定相かつ否定相といった非・恣意性のことは 分析して分かればいいのであって 意識する必要もなければ 見分けようとする《後天的な学習》の必要もないと思います。目的は わたしにとって ソシュール=丸山の恣意性説を批判することです。

しかも この第一の恣意性を論駁できれば すべての理論が崩壊すると思っています。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

子音/n/=同定相については、ギブアップしました。済みません。

brageloneさんには、私には見えない何かが見えているのだと思います。/nVgV/や/sVgV/の世界までは、私にも見えるのですが、それをさらに素粒子まで分解されると、残念ながら、私の視力には弁別できなくなってしまうようです。

このことは、私の苦手な音楽の世界を思い出させます。和音を聞かされて、今弾いた和音は、ド・ミ・ソか、レ・ファ・ラか、ミ・ソ・シかを問われても、私には弁別不能ですし、また、交響曲を聴かされて、今、流れている曲の楽器は何かと聞かれても、管楽器なのか弦楽器なのかの区別さえ付きません。打楽器とピアノが何とか聞き分けられる程度です。恐らく、言語の世界の弁別能力にも似たような個人差があるのではないかと思います。

これに対処する、私の唯一の期待は、「構造的な考え方」ができないかということです。「恣意性」についての私なりの理解を元に考えると、シニフィアンとシニフィエの「恣意性」の考えに対抗する唯一の道は、シニフィアンとシニフィエの間に一定の関係があるということを、個別言語内で実証するのではなく、全言語、すなわち、永遠不滅普遍的関係として実証することだと思います。

これは、いかにも馬鹿げているように見えますが、逆に、シニフィアンとシニフィエの関係は、「全く、いかなる根拠もなく、デタラメ」に決まっているというのも、むしろ、有り得ないことではないかと思うのです。コンピュータなどでは、完全にデタラメな数字列を生成するのは、非常に難しいことがわかります。同様に、シニフィアンとシニフィエの間の関係が全くデタラメに決まるということは、事実上、非常に難しいことではないかと思います。確かに、現実の言語を見ると、各言語の間には、似ても似つかない関係が多いわけですが、それは、見かけ上のことであり、構造のレベルで考えれば、全ての言語は、ある変換をすることで、同じ構造を持っていることがわかるということもあり得るのではないかと妄想しています。話を文法に限定すれば、話はもっと早いのかも知れません。文法の場合は、全くデタラメの構造では、あきらかに実用になりませんから、当然、論理的構造や原理が支配しているわけで、それをある構造的視点から変換すれば、全言語共通の構造が見えてきても不思議ではないと思います。

それにつけても、その「構造的考え方」の元にになる「言語は示差的存在」という命題をもう少し、突き詰めてみたいと思います。言語は実体ではないので、「示差的」と言うのはわかるのですが、単に「示差的」であるだけではなく、「即自的」(あるいは、「同一性」)でもないとする部分が、ちょっとひっかかっています。もう少し、確かめる必要があると思います。

補足日時:2007/08/23 20:38
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弁別基準がはっきりしている事例を考えてみました。



《過ぎ》という語を取り上げてみます。すなわち / sVgV- / =《指定相s-V +思考・過程相 k(g)-V 》を想定しこれを前提とするならば 一般化した概念としては 《指定されたものが 度合いにおいて他を抜きん出ている》といった弁別基準を作っていると推測される場合です。


§1 原形(=不分明でもある状態): soegoe(指定されたものが 度合いにおいて他を抜きん出ている)→

  sugo-si 凄シ ( 元の意味は 寒冷の度合いにかかわるらしい)
  sugu / sugo-su 過グ/過ゴス ( 一線を超える)
  sugu-re 優レ・勝レ ( 抜きん出る)
  sugu-ri 選リ ( 抜きん出たものを選び出す)


§2 次に 今度は sV- を sa- に限定し 従って 形態素を sakV(sagV) の形に絞って いまの検証をつづけてみます。

凄し・過ぐ・過ごす・優れ・選(すぐ)りの sugu- / sugo-と 例えば 先・咲き・裂きなどの saki とは sVk(g)V という形態として 同一もしくは同種であるが それらの間に 意味内容としての対応はあるのか。

直ちにこれは――つまり sakV は―― 大きく次の四種の相認識に区分されるものと思われる。弁別基準の再分節が行なわれる。

・形態素 saki ( sakV )に関する基本的な相認識を四種に分類
___________________________
   相認識・・・・・・・・・・・・saki の語例

(1)先端(境界)部分・・・・・・・先・岬

(2)突出・生長・・・・・・・・・・咲キ〔・栄エ・盛リ〕・幸ハヒ

(3)内部分割(一種の生長か)・・・割キ・裂キ

(4)別体との分離・・・・・・・・・放キ・離キ〔・避ケ・離カリ〕
___________________________

(3)の分割という相認識(弁別値)や (4)の分離の相は 突端部分というよりは 周縁・境界の部分に焦点が当てられていると考えられる。そこから 分離・分割が起こる。

このような変化・移行過程の相については 反出相の/ k /の相認識を裏切っていない。また / sugu- /=凄い・過ぎる・優れるの《抜きん出た度合い》という意味内容と矛盾しない。

§3 いま見ようとしている例は 形態素 sV に関して言えば 指定相一般( sa さ / si し / soe そ 〔其ノモノ〕)から すでに特化してそれらの《目立つ箇所や先端・境界の部分》が取り立てられている場合であると考えられる。他方では sa-sa 細小 sasa-nami 小波 sasa-yaki 囁キ というように  対極を指定する相にも やはり はたらいている例も見られる。

この詳細は割愛して / sVk(g)V /の例をさらに見てみよう。。

§4 《(2)突出・生長の相》とさらに《その結果ないし過程としての充全性》をあらわすものに 次の例がある。

・sVkV =《突出・生長》という相認識の例

  soekoe-soekoe / soekoe-yaka  スクスク/ 健(すこ)ヤカ
  soekoe-mu  竦ム( こわばる)
  sikoe  醜( しこ=頑強)/ sikoe -ri 凝リ・痼リ
  saka-si  賢シ( 丈夫である)

§5 sVkV =《(1)先端・境界の部分の相》が 《心理関係》に当てられるなら つぎの語例を得ると言ってよいものかどうか。

・sVkV=《先端・境界の部分》という相認識の語例かどうか

  suki  好キ ( 先鋭となってのように一点目標に向かって進むさま?)
  suka-si  賺シ・欺シ ( suku = 好くの 他動相)
  seki 急キ ( 心理状態の先端・境界に焦点が当たっているか)
  sega-mi  セガ‐ミ ( 強引に頼み求める。ねだる)
  seko-i セコ‐イ 〔 現代語。細かいこと(1)に執着〕

§6 《空間関係》にかかわる場合。(あてはまらないとも思える例)

・sVkV / sVgV =《先端・境界の部分》の語例

  saka  坂 (その傾斜が突出〔(2)〕にかかわるか)・境・界・逆
  sage / saga-ri  下ゲ / 下ガリ (坂・逆との関連?)

  cf. age / aga-ri 上ゲ / 上ガリ(子音の対照として / s /=人為相そして/ ’/=自同相なので 下 / 上の方向が逆であったほうが 仮説に合うかと思われる。

§7 《〔或るモノAの〕突出・生長〔(2)〕》が 別の対象Bとの関係で 《過程》において現われる場合。

・sVkV = ふたつのもの(AおよびB)の間で《突出・生長》がかかわりあう語例

  siki 及キ・如キ
          ( AがBに追いつく・及ぶ);
     頻キ・茂キ
          〔 事が重なって起こる。Aが先行するBの一端に接近・到達する=(1)x(2)〕;
     敷キ・領キ
          〔 AがさらにBの全体・一面に及ぶ。(2)〕
  sige-si / sige-ri 繁シ / 茂リ
          〔幹・枝・葉などが互いに追いかける(siki及キ)ようにして突出・生長〕
  suki 次
          〔 後につづくこと。二番目であること。(1)x(2)〕
  sugi 過ギ

§8 ややこしい例も 掲げてみます。
・《(3)分割・(4)分離》にかかわると思われる認識相の語例

  soegV  殺ギ・削ギ/ 削ゲ 
  suki / suka-si  鋤キ・漉キ・梳キ・透キ・隙 / 透カシ・空カシ

      〔始原の相としては 全体を 中身が薄い(無い)部分と濃い(有る)部分とに――つまりたとえば 溝と畝とに――分割・分離する。そこに 隙が出来れば 透き(やがて 透明性)へ発展。〕

  suki-to / suQki-ri スキト / スッキリ
    (分離して欲しいものが分離した)
  suge 挿ゲ
     〔有と無との二つの部分に分けられた(3)その欠如のほうの部分――たとえば穴――に 緒などを通すこと〕
  suga-ri 縋リ
     (挿げられ 嵌め込まれたかたちとなれば また縺れるようになる)
  soekoe-nV / soekoe-nahV 損ネ / 損ナヒ
     (これは 分割・分離の相とともに / n /=否定相・消滅相も その役割が大きいか。いや ただの同定相の/ n /でよいか。cf.秋‐ナヒ=商ヒ)

かなり入り組んできましたが。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

弁別規準のはっきりしている例を読ませていただきました。確かに、この場合、/sVg-/や/sVk-/などが、一定の意味と深く関連しているように感じられました。そこで興味を持ったのですが、「一定の意味」と「一定数以上の派生単語群」が”わかりやすい形で”関連しているような/cVc-/(語幹)というのが、一体、どのくらいあるものかということです。もちろん、現代日本語ではなく、できるだけ原初に近い日本語においてという意味ですが。すでに、brageloneさんが挙げておられる以下の(1)、(2)の他に、大野晋が「日本語の起源 新版」で挙げている(3)などがありますが、他にも、まだ、いっぱいあり、(1)、(2)、(3)は、その中のほんの一例に過ぎないのでしょうか? 

(1)/nVg-/、/nVg-/ 
(2)/sVg-/、/sVg-/
(3)/fat-/

原理的には、/cVc-/の/c/の所に「k/g、s/z、t/d、n、h/f、p/b、m、y、r、w」などを片っ端から当てはめてみて、該当する/cVc-/が見つかるかどうかということになりますので、取り合えず、片っ端から試してみたのですが、なかなか見つからず、かろうじて、以下の例で、その痕跡があるようなないような感じです。

(例1)/mVg-/、/mVk-/
   もぐ/mog-u/、曲ぐ/mag-u/、紛る/mag-iru/、剥く/muk-u/、巻く/mak-u/、撒(播、蒔)く/mak-u/、負く/mak-u/

(例2)/tVg-/、/tVk-/
研ぐ/tog-u/、解く/tok-u/、溶く/tok-u/

恐らく、古代日本語研究者から見ると、この辺の話は既に研究済みで、もっと多くの例が山のようにあるのかも知れませんが、私は、その辺が不案内なので、取り合えず、この段階で何が言えそうかを考えてみました。

まず、/cVc-/(語幹)と意味との間に、一定の関係がある事例は、”一定数ある”と言うことはできると思います。そして、そこからさらに推論を進める段階で、以下の3つの選択があるのではないかと思います。

(a) /cVc-/(語幹)には、一定の意味があるが、それをさらに分解した音素/c/のレベルには意味はない。
(b) /cVc-/(語幹)には、一定の意味があるが、それは、その元となる音素/c/に意味があるからだ。
(c) /cVc-/(語幹)には、一定の意味があるが、それは、音素/c/に意味があるからではないが、音素が”何らかの影響”を与えているからだ。

まず、(b)については、もし、音素/c/に意味があるとすると、造語上の障害が発生するので、言語システムとしては成り立たなくなると思います。例えば、/n/に「ねっとりとした」という意味があるとすると、「日本」や「ニコニコ」や「虹」にも、いちいち「ねっとり感」がへばりついて、自由な造語ができなくなります。そのため、音素は一般に、「意味上」では、中立であるしかないと思います。従って、問題は、(a)か(c)かということだと思います。

brageloneさんは、「音素=意味素」ではなく、「音素=意義素」とお考えなので、(c)の考えに近いのではないかと思っています。ただ、私には、「意味」と「意義」の違いが、今ひとつわからないというのが、正直なところです。「意義」は「意味」比べて、何か「機能」に近い感じもするのですが、そのように解釈したとしても、/n/に機能を持たせると、やはり、「日本」や「ニコニコ」や「虹」に影響してしまい、造語上の障害になるのではないかと思ってしまいます。

そこで、(c)について、もう少し別の観点がないかを考えてみました。「語幹と音素」の関係は、「分子と原子」のメタファーで考えてみることができると思います。水の分子はH2Oで、水素原子Hと酸素原子Oからできていますが、水の性質は、水素原子H、酸素原子Oの単独の性質とは何の関係もありません。しかし、水の性質は、水素原子Hと酸素原子Oの”結合の関係”から生まれて来るとは言えます。同様に、語幹の意味は、個々の音素の性質とは直接関係ないけれど、音素同士の”結合の関係”から生まれてくるとは言えるのではないでしょうか?

その観点から、あらためて、(1)、(2)、(3)、(例1)、(例2)を眺めてみると、面白い現象に気付きました。それは、/cVc-/を発音する時、何れの例においても、調音運動が、前方から後方への運動であるということです。これは、原初の発音における”自然な発音”の有りようを暗示しているようにも思います。

取り合えず、以上のようなことを考えてみました。面白い分野だとは思いますが、実証的な推論がなかなか難しいとも思います。

補足日時:2007/08/23 17:53
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No.68・69を承けてですが なるほど わたしの説は詰めが甘かったと思う反面で その詰めのありようについては kobareroさんも触れておられるように そもそも 恣意性とは何かをめぐって 微妙であるし どこを見直せばよいか 思案に暮れそうな感じを持ちつつあります。



詰めの甘さとして はっきりしているのは 次の点です。

一つのラングを取り上げ すべての事項の原理であるという恣意性にかんして 反証を出せれば 事足れりと思っていたこと。
《第二の恣意性の論理的帰結である》第一の恣意性が不成立ならば その前提のほうは 成立すると言えるのだろうかと。 
ほかのラングには 恣意性にかんして 別様のラング形成の仕方があるだろうから それはそれだということ。
つまりは 一個のラングに 恣意性によらないシーニュの形成が実証されれば ほかのラングも そのようになる可能性はあったと言えると思ったこと。

ですから moutonと mutton /sheep の事例の類いを出されても そんなことは当たり前だと見なして 放っておきました。つまり その類いの分節の違いがあることが なぜ問題になるのかがピンと来なかったのでした。

逆に 今回やっとわかったのは 生きている場合とその肉とを シーニュによって区別しようがしまいが 羊は羊だということ。言いかえると 川の情況にかんする周辺細部の分節いかんがどうだと言っても それが どうして恣意性の原理を言い表わすとまで言えるのか こういうことだと思います。

細かいことを言えば わたしが音素=意義素の説で 第一の恣意性に疑問を持つということは たしかに派生語群にあっては その互いのシーニュの横の関係としても 恣意性が成り立つとは言えないことになる。(部分的には 有根拠・動機づけの場合もあるでしょうが)。つまり その限りで 第二の恣意性が成り立っていないことになり そのことを含んでいたわけでした。

でも わたしが疑問を抱かなかったというのは このことでいいのでしょうか。なにか ほかに見落としているのではないかとも感じてきています。

ということは いまも取り上げようと思っていないことがあって それは 《英語の/dog/と日本語の/inu/には、何の共通性もありません》という場合の《明瞭な「第一の恣意性」》です。これは 言語の発生に際して シーニュの体系としてのラングそれぞれに分かれるとき 恣意的な分かれ方をしたというだけのことだと解釈するからです。

それとも そうではなく このメタ・ラングの次元でこそ 恣意性がはたらくというものでしょうか。そうなのでしょうが 個々のラングでは たとえば日本語の内部で恣意性が働いていない部分があるというのは 単純な例外なのでしょうか。犬のしっぽが本体を動かすまでになる例外もしくは特殊性のように やはり思います。つまり あってはならない例外なのではないかと。

ほかに わかっている事項から 一つひとつ取り上げてまいります。 

形態素/ nVgV /=《〈障害の除去〉なるシニフィエ》としての説明から 音素=意義素の説明に向かったのは なぜ《障害の除去》なるシニフィエになるかについて 納得したかったからです。その分析をしたほうが いわば原理的です。あとは 拝借した無意識説でまぶしてくださいませ。(見分ける必要はないと思うのですが)。

川田順造は 大昔に アフリカのフィールドワークを読んだことがありますが その後の著書は知らなかったです。さっそく読んでみます。

ただし 恣意性をめぐっては メタ・ラングの次元で 擬音語・擬態語は 基本的に取り上げないほうがよいと思います。個々のラングごとのそれらオノマトペが同じであっても違っていても いったん確立されたラングは 恣意的に他のラングと非連続になったわけですから 関係ないようになると思うのです。

ただし 日本語なら日本語の内部で ノホホン・ノンビリ等々の語を取り上げ 《音象徴性》を論じることはあると考えます。さらにただし 擬態語は 概念語と一緒に取り上げるべきだと思います。《ピカッ》は 《光り》という概念語と共通ゆえ 意義素を考えうると。

そうですか。考えている人がいたんですね。おしえてくださりありがとうございます。

《英語の「dog」のことを、日本語で「ドック」、中国語で「ドッグン」、フランス語で「ドーグ」、ロシア語で「ドッグル」。
《この場合でも、言語ごとにシニフィアンが完全に同じではないのだから、やはり、「第一の恣意性」が成り立つと言うのでしょうか?》
――この場合は 一語で 各ラング間の恣意性を突き崩せるかの問題だと思います。一語だけ 反証例を挙げれば 済むのかどうか。

ラングごとに分かれたという現実をどう扱うか これも 恣意性とは何かにかかわって来ませんか。

(移調のところを そのままにしてしまっています)。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

「恣意性」については、brageloneさんも私も、恐らく、同じ問題の前に立たされているように感じました。それで、「恣意性とは何か」について、何度も何度も何度も考えた結果、以下の結論に達しました。

「恣意性」とは、「絶対的普遍性」に対立する概念であり、決して、「デタラメ」や「勝手気まま」を意味するものではない。むしろ、「歴史的・文化的状況に適応して柔軟に対処すること」。すなわち、歴史的・文化的視点から見ると、むしろ、"合目的的である、あるいは、動機付けられてさえいる”ということです。

このことから、以下のことが言えます。

(1)「第二の恣意性」については、まず、何よりも、「絶対的普遍的概念」の存在を否定すること。「絶対的普遍的概念が、まず、有って、それに名前を付けたものが言語だ」ということの全面否定です。すなわち、「永遠不滅で全人類共通に普遍的に成り立つ概念などというものはない。そうではなく、それぞれの言語を使う人々の歴史的背景や文化的背景に応じて、適切に分節することが、第二の恣意性の意味である。その結果として、各言語間で、分節の仕方に多くの共通点があったとしても、それは、歴史的背景や文化的背景の近さを表しているだけのことであり、「絶対的普遍的概念」の存在を否定すること、すなわち、「恣意的であること」と何ら矛盾しないということだと思います。

(2)「第一の恣意性」については、2つのことが含まれていると思います。すなわち、「音素に絶対的普遍的形態はない」「シニフィアンとシニフィエは、絶対的普遍的関係ではない」。これは、また、以下のAやBのように言い換えることができます。
 
 A: 「音素」、および、「シニフィアンとシニフィエの関係」は、永遠不滅で全人類共通に普遍的に成り立つものではない。
 B: 「音素」、および、「シニフィアンとシニフィエの関係」は、各言語を使用する人々の歴史的・文化的背景に基づいて柔軟に決められてきた。

「恣意性」を以上のように解釈すると、私としては、これまでの「恣意性」に関する疑問は全て氷解します。brageloneさんは、いかがでしょうか?

このような「恣意性」の解釈は、ソシュール関連の書物などに書いてあることと、大きく外れているとは思いませんが、ただ、「恣意性」が、歴史的・文化的視点から見ると、むしろ、”合目的的である、あるいは、動機付けられてさえいる”という点については、あまり、明示的に書かれていないように思いますし、それには、異論があるのかも知れません。ただ、私としては、ある意味、この点が、最も強調されるべき点だと思います。

さて、もし、このように考えることができるとすると、brageloneさんが提起されている「日本語における、音素=意義素の事例」は、「第一の恣意性」とは、何ら矛盾しないものと考えます。すなわち、「日本語における、音素=意義素の事例は、日本の歴史的・文化的背景の下に動機付けられて決まってきた」ものであり、決して、「永遠不滅で全人類共通に普遍的に成り立つものではない」が故に、やはり、「第一の恣意性」の範囲内にあるということになると思います。

最後に、「恣意性」という言葉のこのような「恣意性」を思うと、結局、「arbitraire」と「恣意性」の間の「第二の恣意性」が身にしみるわけですが、それは、とりも直さず、西洋文化と日本文化の差異の反映でもあるのかと思いました。

石造建築と、「絶対的真理」や「唯一絶対の神」の概念が当たり前だった西洋と、木造建築と、「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にはあらず」の日本では、「恣意性」の価値がずれてくるのも、当たり前かも知れません。ソシュールは結局、プラトンの「イデア」やキリスト教の「神」に対抗する必要があったのではないでしょうか。

補足日時:2007/08/22 08:18
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No.67を承けます。



まづすでにNo.65から 派生語・合成語といった第二次的に成立したシーニュ――すなわち 明確に根拠づけられたと分かるシーニュ――については 別として 第一次の・原初のシーニュについて 恣意性いかんを問うています。その原初言語を 原初のものだと示すために 派生や合成の事例でも 合わせて示すことはあるわけですが。

すなわち問題は 《na=名》は 《ma=目; ha=葉; ka=か(疑問法); sa=さ(其)など》との差異のみによって 成り立っているのかです。あるいは 指摘されていたように 同音異義のばあいにも 《na=菜・無・な(念押し法)》と――この場合には ほかのシーニュとのつながり方(連辞関係)などの価値における――差異のみによって成り立っているのかです。

音素=意義素 つまりたとえば/ n /=同定相かつ否定相 というように仮説するのは シーニュ内部を見てみると その成り立ちが 差異のみによってではなく そのものとして=即自的にも 成り立っているのではないかと示すためのものです。すなわち 即自的なあり方のもとに 論理的な絆を持って 子音/ n /がシーニュの中に用いられている事例が見られるではないかと。

また 子音の調音の自然的な性質を取り上げると それが 意義素の内容と 自然的にして論理的な絆をつくっている。

ゆえに これら一部分の事例は 反証例となって シニフィアンとシニフィエとのあいだに自然的な論理的な絆はないという説には 矛盾があると言わなければならないのではないかと主張しています。

音素/ n /は そのままでは 意味を持つ語(シーニュ)になりませんので 形態素ではありません。ですから 音素をシニフィアンと呼び 意義素をシニフィエを呼ぶのは これからは 控えたいと思います。

動詞など活用する語は それぞれの活用形が ひとつのシーニュだと思います。語幹・活用語尾などの分析はむろん あるわけですが。

それで 活用形にしても 他との関係によって つまり差異・対立によってのみ その価値(活用の意味する内容)が決まるというものだと恣意性説は言っていると思われますから これについても 即自的な内容があって 活用形も成り立っていると示したいと思うのです。

これは 長い推理になりますので たとえばの事例をお伝えしたいと思います。

これは 母音の意義素の問題になります。活用語尾のさらに最終の音素は 母音であって この母音が変化(交替)することによって 活用内容を示すからです。

今回は 活用をしない体言にも この母音の交替・派生が――あたかも活用のごとく――行なわれているという場合をお示しします。そこから動詞の活用に進むことができます。

まづ 

ma 目(ま‐な‐子⇒眼)・ta 手(た‐な‐こころ⇒掌)
→ ma-i > mae( a Umlautつまり広い/ エ /です) > me 目
→ ta-i > tae > te 手;〔toe-ri取り〕

koe 木(こ・く 〔こ‐すゑ(末)⇒梢;く‐だ(=な)‐もの⇒果物〕)
→koe-i > kui > ki 木
moe 身(も‐抜け・む‐くろ)
→moe-i > mui > mi 身

ここから分かるのは 

母音/ a / も / oe /も 安定しない音である。派生形などとしてのみ用いられる。
/ i /が 安定させる音であり それ自体でも安定して用いられる。
/ ae > e /は 安定した形にさせられた母音である。

したがって すべてを端折って さらにほかの合成母音をも含め それらの動詞活用への用い方としても 次の結果が得られる。 

/ a /=初発の知覚相→不定法(=五段活用の未然形語尾):取ら(-a)‐ず
/ oe /=知覚したものの保留相→連体法(=連体形):取る(-oe-)‐時
/ i /=知覚したものの概念相→概念法(=連用形⇒名詞用法):取り(-i)

/ a-i > ae > e /=不定知覚相を概念化→条件法(=已然形→仮定形):取れ(-ae )‐ば

/ oe-a ⇒ u /=保留相の知覚化→存続相→存続法(=終止形):取る(-u)
/ i-a ⇒ e /=概念相の知覚化=主観化→指示相→命令法(=命令形):取れ(-e)
/ o < a-u /=取ろ(-o- )う←取らん←取らむ〔取ら(-a)は不定法=未然形〕
/ o < oe /の場合もあり。

不案内ですけれど このように考えています。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

考えながら、調べながらで、レスポンスが遅れています。でも、大変興味深いです。

色々考えてみましが、第一の恣意性(<音素=意義素>問題)については、以下の3つの課題があるように思いました。

<1>恣意性の解釈の問題
 これは、#71と関連するので、#71の補足で取り上げさせていただきます。この問題の結論次第では、以下の<2>、<3>を問う意味があまりなくなるかも知れませんが、一応、ここでは、<2><3>の課題を取り上げます。

<2>「音素=意義素」と「派生問題」の分離
 これはご回答67の補足の最後に取り上げたことを蒸し返すような話になってしまうのですが、やはり、「音素=意義素」と「派生」の問題が合体してしまっているように思います。すなわち、brageloneさんが、たびたび、例に出される《 na=名》、《 na-ru=成る / na-su=為す / na-ri=也 / na・no=な・の(属格) / ni=に(与格)/ na-a・ne-e・no-o=な・なあ・ね・ねえ・の・のお(念押し・確認・詠嘆法)》、 《 na・ne=音 / na-ru=鳴る・・・》、《ma-na-bu=真‐似‐ぶ⇒学ぶ / ma-ne=真似 / ni-ru=似る》などの事例は、「音素/n/=同定相」が成り立つ様々な事例を収集しておられるように思います。しかし、これらの事例は、結局、音素/n/をコアとする派生語の事例ではないでしょうか? しかし、シニフィアン/シニフィエ結合の恣意性に対する反証を挙げるのであれば、/n/派生語の収集ではなく(それも、当然ある程度必要ですが)、「同定相」という意義と、音素/n/を結合する”動機付け”の存在を実証することではないでしょうか?

ちょっとわかりにくいかも知れませんので、例を挙げて説明したいと思います。「日本語の起源 新版」大野晋 からの引用(P37、38)です。

<< 
日本語にハタという音の連続がある。これを含む言葉を集めてみる。

 (1)ハタ(布)、ハタ(旗)、ハタ(凧。青森や長崎などの方言)
 (2)ハタ(母親。青森・岩手・秋田方言)
 (3)ハタケ(畠)
 (4)ハタケ(皮膚の発疹)

などがある。一見ばらばらに見えるこれらの単語には、共通にFat-という語根がある。これらの単語群から何らかの意味上の共通点を引き出すことができれば、それがこの語源の意味と言える。(1)布・旗・凧(凧は昔は布製)に共通なのは、糸を織って生み出すものという点であろう。(2)ハタ(母親)は現在は方言だが、人間についても猫や馬についても使う。要するに哺乳類を生むものである。次の(3)ハタケ(畠)と(4)ハタケ(疹)について考えると、一方は農作物がその表面に生じる場所であり、一方は顔などに生じる皮膚病である。(1)(2)(3)(4)の単語に共通な概念は「生じる・生み出す・作り出す」ということではなかろうか。......(以下、この事例に反する例を挙げるが、それも、以下のように括り直すことで統一的に理解できると論じる).....。

そう考えると右に挙げたハタとハツの七個の単語群はFat-という「生じる・起こる・成り行く」の意を表す語根から発展し、分岐した単語群であると考えれれまいか。
>>

ここで、私が注目したいのは、上記の記述で、大野は「Fat-」という”音”と「生じる・起こる・成り行く」という”意味”の関係が根拠付けられていると言いたいわけではないということです。「Fat-」が「Fat-」ではなく、たとえ、「Nat-」や「Bat-」であったとしても、上述の説明はそのまま成り立つということです。すなわち、/n/の事例がたくさん見つかるということは、/n/が「同定相」の意義を持つということを示していると言えるかもしれませんが、そのことがそのまま、”音”/n/と”意義”「同定相」の関係が根拠付けられているということにはならないということです。/n/が/d/や/r/であっても問題がなかったのではないかということです。

余談になりますが、この後、大野はタミル語の語根pat-が、日本語の語幹「Fat-」と同様に「生み出す、成り行く」という意味を持つことを示し、その実例として以下のようなものを挙げています(P39抜粋)。大変興味深い話です。

<< pat-am(布)、pat-am(旗)、pat-am(凧)、pat-ukar(田んぼ、農作地)、pat-uvan(発疹)、.....>>


<3>「音素=意義素」の実証方法
最後にずばり「音素=意義素」の実証方法ですが、これは大変難しいのでないかと懸念しています。たとえば、現代日本人が、/n/という音から、「同定相」という意義を一般に感じ取れるかという問題です。あるいは、古代日本人なら、感じ取れたかという問題です。あるいは、これは、意識に浮かび上がるものではなく、無意識裏に働くものだとした場合、それを証明する方法があるかという問題です。

<以下、お礼に続く>

補足日時:2007/08/21 16:35
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この回答へのお礼

そして、もし何らかの方法で、現代日本人が、音/n/に「同定相」という意義を感じ取ったとして、最大の問題は、それが「後天的」に学習されたものではないという立証ができるかどうかです。例えば、我々日本人は、「雨がしとしと降る」というとき、「しとしと」という感じがいかにも現実の情景をピッタリ表現しているように感じますが、それは、子どもの頃からの言語環境を通しての後天的学習である可能性はかなり高いと思います。

以上、かなり悲観的な結論で、大変申し訳ないのですが、考えたことを述べさせていただきました。

お礼日時:2007/08/21 16:38

No.66のご議論を読ませていただきました。

原点へ原点へと遡って考察を加えていかれる姿には 感服するものがございます。
 
大筋でついて来ております。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(1)世界は――言語以前では―― 「混沌模様で埋め尽くされた部屋」ではなく、「無数の”具体的な物”や無数の”具体的な事”が存在している」。
(2)概念はカテゴリーないし整理箱であり 弁別基準(たとえば色、形、大きさ、味)と弁別値(赤、丸、7-8センチ、甘酸っぱい)の束を伴なったカテゴリーである。
(3)これにカテゴリー名であるシニフィアン(この場合 ringo )を結合させたものが シーニュ(林檎)である。
(4)シーニュは、”少なくとも”、示差的存在である”とは”言えそうだ。
(5)弁別値を実際のものと対応づけるのは唯一 人間の心である。そのことを指して シーニュは即自的な存在ではないと言っているのではないか。
(6)具体的な物や事に即さない整理箱を用意すると、現実がコントロールできなくなり、その言語を使う民族は滅びる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(4)は 勘違いされている部分があるかに思います。(その命題の内容に対してではありません)。(6)は やはり勘違いか まだわたしが飲みこめていないかです。

(4)については 音素=意義素の仮説にもとづき (a)調音の自然性がその等号を成り立たせている・したがって(b)論理的な絆も見出せるという場合でも 同定相の/ n /と認定相の / m /とは とうぜん 互いに示差的存在です。その側面は 事実としてあります。

主に両の唇で調音する/ m /は 息の音/ h /を締め出しているというよりは その/ h /の順定相を締めくくっている=確認している相だと思われます。ゆえに もし旧い主客の二項図式で言うとすれば / n /は客体のほうに傾いて同定し  / m /は主体に寄り添い主観として認定している。こういう差異によっても成り立っています。《na=名》←→《ma=目・真》> 《ma-sa=目‐さ⇒正》。ただし 《ma-he目‐辺⇒前》の場合は 主観は控えられています。

(6)は 《「一つ目小僧」とか「一本足の唐傘オバケ」などの現実に存在しない物をしまう整理箱》〔つまりカテゴリーとどのつまりはシーニュ列〕を用意するというとき それらは すでに人の想像の産物だと分かっているのではないでしょうか。それでも 怖いもの見たさは働きますが。《〈もの〉の存在の仕方》の多様性によっているとすれば 言葉の混乱は ないと思えます。

さて ほかの命題は 同意します。その賛同の内容を 例示できればと考えました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で 言語獲得のあとでは《たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが 

  HA.....

と発出した。《無数の“具体的な”事物》の中に位置して 人は その潜在して宿すランガージュ能力を発揮する。

この場合 ただ 息のおとを出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きがあるはづです。あったはづです。

  HA.....SI。

というふうに 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして 発声した。音で いま目の前の世界を切り取った。また その心の状態をも切り取った形だと思われる。

  HASI . / はし。

こうなると 心の状態が あたかも表わされたかに思える。《愛(は)し》。つまり これは 中心主題相/ h / と指定相・断定相/ s /が働いたと《あとづけ》してそうなる事態ではある。ここに 自称相 / ’(=ア行子音)/で

  ’oe(う) また ’oe-roe(うる⇒裏・裡・心。/ r /は自然生成相→親愛称相)

と作って これを添えれば

  うる‐はし。(麗しい)

として いまの心持ちをそれとしてさらによく切り取って表わすことができた。

ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる当の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明でもある。

《山》のことを どういうわけで《 yama 》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《 toe > to 処》を得て これらを 合成すれば 《 yama-to=やまと》のかたちに その地を シーニュとして切り取った。

文としては 主題(問い・T)と論述(こたえ・P)から成る。つまり

  やまと(山‐処)‐は うるはし。

〔主語・Sと述語・Vというのは また別の分析の仕方による〕。人間は その思いを――ランガージュ能力ゆえにであろうか――表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。

  やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。

《ほ= hoe > ho 》は やはり中心主題相/ h /にもとづき 突出・秀逸の相を持ち 《穂・帆・秀》であろう。ここに《まma / ろro / ばba 》をも添えて

 やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。

と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として シーニュの体系としても文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

bravo(bravi) kobarero & bragelone & minasan !!

この回答への補足

ご回答ありがとうござました。

やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。

結論を見ると、初めに心の中にイメージと感動があり、そこから言葉が生まれてきたプロセスが何となくわかりますが、さて、そのプロセスをもう一度自分で説明してみろといわれると、私には、なかなか難しいです。

#66の補足とお礼で、一旦、ゼロ地点に戻って考えてみたのですが、「第二の恣意性」については、依然として納得できないという結論になりました。その後、brageloneさんが、#67で「わたしの場合は――ぶっちゃけた話としては―― シーニュ内部のシニフィアンとシニフィエの関係が まったく無関係であって 恣意的に成り立っていると聞いて これは違うのではないかという感覚を持ち この一点で 反証をあげようとしてきた それだけなのでした。」と書かれているのを見て、大変不思議に思いました。と言うのは、「第二の恣意性」の問題は、結局のところ、「恣意性」という言葉の解釈の問題ではないかと、今、思い始めているのですが、その解釈の仕方が、brageloneさんの上述の内容から見る限り、私と同じとしか思えないのです。にも関わらず、
brageloneさんは「第二の恣意性」については、あまり疑問を抱いておられない。これは、どうしてだろうと大変不思議なのです。

そこで、もう一度、私が何故「第二の恣意性」に疑問を抱いているのか、しつこいですが、ここに整理させていただき、brageloneさんのご意見を伺いたいと思います。ソシュール関連の本なら、ほとんどの本に載っている例、すなわち、如何に「第二の恣意性」が正しいかを示す例を使って、説明したいと思います。

(例)fleuve/riviereとriver/streamの関係

「フランス語では、海に注ぐ川をfleuveと言い、海に注がない川をrivierと言う。一方、英語では、太い川をriverと言い、細い川をstreamと言う。だから、フランス語と英語では、同じ川に対するシーニュの分節が異なっている。すなわち、シーニュは言語ごとに”恣意的”に分節されている。」と言われます。

これに対する、私の疑問は、”恣意的”と言っているけれど、ベースにあるのは、日本語で「川」と呼ばれている「水の流れ」についての分節であることに違いはないではないかということです。あくまで、「川」という中心概念をめぐって、その周辺細部においてのみ、分節の仕方が微妙に違うだけではないかと思うわけです。

この意見に対して、たとえ”周辺細部”であったとしても、完全に同じではないのだから、やはり、恣意的ではないかという反論があるとします。もし、そうなら、「第一の恣意性」において、以下のような現状が仮にあったとしたら、それでも、「第一の恣意性」は正しいと言うでしょうか?

英語の「dog」のことを、日本語で「ドック」、中国語で「ドッグン」、フランス語で「ドーグ」、ロシア語で「ドッグル」。

この場合でも、言語ごとにシニフィアンが完全に同じではないのだから、やはり、「第一の恣意性」が成り立つと言うのでしょうか?

上記は、一例ですが、その他にソシュール関連の本でよく出てくる例は、いずれも、同じ中心概念があり、その周辺細部の分節の仕方の差異のみを見て、「第二の恣意性」は正しいとするものばかりです。しかし、現実には、このように周辺細部の分節の差異でさえ、ほとんどないものも少なくないのではないでしょうか? そうでなければ、そもそも「翻訳」という商売が成り立つはずがないと思うのですが。

これに対して、「第一の恣意性」の方は、周辺細部どころか、丸まる全体が、全く異なっている例に満ち満ちています。英語の/dog/と日本語の/inu/には、何の共通性もありません。例を挙げればきりがありません。これほど明瞭な「第一の恣意性」と、ごくわずかしか恣意性がない「第二の恣意性」を同じ「恣意性」の名で呼ぶのは、明らかにダブル・スタンダードではないでしょうか? 

ということですが、いかがお考えでしょうか?

補足日時:2007/08/19 16:32
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