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シニフィアン/シニフィエ の関係に照らした質問です。
表象するものとしての、シニフィアンが「表象」だとすれば、
表象されるシニフィエは、なんという言葉が当てられるのでしょうか。

もしくは、表象する・される関係のセットで「表象」なのでしょうか。
または、シニフィアンもシニフィエも違う種類の「表象」なのでしょうか。

もし、セットで「表象」とするならば、表象は「形象」と同義でしょうか。
逆に、「形象」とはシニフィアンのみを指すのでしょうか・・・

質問の書き方がまぎらわしく感じられたらすみません。
どうぞ宜しくお願いいたします。

A 回答 (8件)

 No.5です。



 ★(No.5お礼欄) ~~~
 広辞苑に、想像的表象、というようなものが例としてあったので、(表象の欄に)、とにかく現実的に想起するもの、されるもの、具体的に現前するものすべてが、表象だとも思っていました。(ドイツ語=Vorstellung)
 ~~~~~~~~
 ☆ 《現実的にか空想的にかを問わず あるいは具象・抽象を問わず 想像すること・されるもの》を《表象》というのではないでしょうか?

 ○ シニフィアン / シニフィエ 
 ☆ はそれらとして一体となったシーニュ(しるし)において 取り出される要素です。

 シーニュと言えば ことば以外にもたとえば《片目をつぶるウヰンク》もあります。それは こうです。

 ○ シニフィアン(示すもの):片目をつぶるという動作 /
  シニフィエ(示されるもの):その目配せとして《相手に好意があるということ》

 ☆ ですから ことばとしては

 ○ シニフィアン:ヰンク または wink (という音声ないし文字)
   シニフィエ:まばたき・目配せ(相手に好意を示すなど)

 ☆ ということになります。つねに両者は シーニュの要素として一体です。

 《表象》は シニフィエの表わす意味を心に思うこともあれば シニフィアンのほうを想起することもあります。あるいは 両方をその思念の内に想っていることもあり得ます。

 どうでしょう?
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そうですね。
現前するもの、抽象・具象を問わず、
という解釈であれば、すんなり理解できるように思います。

実際にはシニフィアン/シニフィエは、分析的な事項であって、
現実としてはシーニュとして表象されている、と考えれば、
シニフィアン/シニフィエのどれが表象か、と言う問い自体に、
無理がどうしても発生するのだと痛感しました。

ショーペンハウアーの言う、概念には常に誤差が伴っている、という命題を実感できたように思います。

もともと違う尺度で考察ー生成された概念なので、適用するにあたっては、主体の価値観や、状況で捉えていきなおす必要があるのだと思いました。

blagelonne様に限らず、ご回答いただいた皆様ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/06 12:39

なるほど、仏陀なるシニフィアン。


表象の再度現前するというのが曲者なのです。イメージと現前が手を組んで表象を可能にするとき、現前なんてものは再度でしかありえない。
イメージへ組み換えられる前には、いったいそこに神からのプレゼントが在るのやらそんなことは判りませんが、対象そのものよりも対象にまつわるイメージの集積でしか現前を指し示す手段はないという意味で、シニフィエはおしなべて空洞の領域にあり、その空洞をめぐってまつわるイメージが共有されることにシーニュの意義があるのでしょう。

さとりのイメージとか、さとりを開くのイメージそれのみでもって、仏陀なるシニフィアンが俟つシニフィエの焦点には近付かないのだけれども、その空洞状の様子は、たとえば死というシニフィアンに似ています。
死の表象はいろいろあり、死のイメージはさまざまながら、求心的にはそれらは何かを指しているようなそぶりをみせてくれます。けれども死なるシニフィアンにおけるシニフィエは、死の概念や表象もろとも含んだ現実の、経験の実体であるという約束のもとにあります。
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さとりを開いたものというのを一般に仏陀と呼び、これをシニフィアンとすると


釈尊がさとりを開き、さとりを開いた状態が再度現前しているというのが表象とするとそれがシニフィエということもできそうだけれども
釈尊がさとりを開くということのそのものについて言及しなかったために
さとりを開いた状態というのがどういう状態なのか誰もわからないというような特異な場合、対象が客観性を持った共通認識としてシニフィエであるとされる根拠をもたないということがおこる
結果、シーニュとして成立していないことになってしまう

そこで
さとりとは主観と客観の一致であるとか
さとりとは動態であるとか
さとりを開くとはこうなのではないかと想定し、それに合致する回答が得られるかどうかで検証し同定しようとする試みをしてるってことなのかもしれないけれど、群盲象を評すがごとく、それ自体が現実には何の意味もない

モーゼは神の後姿だけを見るというのにも、そこには意味があるし
さとりを開くということは当人にとって意味をもっているのであり、さとりを開くということそのものに意味があるというより、その後に来ることの方に本来の意味の重きがあるのであるし
だから、釈尊は一人ひとりがさとりに至る道だけを説いたと言われるのも頷ける話で
他者の状態を調べようとするのではなくて、自らがさとりを開くようにすればいいだけなんだけども。。


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 こんにちは。



 整理してみます。
 その前にたとえば次のように説明する文章を読んでみてください。
 すでに古代人も シニフィアン=シニフィエとしてのシ―ニュ(記号)の有り方を考えていたということをも知っておきたいという意図があります。
 そしてそこですでに《表象》とは何かについても 説かれていると思います。

 ▲ (アウグスティヌス:三位一体論) ~~~
 さて 私がカルタゴについて語ろうとするとき 私は自分自身のところで語ろうとすることを問い求め 自分自身のところでカルタゴという表象(* ここは phantasma ですが)を見出すのである。

 しかし私はこれを私の身体によって すなわち私の感覚によって受け取った。〔* というように この段落は ノエシス≒ノエマについても述べています〕。なぜなら 私はかつて身体をもってそこに滞在し それを見 感覚し そして自分の記憶によって保持し それゆえ 私がカルタゴについて語ろうとするとき 自分のもとでカルタゴという表象について言葉を見出すから つまり 私の記憶の中にあるカルタゴの表象そのものがその言葉である。
 
 それはカルタゴとよばれるとき あるいは沈黙のうちにも時の短かな間その名称が思念(おも)われるとき 私が述べる三つのシラブル(* つまり Car-tha-go )をもった音声ではなく 私がこの三つのシラブルを声に出すとき あるいは出す前にも 私の心において見る言葉である。
  (8・6・〔10〕  五世紀初め)
 ~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 《三つの音節をもった音声(カル‐タ‐ゴ)または その文字表記》は シニフィアン(言語記号)であり 《カルタゴという街の名前であり 街としてあるそのこと》が シニフィエ(意味内容)です。
 この著者にせよ誰にせよ カルタゴという言葉――それとしてのシニフィアン=シニフィエの一体となったシ―ニュ(記号一般)――について思いめぐらすときその像が 《表象》であるとなります。

 言いかえると 表象は 《カルタゴについての或る物語》といったように広い意味範囲を持つ場合もあるでしょうし ぎゃくにその語つまり《シニフィアン=シニフィエ》の一体となった語の意味じたいを表象する場合もあると言えるはずです。
 (フェニキア人がつくった街であり 《あたらしい町》を意味するそうですが。つまり ギリシャ語由来のナポリ=ネアポリスと同じ命名の仕方のようです。にいはる(新治)・新開地・ニュータウンのたぐいですね)。


 勇んで書いて来ましたが ここまでが回答であるようです。

 ★ 形象
 ☆ は 表象というときの《象(かたち)》と同じ意味だと思います。
 
 シニフィアンとシニフィエは 《しるし》と《中身》です。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

表象、という語自体は、部分的でもあり、包括的にも使用されるという事でしょうか。
とにかく、シニフィエのみの事を表象と呼ぶのは間違いなのでしょうか。

広辞苑に、想像的表象、というようなものが例としてあったので、(表象の欄に)、とにかく現実的に想起するもの、されるもの、具体的に現前するものすべてが、表象だとも思っていました。(ドイツ語=Vorstellung)

補足日時:2011/09/05 10:46
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>表象するものとしての、シニフィアンが「表象」だとすれば、



お答えになりませんが、シニフィアンは構造主義関連の語句で、意味するもの、の意味ですから、それと、表象を等価としてしまうとヤバイと思います。表象は、まあ、認識、イメージング?っていうような、このカテゴリーとかいろいろなところでほぼ別の確固とした意味合いがありますので。
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少し前に、下のような質問で回答したのですが、それをふまえて考えてもらってよろしいですか。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5779820.html

「表象」ということばは、representation が近いというのが久しくアカデミズムの見解になっています。
これは、単語の作りを見てもわかるように「再度現前しているという動態」を意味しています。
現前しているということは、いまここにイメージをもたらしているということです。つまりそれが「象」の字の意味するところです。
「表象」という語は、イメージの働きに重心があるのです。これでは記号の働きを簡潔に示すことはできません。

本の著者かどなたかが、シニフィアン/シニフィエについて「表象するもの/されるもの」と説明なさったのかもしれませんが、
やはり「しるす仕事をしているもの/しるされているところのもの」という意味のままに受け止めるのがよいです。(標でも記でもよいのですが)

例をあげます。
何のイメージも持たず、外国人のように、記号でしかない「桜」のシニフィアンがあなたの前にあります。
シニフィエとは、掴みようのない現実に属しています。
あなたは外国人で何のイメージもないのですから、桜のシニフィエがどれだかわかりません。
お団子なのか下駄なのか知れないものにサクラ?と呟いてみるばかりです。
シニフィアンとシニフィエは、記号と現実の恣意的な結びつきの関係にあります。
これは、言語活動が成立するための基礎です。言語運用の大前提です。

参照URLではノエマとノエシスについても尋ねられていますが、
こちらは認知体験が成立するモデルです。
意識の志向する力であるノエシスと、獲得される統合意識であるノエマが、意味の認知を形成するのです。

「表象」という語には、イメージがどこからやってくるのかという力学上の問題、また機能上の問題を中心に、記号のはたらき、認知の獲得モデルなどが、混然と含まれてしまいます。
システムやモデルによる説明を試みたり、あるいは理解しようとするときは、対象を細かく見分けて考えることが大切です。
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私もド素人ですが、



「シニフィアン/シニフィエ」というのは二十世紀にはいってから普及した概念ですね。一度学ぶと当然のような概念ですが、それ以前は必要が無かったか、ゴッチャにしていて困らなかったとか、とにかくソシュール以前の言語学を読むときは注意しなければならないのですよね。論じている中には、この概念があれば簡単に済む話を何をごちゃごちゃ言っているのか、と見える訳です。一方それ無しで済む論題も現にあるでしょう。

という事に類比的に、「表象」ということで済む話を十八,十九世紀の人はしていた。二十世紀になるとそれでは曖昧であるとなって「表象」は厳密な用語としては使われなくなった、という所ではないでしょうか。

言語=記号は外的対象として「シニフィアン/シニフィエ」関係を見ることができるわけですが、「表象」は、人の心的活動において「内容」・「作用」・「対象」であるわけで、まったく別の切り口を持って来なければならない、という感じではないでしょうか。
近いところでは、「ノエシス・ノエマ」があるのではありませんか。表象とその対象という枠はやめて、意識現象の詳細な記述から入るのが現代的なのでしょう。
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素人の意見ですが記号表現と記号内容という言葉があります。

この言葉の対に対応させて考えてみてはどうでしょうか。
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