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フーコーが使う「ディスクール」の意味がわかりません。
といっても著作を読んだことはないのですが・・・

「エノンセ」というのは「言うこと・書くこと」みたいな意味ですよね??「ディスクール」はそれの集合なんですか??
全然イメージがつかめないので、どなたか解説して頂けたら嬉しいです。

A 回答 (3件)

ディスクールというのはそもそも「言語によって記述され、何らかのまとまった意味をもつ文章」の全般を指しています。


たとえばデカルトの『方法序説』の原題は"Discours de la methode pour bien conduire sa raison, et chercher la verite dans les sciences"(理性を正しく導き、もろもろの科学における真理を探究するための方法に関する叙述)で、ここでも「ディスクール」が出てきます。

ディスクールという語を新たに定義しなおしたのが、言語学者のバンヴェニストです。バンヴェニストは従来言語学が対象としてきた、文脈から切り離された抽象的な文を批判し、〈わたし〉が話し〈あなた〉が聞く、という一回限りの言語活動を「ディスクール」と呼びます(多少粗雑な記述でも、言語学関連の方、怒らないでください)。

以降、言語学において、さらに哲学において、ディスクールはさまざまに定義され、さまざまな使われ方をするのですが、それぞれにちがっているので、注意が必要です。物語論で出てくる「ディスクール」もまた意味がちがいます(ややこしいね)。
フーコーの場合、「ディスクール」も、さらに「エノンセ」も、言語学での用法とちがうものです。

特徴的なのは、フーコーは「ディスクール」を権力と結びあわせて考えたことです。

ふだんわたしたちは自由に自分の考えを言ったり書いたりすることができる、と思っています。
けれども話したり書いたりしようと思えば、文化的な規範を受け容れて初めて可能になることでもあります。
知識の伝達には指令がついてまわり、学習は服従をともないます。規範を受け容れるとは、規範に圧伏することでもある。

この意味で、すべての関係は権力関係だとフーコーは言います。大人は子供を社会化するとき、子供を服従させる。教えたり、示したりするものはすべて権力を行使している。学習は服従を伴うものである。

ですからフーコーは、ディスクールが生産されるときに、その権力性を意識すること、なにが排除され、なにが抑圧されるかに目を向けるべきだ、というのです。ディスクールは、単に「上から」の支配のシステムではなく、人々がみずからすすんで、競って手に入れようとするものであると。

だいたい方向性を頭に入れて、もう少し細かい話をしていくと、a system of knowledgeというと、フーコーの場合、ディスクールよりも「エピステーメー」に相当する概念ではないでしょうか。

レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』というのはごぞんじですか?
レヴィ=ストロースは未開社会での「近親相姦の禁止」という婚姻の規則をとりあげます。
この規則の持っている機能を明らかにすることを通して、社会には、当事者には認識されていない規則が存在すること、そうしてそれは構造的に分析することができると考えたんです。

フーコーはこの「構造分析」という手法を用いて、西洋近代科学を分析します。
わたしたちの認識というのは、わたしたちが気がついていない、その時代の〈知の枠組み=エピステーメー〉によって規定されている。そうして、このエピステーメーは時代ごとにひとつだけ存在し、時代が転換するに伴って転換する、としたのが『言葉と物』です。
そこではその時代に書かれたものの総体から、ひとつのエピステーメーを浮き彫りにしていく、という方法が取られたのです。

さらにそのあと『知の考古学』においてフーコーはエピステーメーをより厳密にしていきます。
そこで出てくるのが「ディスクール」や「エノンセ」といった概念です。

こうした語句は中山元『フーコー入門』(ちくま新書)にわかりやすくまとめてあります。

----(p.115からの引用)----
 フーコーの定義では、エノンセ enonce (※最初と最後の"e" にアクサン)とは、行為によって実際に語られたものを意味し、これがディスクールの単位となる。そしてさまざまなエノンセがある全体的なまとまりをディスクール discours と呼ぶ。このまとまりがどのようにして作りあげられるかを問うのが、考古学の重要なテーマである。

 しかしこのディスクールという概念において重要な点は、ディスクールが単にエノンセの集合ではないことである。「ディスクールとは、その時代において人々が正確に言い得るであろうものと、実際に言われたものの差異によって構成される」。ディスクールを分析する際には、それが一つの統一性をもつ集合として認識されるためになにが必要であったかが重視されるのであり、たんにエノンセの総体がそのままディスクールになると考えるのではない。(…略)

 もう一つの重要なポイントは、ディスクールが「差異」によって構成されているということである。ディスクールの総体はつねに言い得るはずでありながら、表現から排除されたもの、あるいは「意識の白い闇の中で表現になり得なかったもの」についてのまなざしにおいて構成される。一つのディスクールの内部で可能だったはずのエノンセが実際には語られなかったのはなぜか。

 フーコーはそれを、ディスクールの領域からのエノンセの排除の構図として分析する。いずれ取り上げられるテーマで言えば、性についてなぜ「このこと」が言われるのか、あるいはなぜ「このこと」は言われないのかという観点から、ディスクールを分析するのである。
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詳しく見ていくときりがないのですが、フーコーの場合、「ディスクール」も「エノンセ」も日本語にしないで使うことのほうが一般的だと思います。

わかりにくい点があれば補足をください。
ただ、わたしは専門家でもなんでもないので、その点はお含みください。
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この回答へのお礼

とても丁寧に説明してくださいまして、ありがとうございました!!
非常にわかりやすかったです☆
引用されてた本も、一度読んでみたいと思います。

お礼日時:2006/12/28 12:38

>「エノンセ」というのは「言うこと・書くこと」みたいな意味ですよね??「ディスクール」はそれの集合なんですか



そのように捉えることで、理解の方向は正しいです。
哲学の用語を日常生活から乖離した用語をもって
翻訳(色々な単語で造語して難語?)しているので
誤解を生じます。

言語学では、口頭、記述の双方で、表現されるものを最小単位から順番に

mot(単語)→syntagme(辞節)→enonce(エノンセ、『言表』)→discocurs(演説etc、『言説』)としています。

このenonceをいま少し分かりやすく言いますと
息継ぎと息継ぎの間の、ある程度意味をなす一塊の単語(口頭、記述)の集まりです。

このenonceがある意図の基で利用されるより高次の表現の集まりを
discoursとしているのです。その際に,それがdiscocursへと如何に
変化してゆくかの中に、表現者が置かれている社会的様式性、規範性
(これを、彼は formation discursiveと命名)が現れると言っているのです。
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ディスクールの基礎編です。


申し訳ありません私は日本語で彼の(フーコー)を読んだ事がありません、英語が混じってしまいますがお許しを・・・

ディスクールはフーコー的に言えば、a system of knowledgeということらしいです。私たちは大抵生まれてからすぐに最初の制度とか社会制度(institution)に所属します(institutional family、つまり家族が最初の私たちの制度の遭遇といったところですか)。この家族制度の中で子供たちは”喋り方”を学び、a social order, moral, ethics などを言葉を通して学んでいくわけです(後者は学校などまた違う制度)。社会制度化された言語これをディスクールと言うんだと思います。ディスクールというのは、何も言葉だけではなく、書き言葉として存在します。例えば、学校の規則だったり、法律、ニュースなどの記事などです。motunabebeさんがどの分野、このディスクールを勉強しているか私はわかりませんが、それを教えていただければもっとはっきり回答できると思います。

この回答への補足

せっかく回答して頂いていたのに、返事が遅くなってしまって申し訳ありません!!

ディスクールが日本語に訳される時、「言説」となるみたいなのですが、いまいちこれがよくわからなくて・・・・・
分野は、哲学でも社会学でもなんでも一緒だと思っていたのですが、
フーコーの言うディスクールと、一般に使われるディスクールは違うのですね。それさえも知りませんでした。

でも。a system of knowledge という表現のおかげで、かなりイメージしやすくなりました!ありがとうございます!

補足日時:2006/12/25 19:35
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