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 二つ質問です(答えられる部分のみの解答で、結構です)。

 大学の短期集中講義で、表象、表現について学び始めました。
しかし、自分の語彙力の少なさ、哲学知識の少なさから、講義の内容理解に苦労しています。

 一つ、「表象」と「表現」の違いは何でしょうか?
 個人的な意見としては、「表現は具象化すること」「表象は頭の中で思い描くこと」として捉えていますが、その捉え方は間違っているでしょうか?

 二つ、「表現」と「芸術」の違いは何でしょうか?
 個人的な意見として、「表現」と「芸術」は同意義として捉えています。
 1.落書きは芸術ではない。
 2.芸術は表現だ。
 3.落書きは表現だ。
 4.ならば、芸術は落書きだ。
 5.よって、芸術は表現だ。

 幼稚な発想ですが、そういう意味で、「芸術」と「表現」は同意義だと思いますが(自分の論理力は無に等しいです)。

A 回答 (8件)

>「表象」と「表現」の違いは何でしょうか?



表象:記憶、想像のみによるもの。
   感覚的、具体的な直観的意識内容として観念、概念と区別される。

表現:言語、芸術、制度などをさし、これを通して了解を得る(客観化)

哲学小辞典から引用しましたが、もっと長い解説をつけてあったのですが、全体を大事に並列的に理解しようとすると私の頭は停滞するので(汗)適当に濃縮してみました。

>「表現」と「芸術」の違いは何でしょうか?

芸術性を持たせられるのも動物にはない能力ですね。
動物に関係や役割、立場を物質である肉体を使って表現し理解することはできても、その存在自体に、自分を危惧したり懐疑を抱く精神性を持ちません。

人間には自己認識することが自己主張の本筋となってきてるかもで、芸術は世界と自分のバランス、リズム、明暗、彩りを自己表現することで自分が確たるものである!と安心立命を得るらしいです。
評価してくれる人がいてこそ、人間も動物も自然、宇宙にとって変わらず軽い存在なものが我慢ならないから、芸術を高めてこれたのでしょう。
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芸術表現が、二種類あります。

一番目、自分の主張を、表現して相手に伝える。この場合、表現に脳が刺激されて、心が高ぶり元気になる、西洋的発想に多い。 二番目、 自分の心、相手の心を、癒す目的で表現する。この場合、脳の思考が休んで、脳波がアルファ波になり、心が癒される。日本の伝統文化がこの表現です。
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こんにちは。



>一つ、「表象」と「表現」の違いは何でしょうか?

これは教えてもらわなければ答えられないです。
その大学の講義でこの二つの言葉が何の解釈も与えられずに使われているのだとしますならば、それはちょっとおかしいです。
「表象」といいますのは元より生体の心的現象に宛がわれた学術的概念であるのに対しまして、「表現」といいますのは心理学用語でも何でもありません。ですから、カテゴリーが全く違うのですから、その講義における意味、取り扱いというものをきちんと教えてもらわない限り我々の一般認識でもってそれを解釈するというのは基本的に無理です。
では、この二つは言葉の定義を分類しても意味はないのですから、この関係を明らかにしようとしますならば、ここではそれを同じ土俵に乗せ、両者における「生体活動としての構造・役割」といったものを比較することになります。

我々の脳内で「表象」とは「情報の内的処理」に当たり、「表現」はこれに基づく「能動的な出力」という役割を持ちます。
心理学で「表象」といいますのは心像として意識化にできる情報のことを指します。従いまして、意識の下に判断が可能である以上、これに基づく行動や反応は押し並べて「能動的な出力」ということになります。このため、表現といいますのは他者、外界にする能動的な働き掛けとして「理解の共有」という性質を持ちます。
ですから、ここには「より精度の高い表象処理」と「より有効な表現方法」というものがあるわけです。そして、果たしてこれを駆使したものが「芸術」です。

落書きが能動的表現である以上、その構造は芸術と全く同じです。但し、価値の評価ということになりますと話は別です。
芸術の価値といいますのは、
「何を表象したか(題材)」
「どう表現したか(手法)」
このような過程においてそれぞれの評価が可能です。
芸術といいますのは作者の心的表象を外界(別な場所)に具現化するということです。そして、この作業が「表現」です。
では、自分の心情を他者に伝えようとしますならば、当然、作家は理解の共有という表現の性質を使うことになります。このため、一般的には他者に理解できないものは芸術ではありません。
ですが、誰にでも理解できるということは誰にでも表象できるということです。ですから、このような題材を選びますと、そこで評価されるのは「表現技術の方だけ」ということになってしまいます。これではもったいないですね。
では、普通ではおいそれを表象できない題材ですと、体験や認識の及ばないひとには理解することが困難になります。ですが、普通では体験できないことを多くのひとに伝えるというのは社会・文化にとってたいへん意義のあることですし、それは芸術の役割のひとつでもあります。まして、卓越した芸術家となりますと、もはや並みの体験ではインスピが沸きません。このため、芸術家といいますのはみな未知の領域に踏み込んで行こうとするのではないでしょうか。そして幸いなことに、これによって落書きと芸術の境界線は必然的により太いものとなります。
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 わたしの嫌いな評論家が


 ○ 自己表出
 ☆ という言葉を用いています。これは こころのさけび です。誰にも 起こります。心から出たのなら そのすべての表出を言います。このいわば内面における《自己表出》(α)を基にして
 ★☆ (β)なお 内面において「《表象》は 頭の中で思い描くこと」であり そこから(γ) 基本的に他者の存在を前提として(ということは その内容の伝達を目的として) 「《表現》は 具象化すること」として わたくしもまったく同じく 捉えています。

 ☆ そして この
 ○ 表現は あらゆる自己表出の――意志内容としての加工を経たところの――具現化ですから 自己表現と言うことができる。
 ☆ と考えます。ということは これまた 同じ結論になるのですが わたくしも
 ★ 「表現」と「芸術」は同意義として捉えています。
 ☆ 視覚・聴覚・味覚(つまりは 料理という芸術ですね)・意識(言語芸術)などの《芸術》のすべては 《表現》であり 自己表現であると 定義しています。
 つまりは ちなみに 人文科学はもとより 社会科学も そして 自然科学の理論も 芸術であり 自己表現であるという捉え方になります。
 ★ 落書き
 ☆ も 当然 芸術であり自己表現です。
 わたしたちは 
 ★☆ 《幼稚》兄弟――論理力の無を相い憐れむ仲間――
 ☆ ですね。学生時代は ひと昔もふた昔も前だったわたしですが。
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「落書き」を「私」、「芸術」を「麻生太郎」、「表現」を「漢字が読めない日本人」に置き換えてみます。

ここでは「私」を仮りに質問者さんとしましょう。

1.私は麻生太郎ではない。
2.麻生太郎は漢字が読めない日本人だ。
3.私は漢字が読めない日本人だ。
4.ならば、麻生太郎は私だ。
5.よって、麻生太郎は漢字が読めない日本人だ。

4番によると質問者さんは麻生太郎となるのですが、質問者さんは麻生家5代目の総理大臣お坊っちゃまですか?
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表現者が、読者、視聴者、受信者側に一定のレベル以上に感受させたという関係をもって芸術と言うのではないでしょうか。


表現だけでは全く芸術にはならない場合があると思います。
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人によって捉え方はいろいろあるのでこれがとはいえませんが、原則的に語源からみると、



表現:expression:表現すること
これはそのまま表現すること、表現する行為。
表象:representation (記号、シンボル、絵画、肖像、彫像など)
表現の結果産物:表現を具体化したもの、表現の代理としてのもの。
芸術:art: ars(自然の配置;技術などの意味)
表現技術。
という感じですかね。だから、表象も芸術も表現の一部(手段であり方法でもある)ということかな。
参考程度に
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こんにちわ



とても難しい質問ですね。でも興味深い内容なので意見を書いてみます。といっても厳密に意味を追いかけると、恐らく歴史や文化を考えなくてはいけなくなるので、もう少し浅い意見になると思います。

個人的には「芸」と「術」をキーワードとして、「芸」がなんらかの具体的なかたちにすることを指し、「術」がそれを実現する技術だと理解しています。この場合だと「芸」とは「表現」に近い意味じゃないかと思います。

あるいは「術」は「芸」に至るためのプロセスをも含めるとすると、「芸」を実現するための内部プロセスが「術」であり、「芸」を除いた「術」には「表象」を含む、という解釈はいかがでしょうか?

専門家でないため稚拙な解釈ですみませんが、参考までに。
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