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ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。

<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?

 

A 回答 (77件中51~60件)

No.22です。



一つには 言語を 民族ないし国家としての社会的な言語(ラング)と発話としての言語(パロル)のほかに シンボル化能力などを含めた普遍的な言語能力(ランガージュ)としても捉えていることが関係してくるのだと思われます。単純に見れば 《心分け》もランガージュに含まれると言われるかも知れません。(推測です)。

(わたくしは 実は ソシュール学説が嫌いです。このように弁明する側にまわるとは思ってもいませんでした)。

あとは 丸山圭三郎の言説を引用してみます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
人間だけが・・・本能図式(身分け構造)に加えて もう一つのゲシュタルトを過剰物として持ってしまったところに 人間の栄光と悲惨の原因があるのではないだろうか。これが第二の分節の結果生ずる《言分け構造》であり このおかげで人間特有の文化が登場した。この文化は 記号・用具・制度によって身を一定の環境から解放する一方 身の方もこれに組みこまれて支配される拘束という両義性を持っている。
それでは その《シンボルか能力》としての言葉によって生み出されたものが何故過剰なのか。

第一にそれは身の延長だからである。私たちは言葉によって《過去》と《未来》 《背後のあそこ》と《前方のあそこ》 つまりは来し方と行く末を差異化・差延化する。・・・

第二に シンボル化能力の産物は そもそも生物体としての人間にとっては存在しなかった《意味》を文字通り身の延長である人工的道具によって拡大生産するからこそ 過剰である。望遠鏡や顕微鏡がなければ人間にとっての《意味》たり得ないほど遠方にある事物や微小なるものが 人間の生体的な閾を超えて現出する。ましてやレントゲンによってはじめて見ることが可能な透視像などは 動物としてのヒトにとっての第一次的な《意味》をもつものではあり得まい。

・・・言分け構造の基底にあるもの〔は〕 《欲求》ではなく《欲望》・・・なのだ。
欲望は永久に充足することがない。・・・すべての欲望の根源には 言葉の産物である《自我》がある。パスカルもつとに指摘しているように 《三つの邪欲》すなわち官能欲 知識欲 支配欲は 《自我(エゴ)》の欲望なのであり 《自己(セルフ)》の生命維持活動とはまったく質の異なるものであろう。
・・・
(丸山圭三郎:言葉と無意識 1987 p.168f.)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
このようにして 議論はつづいています。(そう言えば 《もの》の認識のことも触れていますね)。そのあと 《欲動(トリープないしリビドー)》の概念をも提示しています。

《欲動とは 文化の基底にある欲望でも 生物学的欲求でもない。欲動は 文化的欲望によって生理的欲求の図式が壊れた時にはじめて登場するのではあるまいか。》(p.184)

《本能残基としての〈身分け構造〉がベースとなって〈言分け構造〉が再編成されるのではなく 〈言分けられた身〉の網の目によっては掬いきれない生のエネルギーとしての〈欲動〉の力が身をさらに言分ける原動力となるのである。》(p.189)

ここに《人間存在喚起機能》(p.185)であるランガージュが かかわっていると言われれば 相当広いもしくは深い領域を 言語は担っていると言っていると推し測られます。

《無意識》の問題も それを認識論などとして扱うことも わたくしは嫌いですし苦手です。

というわけで いまは紹介までとさせていただいてよろしいでしょうか。

ソシュール理論がきちんと批判される日を待ち望んでいます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

《身分け》の段階に踏みとどまっていれば、「実在の現前」に対処するだけで、心安らかに生きていられたのに、何故か《言分け》の段階まで進化してしまったが故に、過剰なる「非在の現前」に日夜振り回され、将来の不安、過去の後悔、そして、妄想的欲望に捕らわれるようになってしまった。哀れよなぁ人間は。と言ったところでしょうか。

お礼日時:2007/07/24 18:13

#1 です。


入門書を読んで素朴な疑問を提出された質問者に対し
かなり高度な回答が多数寄せられたことに
ソシュールの偉大さというか、人気をかいま見たようで驚いています。

さて、私の回答ですが、

質問者がおっしゃるように、言語に先立って「もの」は存在します。
ソシュールもそう考えていたはずと思います。
言語能力の誕生(=人類の誕生)以前にも世界(物質界)が存在したことは確実でしょう。

ただ、いったん言語能力(ランガージュ)を手にしてしまった人間にとって言語以前の物質界を想像することは至難の業です。
なぜなら、それが「100年前のリンゴ」であれ、「いま目の前にあるリンゴ」であれ、「青いリンゴ」でも「赤いリンゴ」でも、甘かろうが酸っぱかろうがすべて「リンゴ」と認識するのが言語による認識です。

言語により認識される個々の「もの」というのは、じつはそういう一般性において認識された「もの」にすぎません。1回的で他と置き換えの効かない具体性としての「そのもの自体」とは違うのです。

人間に認識できるのはそういう一般性(言語)を通して見た「もの」でしかありません。
だから、ソシュールは「言語によって切り取られるまでは個々の『もの』は存在しない」と言ったのではないでしょうか。

言い換えれば、人間が認識する「もの」というは、言語によって一般化されてとらえられた存在にすぎないということだと私は思います。

もしも言語がないとしたらどうでしょう?
我々がふだん言語により一般化してとらえている「もの」は、すべて1回的で
同じものなどあり得ない、他との共通性もなければ、差異など論じる必要がないほど完全に異なった「もの」、すなわち「混沌」に還るほかはないでしょう。

「身分け」と「言分け」に言及した回答者がいらっしゃいましたが、
この区別も意味のあることです。
言語能力を持たない生物もさまざまな「もの」を感覚器というセンサーで「身分け」て認識しています。それもある種の一般化だと思われます。たとえば「食べられる/食べられない」という区別ですね。

言語による一般化はそれよりさらに強力なのだとおもいます。100年経とうが甘かろうが酸っぱかろうが青かろうが赤かろうがリンゴはリンゴ。それが言語の機能なのです。

いずれにせよ、言語(あるいはなんらかの感覚器官)による一般化がなければ、この世界はすべて1回的な事物の継起として経験される他ありません。同一性など存在せず、したがって、差異さえ存在する余地のない混沌でしかありません。

そういう意味で、「この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の『もの』は存在しない」のだと私は理解しています。

「もの自体」が存在しないのではなく、

普段人間が(言語を通して)認識しているようなものは存在しない。

それだけのことです。

結論としては、「」のつかないモノが先、言語によってとらえられた「もの」が後ということです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>質問者がおっしゃるように、言語に先立って「もの」は存在します。ソシュールもそう考えていたはずと思います。

ソシュールの入門書などを読むと、「言語はものの名前ではない」とか「言語は名辞目録ではない」と書かれています。これは、例えば、ある「もの」の名前は、その「もの」が先にあって、それに名前を付けるという関係ではなく、言語の方で対象の「切り取り範囲」が決まっていて、その範囲によって「もの」が初めて確定すると言っているように思えるのですが、違うのでしょうか? 

>人間に認識できるのはそういう一般性(言語)を通して見た「もの」でしかありません。

言語が「一般性」しか認識しないことはよくわかります。でも、だからと言って、言語を知った人間が目の前の個別具体的なものを個別具体的なものとして認識できなくなるとは思えないのですが。

お礼日時:2007/07/24 17:50

kaitara1です。

私のいいたかったことを的確に表現していただいたと思いました。そして正にあなたのご指摘が始めの問題への関連を示唆してくれたと思います。主体がなくても認識ができてしまうのが言葉によらない認識で、人間でも体はそれを行なっています。赤ん坊が行なっている認識です。赤ん坊は自分が認識していることを知りません。というよりまだ自分(主体)が出てこないわけです。周囲の大人がいわば代理人として赤ん坊のやっていることが合理的かどうか判断しながらあたかも赤ん坊に主体があるかのように見做して安心して(整合性のある理解)をしています。赤ん坊のほうも世話してくれる大人の判断を受け入れているうちに言葉によって自分(主体)を獲得していくわけです。そして物心がついた頃にはそれがことばによって支えられていることを意識できないほどことばに依存してしまうのではないでしょうか。面白いことにこのように赤ん坊が大人になると今度は主体がないと認識ができなくなってしまいます。これが正にあなたの当初の質問への回答になっているとわたしは思います。主に周囲の大人による誤った自己注入(赤ん坊の主体を育てないような過大な干渉により)ことばによる自分(主体あるいは自己とも言います)の獲得に失敗するとこの赤ん坊はおとなになりそこなって重大な障害が生じます。このような人間だけが悩まされる障害というのは本質的に人間独特のことばによるに「主体あっての認識」と深くかかわっているのではないでしょうか。木村敏さんの「時間と自己」中公新書を読むとこのようなことが連想されるように思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

赤ん坊は、言葉を覚える前でも、身の回りのものを見分けて認識はしているけれど、主体が確立していないから、自分が認識しているという認識はないということですね。

このような赤ん坊の心理状態を「赤ん坊にとって、世界は混沌だ」と呼ぶのが適切かどうかは別として、少なくとも、主体を確立した大人が見る世界とは違った状態だと言うことはできるのかも知れませんね。

ところで、主体が確立した状態というのは、どういう状態なんでしょうね。「世界を認識していることを認識している状態」でしょうか? このような状態に移行するために「言語」が必要ということになるのでしょうか。難しいですね。どこから手を付けていいのかさっぱりわかりません。木村敏さんの本を読めばわかるのでしょうか。

お礼日時:2007/07/24 15:55

前の方の記号学というのは言語学(ソシュールはNo14様が書かれてるように言語学者なんですよね。

‥?)と同じか似ている類似学問なのですか?

ほんとに何も本は読む暇もな生きてきましたが、 考えることはできますし(中学生程度の言葉でですが)、たぶん子供の頃何度も何度も死線をさまようようなことがあって「存在」に関わることは子供の頃から考えていました。(もちろん、何がこの「「知らない間にいつしか生きていた私たちにとって何がほんとうにひつようなのか」」ということについても、やがて必死なまでに考えるようになってました。)

質問者様は、まず心で切り取った世界があり、その心で切り取った世界を指し示す映像として(すみません、記憶力の浅い、また正確な言葉遣いのなれていない肉体労働者ですので、言い方が正確でないでしょうが、意味はだいたい会ってると思います。)言語が生まれたという意味のことを書いておられますが、  その映像の部分が記号学の記号なのでしょうから
類似学問ではあるに違いないと推理はしていますが。

で、私の考えなんですが、
ソシュールがいつの時代のどこの国の人かも当然知らないのですが、やっぱりキリスト教の神の概念を守ろうとしたクリスチャンの一人だったのではないかと思うのです。

クリスチャンは ときどき人間の神聖さをを語るべく進化論まで簡単に否定したりしています。 神の創った世界がこの世界ならば、すべての進化の過程も神聖なのにです。 その理由(その心の因)については、ここではさぐったり推理したりしませんが、 ともかくkobarero様の書かれているような私よりも不正確な荒削りな言い方を言語学者である方が書いているとすれば、そのソシュールという言語学者もたぶんやっきとなってなんらかのキリスト教神学を語りたかったのではと思えるのです。

人間が生物(動物)であることを否定したい人(現在はこの世で生物でもあるのは定めだけれど、それは本来の人間の姿ではないといったふうに思い込みたい人)が そうしたクリスチャンであるとすれば、
まさにkobarero様も言われているように、心でまず切り取らなければ生物でもあるそういう存在として地球にはりついているような我々の頭脳は言葉を切り取ることもできないのに、そんなあたりまえのことをソシュールという人はたぶん昔の人で生物学的なことはすっぽかしてしまったんだろうと思うんです。 

動物と魂を神から与えられた言語を持つ人間とはまったく違う存在なんだ!! 事実、言語によって切り取られる(人間の能力によって言葉がうまれるまでは)すべての宇宙すべての物体すべての生命体に意味なないんだから 荒涼混沌としてひとつの物質と同じ無意味な存在だったじゃないか。   というふうにです。

ほんとうは、生物学的な五感というものが、どういう進化でかどういう突然変異でか、サルとは極端に深いとしか言いようのない可能性を宿すように神は とにもかにもそう仕組まれたということは神がいるなら考えられることですから、その事実による違いを科学的に追いかけようと努力するのがキリストのような人の弟子たちのあり方だったのではないかと私は思います。

 私のサルと人間の頭脳の違いについての考えは簡単で、 「見つめる」能力の違い。これだけだとも言えると思ってます。

 だから反省し進歩もできたということなんですが、これを言語の進歩ということで言うなら、 まず心で切り取るというここでの論議の部分は、
個々の「もの」がより強くはっきり見つめることができ、かつそれと他との差異も同時によえいはっきり見え、それによって言語化という映像化(記号化)も可能となり、五感の体験と言語の認識循環のようなものも人間の歴史の中にうまれ、そうして、
人間認識で言えば、これが、自己同一性の自覚につながり、だから他人と同じようにこうして人間として生き語らう人間認識もこれで深まる可能性が出来たということになります。

「もの」が先か「言語」が先か?という質問が、語らいを生み それがやがて自己同一性(あっ 今気がつきましたが、自己同一性という言葉が本とかの中でどのような意味あいで使われてるか知らない者ですから、あくまで言葉から考えての解釈をしています。 みなさんともしかしたら解釈がずれてるかもしれないですね。)の論議にまでなってる というのもおもろいですよね。  

それにしても  たった今これを私が 書いている事実。 たった今(それは時間はこれを書いている今からは先の事でしょうが)これを読んでるかたがいて、 こうしてネットでですが、語らいがつづいている。
 知らない間に 気がついたら「自己」がいて、同じ(だろう)人間の群れの中でこうして  たった今語らってる。  言語を通して、そういう記号でもある映像をとおして、なんとその言語について語らってる

なんか これって   この広大荒涼とした様、砂漠なんてもんじゃない宇宙の中で        やっぱ すごい 何かだ!!!とおもいませんか。

でも 同じたった今、 くるしんでいる人、孤独な人、これからどうしたらいいか途方にくれてかんがえる力もうせた人、 だんだん痴呆症になってく自分に気がついてもどうしようもないでいる老人たち、 

たった今も この人間の歴史から消えてはいないこの現実を、不自然に神の信仰こだわりすぎたのかもしれないところの言語学者なのに私よりも頭のこんがらがった人には無理でも、 やっぱり すこしでも助けるためには、言語は最大の力なんじゃないですか?

 言語と体験と思索の積み重ねの循環の力です。

「見つめる」力 たしかに、言葉として切り取れば、偉大のはずのものです。

 あ、今思ったんですが、ソシュールのような人たちって 人間は神のようになれると思ったのかな。
だったら そんなの無理です。 神が絶対でなくても同じことです。
たとえば、私にしても、これを読んでるあなたの事も、この質疑応答に直接参加されてる方々のことにしても たったほんの文面をほんのひとつづづしか知ってく能力なんて無いんですから、   これ以上考えるまでもなく人間なんてちっぽけなもんです。

 神の存在をわたしは否定などしていません。 でも、宗教信仰者って「いつかは神のようになれる」とか逆に「神は愛だから人をいつか助けてくれる」と思ってませんか? だったら私はそういう信仰には否定的です。  人間よりちっぽけな愛だったらだれかを助けたりするかもしれなくても 体験あるいは観察でもいいですが、そこから世の中を広く深く考えてみてください。  神は人間を助ける存在じゃないはずです。

 いっしょうけんめい考え、いっしょうけんめい論議し、 楽しみをそこにときにはもとめたりするのも人間。 すこしでも進歩し強くなっていき、すこしでも苦しんでる人を助けられるような歴史を作っていけるのも人間。   
また よけいなこと書いてしまったかもしれないですが、 
ほんとうは ソシュールも その希望は   まったく同じだったんじゃないでしょうか。

前回の回答と同じ意味合いのものですが、くわしく書いてみました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「初めに言葉があった。....万物は言葉によって成った。...」は、天地創造のイメージがあるので、旧約聖書の創世記に載っているものとばかり思っていたのですが、あらためて調べてみると、新約聖書の「ヨハネによる福音書」に載っていました。そうなると、これは、むしろ、古代ギリシャ哲学の影響を受けているのかも知れないと思い始めました。よくわかりませんが、ひょっとすると、プラトンのイデア思想の影響も入っているのではないでしょうか。今日、ソシュールの解説本を読んでいたら、ソシュールは言語学に数学の考えを導入することにかなり執着していたようです。そうだとすると、現実世界とのどろくさい関連性を捨象して、論理的に整合性のある綺麗な理論を作りたかったのかも知れません。

お礼日時:2007/07/24 15:15

kaitara1ですが私の勉強をさせていただいております。

認識主体の自己同一性というものは記号論でもあまり問題にしないことではないでしょうか。あなたのおっしゃっている同一性はあくまで客体(認識の対象)についてのものです。人間とほかの生物を分けないといけないと持っています。認識主体の自己同一性が問題になるのは人間だけです。認識主体の同一性の認識というものは言葉を用いなければ不可能だと思います。これに反し、対象の同一性は必ずしも言葉とは無関係に認識されるものです(これが主体なき認識です) 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

済みません。私の当初の質問との関連性がわからなくなってしまったのですが、主体なき認識の場合は、言語がなくても、この世界を分節できるということでしょうか? また、主体なき認識とは、例えば、動物とか、赤ん坊のことでしょうか?

お礼日時:2007/07/23 23:16

ソシュールについては 言っていること(額面の内容)は部分的にわかりますが 全体として何を言おうとしているのかは ついぞいまも 分かりません。

みなさんの回答を読みついで それでも自分の疑問であるごとく思われて来ましたので 考えるところを投稿させていただきます。

と言っても――ということは―― 例の丸山圭三郎の解説・主張をたたき台として考えたものです。

まづ初めに鍵となる用語を取り上げますが 《身分け / 言(こと)分け》です。後者が 言葉で世界を全体として一挙に切り取るという場合です。

一般に動物について かれらが自らの環境世界の中で 何が有害か無害か 無益か有益かなどが分かるのは 身分けだと言います。自己保存のため 自己の身を他から分けるというわけです。

人間については たとえば赤ん坊が 母親の乳房を拒まないのは 身分けによって知覚しているのでないかということだそうです。

そしておそらく しかしながら 人間については この身分けの力が 本能を保つ動物のそれよりは劣ったものだと考えられます。しかも 逆に言えば 《言分け》の力を 人間は身につけたというわけです。

このとき 身分けの次元では――すなわち 言分けの以前では―― 自我も発達していないと見ているのだと思います。ということは 目の前のりんごに対して おそらく言分けが出来ていないのは言うまでもなく 身分けすらも覚束ないという意味で 《心で》も捉えていない・切り取っていないと言っているのではないかと推測します。

推測の限りで 人間にとって世界が現前するのは 《言分け》とともに 全体として・一挙にのことだと言っているようです。さらにしかも りんごをりんごとして みかんをみかんとして 個別にそれぞれ個物を認識するのではなく ringo とmikan と budou と何やかやとの互いの差異によってのみ 言語としては分かるということだそうです。(ローマ字で書いたのは シニフィアンのみだという意味でないですが)。

《ソシュールは、言語が生まれる前に、「心」がこの世界を切り取っていることを否定しているのではないでしょうか?》
――そうだとも言えるようですし 心を言語に含めているとも考えられます。同時一体だという意味ですね。

このような日和見のこたえになってしまいました。

・・・・・・・
なお余計なことかも分かりませんが 丸山によれば 言分けは その力と影響が大きく 身に対して・そしてつまりは身の人情にからむといった意味での心に対して よほど優位に立ったと言います。それは いわゆるヴァーチャルな世界が例に挙げられます。身がそこにいなくとも おおよそでは言葉だけによって そのまま世界が現実としてのごとく現前するようにまでなったのだと。言葉が 身や心をも動かすのだと。

だとすれば――だとしますと―― わたしも 言分けの前に 心で知覚し何がしかを認識する段階があるのではないかという見方に傾きます。別の言い方をするならば 言葉が一つひとつ互いとの差異によってのみ成り立ったという仮説――つまりは いまの言分け理論において 文字どおり全体として一挙に 成り立ったという仮説―― この仮説の内容に 疑問を感じております。などなどです。

りんごについて 安全・滋養豊富・美味よりは ブランドが大いにものを言うとすれば それは この言語理論によれば 人間世界にあっては あたりまえだと言っているのだと見られます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

《身分け》が正確に何を意味するのか、あまり良くわからないのですが、非常に有効な視点だと感じましたので、以下のように自分なりに解釈し、考えてみました。もし、お考えと異なるようでしたら、ご指摘ください。

《身分け》とは、生存・生活に必要な対象を、言語の力を借りずに、五感(身)を通して分節する働きと考えてみました。

このように考えると、この世界は、《言分け》する前に、既に、一定のレベルまで、分節されているということになります。例えば、赤ん坊がお母さんのおっぱいを吸ったり、お父さんやお母さんの顔を見分けたり、色々なものを握ったりできるのは、《言分け》されていなくても、《身分け》されているから可能なのだということになると思います。

そうだとすると、ここで、問題になるのは、《身分け》と《言分け》の関係です。

もっとも安易に考えると、《身分け》たものに名前を付けて《言分け》するという例です。例えば、お母さんの顔を指差しながら「ママよ」と言って、「ママ」を《言分け》するということは十分ありそうなことです。しかし、これだけだと、《身分け》たものしか《言分け》られないことになります。

例えば、赤ん坊がママを求めて「ママ、ママ」と言ったとき、もし、ママは買い物に行って今は家にいないという場合、そのことを赤ん坊に伝えたいからと言って、「ママ、今、いない。買い物、行った」と言っても通じないでしょう。多分初めは、「いないいないバー」とかをやって、「いる」「いない」という言葉を覚えさせたり、あるいは、「今ここにある物」、「今ここにないもの」、「今ここにないけど、向こうに取りに行けばあるもの」などを「経験」させた上で初めて、「今」とか「行った」とかの言葉が覚えられるのではないかと思います。

何を言いたいのかというと、《言分け》する場合、言葉を一方的に教えようとしても無理だということです。言葉を覚えて理解できるためには、言葉が指し示す対象を事前に何らかの形で”分節されたもの”として経験していないと、覚えようがないということです。すなわち、《言分け》する前に《心分け》されていないと無理だということです。例えば、「さっき」という言葉を覚えることが可能であるためには、「お母さんがいない」という感覚と「お母さんがいる」という感覚の両方を「心」で感じとり、さらに、その違いの背景として、”時間の経過”というものを「心」(五感ではない)で感じ取っていない限り、「さっき」という言葉を理解することはできないと思います。

ということで、結論としては、この世界は《言分け》によって文節される前に、《身分け》と《心分け》によって既に文節されているのではないかと言うことになるのですが、いかがでしょうか?


>つまりは いまの言分け理論において 文字どおり全体として一挙に 成り立ったという仮説

何故、一挙に成り立たないといけないのかが、よくわかりませんでした。言葉は、社会の複雑に伴って少しずつ増えていくのではないでしょうか?

補足日時:2007/07/23 23:05
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はじめのご質問からずれてきたようで心苦しいのですが関係があると思うのでもう少し書かせて頂きます。

切り離す、離せないのことですが、われわれ人間でもリンゴがどうして栄養になるのかは知らないでも体はちゃんと消化して栄養になってしまいます。これは主体無き認識とでもいうことです。つまり認識に不可欠な主体の存在がはっきりしないのです。体がリンゴを認識するためには体が不変でなければなりません。体が不変であるはずがないのですが、普遍であるとする事ができるのは実は体から遊離している人間の脳のはたらきによってつくられることばのはたらきです。リンゴを食べる前と食べた後で体は必ず変化しています。食べる前の体と食べた後の体の変化を知るのは変化しない尺度で比較するほかありません。この変化しない尺度というのが言葉です。そして変化したにもかかわらず同一の体であると考えられるのは言葉のはたらきです。リンゴを食べる前と後でたとえばあなたの名前が違ってしまったらリンゴを食べたのはどちらのあなたか分からなくなると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

おっしゃっていることが充分理解できたかどうか、未だに、自信ないです。ただ、恐らく、関連した問題だろうと思うことを以下に書いてみます。

「同一性」には、2つの次元があるように思います。ひとつは、空間的同一性、ひとつは、時間的同一性です。

空間的同一性は、例えば、ここに有るリンゴとあそこに有るリンゴは、別々のものだけれど、同じ「リンゴ」であるという意味です。時間的同一性は、例えば、昨日の自分と今日の自分は、厳密な意味では別な自分だけれど、それでも、そこに同じ「自分」を見出すという意味です。

kaitara1さんがおっしゃっているのは、この時間的同一性のことではないでしょうか?

そこで、このことから、「もの」が先か「言語」が先かについて考えてみます。

ひとつの疑問は、空間的同一性や時間的同一性は「言語」がなければ、得られないのかということです。

そんなことはないというのが私の結論です。理由は以下の通りです。

言語を知らない犬でも、空間的同一性に基づいて行動しています。例えば、ウサギを追いかけるように訓練された犬は、ウサギを見ると追いかけます。ウサギ一匹一匹はそれぞれ微妙に異なりますが、だからと言って、特定の一匹しかウサギと認めないということはないです。

言語を知らない犬でも、時間的同一性に基づいて行動してます。例えば、昨日見た「主人」は、厳密な意味では今日見る「主人」とは違います。しかし、犬は、今日見た「主人」に噛み付いたりはしません。

従って、空間的同一性や時間的同一性を獲得するのに「言語」が必要ということはないと思います。

お礼日時:2007/07/23 16:08

>人は言語でこの世界を切り取る前に、既に、「心」でこの世界を切り取っている。

言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像として生み出されたものである。
:これが自然な考え方でしょうし私もそう思うのですが、ソシュールという人が何らかの意図で他の視点を提供している、という前提で考えてみます。
この場合、考えられるのは、心で切り取った時点ですでに言語は必然的に付随してくる(「もの」と認識した時点で名前は必然的に冠せられる)。
それは、その「もの」に対する認識を経験として以後に生かすために、人間(の脳)が要請する必然的な仕組みである、というように解釈できないでしょうか。
厳密な手順から行けば、「もの」を認識→「言語化」ということになると思いますが、心で切り取られた「もの」が「個々のもの」として人の認識に定着するためには言語が必要になる。
つまり、心で切り取られただけでは混沌と一体化した状態を脱していない、という解釈。
以前kobareroさんがおっしゃっていたような気もしますが、ある程度以上の思考には言語を介す必要がある、ということになるかもしれません。
「この世界は~混沌とした一体」という前提自体が彼の視点の問題でしょうし、「個々のもの」は認識できない以上存在しないも同然で、その認識には言語が必須であるということになるでしょうか。
この世界に個々のものがあるかないかは別にして、言語を持たないミミズにとって「この世界」という概念は無意味だと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>それは、その「もの」に対する認識を経験として以後に生かすために、人間(の脳)が要請する必然的な仕組みである、というように解釈できないでしょうか。

その通りだと思います。

お礼日時:2007/07/23 15:43

>ソシュールは、シニフィアンとシニフィエは紙の表裏の関係であって、切り離せない結合体(シーニュ)であると言っていると思います。

だから、シニフィエが先にあって、それに、名前を付けるがごとくにシニフィアンを結ぶ付けるというようなことを否定していると思います。

シーニュというのはシニフィエがシニフィアンされた後の話です

{シニフィエ→シニフィアン}→{シニフィエ⇔シニフィアン}

{シニフィエ→シニフィアン}が混純から「物」へ
{シニフィエ⇔シニフィアン}がシーニュだと思います
たぶんね・・・w
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/23 15:40

ソシュールのいいたかったことは、視覚として一体をなしていた「風景」という認識と、知覚として、物質と物体を識別できることとは異なり、言語を持たない動物でも「リンゴ」を食べることは出来ますし、見分けることも出来ます。



つまり、区別は可能なわけですが、言語的に分化された共通認識がなく、山・森・木・りんごという、名称と個々に対応する思考の存在が無いという状態がいいたかったのではないでしょうか。
地理的思考回路というか、自分との遠近関係によって認識していたのではないでしょうか。(「角のお店」とか… (-。-)y-~~)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>山・森・木・りんごという、名称と個々に対応する思考の存在が無いという状態がいいたかったのではないでしょうか。

そいいう意味なら、よく理解できます。だから、子どもは言葉を覚える必要があるわけですからね。

お礼日時:2007/07/23 15:39

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