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小中学校の通知票で評価項目にある、「関心・意欲・態度」についての疑問です。

これはいったいどうやって評価しているんでしょうか?
挙手の回数や忘れ物、提出物、居眠り、質問の回数などが評価材料になるのはわかるのですが、

・授業中ぼんやりした顔をしていた
・参考書のコピーをノートに貼っていた
・ノートの字が汚い

こういったことがマイナス評価されてしまう(私の中学ではそうでした)のは疑問に思います。
さらに不可解だったのは、私の中学だけかもしれませんが、「関心・意欲・態度」がすべての評価項目の中で最も重視されていることです。

現役の先生方は「関心・意欲・態度」をどのような観点で評価していますか?
本当に公平な評価ができるのでしょうか?

そもそも、態度はともかくとして「関心」「意欲」が評価されること自体、おかしいことだと私は思います。

A 回答 (11件中1~10件)

元地方公務員です。

(教職)こんにちは。
同感です。たしかに、それは学力とはちがいますから。
ただ、そのひとが、まわりのばかな子供をプロパガンダしていないのなら、問題なしだと思います。もしも、他の子供に影響を与えているのであったのなら、やはりまずいかも?おどすとか。
私は、いわゆる各教科の評価はテストの結果で出していました。(15年前)
もちろん違う考えで評価する先生方もいました。授業中の態度とか・・・
残念ですが、各先生の価値観で、評価のしかたがちがうのは現実。。そういう先生は、いまどき(巨人の星)に本気で感動するような奴でしょうから。解決にはなりませんが、そうじゃない先生もいます。
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きちんと評価できる先生もいればできない先生もいますよね。



先生も人間ですから主観が入って当たり前だと思います。

理想を言えばキリがないですが、現実はそんあところでしょ。

授業中の態度がワザと良い風に振舞っている生徒もいれば、心から、つまんない時にはつまらない表情をしたり、関心があってなるほどっ思ったときはそれなりの表情をすると思います。


私は評価する先生の姿勢、意識によって成績なんていくらでも変化するもんだと思います。

学校の成績よりその後の他者の評価の方がよっぽど長いんだから。
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教員ではありませんが、


ぼんやりしていたような児童、生徒達が
物事に「関心」・「意欲」を示し「態度」で
示せるようになっていく
そうなれるような授業内容にできるかどうか、
生徒達を導くことができるかどうか
教員側のほうこそが評価される項目ではないかと
思います。

教員用の通知票の文字を生徒用に転記しただけで、
その内容については 評価する側の立場によって
コロコロ変わる とも思います。

こんな評価に振り回されて
生徒も親も先生も 
疲れていくような気がします。
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評価すること自体は簡単なようで難しいですが、


ちょっと考えてみてください。

最近横綱の朝青龍が批判されています。
横綱には「心・技・体」の充実が必要と言われます。

朝青龍は心に問題があるなどと長年批判されてきました。

あなたは朝青龍をどう思いますか?

横綱は強くなければいけませんが、それだけではいけないのです。
若い力士の見本にならなければいけません。
でも心まで評価されるのです。
一番強いのに・・・

一般人にまで評価されちゃっています。

評価とはそういうものです。
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参考になるか分かりませんが・・・。



質問者様が言われるように、確かに発言も評価に入るかもしれませんが、中にはその教科に対してすごく関心を持っているけれど、恥かしくて発言できない子もいます。なので、それだけで「この子は意欲がない!」という評価することはまずありません。

また、「ぼんやりした顔」で評価をするというのは、どうなんでしょうね。でも、みなさんも言われているように、教師の主観が入るということは、現実としてあるような気がします。

私の娘ですが、音楽の関心・意欲・態度に、Cがつくことが多かったのです。娘に聞くと、音楽は好きだと言います。では、なぜCがつくのだろうと、先生にお聞きしたことがあります。すると、同じように「楽しそうに歌っていなかった。」とか、「歌のテストで声が小さかった」などの理由を言われました。

娘は、歌は大好きでよく家でも歌っています。でも、「テストの時は緊張して声が出なかった」と言います。
本当は音楽が好きなのに、いつも「C=あなたはやる気がないですよ」という評価をされ、余計にやる気をなくしているようにも見えます。
親としても、何を見ているのかな?と残念です。

評価について納得できないところがあれば、先生に質問に行かれてもよいのではないでしょうか?ちゃんと理由があるはずですから・・・。
大した理由もなく、主観や授業中の顔つきなどで評価しているとしたら、残念なことですね。

また、中には、自己評価(国語の勉強をがんばりましたか?発表をたくさんしましたか?など自分で振り返るもの)や、テストの裏についている一言感想などだけで、評価している先生もいます。

自己評価は、自分に厳しい子もいれば甘い子もいますし、段々大きくなると、これで成績をつけられると分かってくる子もうるのではないかと思います。正しい評価とは言えませんよね。

回答にはなっていないかもしれませんが、この観点がなくなって欲しいと思っている同僚が多いのは事実です。
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人間が物事を学んで行くにあたって、


と言うことだけに限らず、
人が動くには、必ず動機があります。
何らかの理由で動機づけられ、解決方法などを考え、
解決する活動をして、分かったり、それを覚えたりする。
これらが一連の流れとして、学びにはあるにもかかわらず、
覚えた結果だけ評価するのは、
人の力を一部分だけしか評価していないことになります。

それと、
関心、意欲の部分には、単純に気持ちの問題ではかることだけではなく、
きちんと自分で問題意識を持っているかと言うことも
含まれます。
目的意識がきちんともてているかは、気持ちと別で、
大事なことです。
何を分かるために、それをしているのか、
自分の考え(予想)はどうなのか、
そのようなことは、ノートなどを見れば、客観的に評価できます。
(ちゃんとノート指導してあればですが)
行動でいうなら、たとえば、
小学校3年生で植物を育てますが、
外に置いてある植木鉢に毎日水やりをしている子どもと、
土を見て、乾いていたら水やりをしている子どもは、
後者の関心意欲態度の方が高い評価を受けます。
目的意識を持っているからです。
関心や意欲を持っているという評価は、学んだことを活用できる力がある
という評価でもあるのです。
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「関心・意欲・態度」は 簡単に言えば『演技力』のことです。



いかにも大人に都合の良い 『よい子ちゃん』を演じてれば良いのです。その程度のことです。

その程度で「美しい国」とやらは出来るらしいですよ。

貴方は通知表から この国の本当の姿を 見事に言い当ててます。
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私立の教員です。

No3の方の意見と同じ感じです。ただ成績を出すときに、ペーパーテストの成績以外に平常点という物があります。普段の授業態度、核心を突いた発言、ノート・プリントなどの提出状況など。それらで大体、そのこの「関心・意欲・態度」というのが1,2学期すぎると分かります、というすぐに分からなければ、教員失格ですからね。質問者さんが例に挙げたことは、とても教育活動では重要なことなんですよ。北たちの小中学校のときはただ数字で543・・・とかよい・ふつう・わるいでしたからね。何がどう良いのか、わるいのか、何で5でなく4なのか全く被教育者にはわかりませんでしたからね。たしかに観点別評価というのは教師にとってめんどくさいことはめんどくさいですが、教師ならばやって当然、最低限のことだと思います。
 「関心」については、すべてに関して「関心がない」ということは考えにくいですし、授業を受けている内に、関心が出てくることもあります。短い期間で考えるとおかしいことに思えますが、もう少し長いスパンで考えると分かるのではないでしょうか。意欲も同様です。
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そうですね。

実は現場の先生達もみんな困っています。正直言って、確信を持って評定している先生は一人もいないと思いますよ。関心・意欲・態度なんて評定のしようがありませんから。

特に困っているのは、中学校の先生達です。何しろ高校受験に向けて内申書がありますからね。とにかく、どんな下らない内容でも客観的なデータを整えないと、生徒や保護者から文句が出た時に対応できません。だから、ノートの字が汚いだの、参考書のコピーをして(自分でまとめていない)など、「どうしてこういう評定なんですか」と尋ねられたときに、回答が出来る材料を集めているのです。先生達だって、内心「こんなことで測れるわけ無いよなぁ」と思う項目もたくさんあるのです。

でも、これを先生や学校に文句を言うのは筋違いです。関心・意欲・態度を評定すること、しかもそれをもっとも重視すること、と決めたのは文部科学省です。この前の学習指導要領改訂で、「そういう風にしなさい」と決まってしまったのですから、仕方ありません。

決まった以上、何とかして、それを評定するしかありません。本当は、授業をやっている先生が、一人一人の生徒の関心・意欲・態度は一番分かっているんです。「こいつは、すごく熱心だな」とか「こいつは、全然やる気がないな」なんてことはね。でも、それって、先生の主観ですよね? 
この主観、ほとんど間違ってないのですが、保護者や生徒に「僕はまじめにやっていました。この評定は納得できません」と言われたときに、反論できませんよね。だから、下らなくても客観的な?データで武装せざるを得ないのです。

以前は、関心・意欲・態度なんてものは、よほど極端な場合以外、どうでも良かったのです。どちらの評定が良いかを決めるのは、学校でも先生でもありません。文部科学省ですし、もっと言えば政府や世論です。
ただし、先生達に本音を聞けば大多数の人は、無くして欲しいと思っています。
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たしかにそのような項目は担任の先生では把握し切れないでしょうし、誤解もありますよね。


その項目はあまり気にしなくていいんじゃないでしょうか?
それとも進学にかかわるんでしょうか?
それなら学校に抗議というか説明を求めるということもやってもいいと思います。
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