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親から愛情を注がれずに育ったせいで、恋愛関係をうまく築けません。愛を、むさぼるように強烈に求めてしまいます。好きになればなるほど、自分がなくなってしまい、相手に都合の良い振る舞いを無意識のうちにしてしまいます。恐いほど自分が消えます。求めても求めても愛情をもらえなかった記憶がどこかで自分を操っているようです。嫌われるのが、拒絶されるのが恐いのでしょうか。でも、そうやってこちらの感情を無視され踏みにじられることが私と両親との間の‘愛情のやり取り'だったのだろうと思います。だからそれを繰り返すのでは?ここを乗り越えたいのですが、何かヒントはないでしょうか。たぶん、自我の成長が阻まれたこともあるだろうと思います。自我とはどうやって作るものなのでしょう。自分を守る、と言われても、一体何を守ってよいのかわかりません。好きになる人も、自分を好きになってくれた人のことが多く、誰でもいいのかしら、と自分でもあきれてしまうほどです。どうぞ、よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

相手への気遣いはもちろん大切ですが、「これは譲れない」と思ったこと(付き合っていれば1つや2つ出てくると思います)は、相手に合わせず通してみてはいかがでしょうか?そこで「合わない」と思って去っていく人もいれば、「そこが良い」とか「それでも良い」という人もいると思います。

人に拒絶されるのって怖いし嫌ですよね。けど自分がなくなるのはもっと嫌じゃないですか?勇気を持って我を出す練習をしてみてはいかがでしょうか?
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この回答へのお礼

KeepGoingさん、ご回答ありがとうございました。自分の行動をよく振り返ってみると、ある特定の瞬間に「自分が消える」ということが起きている気がします。それは、とても好きな人の前、恐いと感じている人の前です。その時は、自分がなくなることが「嫌だ」と感じることさえできなくなっています。自分の感情を感じる感覚が麻痺しているようなのです。いろいろな本を読んで研究中で、おっしゃるように、勇気を持って練習しようと思っています。いつでも自分の感情を感じつづけること、これが難しいのです。でも、がんばってやってみます。ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/24 21:33

トラウマの原因である両親を愛することが出来れば恋愛もうまくいくんじゃないでしょうか。


多分それが克服ということだと思います。
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この回答へのお礼

shift-2007さん、ご回答ありがとうございました。本当におっしゃる通りだと思います。それができれば一遍に解決するのかもしれません。両親にも両親の抱える問題があり、私に注いで欲しかったエネルギーがそちらに向いたのだろうと、理解しよう、それを受けとめようと努めています。私なりの愛し方でいいのなら、親を愛する、ということもできるかもしれません。よく考えて、がんばってやってみます。ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/24 21:39

 自我の確立ということでは、フロイトのエディプス・コンプレックスがあります。

男の子が母親に対して恋愛感情に近い感情を持ちます。しかし、母親には夫である父親がいます。それで、父親から去勢されるのではないかという畏怖感を生じます。それを乗り越えることによって、男らしいという男性性を獲得します。
 それを乗り越えられない場合は、恋愛などはできません。あなたの場合は、きちんと恋愛しているので問題はないと思います。
 恋愛がうまくいかないというのは、別のところに問題があると思います。この質問を読んでいて、遠い過去のことを思い出しました。
 3ヶ月つきあった彼女から、突然「分かれよう」と言われました。その理由が分からないので、手紙を書いてもらいました。そのくだりに「あなたは、私に甘えていない。」とありました。私は甘えん坊なので、彼女に甘えたならば彼女はそれに耐えらなくて潰れてしまうと思い、甘えませんでした。甘えても甘えなくても、結果は同じだったのです。俗に言う縁がなかったと言うことだと思います。
 結婚するとき、大学の女の友人に「どうして、結婚する気になったの」と聞かれました。その答えは、「一緒にいて疲れない。」とこたえました。それは妻が私自身を十分に受け入れてくれると思ったからです。
 自己を出す訓練も必要であると思いますが、あなた自身を受け入れてくれる人を探すことも必要だと思います。恋愛においては理想というのが大切だと思いますが、そのような人は身近な気がつかないところにいると思います。
 あなたの質問を読んで、「理想と現実」、「恋と愛」、「自己とは」などがキーワードになるかなと思いました。
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この回答へのお礼

hipotamaさん、ご回答ありがとうございました。自分を受け入れてくれる人を探すこと、そうですね、大切だと思います。たぶんその為にも、自分をよく知ること、が必要だと思うので、自分を見つめることに時間を割いています。自分の欲求・理想と眼の前の現実をよく見ること。燃え上がるような恋愛感情と、落ち着いたしずかな愛の感覚と。前者ばかりで後者がないのです。だまってそこにいるだけで安心できた、という感覚を、生まれ育った家で経験したことがありません。いつも何かに怯えていた感じです。だからいつも自分を責めた。私がいけないから、愛されない、私が何かしないと、親は私を見てくれない。だから、ある意味道化者になり、いつもみんなを笑わせる役でした。なので、注意がいつも周囲に散ってしまい、自分へ向かわないのです。それに気付いて、いま、じっと自分の中に意識を保つ訓練を意識的にしています。黙っていると外にながれてしまうのです。恐いほど。自己とは。自我と自己の関係など、いろいろ読んで考えています。結局、バランスが大切であり、そして、全体として統合されていることが大切なようです。起きたことを受けとめる、それを自分の中に位置付ける…、すいません、長く書いてしまいました。ありがとうございます。がんばります。

お礼日時:2007/11/24 21:48

「>親から愛情を注がれずに育ったせいで」とのことですがその内容にもよるでしょう。


「>恋愛関係をうまく築けません。」ともおっしゃっていますが、
「>愛を、むさぼるように強烈に求めてしまいます。好きになればなるほど、自分がなくなってしまい、相手に都合の良い振る舞いを無意識のうちにしてしまいます。恐いほど自分が消えます。」
というのはまさに恋愛そのものの本質であって、こういった恋愛ができるのはある意味で幸福なことと言えます。

しかし、際限なく求めてしまい、相手への負担が深刻な悪影響を及ぼすまでに至るのではないか、というご心配がご質問の趣旨であろうと思います。
相手からの愛を疑ってしまうのは過去のご両親との関係性に固執しているからではないか、というのは多分鋭い自己分析だろうと思います。
ただ、これは大なり小なり誰しもが体験する要素であるという点も一応は念頭に置いておくほうがバランスのとれた分析ができるでしょう。

「>それ(両親との関係性と同様のこと)を繰り返す」可能性は確かにあるでしょうし、実際問題として人は誰しも殆んどそれを引きずって生きているわけです。
よくも悪くも世代間連鎖と言えるのでしょうが、ある意味で過去への固執と言って良いと思います。
ある意味とは、過去に立ち戻り、得ようとして得られなかったものを何とか獲得したい、という無意識です。
端的に言えばないものねだりで、無理とわかっていればこそ他者にそれを求めることになるのでしょう。
ここを断ち切るためには、「過去とは字義どおり、過ぎ去ったもの」という認識がまず必要になるように思われます。
過ぎ去ったものであり、また元々無い(少なくとも無かった。あるいは無いと感じた)ものなのだからそれを求めることは不合理であるという認識です。
そこからご両親と他者(恋愛対象)とは確かに別の個体であるという認識が生まれるように思います。

では、過去とは過ぎ去ったもの、と認識するためにはどうすればよいか。
preguntaroさんの不満や不安を、それを醸成した相手(ご両親)に直接伝えることだと思います。
責める、という形をとることになると思いますが、責めるとは甘えることでもあります。
直接的に責めたり甘えたりできないと、必ず代替を他に求めることになるのは自然の成り行きです。
理解してくれるかどうかは二の次で、自分の心内を相手に伝えるということが大事です。
求めるものが本当になかったかのか実はあったのかということもさりながら、今までご自分がそう感じてきたという事実を吐露するという作業が必要と私は思います。
直接法が難しければ、自らの過去を振り返りつつ文章にしてみる、あるいはブログなどで発信してみる、という方法もあるでしょう。
個別の状況によって違ってくるでしょうし、上に述べたようなことはあくまで推測に基づくひとつの例解にすぎません。
いずれにしても、抑圧されている無意識を解放してやることから始まるのではないか。
一素人の私見にすぎませんが、そういう気がします。
 

参考URL:http://hakobulu.seesaa.net/article/45972810.html …
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この回答へのお礼

hakobuluさん、ご回答ありがとうざいました。

> 際限なく求めてしまい、相手への負担が深刻な悪影響を及ぼすまでに至るのではないか、というご心配がご質問の趣旨であろうと思います

いえ、相手への負担より前に自分なのです。自分が嫌われてしまうこと、見捨てられてしまうこと、それが恐い。でも、それはまた安心でもあるのです。なぜなら、そういうふうに私は「愛されて」きたから。だから、同じことの繰り返しで、好きになり、嫌われるだろうなと思い、実際嫌われ、ホラまただ、と自分の考えがあっていることを確認する。もちろん無意識なのですが、本当にこの通り。かなしいです。

私が特別なのではなく、ある程度程度問題であり、多くの人が親との葛藤を通して成長してゆく。わかります。過去を字義どおり過去のものと認め受け入れ、自分の歴史の中に位置付ける。努力しています。また、親との関係を元に築かれるその後の人間関係ではあるけれど、他人は親とは別個の人間なのだ、という認識もおっしゃる通りとても大切だと思います。

何かにしがみつくことが生活のすべてに行き渡っている。人間のみならず出来事や、人の言動や、自分を表現することにも。それを意識的に断ち切ることかもしれません。そして自分の足で立つ、自分に責任を持つ、という自覚。やはり、自我をきちんと育てなくてはと思います。

両親とは何度も話し合いました。でも、うまくいきませんでした。もう数十年同じ関係でやってきているので難しいのです。これまでの関係性や認識を変えるというのは自分の内面に降り立つことなので簡単ではないこと。親に無理強いせず、まず自分が変わろうと努力しています。

> いずれにしても、抑圧されている無意識を解放してやることから始まるのではないか。

おっしゃる通りです。それに気付き、実践を図り、2年ほどです。少しずつ少しずつ、良い変化もあります。なのに、肝心な人との親密関係を築く段階になって、また以前の自分が現れる、気が付かないうちにそうなっている。恐いです。でも、諦めず、前に向かっていくしかないようです。始めたからには最後まで。がんばります。ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/24 22:06

こんにちは。


「トラウマ(心的外傷)」といいますのは簡単に自己診断のできるものではないです。では、「原因が両親にある」このような明確な自己診断が下されているものは、それはまずトラウマではなく、ほとんどの場合が「当人の思い込み」です。
かつて「アダルト・チルドレン」という言葉が世に知れたとき、日本中に「自称アダルト・チルドレン」が溢れ返りました。ですが、実際にアダルト・チルドレンと診断されたひとはほんの一握りしかいなかったそうです。
当然ですよね。
「自分の人生が上手くゆかないのは全て親の責任だ」
こんなムチャクチャな理屈がおいそれと通用するわけがありません。

質問者さんは自分のご両親を信用できないと仰るのでしょうか。
はっきりと申し上げておきますが、
「これはトラウマである」
「それは親のせいである」
「自我のせいである」
このようなものは全て質問者さんの勝手な妄想です。
感情が踏みにじられた、自我を抑制させられた、こんなことが事実であるとは到底考えられません。ですが、たまたま自分の要求が阻止されたということでありますならば全ての辻褄が合うわけですが、親との関係においてそのような体験をせずに育ったひとはこの世にひとりもいないはずです。では、果たしてここで、注がれるべき愛情が不足していたという質問者さんの主張は、これは常識的に見て単なる思い込みであり、「ご両親に対する誤解」以外の何物でもないと思います。
質問者さんはご自分の責任というものをひとつも頭に入れておらず、片っ端から周りのせいにしてしまいます。このため、自分をかばってくれる相手なら誰でも良いのですが、望み通りにならないことは一切受け入れず、それが叶えられないならば最初から逃げてしまおうというわけです。
自分の望み通りにならなければ受け入れられないというのは相手の立場を認めていないということです。相手の立場というものを少しでも尊重するならば自分の要求だけが通るなどという考えは生まれないはずです。

子供ではないのだからそんなことは百も承知だ、果たしてそうでしょうか。
では、全てを自分の望み通りにしてくれる完璧な両親などというものがこの世にいるでしょうか。親だって人間です、何でもできるわけではありませんし、強いて言うならばほとんどのひとにそんな余裕はなく、みんな自分の子供を育てるのに精一杯です。
質問者さんはこのご両親の立場や苦労を一切受け入れず、ご自分の要求だけを主張しています。これは明らかにご両親に対する甘えですね。そして、このような考え方が一貫して質問者さんの人間関係に反映しています。自分の両親を信用できないひとに他人との信頼関係が築けるわけがありません。
このようなことを続けていますと、やがて両親だけではなく、自分自身も見失ってしまうことになります。何故ならば、それは取替えというものが利かないからですね。ですから、ここに言い逃れを付けてしまいすと、しまいには自分の人生さえ受け入れられなくなってしまいます。そして、ただひたすら自分の過去を悔やんでいる、これが今の質問者さんの現状ですね。

では、この問題を解決するためには、まずご両親に対する誤解を解くというのが順序となります。
この「蟠り」を断ち切るためには、質問者さんは心からご両親を信頼し、自分の考えが間違っていたことをきちんと受け入れる必要があります。口で言うのは簡単ですが、これにはたいへんな勇気のいることです。何てったって、これで質問者さんには一切の言い訳が許されず、逃げ込む場所がなくなってしまいます。まあ、中途半端な気持ちではまず無理でしょうから、時期を待っても自然と解決はされます。但し、両親が健在なうちにそれが訪れたならば幸運と思って下さい。
そして、これができますならば質問者さんはご両親の愛情を取り戻すことができるはずです。何故かと言いますと、それは質問者さんの誤解であり、質問者さんが見失っているものだからです。
完璧な親なんてものはいませんが、子供に愛情を注がないなどということはあり得ません。ですから、質問者さんは自分の心の中にご両親の愛情を取り戻せば良いだけの話なんです。これで質問者さんは、もはや過去に拘る必要がなくなり、大手を振って自分の人生を受け入れることができるはずです。そして、これがどういうことかと言いますと、つまり今からでもぜんぜん間に合うということです。誰のせいでもありません、全ては質問者さんしだいと思って下さい。
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この回答へのお礼

ruehasさん、ご回答ありがとうございました。

> 子供に愛情を注がないなどということはあり得ません。
親に何らかの問題があって、子どもに愛情を十分には注げないということはあると思います。あり得ない、と断言できるあなたを本当に、嘘偽りなくうらやましく思うほどです。子どもを嫌う親がいるのです。そばに行くと逃げる親がいるのです。目の前で泣きつづける親がいるのです。父親の悪口を泣きながら訴える母親がいるのです。他の人のもとへ行くと虐待を加え、逃げられないようにする親がいるのです。私はすべて、私が悪いのだと思って生きてきました。数年前からいろいろ話し合いました。ですが、お互いのこころを開いて話すと言うことにはなりませんでした。誤解もあったでしょう、両親の苦労もあったと思います。あの時はああするしかなかった、母親の持つこころの問題もよく考えました。そして受け入れようと、過去をそのまま受け入れようと努力しています。

思い込みも多いと思います。思い込みを含めて自分を詳しく分析しています。こころにメスを入れるような痛みを感じながら日々がんばっています。

「過去に拘ることなく大手を振って自分の人生を受け入れる」ために、問題を他者のせいにすることなく、自分のこととして受け止め、自分に責任を持って生きてゆく。やってみようと思います。簡単ではないだろうと思いますが、やってみようと思います。人を愛したい。愛されていたい。一遍でいいから、愛を感じてみたい、そう思うからです。

長いアドバイス、ありがとうございました。がんばります。

お礼日時:2007/11/24 22:22

こんにちは。


#5です。呼ばれもせずにうっとうしい話ですが、回答をお読み頂きありがとうございます。
このような返信があるのではないかというのは薄々でありますが考えておりました。ですが、幸い質問者さんにも概ねのご了承を頂けたように思いますし、私の考えにも一切の変更はありません。と言いますよりは、良くぞ打ち明けて下さいました。

前回答の作成に就きましては、ちょっと有名な精神科医の発言と、質問者さんと同様の事例を扱ったカウンセラーの手記を基にしています。そして、過去に拘って自分の人生を受け入れられないといいますのは、これは他ならぬ私自身の事例であります。
では、それで良く他人の回答にあれだけ偉そうなことが書けたということになりますが、質問者さんにおかれましては敢えて他言のしたくない私情を明かして下さいました以上、恐れながら私もそれを白状する次第であります。まあ、何処の家庭にもそれなりに事情はあるということですね。

こちらは夜も更け、だいぶ飲んでいるという状況ではありますが、ひとつ喜ばしい事実を報告せざるを得ない心境にあります。
質問者さんの仰る通り、そのような親もいることは否定できません。ですが、このたびの事例に関しましては、そのほとんどが質問者さんの「論理的な記憶」に基づいて判定されている結果であることが極めて濃厚となりました。
これがどういうことかと申しますと、それは質問者さんが理性的な判断を下せるようになったあとに体験した記憶であるということです。ではここに、まだ物心の付かない幼児期の外傷や虐待の兆候がないというのであれば、
パンパカパーン! 
質問者さんは全くの正常ということであります。

質問者さんは自分の記憶の中にあるご両親と対峙しています。では、おっぱいを飲ませてくれて、おしめを取り替えてくれたご両親の記憶はありますか?
これ以上くどくは申し上げませんが、ご安心下さい、質問者さんが心の中にご両親の愛情を取り戻すことができるというのは、これは生物学的な事実であります。まあ、お互い頑張りましょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

前にすすむために過去を振り返ってみる、その結果、いろいろなこだわりがあることがわかりました。過去にこだわることにこだわって(しがみついて)いる。そしていまは、過去を分析することにしがみついている自分を感じます。自由とはなんと難しい状態だろうかと思います。

> まあ、お互い頑張りましょう。

はい、がんばりましょう。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/25 20:01

この前の続きです。



時間がないので、キーワードだけ示して説明をしませんでした。しかし、説明しようとしたことがあなたの回答そのものなので、改めて書きません。
 ところで、その中で気になったことがあるので書きます。
「自我と自己との関係について本を読んで考えています。」とありましたが、本を読んで知識を得ることは重要です。人間関係は、やはり人間関係において解決されると思います。
 他人と接していて、「○○さんて、○○なんですね。」と自分の思いもよらないことを言われることがあります。それを受け入れるかどうかは、自分の考えです。人間は、多面的でいろいろな面を持っています。それは、自分でも気がつかないと思います。気がつかない部分を映し出してくれるのが、他人です。それは、自分を映し出す鏡です。

 この質問の表題の「トラウマの克服」ですが、ある研修会の飲み会でこれを論争したことがあります。その人は、トラウマを克服するためにアメリカまで行って克服したそうです。私は、トラウマは心の傷、傷は治ってもその痕は残ってます。それで、トラウマといかにうまく共生していくかが問題となります。
 あなたの場合、好きな人や怖い人の前では自分がなくなってしまうのは、一つの原因として親子関係にあるような気がします。「安心できた経験はない。」と書いてありましたが、あなたの回答を読んでいるとそう思えてきます。
 ところで、あなたは悩みを何でも打ち明けられる友人、知人はいますか。自己を確立するには、親子関係を改善するのも一つの方法です。しかし、子供の場合はある程度改善できます。しかし、成人の場合はお互い自我が確立しているので、容易にはできません。
 「受け入れられた経験」というのは、親子関係、恋人関係だけではありません。友人関係にも成立します。そのような友人がいない場合には、カウンセリングでも起こります。あるカウンセリングの研修会で、そのような経験をしました。
 幸福にも、そのような友人、知人がいます。悩んだ時には、「ねえ、聞いて、聞いて」と言ってしまいます。
 話が変わって一期一会と言う言葉があります。人間には、七施というのがあるそうです。それは、挨拶をするなどの日常的なことをしているだけで、お布施をしているそうです。一期一会もその一つで、出会った人を大切にするという意味だそうです。
 あなたは、ちょっと気になる人です。それは、どこか自分をあなたに投影していると思います。
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この回答へのお礼

hipotamaさん、ご回答ありがとうございました。

自己分析には2年ほど費やしました。全く一人で。机上で。その後生きた世界で生きた人間との関わりが必要と思いました。少しずつ本当に少しずつですが世界が変わってきた感じです。もちろん変わったのは私なのですが。

親が私を受け止めなかったことで、私は受け止めてくれる人を探さざるを得なくなり、いろいろな人に向かってゆきました。当たり前ですが、親の代わりを求めているのだから相手にする人などおりません。すべて拒絶。人間に対する不信を培うための、といってよいほどの人生でした。仲良くなっても、信頼感が生まれそうになっても、どこかでいまだに「結局は拒否される」「私は嫌われる」と思い込んでいる節があります。このコンプレックスにどう立ち向かってゆくべきか。

ユングを解説する河合隼雄の本を読んで、その手がかりをつかみつつあります。治療の事例を読んで自分に当てはめて回復をイメージしてみたり。コンプレックスが強すぎて自我を抑圧しているというのは当たっていると思います。ある場面になると自分が消える感覚。それは、哀しいぐらい懐かしい感覚でもあるのです。家で過ごした幼い日々の感覚。無意識にあるものを意識化する。劣等感を受け入れる。それが自分の存在をおとしめるものではないと認識しつつ。

ただ、おっしゃるように、実際に生きている人間に自分が受け入れられた、という感覚は、たとえ一回でも、きっととても効果のあるものでしょうね。心を語れる友人はいません。カウンセリングを受けてみたいと以前から考えているのですが、自分に合ったところを見つけるのは至難の技だとか。hipotamaさんはどこか良い所をご存知ですか?

「投影」の引き戻しが必要と河合隼雄の本にありました。質問ですが、恋愛の始まりは少し投影に似ていませんか?全く自分と別な人を好きになることもあると思いますが、自分と共通点を持った人であることもありますよね。これを恋愛あるいは友情に発展させてゆくためには何が必要でしょう?私はこれまでにも書いたように「この人は大切にしたい」「この関係は大事にしたい」と思うほど心に力が入ってしまって、件のコンプレックスが邪魔するようなのです。自分が受け入れられるかということがとてつもない恐怖感を伴って全てに優先してしまうのです。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/25 21:23

誰かが自分を幸せにしてくれなければ幸せになれない。


自分が自分自身を幸せにする。

考え方というのはいろいろとあります。
どれが正しいかというのはよくわからないものですが
意外と自分自身が教えてくれていると思います。
嫌な気分になるか楽な気分になるか。

楽になりたい為に誰かに頼ると,自分自身の中に楽になる為の
力が何もないように感じるようになってしまうと思います。

自分が楽になる為に自分自身に頼る,あるいは信じる。
もちろん、すぐにはそんな方法が簡単には見つからないですが
今までの自分のやり方や考え方を変えることで可能になるのでは
ないかと思います。

誰かに頼ることがいけないことではないですが,もしかしたら
人が離れていってしまう恐怖の為に自分を失ってしまうよりも、
いつでもそばにいる自分自身を信頼することが自分を安心させる
ことに気がつくことです。
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この回答へのお礼

hamakkotarouさん、ご回答ありがとうございました。

ここに質問を載せて、回答を頂いていろいろ考えています。おっしゃるように、これまで、とにかく他人にしあわせにしてもらおうとしてきたように思います。異常なまでに。それは、もらえなかった「愛情」の補償でした。何故あれほどまでに駆り立てられたかというと、そうでもしないと、何故生まれてきたか、何故生きているのか、という問いに答えが出ないからだったかもしれません。必死になって自分の存在を映してくれる鏡像を探していたのだと思います。でも、もう大人です。自分は自分で生きないと。

> いつでもそばにいる自分自身を信頼することが自分を安心させることに気 がつくことです。

そうですね。最近意識的に自分に注意を向けています。少し、効果があるようです。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/26 21:44

 再びです。



 新しい質問があったので、それに答えます。

 どこかカウンセリングの良いところと言うことですが、18歳未満なら児童相談所、教育委員会の相談機関が考えられますが、あなたはそうでないと思われるので、受けることはできないと思います。
 動悸などのパニック障害があるならば心療内科などが考えられますが、それもないように思います。
 そうすると、一般のカウンセリングルームになります。確かに、それも多種多様なので、どれがいいかはわかりません。しかし、カウンセラーのモットーは受容です。「受け入れられた感覚」を味わえるカウンセラーを見つけてください。一度はカウンセリングを受けた方が良いと思います。


 投影の件ですが、ある調査で恋愛感情のカップルが最初会ったときに、顔の容姿が自分に似ているというのがその後付き合う条件になったという論文があります。
 その後、どう長続きさせるかということですが、あなたの場合最初の問題に戻ってしまうと思います。
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この回答へのお礼

hipotamaさん、何度もありがとうございます。

カウンセリングの件、自分で探してみます。

投影と恋愛のことですが、おっしゃる通り、堂々巡りですね^^。

ここ数日間、ここに回答を寄せてくださった方々のことばを読み返し、さまざまなことを考えました。本を読み自分一人で考えているより、数倍大きなものを得たような気がします。私の人生は孤独そのもの。でも、それが私の人生なのですね。孤独なりに、七施や、一期一会とともに生きてゆきたい。少しずつ、自分の中にある恐怖が明確になり、それと対処するために、いつ、どうすればよいかなど、ヒントをつかみつつあります。後は実践あるのみ。そして、自分というものの大きな全体像も、おぼろげながら見えかけてきたかもしれません。いろいろなものから適度に距離をとること。距離をとって自由な自分を、自我がきちんと意識しつづけること。私はすぐに感情やコンプレックスに譲って(負けて)しまうのです。そういう時は決まって母の顔が浮かびます。家の匂いがしてくる。でも、それに足元をすくわれずに、自我がよく監視し、自分をコントロールする。当面の課題は自我のようです。


この場を借りて皆さんにお礼を申し上げます。一期一会。ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/26 21:56

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