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ゼミのときに教授に研究の進捗状況について指摘してもらうのですが、うちの研究室はどうも4回生は教授に反論できないような空気です。院生ぐらいから議論してもいいような感じです。僕は積極的に議論しているはずなのですが言い負かされます。
教授が間違っていることを言ってたら、「僕はその考えは違うと思います」とか、「こうしたほうがいいと僕は思います」と積極的に言うのは失礼なのでしょうか?30年近く研究で飯を食っている人なので納得させるのは難しいでしょうがチャンスはあると思います。どうなのでしょうか?

A 回答 (9件)

 議論すること自体は問題ないと思います。

というよりそもそも課題について教官と議論もできないような学生は「まともに勉強していない」ことを証明しているようなものです。

 ただ、私もNo.4さんと同じく、

>言い負かされます。
>教授が間違っていることを言ってたら
>納得させるのは難しいでしょうが

 というあたりが気になります。
 学問の議論は勝ち負けではありません。共に真実に到達するための知恵の出し合いです。そして議論する時は常に「自分が間違っているかもしれない」ということを念頭に置くことが大切です。

 これは学生の時も社会に出てからも変わらないのですが、特に経験が浅い学生時代は「本当に自分が間違っている」確率はすごく高いです。
 なので"教授が間違っていることを言っていたら"というあたりに危惧するのです。多分質問者さんがそう思っていることの内、8割は実際はご自分が間違っていると思いますよ。

 まあ、学問に限らず「自分は間違っているかもしれない」という謙虚さは何年やっても何歳になっても必要だと思いますよ。
 それは"自信のなさ"とは違います。
 むしろ、自分はいつでも自分の誤りを修正することができるから、自分には真実に到達する力があるはずだ、と信じることが本当の「自信」じゃないでしょうかね?

 私もしばしば忘れそうになりますが・・・
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ふと,疑問に感じました.


「遠慮」,「教授に反論」,「言い負かされます」,「教授が間違っている」,など.人と人との関係にこだわっているように見えます.
研究とはある事実の追求ですから,解釈は人により様々であり,教授であれ院生であれ,学部生であれ,その見解を主張していいのです.対象は相手の人間ではなく,共通に追求している事実です.その意味で,教授,院生,学部生は仲間なのです.敵ではないのです.

「言い負かされる」というのは,自分の間違いを知り納得したのか,単なる口喧嘩のようになって納得せず内向しているのか,どちらですか?
ここはいい加減にして欲しくありませんね.納得できないなら,再度勉強して理論武装して立ち向かって下さい.それが切磋琢磨することができる,冷静な感情抜きの「議論」です.
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>教授が間違っていることを言ってたら、・・・と積極的に言うのは失礼なのでしょうか?


失礼じゃありません。どんどん言ってかまいません。
それにしても「言い負かされる」はないですね。科学的な議論を口げんかと同じレベルで考えているのですか?口げんかは、正しいか間違いかに関わらず、口の達者な人が勝つでしょうが、科学的な議論は科学的に正しい方が勝ちます。科学的な知識が豊富な人が圧倒的に有利ですし、多くの場合、そちらの人の方が正しいです。
敵を知り己を知れば百戦危うからずと言いますが、己をよくご存じでないように思えます。
完全武装の相手に素手で立ち向かうのは痛々しいです。
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もう既に他の方がある程度指摘されていてかなりかぶるようですが、もうちょっとダイレクトに書かせてください。



「教員と遠慮なく議論していいのでしょうか」これは疑問の余地無く、良い、と思います。なんにも言わない学生は指導しにくいのです。どこまで理解してくれたのだかわからない。学生によっては理解以前に言われたことを覚えようとする、この種の学生には「例えばこうする」なんていうと「つねにそうすべきだ」なんて鵜呑みにされたりする。すごく神経を使って話さねばならず疲れて嫌になる。釈然としないなら聞いてもらわないといけない。聞かれたら常に教えるとは限りませんが。(ちなみに私は教員です。)

しかし、たとえば「言い負かされます」というあなたの言葉には大変不安を覚える。議論とは言い負かすとかが目標でやるのではない。議論に勝つために議論するならやめたほうがよい。お互い不幸になるだけ。私だったらそういう姿勢の学生は相手にしたくありません。

「僕はその考えは違うと思います」は言っていけないわけではない、しかし駆け出しの立場でありながらはるかな先達に対しては「こういう考えはどうですか」とかそれなりの言い方があろうというもの。
「納得させるのは難しいでしょうがチャンスはあると」→どうして対決姿勢がそう先立つのかなあ。そんなに自信むき出しにしなくても。。。
教授だって間違えるしあなたが正しいかも知れないが、あなたが天才で無い限り、冷静に見てその可能性は高くないと言うことを自覚すべし。駆け出しのときは専門家に近づいたような気分になっていても、学べば学ぶほどどの道も深く高く遠いことがわかり先達との距離が小さくないことがわかってくるのです。相手を不快にさせず気持ちよく議論するという姿勢が欠けているのではないかと思います。
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頑張って下さい!!



しかし、私の経験から言って教授という肩書きを持った人が、自分の専門分野で議論して学部の学生に間違いを指摘され、打ち負かされるなら・・・下記のような状態しかないと思います。
 1.全くの分野違いで肩書きだけの教授
 2.体調不良で自分でも何を言っているのか分からない不幸な状態だった

 教授と言えど神ではないので、分野が違えばただの人です。

 まぁ~教授に議論を挑むのは、教授も教授冥利でしょうから頑張ってください。 ひょっとしたら大天災( こっちの天才? )と言われるも???
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>教員と遠慮なく議論していいのでしょうか?



私は、それが本来のゼミの姿だと思います。同調よりも「理論は他流試合で深まる」の精神です。ゼミの教授は「師範」であって「他流試合の相手」ではありませんが、「仮想相手」の役割はしてくれるはずです。あなたはぶつかっていく姿勢を持っている、それは私は好ましい姿だと思います。

ただ、心配なのは、

>言い負かされます。
>納得させるのは難しいでしょうがチャンスはあると思います。

という言葉です。師匠を「納得させ」ることを目指すのは「納得」できます。でも「言い負かされる」という状況によっては「議論のための議論にならないよう」と心配する次第です。

若さとは荒ぶる魂をもってこそ、という見方もあります。疑問や理想をぶつけてほしいと願う一方で、「守・破・離」という不易も見つめてほしいと思います。
特に、これから後進を育てる指導者を目指す人には…。
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議論が成り立つのは,双方が対等の立場にいる場合です.つまり,研究者として対等な関係の場合は自由に議論してよいし,すべきです.


この場合に,議論の主張には責任が伴います.例えば,学会に単独で発表できるか,研究者として自立しているかということです.
教授に反論するのはよいのですが,それにこだわると,その教授の下にいる必要はないし,それほど自立した研究者なら,その教授も教える必要は無いので手を引くでしょう.
院生については自立間際でもあり,逆に,反論もできない状態では巣立つことができないでしょう.
教授も人間ですから,間違いもあるかも知れません.そのあら捜しをしたところで,長い目で見ると,研究の大枠さえ外れなければ,単なるエピソードです.自分がまともな成果を出せないのに反論ばかりするのも無意味ですし,反論できるなら一人前ですから,ゼミから辞退して飛び級大学院へ進むか,別のゼミに移ればよいでしょう.
甘えていませんか?
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全然問題無いです。

というかそのくらい議論するくらいが望ましいですし、ゼミとは元々そういうもんです。少しでも疑問があればどんどん反論しましょう。
それが間違っていたとしても、より理解することができるでしょうし、もし疑問が残るようならばそれを元に研究を進めてみるのもいいと思います。さらに同じゼミの仲間にも刺激を与え、さらに教授も「なかなか骨のあるやつがいる」とやる気になってくれるかもしれません。

ただ、かなり性格に問題のある教授ならやめておいたほうが良いです。
そのへんの判断は院生などに聞いて確認して下さい。
世の中には非常にプライドが高く、学生をバカにしてる教授も少数ですがおられるので、そのような教授には逆らわないほうが無難です。
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勝ったり負けたりすることよりも、議論すること自体に


大きな意味があると思います。
意見や考えをぶつけ合うことは、口げんかじゃないですものね。
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