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私自身の経験から演繹できる問題かどうか定かではありませんが、巷でもよく言われていることであり、また、よく他の親子を眺めて感じることでもあり、一般化して考えることもそう無理なことではないと感じています。

なぜ親は子供の心を理解できないことが多いのか?特に幼児から学童でしょうか。

たとえば、私自身の経験で、幼児のころ(6、7歳か)あまり親が頻繁に遊んでくれなかったりしたので、親の持ち物を壊したりして怒られたり、あるいは、極端な例では、旅行中、宿泊先の隣室の留守に忍び込んで、所持品を窓から捨てていたということもあります。

つまるところ、なにかさびしさからそういう行為に及んだのだと感じていますが、「お前さびしいのか」というような声はかけてもらったことがありません。世の一般の親も、子の問題行動に関して、その心の本質と向き合ったような対処をすることはまれなのではないでしょうか。乱暴ならそれだけを戒め、背後にある心の叫びのようなものを感知できない。あるいは、そういう対処対話ができない親なので子供が問題化するという実態もあるのかもしれない(これは親を変えるより出口がないですね)そこまで極端にならずとも、なぜ一般的に、かつて子供であったくせに、自分の子供の心にぴんと来ない親が多いのかといぶかしがっております。こういう洗練度というか、翻訳能力が、なぜもっと一般的になれないのか、単純なことなのにと思うのですが、どうしてなんでしょうか?また、これが人間の不幸のようにも感じます。
しかし、もしかすると、この能力をもし獲得したら、人間界全体を考えるともっと大きな不幸がくるでしょうか?

A 回答 (15件中11~15件)

>たとえば、私自身の経験で、幼児のころ(6、7歳か)あまり親が頻繁に遊んでくれなかったりしたので、親の持ち物を壊したりして怒られたり、あるいは、極端な例では、旅行中、宿泊先の隣室の留守に忍び込んで、所持品を窓から捨てていたということもあります。




例であげている理由をあなたは「親がかまってくれなかったから」と分析していますよね。

ストレスから悪いことをして、イライラを沈めていた と。


私の幼少の体験ですが、子供は残酷 だと思います。

子供の心は天使 というのは嘘。

家の近くに沼があって、そこに子供達は子犬を投げ込んで、子犬が必死になって岸におよぎつくと、また投げ込んでゲラゲラ笑っていたんですね。
私は泣き叫び、やめてくれと懇願しましたが無視されました。


うちの兄は、おおらかな性格ではなく几帳面。
兄のやっていたこと。
蟻をマッチ棒にくくりつけ燃やしていた。
恐ろしい兄の闇の心を覗いてしまい、とても怖かったです。


という実体験からすると、あなたが親のものを破壊していたり、他人のものを壊していた理由は、快楽からだと思うんですね。

寂しさからストレスになったのではなく、他人が悲しむ顔が見たかった。
他人に苦痛を味合わせることが楽しみだったのではないかと。


6、7歳といえば、もう親にかまってもらうことを拒否しだし、親と一緒に遊ぼうとせず、友達同士で遊ぶことを好む年齢ですよね。

幼稚園の入る前から、親離れが徐々に起こり、余暇を親以外と楽しむようになり、家にかえってくるころは遊び疲れてぐったりしている。
満足しているので親に遊んでもらおうと欲望が起きない。


その余暇の過ごし方において、友達がいなかった、友達とうまく遊べない、グループから離れ余暇を親と過ごしたい となれば、それを満たさない親に注目してもらう手段として、一番効果的な方法は破壊すると、親はびっくりして注目してくれるので、注目してもらう手段として、蹴ったり、キーキーいったり、ぐずったりすると思いますが、親の持ち物を破壊するということは、しないと思うんですね。

それは困らせたい 悲しませたい という欲望から起こるのであって、困らせることで自分につなぎとめたい という心理は、子供の頃は起こらないと思うんです。

ストーカーが対象の郵便受けに汚物を入れたり、不気味な電話をするのは、愛情じゃなく<支配>ですよね。

人を誘拐して鎖でつないで「はいご主人様と言え」というのは、愛情じゃなく <支配>ですよね。

子犬の自由を奪っていた子供達。 支配ですよね。
蟻の自由を奪い殺していた兄の心理。支配ですよね。

愛情の欠乏からそれを満たすために、誘拐して監禁してしまうのではなく、人を支配したいからですよね。


他人の所有物を破壊する。
これも支配ですよね。
他人の所有権を破壊する行為は支配ですよね。


そう考えると、自分の心を一番理解していないのは、親ではなくあなたではないのかな・・・って思うんですね。


あくまで参考ですので、「ありえない」と思ってくださっていいです。

この回答への補足

どうも、お世話様です。
ご回答の件もっともだと思います。子供に残酷さがあるのは通例でもありますし実感もあります。

ただ、私はご回答者様の心情に近いあるいは、ご回答者様の性質に近い子供だった気がします。少なくとも、動物をいじめた記憶はありませんし、そんなことを望んだこともないです。そういう残酷さが伴うようなことは嫌悪感を持っていたと思います。

なので、「残酷」ではなく「困惑」を期待したんですね。あるいは、「期待」でなくやはり自分の気づかない心底からの「悲しみ」のようなものがあったのではないかという気もします。

もっとも、確証はないんですが。ただ、漠然と、残酷さはおそらく小さい割合だったし、何かにつけ寂しさはあったでしょう。

補足日時:2007/12/11 21:10
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この回答へのお礼

「ありえない」と思ってご回答されているわけではなく、そうなんじゃないかという予想で書かれたのだと思います。ありえるかもしれない。しかし、どうも残酷が嫌いなんですね。ご回答者さんは、あまりよくないめぐりあわせを実感してしまったんじゃないでしょうか。世のなか、いろいろですよ。実にきれいなものも場所も人もいます。私はそうじゃないですが。

お礼日時:2007/12/12 15:34

的確な回答ではないかもしれませんが、親子の間にも相性というものがあります。


「似ていたら相性がいい」というわけではないのでしょうが、私の次男は性格が私の子供の頃と瓜二つで、次男が何を考えているかは手に取るようにわかります。
良いところだけでなく、悪いところも似ていて一緒にいてイヤになることもありますが、次男も「母親にウソはつけない」と諦めてなんでも話してくれます。
こういう場合は親はさほど努力することなく子供の気持ちがわかりますよね。

質問者の親御さんは日常的に忙しくて、質問者さんとキチンと向き合うことをしなかったのだと思います。「子供の気持ちを理解する」ということを重要だと思っていなかったのかもしれません。私の親だってそんなものですし、今は共稼ぎも多くて、ゆっくり子供と向き合う時間もなかなか持てません。それでも親子関係の良い家族はいます。
翻訳能力、の話をすれば、親から見て子供の側もわかりやすい子供もいれば、わかりにくい子供もいます。
私の長男は「自閉症」なので、子供の気持ちを理解するのに専門書を読んだり、医師や専門家の指導を受けたり親も勉強が必要です。
次男はだから逆にかまうヒマもなかったわけですが、「お母さんは忙しいから言いたいことがあればはっきり分かりやすく話してちょうだい」とお願いしていました。
私は結論のない話をだらだらされるのが嫌いで、そんな私にみっちり仕込まれた息子は、幼い頃から自分の曖昧な感情すら説明することができるようになりました。
(それは学校でも役に立ちました。立派な発表ができるし、作文も賞をもらったりします)

だから、質問者様がまた親の立場になったら違うかなぁ、と思います。(まだ子供の立場でお話しているようなので)
子供も親に理解してもらうための表現力を持っていたほうが得だと思うのです。所持品を窓から捨てても、親は子供の気持ちなど分からないでしょう。親は完璧な人間ではないし、超能力者でもありません。

親の立場を理解する、ということも必要なのではないでしょうか。これだけ立派な文章が書けるのですから、一面からでなく、もっといろいろな角度から物事を考えることができると思います。
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この回答へのお礼

私自身親になるかどうかわかりませんが、なったとたんこういう妄想状態が解消するのだろうかという意味も込めて質問しております。ご経験談、たいへん納得できますね。特に「相性」ですね、なんとめぐり合わせの悪いことかというような事態が起こるのか、全くろくでもない世の中だと感じることもあります。想像性の限界というものは常について回る。次男は理解できるが長男はという実感。ラグビー嫌いなのに無理してやっても上手くなりませんからね。好きなゴルフなら大丈夫でも。

言語化の問題ですが、それの得意な人も言えれば、言語感覚両方とも苦手な人もいて、困ったものです。しかし、論理化し言語化するに越したたことはありませんから(以心伝心の方が通じることはないだろう)ただ、恐ろしく難しい作業ですよ。おそらく「相性」のいい次男だからわかるのではないでしょうか?子供の言語能力は幼児学童前期はかなり厳しいですから。

親の立場を理解できる余裕と感情的つながりが養われれば、万々歳でしょうかね。

お礼日時:2007/12/12 15:31

 まず、三歳頃までヒトは自己と他者(環境)の区別のない世界に生きている訳です。

それが発達とともに自己と他者が弁別され、さらには四足歩行するもの総てが「わんわん」だったのが犬や象と区別されてゆくように、他者もまた細分化され、さらに成長することによって自己と他者、他者同士を結ぶ意味というややこしいものまでヒトは獲得します。
 で──、幼児の行動はどれだけ自覚的なものなのか? といえば、彼らは意味を、それ以前に十分な語彙を、それどころかわたしたち同様の自己すら獲得している訳ではないので、自分が知覚(認識ではなく)している状況を論理的に表現することはできない訳です。つまり、幼児の「心」は言語や意味を獲得してしまったわたしたちの「心」とは同じものではない、ということになります。カエルとオタマジャクシの関係のようなもので一度カエルになるとエラ呼吸には戻れなくなるようなものですね。
 ですから、同じ行動を幼児がとったとしても、解釈する者によって幼児の「心」はそのつど作りだされ、その解釈に基づいて大人は抱きしめたり乳を与えたり遊んでやったりという行動を起こし、時にはそれが当たり機嫌を良くし、時には外れて大泣きされて首をかしげるということが繰り返されるのです。
 そこであなたは幼児の「心」に寂しさという(多分に自己の状況を投影した)解釈を与えた訳です。もしかしたらほかの人は退屈や空腹という解釈をしたかも知れませんが、これもまた正しいのかどうかはむずがりが解消されるまでは当の幼児さえも分からないというものではないでしょうか。
 で──、幼児のように世界を感じる能力の獲得を、自己や他者、言語や意味の喪失を意味していると考えれば、人類総凶悪犯罪者ですね。幼児は小さくて無力ですから可愛く感じられますが、大人の大きさと腕力そして道具を使う能力を有した幼児なんてものを想定すると──B級ホラーの世界ですね。
 大人であるってことはそう悪いものではないのですよ。
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この回答へのお礼

確かに、幼児は動物と人間の中間存在でしょうね。しかし、なにか「犬」に対しての素直な接し方じゃないものを、人間にしてしまっているのではないかという危惧があります。もちろん責任感が違いますけど。妄想といえばそれまでなんですが、すごく泣き叫んでいる子供を見ると「悲惨だなぁ」と感じますね。あの子は、大人から見ると些細なことが、どんなにか悲しく苦しいんだろうと。

お礼日時:2007/12/12 15:26

確かに大人は以前は子どもだったはずです。


親子は付き合った時間が長いので、赤の他人同士よりは分かりあえるでしょう。
でも『同じ子ども』ではありません。
生まれ育った環境も違います。経験した出来事も違えば、心身の成長だって異なります。

ただ単に昔は子どもだったから、親子であるから、という理由だけで心を理解できるとは思えません。

特に物心つく前の子ども相手だと、自分にその当時の記憶がないので経験による対処もできないですしね。

>なぜもっと一般的になれないのか
これの云わんとしているところがよく分かりませんが、本質と向き合うというのは個々との対面なので、一般概念が持ち出せる様なものではないと思います。

では質問を変えて見ましょうか。
「人間の心を理解できないのはなぜか?」
『同じ人間』なら人間の心を理解できてもおかしくないと思いませんか?
理由は『同じ人間』ではないからです。
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この回答へのお礼

確かに、「違う」人間なんですね。しかし、それが理解できないとかしなくてもいいとか想像力の限界とか、そういうこととはまた違うのじゃないかと?つまり、柔軟に自他共に成長するかてなのではと感じるんです。もっとも確かに困難で才能を要するかもしれません。

お礼日時:2007/12/12 15:23

「戦争の傷跡」なのかもしれません・・・。



戦後、大人たちは「子供にだけは、辛い思いをさせたくない」と「呪文のように唱えて」生活をしてきました。

同時に、世の中に「便利なもの」がいっぱいできてきて、「障害者」のために作られたものを「健常者」が「楽をするために」使うようになってしまいました。

「教育」の面から見ても、「暗記力を競わせているだけ」の「心が伴わないもの」になってしまっているようです。

これでは、【人間らしさ】(会話をし、笑い、泣き、他人の痛みをわかり、他人を助け、他人と協力し、創造してゆく。)は、育まれないでしょう。

今頃になって、「苦労は、買ってでもしろ。」と、口先だけで言われても、若者は相手にしないでしょう。

たいへんな、「教育問題」だと思いますね

「人を育てられない大人」が、増えてしまいました。
このままだと日本は、「ロボット人間大国」になってしまうでしょう。

国民全員が「考えなければいけないことだと思います。」
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この回答へのお礼

私も、歴史的(特に日本近現代史)と切り離すことはできないと考えます。そういう意味で、悲劇性をもった歴史です。仮に、違った歴史があって、完全植民地化共産化かわかりませんが、劇的に社会情勢が変わり価値観が変わり、エコノミックアニマルの美徳ではない社会だったら、違うのではないでしょうか。
実際は、豊かさ、便利さ、経済力それを道理とか自衛とか筋の通ったこととかいう事に優先させてきた。もちろん、それは立派な選択だが、一方で死んでゆく価値観もあった。そのひとつが、心の対話なんじゃないでしょうか。ウェットな情緒それをもっと強調する社会が必要でしたね。

お礼日時:2007/12/12 15:21

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