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私自身の経験から演繹できる問題かどうか定かではありませんが、巷でもよく言われていることであり、また、よく他の親子を眺めて感じることでもあり、一般化して考えることもそう無理なことではないと感じています。

なぜ親は子供の心を理解できないことが多いのか?特に幼児から学童でしょうか。

たとえば、私自身の経験で、幼児のころ(6、7歳か)あまり親が頻繁に遊んでくれなかったりしたので、親の持ち物を壊したりして怒られたり、あるいは、極端な例では、旅行中、宿泊先の隣室の留守に忍び込んで、所持品を窓から捨てていたということもあります。

つまるところ、なにかさびしさからそういう行為に及んだのだと感じていますが、「お前さびしいのか」というような声はかけてもらったことがありません。世の一般の親も、子の問題行動に関して、その心の本質と向き合ったような対処をすることはまれなのではないでしょうか。乱暴ならそれだけを戒め、背後にある心の叫びのようなものを感知できない。あるいは、そういう対処対話ができない親なので子供が問題化するという実態もあるのかもしれない(これは親を変えるより出口がないですね)そこまで極端にならずとも、なぜ一般的に、かつて子供であったくせに、自分の子供の心にぴんと来ない親が多いのかといぶかしがっております。こういう洗練度というか、翻訳能力が、なぜもっと一般的になれないのか、単純なことなのにと思うのですが、どうしてなんでしょうか?また、これが人間の不幸のようにも感じます。
しかし、もしかすると、この能力をもし獲得したら、人間界全体を考えるともっと大きな不幸がくるでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

いわゆる超自我性を会得させることが親の義務であるということと、その超自我性に関して明確な指針を人類が未だ持ちえていない、ということだと思います。


つまり、絶対的な善、あるいは絶対的な悪とは何かということについての解が出ていないから。

狼少年の例(事実か否かは別問題として)のように、生まれてから一度も人の手をかけないで育った子供に超自我はおそらく育たないものと思われます。
超自我を育むためには(本能あるいは自我に対する)何らかの禁制・規制が必要になります。
ただ、子供の欲するままに答えていたり、逆に締め付けのみであったり、あるいは放任(放棄)するままでったりすると適正な超自我は育たない。
超自我の実体はわかりませんが、基本的にはこのように言うことができると思います。
この禁制・規制を与える役目は親が担うのが通常でしょう。
幼い子供の心(正確には脳神経作用、または記憶と言っても良いでしょうが)は柔軟な粘土のようなもので、如何ようにも変わり得ます。
(無論、ある程度の限界はあるでしょうが)

親も同じように様々な禁制を受けることによりそれぞれの超自我を確立してきたはずで、それが俗に言う価値観の違いといったことになるでしょう。
そうすると、子供に対する超自我の育成(くだけた話が躾ということですが)も、親自らの超自我性に基づいて行なわれることになります。
親は自ら受けた禁制を(どんな形にせよ)乗り越えて(糧にして)現在の超自我を保持しているわけなので、「子供の不幸」はあくまで「子供としての通過儀礼」にすぎない、という認識に立つ場合が多いのではないでしょうか。
つまり、忘れているわけではなく、過ぎ去れば大したことのない事案に過ぎない、と考える(あるいは感じる)ということでしょう。
しかし、全てがそうではなく、「大したことのある」場合も非常に多いというのが実際のところ。
泣いて涙を流す体験が必ずしも良くないとは言えないでしょうが、客観的な理不尽さに基づいて繰り返されるようであれば重大な結果を招くことになるのは容易に想像できます。
この場合も、親の超自我性に基づいてそういった状況が作り出されているわけで、ここで要求されるのは、自らを疑ってみる勇気ということが言えるでしょう。
子に対する虐待事件で、「躾のつもりだった」という親のコメントが記事になることがありますが、これは言い訳というよりは本心である場合が多いのではないか、と私は考えています。

>子の問題行動に関して、その心の本質と向き合ったような対処をすることはまれなのではないでしょうか。
:「問題行動」が起きるのは普段の親の接触姿勢に問題があるからに相違ないわけで、「心の本質と向き合ったような対処」をするためには、親と自分自身と向き合う必要が出てきます。
それが辛かったり、あるいは忙しかったり、などでおろそかにされがちだ、ということではないかという気がします。
ただ、結果的に「子の本質」と向き合えなくても、「子」と向き合おうとすることは親自身が変革の余地を自ら前提としていることになり、それが子にとっての大いなる励みとして記憶されることはあり得ると思われます。
変革するには勇気が必要ですし、それを自分のために行使しようとしてくれたということにいつか気づくこともあるでしょうから。

>もしかすると、この能力をもし獲得したら、人間界全体を考えるともっと大きな不幸がくるでしょうか?
:現段階では理想的結果より思い浮かびません。
ただ、程度問題ではあるのですが、本能レベルで、理解してもらえないことへの抵抗力が弱体化する可能性はあるかもしれません。
その場合は、自我レベル、あるいは超自我レベルでそれを解決できるような脳の仕組みになれるか、といったあたりが焦点になりそうですが。
 
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この回答へのお礼

たいへんよくわかります。
抵抗のないところ筋力はつきませんからね。
世の中矛盾で成り立っているというのは事実で、でもそれで上手く機能しているのです。
が、もちろんその中でも有害なものもあって、これらはシステム上廃棄され除外される。しかし、もしかすると根本的な問題がなおざりになれているのではないだろうか、あるいは、人間には解決不可能なことなのではないだろうかというのが、この問題です。つまり、

「心がわからなくたって、生物的に親になれる」
「結婚の届けをしなくたって、両親になれる」
「殺人罪に問われなくたって人を殺せる」
・・・

法というものの限界性、人間(ホモ・サピエンス)への適用限界と適用範囲の検証というものを分けて考えないといけないのでしょう。

しかし、所詮法は法で、それだけです。人間に迫っているところなどわずかです。心を豊かな生物として社会的存在になれるかというところで、歴史上一度も成功していない。つまりそれをユートピアというのではないかと。

お礼日時:2007/12/19 13:27

#12ですが今読み返してみたら気になる箇所に誤字があったので訂正させてください。



×「心の本質と向き合ったような対処」をするためには、親【と】自分自身と向き合う必要が出てきます。
            ↓
○「心の本質と向き合ったような対処」をするためには、親『が』自分自身と向き合う必要が出てきます。

失礼しました。
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この回答へのお礼

本編を読ましていただいて、わかっておりました。
訂正ありがとうございます。

お礼日時:2007/12/17 08:37

#2です。


>しかし、それが理解できないとかしなくてもいいとか想像力の限界とか、そういうこととはまた違うのじゃないかと?
理解できないとも、理解しなくてもいいとも言っていませんよ。
理解する必要がありますし、理解できた方がいいに決まっています。
理解できる範囲でしか理解できず、理解できないことまで理解しろというのは無理ですけどね。

あなたの旅館の例だって、あなたは自分のことですから寂しさゆえの行動だとわかりますが(それでも自分自身でさえ「感じる」程度にしか自分を理解していない、しかもそれは大人になったあなたの分析ですよね?)、親からしてみたら単なる旅疲れによる不機嫌なのかと思うでしょうし、あなたは頻繁に遊んでくれなかったと言いますが親は頻繁に遊んであげてたと思っていたのなら「さびしい」という結論には達することはできません。
その上、した行動はどこの親であっても原因究明より咎めることを先にするでしょう。
それに単に戒められただけなのですか?
物心付く前後だから、その後の親さんの態度の変化を忘れてしまったのではないのですか?年齢が低いゆえに気付けなかった可能性もあります。

当時を振り返り、旅館で隣室に忍び込んで物を放り投げたと聞かされたときの、今になってあなたの親さんの心の悲痛な叫びを感じることはできますか?
なぜこのようなことに…と悩んだことでしょう。

ただ言えるのは「親は子どものことを理解して当然」というように一方的な理解を求めるのは子どものエゴです。(ゆえに子どもなのですが…)

>かつて子供であったくせに、自分の子供の心にぴんと来ない親が多いのかといぶかしがっております
これも子どもの主張だと思います。
あなたがお幾つかわかりませんが、今の幼稚園児、小学生、中学生、高校生の心がぴんとわかりますか?
かつてあなたも幼稚園児、小学生、中学生、高校生だった“くせに”。
もっと年齢差が開いてしまう親子ではどうでしょうか?
それとも時間さえ共有できれば理解できてしまうのでしょうか?

相互理解した範囲でしか理解はできません。
あとは親子関係を通じて(あなたのいう柔軟な成長です)相互理解を広げていくしかないのです。
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この回答へのお礼

すべては憶測でしかない、しかし、それにもレヴェルがあって、有効性が出てくるところとまるで滑ってしまうものがある。なにか、ボール投げで90メートルの人も7メートルの人も同時に存在するように。そんな世界もあると思います。

お礼日時:2007/12/19 13:20

世界が子供のペースに合わせていないからです。



欧米では赤ちゃんは「he」でも「she」でもなく、「it」と呼ばれるんだそうです。動物と同じという事らしいのですが、大人のルールではこうなんだよ、という事を子供自身が理解して初めて「he」「she」と呼ばれるのだそうです。

私自身、子供はきちんと躾をしないといけないと思いますが、(でないとモンスターチルドレンになってしまう)
子供の目線で声をかけてあげる事も必要だと思っています。
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この回答へのお礼

子供のペースにあわさないのが政治ですからね。子供問題さえあわさないのです。底まで人間いかれていると思った方がいいです。それが善か悪か、その一方の実験はいまだなされていないだけです。

お礼日時:2007/12/19 13:21

No.5です。



>「困惑」を期待したんですね

困惑するってことは、親が困ることを期待したってことですよね?
自分がやったことで困らせる=相手は自分に注目せざるを得ない情況になる → 親を自分にひきつけられる ってことですか?

うーーーん。
理論上はわからなくもないですが、かなり特殊だと思います。
親が理解できなくても当たり前。

普通考えて、相手の所有しているものを奪う・破壊する行為は、相手にダメージを与えるためだと思うんですね。


例えば相手が大事にしている物を壊すとか、相手の愛するペットを奪ってどっかに捨てるとか、相手じゃなく相手の愛しているかけがえのない子供を奪って殺す とか。

これらの破壊行為は相手に苦痛を与えるため ですよね。
本人より、その子供を殺したほうが、その人が生きている限り苦しみ続けられるので、本人を殺すより痛めつける効果が高いわけです。


呪いの藁人形ってありますが、殺人をせず、その人の分身として人形を痛めつけることで、せいせいしようとする心理。
相手の物を破壊するというのも、身代わりとしてみたてている可能性がある。
それが身代を殺して満足できなくなるまでになると、、、、、。


本人を殺してしまうと、もう本人はいないので苦痛を与えられなくなる。
相手の存在がイライラするので、殺すことでイライラが消えたらそれっきりなのですが、ダメージを与えることを快楽だとする人だと、殺さない。

殺してしまうと楽しみがなくなって自分が困るから、本人の身代わりを立て、本人の者だったり子供を殺したりする。

だと思うですね。

愛情を求めて破壊しているんじゃなく、怒りでひきおこっていると思えますが、あなたの場合 その怒りの発生原因は愛情の渇望だとあなたは推理している。
確かにわからなくもないですが、やり方間違えています。
そういうことされると、普通は攻撃だと捕らえます、その深層心理に愛されたい 注目されたい 孤独感が潜んでいるとは思わない。


孤独感により暴走する時は、破壊行為はせず、叫んだり泣き喚いたり、訴えたりします。

それが満たされないと、あるとき見切りをつけ、憎しみになり、相手の大事にしているものを破壊し、相手を痛めつけるようになる。
だから、破壊行為になった段階の時は、愛情をもう求めていないと思うんですね。



マズローだったと思いますが、、、、
乳児期に自分以外の世界を親と接することで体験するんですね。
発達に必要な段階で、その時うまく発達すれば、自分以外の人間に対して信頼を築く。
この発達に失敗すれば不信です。

幼児期になると、安全に対する欲求が起こり、お母さんの姿が見えないと、泣き出す。
でも、その頃から家庭以外の世界とも接するようになるので、お母さんに執着せず、友達と一緒にいるということで安全の欲求は満たされるようになる。


発達は人によって速度が違うし、お母さんも近所の人と接しない環境であれば、子供も外部と接しなくなり、せっかくの成長のための環境を提供できず、おかあさんの後を追ってばかりいるようになる。

こういう状態だと閉塞感から虐待が怒りやすい。
でも、子供が親を虐待するって、、、、閉塞状態の弊害。。。うーーん。


ボーダーラインというものがあります。
見捨てられることに異常なほどおびえ、自分を保護する対象を獲得するため、弱者を装う。
「あなたが側にいてくれるから生きられる、貴方無しでは生きられない」と相手が去ることを拒む。
別名トラブルメーカーで、まわりといざこざをすぐ起こし、その人が獲得した保護者は、消化に奔走する。
ある意味、依存関係にあり、トラブルを起こし続けられなければ、保護者も自分の存在価値を見出せず、もちつもたれつの関係だったりする。

ところが、その保護者をも攻撃対象にする。
突然保護者は保護していた相手にグサっと刺されるかのような痛烈なダメージを受けるわけです。

そこでやっと正気になり、操られていたと我に返った時は もう相手の雲の糸にがんじがらめ。
逃げ場を失い自殺する。

だから、ボーダーラインだと思える人に捕らえられている人に相談を持ちかけられたら、唯一のアドバイスは、「相手が接触が不可能なところまで逃げ切れ」 しかない。
逃げ切れなければ死ぬ。


こういう性格になってしまった原因は、子供の頃 親から十分愛されていなかったからとも言われますが、私は愛されなかった子供が大人になって人を滅ぼすようになると思わない。
発達の失敗じゃあないと思うんですね。

個性だと思います。
親の遺伝も影響を与えているかもしれない。
情緒不安定な子の親も情緒不安定な場合が多いから。

よかったですね。
あなたの場合、困らせることで相手を自分の手元においておくというタイプじゃあない。

ただ、一歩間違うとこうなる危うさは持っていると思えるんですね。


<相手を困らせる>か・・・  うーーん。

死の棘 って映画みたことあります?
ご主人が浮気をしたことで、タガがずれてしまった主婦が、どんどん壊れていって、ご主人は妻がこうなったのは全部自分のせいだと、精一杯尽くすんですね。
でも、奥さんは許さない。
奥さんは最後ににやりとしながらこう言うんです。
「一生困らせてやる」って。
特殊なご主人に対する愛情表?

これがあなたの子供時代の心理だったんでしょうか?
やはり特殊です。
親に気づきを求めてもそれは無理というもの。
そして、かかわりつづけさせるだけじゃなく、相手の大事なもの 相手の所有物を勝手に破壊する行為は、相手に対する憎しみだとやはり思います。
愛情を求める心の裏返し というのじゃなく憎しみから破壊行為をしたと思います。
そこには愛情を求める気持ちは無かったと思います。

まあ 子供だったから つい~ で許されるので、気にしなくていいんじゃないかと。

あくまで私の感じたことですので、参考にもならないかもしれません。
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この回答へのお礼

結局は、諦めを付ける、その人その人を健康的にレッテルを貼る。自他を区別できること。それが幼児にも実は求められるんです。

お礼日時:2007/12/19 13:28

「この能力をもし獲得したら、人間界全体を考えるともっと大きな不幸がくるでしょうか?」



多くの人が子供の立場だけではなく、他人の立場になって物事を考えられるようになれば、今よりも良い世の中にはなると思います。

ではなぜそれが広がっていかないのかを考えると、さまざまな問題に突き当たります。ここでは本旨ではないので避けます。

「子供の心を理解できないのはなぜか?」

親が子供とは別の人格であるというのはひとつの答えだと思います。しかし、似たような人格である場合も考えられますし、親自身の子供の頃の体験があるのではないかとも思います。

ただ、親はもう子供ではありません。今までに蓄積されてきた経験に基づいた大人の心で子供を見ます。大人の心で自分の幼少をふりかえって子供を見ると思います。そこに、感性を鈍らせる何かがあるのかもしれません。

この回答への補足

>ではなぜそれが広がっていかないのかを考えると

これが、実は質問で教えていただきたい点なのです。「理解できない」ことが結構ある?のはなぜか?

補足日時:2007/12/12 15:16
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この回答へのお礼

親の立場というやつですね。社会的に生きながらえねばならない立場、守っていかなければならない立場。それに疲れ果ててしまったのか。しかし、その中でもスイッチのオンオフみたいに、あるいは「犬」に接するみたいに穏やかに子供に接することができる能力がないものか、そのくらい実はみんな持っているのだと思えるのですけど。

お礼日時:2007/12/12 15:49

親になって初めて親をすることになるから。


親にされていないことは、手探りで自分で学んでいくこと。
親業とか地方自治体が親になる人たちの講習会を設けても、家庭という場の閉ざされた環境こそ、ひとくくりにできるものではなく小さな格差がうめようもないことから孤立性を深める。

自身の成育暦意外に学ぶ場が少ないので心情の理解にまで行き届かない。ましてや、近頃こそ、保育園の送り迎えをする父親が増えたといっても、
実のところは二人で子育てができる環境は、職場理解がないと難しい。
母親をささえる父親、人の話を聞く時間をとる男性ふえるならこれからは変わっていくのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

社会の殺伐化?もありますね。便利で気の利くように見えて、実は空虚なものがないだろうかと。なにか、そういう小手先の問題ではないと思うんですね。一体人間を作っていくものってなんだろうと感じてしまいます。

お礼日時:2007/12/12 15:45

別に親が子供の本質を見抜けない訳ではないですね。

見抜ける人も多々居ます。
ただ自分の子供だから都合の良いように解釈してしまうという事なのではないでしょうか。
自分の子供に変なDNAなどないと言いたいわけです。ですがちゃんとその親に存在する因子を受け継いでいます。
皮肉なものです。ですがもし親がその因子が在ると認めて行動出来ていればそうとう変わっていると思いますね。
例を言いますと亀田親子だと思いますもはや説明しなくてもよいでしょうw
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この回答へのお礼

自分を省みること。それが欠けてきたんじゃないでしょうか。「省」って毎朝清書しなければならない親が多すぎかもしれません。

お礼日時:2007/12/12 15:47

まさにごもっともな内容です。

読んでいてい共感します。問題点としては親が子供を物扱いしているという現状があるでしょう。
子供は親の付属品とその様な感覚で育てているのではないでしょうか。
ですから子供がなにかしでかしても「なんでこうなるの?」という発言ばかりです、つまり「なんで自分の思い通りに動かないの!」と言いたい訳ですもっと翻訳すれば「楽をしたいから自分の思い通りに動け」という訳です。
その例を言いますと、
・子供をかわいらしく着飾らせるりかちゃん人形型
・物を与えて満足させるペット扱い型
・話のネタや世間から「立派に育ったね~」と言われたいが故に育てる自己満足型
・優秀に育って欲しいとばかりに育てるトロフィー化育成型
などが挙げられますまあなんというか物的ですね
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この回答へのお礼

実に、納得できるお考えですね。
えげつなく言ってしまうと、たぶんにそういう要素はあると思います。食い違いとか、時代とかそういう繰言でなく、根本には怠惰とか傲慢さがあるだろう。もっとも、そういうものがないと、社会生活が成り立たないこともあるでしょう。
「なんでこうなるの」というのは、なにか現代的な非常に殺伐としたものを感じますね。「そう、こうなるのね!悲劇ね!でもお母さんももっと柔軟になって価値観転換してあなたと共鳴するようになるわ」「俺の行き方がお前に反映されて苦しんでるんだな。そうか、じゃあ人生できる限り変えてみるよ」という父母が必要なのかもしれない。

お礼日時:2007/12/12 15:43

質問者様、兄弟がいなかったり豊かに育てられていませんか。


親は親なりになやんでいますよ。

うちは自分ではその頃まあ普通だと思っていましたが、経済的には上を見たらやはり豊かな友人はいて今から思えば豊かではなかった。それでも親は親なりに教養なんかはつけさせたくて、親なりに心は豊かにしたかったのかもと思わせられることもあります。

私は、子供心に母親が言葉にしない繊細な部分で余裕のなさを見せると
 親って大変。
って幼稚園の年長のころおもってました。だからっていい子でばかりいたわけでもないですが。

本当に困ってる親の子供はいい子になったりもしてませんか。お母さん命みたいに。
それしか生きて行く術はないみたいに。

洗練度も翻訳能力も大人社会でもまれているうちに疲れて余裕がなくなってしまうのでしょう。

今、中学生向けのベストセラーの本はみんな親がわかってくれない子供の心情物が多い気すらします。
でも、子供だって一歩外に出れば、傷つくことだって多くてって言ってくれる感じさせる大人にあったことはありませんか。
やはりわかって欲しいならわかって欲しいことは何なのか言葉ではっきり言ってというのは他の方に同感です。

私は同年代の人の書くものですらこの人と私は宇宙人のように感性が違うと思うことすらあります。

そして子殿の痛みを感知してだれかに相談しても

 彼らが探っていく道ですいろいろいわずに見守 りましょう
  
ってスタンスが親だといわれたりもします。

子供であったくせにまでの言い方ができることが
自分が欲しいものは相手も欲しいのかも(お互いの理解)と思えないことが若さと傲慢さにまで感じられ
私もたくさんな人に許し許されてここまできたけど
この人もたくさんの人をあきれさせて許してもらっているのだろうと思わせます。これ読んで余計なお世話とか、ヒステリー起こさないでね。
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この回答へのお礼

こまやかな感性をお持ちのようです。幼稚園で大人の痛みがわかるというのは証拠ですよ。また、理想的にはそうでなきゃいかんとも思うわけで、また当然ながら、親がかつて子供であったことを思い出して、その痛みをわからなきゃおかしいと思える。

社会で「もまれ」ているうちに、硬直してしまうというのは、マッサージの逆効果ですかね。それは冗談としても、そんなに人間を枯らしてしまう社会がいいはずはない。それとも「自己責任」なのか。やっぱり社会歴史個人トータルの問題でしょうかね。

自分のほしいものは相手もほしいのだろう、というのが、どうも違うような気がする。ここに限界性がありますね。この食い違いが大きいです。これを補正する大きな心が大事なのでは。

お礼日時:2007/12/12 15:39

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