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1室町時代から戦国時代に関する小説や現代語訳された古文書などに「土岐山城守手勢五騎」などと出てきます。
この場合の五騎とは馬に乗れる身分の上級武士の数でしょうか。また一騎につく下級武士や雑兵の数は、地域によって異なるのでしょうが、何人ぐらいいたのでしょうか。
2江戸時代千石未満の旗本でも「近江守」のような官職名を持った人がかなりいたようですが、この場合官位は従五位の下などに相当する程度のものだったのでしょうか。だとすると、同じ官位を持った小大名と同格だったのでしょうか。旗本が詰める江戸城での部屋は帝鑑の間ではなと思いますが、同格だと廊下で小大名とすれ違ってもお互い会釈で済ませていたのでしょうか。言葉遣いなども同等だったのでしょうか。
わかる方、ご教示ください。

A 回答 (2件)

1)についてはNo1さんの言われる通りです。



2)についてですが、江戸時代は武士の身分の上下は
「位階の上下、位階が同じなら叙任された先後」
で表現されていました。たいていの場合は「位階の上下」と「禄高(石高)の上下」は一致しますが、そうでない場合もあります。

旗本が受領名を名乗るのは「諸大夫」(しょだいぶ)になった場合です。この場合、自動的に「従五位下」の位階を得たことになり、自分の好みの
受領名(**守)
または
官途名(織部頭、主殿頭、兵部少輔など)
を申請します。老中の受領名と重なるなどの「抵触」があると申請を却下されますので、事前に「抵触」がないか調べて申請します。

大名と旗本の上下関係ですが、原則として「位階」が基準になりますので、
「従五位下の大名と従五位下の旗本は同格の儀礼を交わす」
だけではなく、
「従五位下の大名は、従四位下の旗本に敬語を使う」
こともあります。

例えば、忠臣蔵の
浅野長矩(赤穂藩5万石)は「従五位下 内匠頭」
吉良義央(4千石の旗本)は「従四位上 左近衛権少将 上野介」
ですので、大名である浅野は旗本である吉良に敬語を使い、吉良より先に礼をしなければなりません。

忠臣蔵を描いたドラマなどでは、吉良は悪役とされますから、若造の浅野に傲慢な態度で接し「内匠頭どの」「上野介さま」と呼び合います。
誤解する人が多いようですが、これは「吉良が傲慢な性格で、浅野に儀典を教える立場だから図に乗っている」ではなく「吉良の方が位階が高いから」で、「当たり前」のことなのです。
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この回答へのお礼

目からうろこです。よくわかりました。大名といえども大身旗本には身を低くしなければならなかったんですね。両方とも将軍家の家来とはいえ、大名が石高の低い旗本に礼を尽くすのは、大大名でも身分の高い貧乏公家に頭を下げたのと同じだったんですね。懇切な回答感謝します。

お礼日時:2008/01/12 20:43

1.何騎というのは馬に乗れる身分のものです。


その下につく人数は身代にもよってちがいますが、5人くらいから30人くらいまで幅があります。(場合によっては主人のほかに馬に乗れる家臣がいたりしますから。)
2.江戸時代幕臣で「近江守」のような受領名を名乗るのは、それなりの役職についた場合で、数百石でも受領名を与えられことはよくありました。この場合はあわせて従五位下の官位も叙任していますから大名とも同格です。
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この回答へのお礼

早速のご回答を頂いてありがとうございます。我が家の近くに地頭の居館跡があり、文献を見ていると「予章記」に「土岐山城守浮穴郡徳川城主手勢五騎」が与力したと書いてあり、人数が分かりませんでした。この度の回答ですっきりしました。
万石大名が数百石の旗本と同格。大名はどんな気持ちで接したんでしょうか。身分の厳しい江戸時代が思いやられます。

お礼日時:2008/01/12 16:39

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