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死ぬ

そう考えた時(または、そうなった時)大抵の人間は生きた証。自分が生きてきた証。

そんなものが欲しくなりますね。


質問
自分だったらどんな生きた証を求めるか。
(ないなら別に答えて頂かなくて・・・でも、なるべく考えて欲しい)

質問
納得できるような死の受け入れ方とかありますか?

A 回答 (17件中1~10件)

>質問


自分だったらどんな生きた証を求めるか。

生きた証は死んでからも残るもの。存在の死後進行形?ですよね。

生きながら死を受け入れる準備がなくても「死ぬこと」は普遍的にどんな生物にも平等に可能なので、一切受け入れられなくても大丈夫です。

存在は、意味や理由に先だって存在してしまっていて、多くの意味というものも善いなら後付けで、なくても不便ではないもの。
存在より先だって悪い理由があるものにしか意味を探す必要がないものだから。

人生の価値には
  ○どう生き、生前何を残したか、という能動的な側面と
  ○どれだけ生かされて死後も想われているか
                    の受動的な側面が見てとれる。

死後には想われ具合でしか主体が働くことは出来なくなり(イエスの磔刑でも一緒に十字架に掛けられた他の二人の名前を覚えている人は少ない←私も知らない)ずっと多く想われてしまったからイエスは証明をした人ともいえる。人生の受動的側面が大きかった、というより形ではないけど、証として残った「人生の総体」が「想われている、死を惜しまれている」である?

波乱万丈伝や美談の豊富さ、そして長生きできた充実した人生でも、次の世代のお荷物になればむしろ「死ぬ価値」もなくなってしまう。
人生を謳歌した人は、「ご苦労様でした。安らかに眠ってください」と死後まで頼りにされたり、惜しまれることはないでしょうし。

死を理解出来るぐらいまでに成長した子供より早く死ぬとか、幸せの絶頂で、それでもまだ期待されてた未熟な内に目立つ死に方すると、誰からも死を惜しまれ、永く想われる、多数に恨まれるも強く想われるの異形であるかも。
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誰かを愛せば、子供を作れば良い。

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この回答へのお礼

皆様回答有難う御座います。

個人的に参考になった回答にポイントを贈呈させて頂きます。

お礼日時:2008/03/12 09:17

人の過去をわざわざ探って


陳腐な嫌味を言う人間に証は必要ないかもしれませんが

こうやって、
インターネット上になにかを書くことだけでも
十分、生きた証になると思いますよ。

何かを残そうと思うのであれば、媒体も一般的な価値も
関係ないことでしょう。もちろんどんな人でも。

歴史に名前の残らない人々が、歴史を築いてきたのですから。

納得できるような死の受け入れ方は、十分、死ぬまでの時間があるなら
やるべきことはやっておくってことですかね。

納得できると言うことなので、
死に何か自分で理由をつけておくといいかもしれませんね。
これこれこういうわけで、自分は死ぬことになった。
それでよし。と。

それは人それぞれ違うことでしょう。
個人の神話ですね。
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生きた証


か。。。

なぜ生きた証を残したいのか
生きた証を残す価値がある人間であるかどうか
生きた証を残す価値のある人間とは一体どのようであるか
そういうことを考えたことはあるだろうか
その証は後世に生きる人に何を伝えようとするのだろうか
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通常、生きた証というのは子供や孫といか自分の子孫が居ると云う事でしょうね。



で、子孫以外の生きた証は必要ないというか、いずれその証も砂と消えてしまいますからね。
平安京や平城京は歴史としても残っていますが、
縄文時代や弥生時代は本当の姿は解りませんよね?。

で、死の受け入れ方は、ジタバタしても始まらない。
老衰で死ねない事が解ったなら、老衰で死ねない身体なんだとね。

なまじ、老衰が来るまで延々と何も出来ない自分をただ時間が過ぎるのを見守るのは・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
心が凍て付いて感情も動かなく成るでしょうね。

両方の環境を知る事は出来ませんからね。
それに、死を納得したうえで死んだ人が居るならその人に逢いたいね。
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難しいところですが。



見返りを期待せずに、どれだけ純粋に自分や家族以外の人の役に立つことができたか、または他人の幸せを思うことができたかですね。

見方によっては自己満足になってしまうかもしれません。

偽善的になってしまうかもしれません。

自分や家族のためならという方はたくさんいらっしゃると思います。

自分を外すことは、想像以上に難しいことです。

難しいと書いたのは、自分がそうではないからです。努力はしています。
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生きている証というのは、今どうなのかということにあると思います。


後悔のない爽やかな気持ち、真っ直ぐ見れていること、余計な事はしない、そんなことが、些細な日々を実らせてゆくのだと思います。
死を思うことは、人として大切なことだとおもいます。
死を思うから、毎日をかけがえなく、大切に生きて行けるのではないでしょうか。
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生きた証がなければ、生きたことにならないのか。


そうではあるまい。
生きた証などなくとも、生きた人は生きただろう。
証などというものは、自己顕示欲の痕跡、自己満足でしかない。
つまり証など必要ではない、という話なのです。
(かえって証のある人の方が生きてないという逆説もありますが、話をややこしくしたくないので、深入りしません。)

死の受け入れ方。納得できるような。となると・・・
人は誰もが死ぬ、という言い方をすると、死は存在しない、他人の死は存在するが自分の死は存在しない、という言い方で論駁する人が現れる。
自分の死というのは他人の死から類推されるのだから、そこで「人は死んだとしても不思議ではない」あたりが納得のいくところかと。
死んだとしても不思議ではない。もちろん、死なないかもしれない。でもこれからのことはわからない。とりあえず「死んだとしても不思議ではない」ということだけを事実として受け入れる。
なんだ、死って、当たり前のことじゃん。
当たり前のことを嫌がったりする必要なんてないじゃん。
もし当たり前のことを嫌がるのなら、それは不自然なことであって、苦しいだけじゃん。
こんな展開で片付けていくのが手っ取り早いかと。
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見えぬ山路を越え往くときにゃ 鳴かぬ烏の声もする



私の尊敬する南方熊楠神の辞世の都々逸です。
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●フェアトレード(

http://www.fairtrade-net.org/modules/xoopsfaq/in … )乃至コミュニティートレード(http://www.the-body-shop.co.jp/values/5values/co … )に基づく素材の加工品(オリーブ油etc)を、例え一部にせよ、日常生活に組込む事を通して、国外の貧困の緩和(更には撲滅?)に貢献するのも、私は生きた証になり得ると考えたいのです。

●「自らの視座に照らして、納得できた何か?」を既にし終えたと確信を持てるなら、それで充分です。(孔子は"朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり"との言葉を遺しましたし)
極端にせよ、「自らが躓いて転んで救急搬送される事態に直面した折、私が乗せられた救急車が交通事故に巻込まれ即死する」のも有得るリスクを孕むのが現実ですから(嗚呼)
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