アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 初めまして。 あるときにふと疑問に思いインターネットで検索したのですがハッキリしないのでもしご存じの方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

 日本には大航海時代にヨーロッパ人が多数訪れていますが、それには女性が含まれていたと今まで聞いたことがありませんが、では逆に一番初めに日本に来た女性はいつ頃のどういった人物だったのでしょうか?

 どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (8件)

ヨーロッパを幽霊が徘徊している。

専門家という名の幽霊である。古いヨーロッパのすべての一般人は、神聖な同盟を結んで……
いや、そうじゃなくて、下記のサイトをご覧ください。1817年に出島オランダ商館長ブロンホフの夫人、チチア・ベルフスマという女性が来日しています。4カ月間、出島に滞在したそうです。川原慶賀(1786年生まれ)という当時の絵師が描いた、「ブロンホフ家族図」(神戸市立博物館蔵)も見られます。白人ですね。

甦る出島 もの知り眼鏡(このサイトの著作権は長崎市にあります)
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/dejima/gla …
(引用開始)
出島オランダ商館の商館長として赴任したブロンホフは、なんと夫人らを同伴して来日。商館員の家族の同伴は禁じられていることから、前代未聞の出来事として話題になった。(引用終り)

出島商館長(カピタン)・ブロンホフ(長崎んことばかたらんば)
http://nagasaki-r.seesaa.net/article/63819541.html
(引用開始)
夫人らは4ヶ月出島滞在後オランダへ強制送還された。(引用終り)

それでは、ブロンホフ夫人が最初のヨーロッパ人女性かというと、さらに古い例もあるみたいです。

出島と遊女(長崎んことばかたらんば)
http://nagasaki-r.seesaa.net/article/55252162.html
(引用開始)
平戸商館時代のオランダ人は夫人と同伴来日することや日本女性と結婚することは許されていたが、長崎出島に移された時より全くそれが許されず、出島は男性だけの世界であった。(引用終り)

下記のサイトによりますと、平戸オランダ商館は1609年に設置され、1641年に出島に移転したそうです。つまり、1641年以降、オランダ商館員の夫人同伴は1817年のブロンホフまでなかったということでしょう。
平戸オランダ商館(このサイトの著作権は長崎県にあります)
http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kaiga …

1609~1641年の、いつ、何という夫人が来日したか、また、さらにそれ以前にさかのぼれるかどうかは、残念ながら知りません。
    • good
    • 0

No.3です。

   小生の表現が違っていて誤解を招いたようです。
ポルトガル人のペアテレス夫人でなく、著者の矢田氏の表現は、葡萄牙婦人ペアテレスです。   日本人とは別扱いです。
この表現では西欧人と見るのが常識です。
ただし矢田氏の正確な認識があったかどうかは分かりません。
幕府の関係資料などは残っている筈で調べれば分かるでしょう。

西欧婦人の日本への渡航はそんなに難しくはありませんでした。
直接渡航は無理で拠点伝いに渡ったと思います。   例えばルソンの商館からでしたらそんなに苦労はないでしょう。
日本からジャワへ渡ったジャガタラお春など、禁令で海を越えた上流婦人は何人も居たはずです。
参考資料  矢田挿雲「江戸から東京へ」(8)中公文庫
    • good
    • 0
この回答へのお礼

皆様、いろいろ回答下さいまして有り難うございました。
ここで失礼ながらまとめてお礼を述べさせて頂きます。

僕も最初のヨーロッパ人女性は明治以降に来日したと
思っておりましたが、かなり昔から来ていた記録がある事が
よく分かりました。<(_ _)>

お礼日時:2008/07/13 19:42

当時の帆船は風呂もトイレもなく、


体の汚れは雨が降った時に甲板でみんな素っ裸になってゴシゴシ、
大小便は他の仲間が見ている前で海に向かって用をたすような状態でした。
船員達も屈強の荒くれ者ばかりで、普通の女性が遠洋に船旅に出るのは困難だったと思います。

戦国時代頃から海外女性の来日ついてはいくつか伝説があるようですが仮に本当だったとしても、
上記のような状況を踏まえるとおそらく植民地の人身売買で買われた奴隷のような立場の人間の可能性が高いです。
4番の方も仰っていますが、夫がヨーロッパ人だから夫人もヨーロッパ人とは限らないでしょう。
    • good
    • 0

1661年、オランダの婦人33人が鄭成功のため台湾を追われ、オランダ船2隻で長崎に来航、帰国船が出るまで、出島在留を許されております。

浅学なため名前はわかりません。
ティツィア・ベルフスマについては本国で映画化されているようですね。本も出版されており「ティツィア~日本へ旅した最初の西洋夫人  ルネ・ベルスマ著(シングルカット社)ISBN-938737-46-9」です。この本によれば、ティツアに付いてきた乳母の名前はペトロネッラ・ミュンツ(1794~?)です。
    • good
    • 0

「ポルトガル人のペアテレス夫人」ですが、「ポルトガル人のペアテレス氏」の妻であったとしても、ポルトガルの女性とは限りません。

アジアに来たペアテレス氏と結婚した(現地妻になった?)アジア女性、もしかすると日本女性だったかもしれません。

どのような文献に「ポルトガル人のペアテレス夫人」について記載されているのでしょう?差し支えなければ文献名と掲載ページを補足して下さい。
    • good
    • 0

邪教禁止令により寛永8年12月4日、長崎で処刑された7人のキリスト教徒の中に、ポルトガル人のペアテレス夫人がいたと書かれています。


まだまだ古い人がいそうです。
    • good
    • 0

幕末には外国人女性が日本にいたことはたしかです。



記録にあるのは
マーガレット・ボロデイル夫人で、1862年に生麦事件で負傷しています。
尚、彼女は事件でPTSDになりまして帰国後に精神疾患により自殺したとのことです。
    • good
    • 0

帆船しかなかった時代、欧州から日本に来るのは、今の感覚で言うと「宇宙旅行」のようなものでした。

帆船は一定の季節風が吹いている時期でないと動きませんし、船内の生活はたとえ「最上の乗客」であっても過酷であり、暴風や暗礁で難破する可能性も高いものでした。海の真ん中で風がなくなって動けなくなり、餓死者が出ることもありました。生鮮食品を摂取できないこと、ビタミンの存在が知られていないことによる壊血病の恐怖もありました。欧州から日本近辺に来る人は「宣教師」「軍人」「冒険商人」に限られていたようで、欧州の女性が日本近辺に姿を見せたと言う話は日本の鎖国以前には聞いたことがありません。

一方、19世紀になると蒸気機関が帆船に補助動力として積まれる様になり「風がないために船が動けなくなる」ことがなくなりました。これは「船旅の定時性が確保された」と言う点で非常に大きな進歩でした。壊血病についても「レモン汁やライム汁を摂取すれば防止できる」ことが周知され罹患者が大幅に減りました。アジアへの渡航が安全になったことで、インドや東南アジアに欧州から女性がやって来るようになりました。日本が開国した19世紀半ばには、それなりの数の欧州女性がアジア地域に居住していたようです。

そうした女性が、例えば夫と共に日本にやって来ることは、ペリー来航後に日本が開国した後は特に珍しくなくなったようで、「最初に日本に来た欧米女性」として特定の人は記録されておりません。
※ 日本が開国する以前、船が難破するなどして日本に保護された外国人はおりますが、その中に女性は含まれていないと記憶します。

19世紀当時は「パスポート」とか「査証」と言う「出入国管理制度」はなく、かつ外国人が出入りしていた横浜などの外国人居留地は外国人が主体的に管理していたので、外国人の出入国記録などは残っていないはずで、質問者さんの疑問は「答えの出せない疑問」となると思われます。

明治初期の日本にやって来てそのことを記録に残した女性と言いますと、
イザベラ・バード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6% …
が挙げられます。この人の書いた本は、中央公論新社と講談社から訳本が出ており容易に読むことができます。

ただし、バード女史が「最初に日本に来た欧州女性」ではないことは確かですので間違えないで下さい。バード女史の前にも、「日本に来たことを記録に残した女性」は恐らくいたと思われますが、それについては存じません。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!