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そこらへんにあふれかえっている、思考停止的下種根性丸出し罵倒の代表である「死ね」の表現の、その流行の理由についてですが、これは現代が非常にモラル的に醜いということをあぶりだしていないでしょうか。

つまりそれはこういうことです。

現在は「生」に執着するということが、当たり前で常識的であるという価値観が蔓延しています。かつて言われていたような、極楽往生だの冥土の飛脚だの、そういう「死」への誘惑的あるいは魅惑的あるいは肯定的な観念というのは、払拭され、かわりに「生」への執着が取って代わった。ゆえにこの「死ね」の表現が罵倒足りうるようになった。たとえば、戦時中「死ね」といわれて、大して罵倒とは受け取れないはずです。むしろ、それは賛美だったかもしれません。

つまり、現在という時代は、そういう意味で潔さがない、生へ執着し続けるという、ある考え方によっては「醜い」価値観に覆われた時代とはいえないでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

いや、日本は言霊を信じる民族であり、無意識に言霊として、その言葉を使っているのではないかと思います。




強烈な呪術の言葉で、そう言われた人は、言霊の威力で、固まったり、体調を壊したりする人もでるほど。

強烈な呪いの言葉なのですが、むやみやたらに使ったらどうなるか。
呪わば穴二つ。
言霊を放った人自身も、ただじゃすまない。
自分が放った呪いの言葉の力により、不幸になる。


私はネットでたまに宗教関係者とバトルしますが、よく愛だの聖人らしい生き方だの言うわりには、相手は私に追い詰められると、絶大な効果だと思って「死ね」と私に言います。

ところが、どうしたことか 言霊じゃなくただの暴言のようで、私には効かない。
逃げる相手のしっぽつかんで振り回して遊んでしまいます・・・笑


ただし、効いた例はある。
反抗期に私は親とずっと言い争いをしていた。
それを黙って聞いていた兄は、私にたった一言だけ叫ぶように言った。

 「死ね!」

私は言葉が出なくなった。

強力な魔法でしょ?
兄は私にとって尊敬対象だったんです。
その兄とは言い争ったことは無い。
その兄は親を守るために、刀を抜いて私になげつけた。

とても痛い真言でした。

これが真言・呪術が効果あるかどうかの違い。

ネットでは、他人に対して放たれるので、効果無い。
だから、私は詐欺集団からいくら「死ね」といわれても、へっちゃらなんだと思います。


生に執着しているとかじゃなくて、否定されたくない相手から存在を否定された場合、ダメージを受けるんじゃないか と。

この回答への補足

あ、あと、「死ね」といわれたときにには、「あせるな、一世紀後には死ぬからこのがさつ者めが!」と言い返すことにしております。やつらは不死の概念で生きているんでしょうかね。バカかと。

補足日時:2008/12/06 13:09
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この回答へのお礼

そうですか。しかし、その兄は尊敬に値しない存在だったことをそこで見抜くべきだったのではないでしょうか。つらい認識でありますが。反抗期などというものはないです。親がいたらないからそれにたいして抗議している正当な権利を行使しているものに対して、「死ね」という下種な言葉をはく人間、それはオミットするべきでしょう。

閑話休題で、やはり、人間愛憎に縛られますからね。どうしても愛着に縛られるものに「呪」を投げかけられることに耐え難い。

あとは、下らん宗教もどきにはどんどん罵倒すればいいし、しかしそんなくだらないやつっているんですね!宗教を信じるなどといいつつ、ボランティアするといいつつ詐欺をするようなものでしょうかね。参ります。

お礼日時:2008/12/06 13:07

もうちょっとwまとめ感覚で


多少醜い表現も含まれていますので正直読まなくてもよいです、いや大丈夫と感じたときのみお読みください。










 ご自身が質問すると回答者が回答を与えてくれるのでそれに図に乗って
おまんまよこせと言う餓鬼レベルの願望が現れてきてるなーというのは大分前から分かっていたことですが、なぜ餓鬼レベルの願望が現れたのかというとやはり無意識の感情がのno12~14に書いてある内容の形があるからではないかと思うわけですよ
 なので以前の質問のhttp://okwave.jp/qa4469857.htmlのお礼欄に>それにしても、この「あ、これはちょっと感じてほしい考えだよ」
という問いかけに引っかかる、心の琴線を揺らす人っていうのは、本当に少ないものですねぇ>という文章を書く訳ですよ、つまり自分を認めてもらえない、えなかった、えていない、(どれですかね?)疎外感の補償作用と不満が掲示板に書き込む動機なんですよ、憶測するところ不満は罵倒へ疎外感の補償作用は議題内容へすり変わっているだろうなというところです、なので不満は不満を呈して拒絶しているようで実は「慰めてくれ」というわがまま願望で、議題の哀愁表現は哀愁でありながら自己を重ね合わせているのではないだろうかとこう憶測してみました、悪まで憶測ですのでどう解釈なされも結構です。
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この回答へのお礼

まとめてのお礼で失礼します。おっしゃることもっともだと思います。そういう面も大いにあると思いますよ。補償作用を無意識的にもやることは人間ありえるのでしょう。

しかし、ここででもいいですけども、多くの疑問問いかけと言うのは、「こう考えたんだけどなんか世間と合わないな」
ということを表明あるいは解決したいと言うことが多いですからね。人間不変的に、疎外感を補償するこということは多かれ少なかれあるのだと思います。

お礼日時:2008/12/16 09:38

もう少し勝手に分析させていただきます。

お気を召さないのなら大いに飛ばしてかまわないです。









大抵ご自身の感情表現には(攻撃的)憎しみが裏側に見えます、憎しみの反対は誰からも認められない苦しさです、ようはご自身が何らかの外界情報に対してご自身の価値感情を否定された形としてあらわれ侮辱感に似た感情を味わわされ自分の価値観感情が圧迫されるような苦しさというのが無意識に存在するのではないだろうかという気もします、no13でも述べましたが、疎外感のみが原因ではないだろうと文章を拝見していると感じます、価値感情の相違が共感性と不共感性を生み出し、不共感性に対して敵意を抱くということは自分の感情を慰めてくれない裏返しということになるんじゃないだろうか?と思うわけです、なので自分の心の醜い感情を切り離し、不共感性へ投げ込むわけです。
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>しかし、毎度のように、それを違う次元にのようなことを「無意識的」に行い、補償する作用があるのか?という無意識レヴェルの精神作用については、まったくといっていいほど自覚できない(自覚できないゆえの無意識現象なのかもしれません)という、いたちごっこにおちいっています。

「!」っとこれが気づければいいのですがね。>

まあ無意識を自分で気が付くのは至難の業で直ぐに気が付く無意識とそうでない無意識がありますからね

>また、B次元に行く必要が本当にあるのかどうかよくわかりません。疎外された状況は、なんというか、相手が確信犯的に疎外したというよりも状況的にそうなってた、折がわるかった、運が悪かったというか。>

そういう漠然としたもののほうが影としてはなりやすいのかもしれませんね、明確であればそれなりに見切りも出来ようものですが、明確で無いが故にモヤモヤと感じる訳です。

>だからこそ、そういう曖昧模糊的な状況に関して、明確な罵倒対象を自動選択されるということも無きにしも非ずかという気もします。>

ですね

>こういう議論に肯定的に考える回答者さんも世間一般もあるわけで(ダメ日本人論とかの類はみなそれですね)、そういうかたがたもことごとく、疎外感からの投影とはどうも考えにくいことはないでしょうか。>

そうですね、罵倒が全て疎外感で染まっているとは言い難いですね。
その中には屈折した賞賛性なんかも含まれるんでしょう、大抵
罵倒などをするタイプは自分が偉いさんであったり多少先輩風
吹かせるようなタイプであったりします、その手のタイプは疎外感
というより賞賛が欲しいのだと思いますね、自分の今までの生き様
を認めて欲しいわけです、それを情けない出来事を罵倒することに
よって自分は優秀であるという賞賛が欲しいのでしょう。
大抵その手のタイプは情けない出来事を一とすると十のようにして
罵倒するでしょうし、その出来事が発生する前やその出来事に
関する良い事柄に関しては無視されるのでしょう、まあメディアも
事実を事実として伝える情報放送から、情緒を揺さぶるような屈折
放送が多くなりましたからね、そういう一面でも罵倒感情を促すの
かもしれませんね、そういう意味では疎外感のみとは言い難いですね

>また、客観的に(それが可能かはともかく)考えて、確かに醜い世相になったということを言うこと自体が、それほどナンセンスとも思われないわけです。>

 確かに人間性や社会性といった言わば常識ともいえる次元ではナンセンスであると僕個人が思うところもあります、確かにそう思う人もいるでしょう
しかし酷化させようという意図はご自身がそうさせてやりたいという願望がどこかあるから「醜い」という形容詞をわざと強調して書くんですよ

この回答への補足

お礼は後日いたしたいと思います。今回はちょっと補足だけ。
「生」に執着しないのが美的に感じると言うのは、私の生まれながらの傾向に根ざしている気がします。
それは、現代的な哲学(権利、生存、保有)というものを個人は最大限享受するのだ!という際限のない欲望肯定感に満ちたものから、少々シフトさせたほうがいいのではないか?あるいは、地球上になるべく人間が少ないほうがみんな楽できていいよという、茶道的な趣味なのです。

補足日時:2008/12/14 10:48
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ども


昨日ですが、ご自身の悩みがなんとなく分かったように思います。
なので嫌ならこれ以上読まずに飛ばして結構なので知りたくなったら目を通してみるのもよいかもしれませんので書いてみます。
ただご自分で解決するのが一番良くそれを書くわけですから、最低限内容を容認できたらということにしてもらいたいです。
ただ僕自身もカウンセラーでもないのでご自身の問題の解決法を知っているわけでもないのでもし以下の文章を読んで気を悪くなされたら申し訳ないです。では書いてみたいと思います。









 率直に言います、率直に言うとご自身は多分、疎外感だと直感しました
 つまり過去もしくは現在もしくは未来に対して疎外感を味合わされた経験とか現状とか不安とかあるんではないでしょうか?
ご自身の文句は大抵以下のような内容です
:「---」のような清潔な心(真の心、美しい心、正の心、etcのパワーポジティブイメージ)がない(欠如している、消えていったetcの欠如感)「////」と醜い(下種根性丸出し、非凡、etcの罵倒表現)です、「----」をしろ!「////」をするな!(使うな!、etcの罵倒表現):
です、つまりこれはご自身の疎外劣性感の投影ではないかと思うわけです
 なにかの次元で疎外感を味わっているご自身はそれに対して負の感情を感じており、それが無意識化されており、それを違う次元へ投影し、罵詈雑言を吐いているのではないかと思うわけです
 つまりご自身の疎外感の次元をAとします、そしてそれとは関係ない次元をBとします、ご自身の無意識では以下のような形成になっているわけです
次元A:疎外感{(ご自身の位置関係)劣←→疎外された出来事X(仮にXとする)}
Aの疎外感を別次元Bへ投影する。
次元A:疎外感{(ご自身の位置関係)劣←→疎外された出来事X}

次元B:疎外化{(ご自身の位置関係)優性的←→罵倒される対象}
 こうではないでしょうか?つまり罵倒される対象を罵倒することによってご自身は優になれる、そのことによって元の疎外感をチャラもしくはどちらかというと優勢にしようと無意識が勝手に働くんではないでしょうか?
 つまり罵倒される対象は疎外された出来事だ、つまり罵倒する対象に文句を言っているようで疎外された出来事に文句を言っているわけだ、そうすることで自分は間違えていないんだとどちらかというと間違えているのは疎外した側だと確信したいんじゃないでしょうか?、つまりA次元を捻じ曲げB次元に投影しB次元で優越感に浸ることによってA次元の自分の劣感を優勢にしたいんではないでしょうか?
 なぜかというとB次元の文句は決まって「----」が疎外されることに対する怒りが多いからです、例えばこの質問で言えば>現在という時代は、そういう意味で潔さがない、生へ執着し続けるという、ある考え方によっては「醜い」価値観に覆われた時代とはいえないでしょうか?>
と疑問を呈するのは疎外感に対する投影が含まれているからなわけだ、なのでお礼に>「死」に名誉を求めるというモラルが消滅してしまった。死ぬやつは偉い、生きるやつは卑怯あるいは弱虫である、という潔いモラル、そういう清々としたものが世の中の価値観から消えていった。醜いことですね。>と書くわけだ。
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この回答へのお礼

どうも。
分析ありがとうございます。
大体当たっているような気がします。Aがあることは確かです。過去において、どうしても解決できないトラウマチックな思いというのが消えませんね。それは確かに疎外感と言うのが一番近いような気がします。

しかし、毎度のように、それを違う次元にのようなことを「無意識的」に行い、補償する作用があるのか?という無意識レヴェルの精神作用については、まったくといっていいほど自覚できない(自覚できないゆえの無意識現象なのかもしれません)という、いたちごっこにおちいっています。「!」っとこれが気づければいいのですがね。

また、B次元に行く必要が本当にあるのかどうかよくわかりません。疎外された状況は、なんというか、相手が確信犯的に疎外したというよりも状況的にそうなってた、折がわるかった、運が悪かったというか。だからこそ、そういう曖昧模糊的な状況に関して、明確な罵倒対象を自動選択されるということも無きにしも非ずかという気もします。

が、一方で純粋にこういう「世相」に対しての嫌悪感のみということも十分にありえます。わずかに過去の疎外感も絡んでいるかもしれませんが、こういう議論に肯定的に考える回答者さんも世間一般もあるわけで(ダメ日本人論とかの類はみなそれですね)、そういうかたがたもことごとく、疎外感からの投影とはどうも考えにくいことはないでしょうか。また、客観的に(それが可能かはともかく)考えて、確かに醜い世相になったということを言うこと自体が、それほどナンセンスとも思われないわけです。

お礼日時:2008/12/11 20:54

こんばんは、garcon2000さん。





“ 女郎花しをれふす野の藤ばかまたがぬぎ置きしつゆの名残ぞ ”


【『百詠和歌』注釈】
http://www.media.saigaku.ac.jp/download/pdf/vol7 …

【太平記】
http://www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html

【相続】
http://www.hm7.aitai.ne.jp/~niwa/newpage5-53.html
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statemen …
http://fxclick365.seesaa.net/


大目にもってみたけど、こんでたりる?

注)はらもみのうち


姓といえば名

姓と名なけりゃ、どこのだれだかわかんない?


ど-このだれだかしらないけれど だれもがみ-んなしっている


って、時代もありましたね。
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この回答へのお礼 大変わかりやすいご回答で、助かります。私の思っているような感じのことを明文化して頂いたような印象です。


そうですかそれはよかったです


価値観の転換がありますね。「死」に名誉を求めるというモラルが消滅してしまった。死ぬやつは偉い、生きるやつは卑怯あるいは弱虫である、という潔いモラル、そういう清々としたものが世の中の価値観から消えていった。醜いことですね。


これはどうなんだろう?と思います、批判ではないですが意見として述べますと
いわば死への美的感覚の暗示に掛かってしまったおろかな民衆とも言えますよね?そうすれば醜いのは戦争の強さの誇示の優越性に対する暗示に掛かった国民の方が馬鹿だという見方もできなくないですよ
逆に現代は生への優性が生きていく力になっていて美しいなんてね
 大いに価値観の相違でしょうがご自身が醜いと感じるのはご自身の心に醜さが存在するんでしょうね、自分が優越感に浸りたいから半無意識的にわざと同じ土台の上で優劣を作って劣に罵倒しているんじゃないんですか?
 そんなことしてますとその内自分の自己矛盾で心理破壊する破目になりますよw超自我でボーダーラインを引けなくなっているんじゃないですか?(なんせ誹謗中傷は犯罪ですからねw)まあこうやって忠告するのもここまでにしときましょうか?まあ今後は興味があったら質問内容のみに回答ということにしておきましょう。
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この回答へのお礼

なかなか、無意識というのは気づけないものですから。いまだにすり替えとか防衛機制を「実感」することができないですね。それらを気づけないと致命的だといえる気もします。可能な限り、自己を客観しできるように努力するしだいです。

お礼日時:2008/12/08 21:56

 No.5 krya1998 古来、老人の記憶把持は頼りのないもので、今、ご丁寧なお礼に接し、『大衆の質がちがってきた。

険悪になってきたということなのでしょうかね。』というコメントにどう対するか、何を思い、何を書いたかそのときの自分がもう今は、彼方に薄く為りました。
 だからこれは独立のものと思ってください。
 残念かどうか見かた、思い方でしょうが、大衆が変わったということは見受けられません。イエスとかいう方を処刑に追い込んだ方々、共にあろうとしなかった十二使徒、そしてもう直ぐ四十七士、これは二二六などとともに私は日本人として美化して大事にしております。
 利根の川風袂に入れて、月に棹差す高瀬舟。これも。
 でも所詮大衆でして、本質はみな同じ、どこも変わっていません。
 『険悪になった』? そんなことはありえません。
 昔も今も大衆は大衆でしかありません。
 イエスがどうか、釈迦がどうか。伝えの中には、いわゆる大衆の後付け、紡ぎのおひれなどがたくさんありますね。それを取り外せば、むしろずいぶん共感できるのではないですか。
 ジャンクリストフ、アンネット、マハトマ・ガンディなども。
 大衆の手垢が俗化してはいないでしょうか。孔子も老子も。
 大衆はよどみです、水垢です。仕方の無いものです。
 No.8さんがまた、ご参入ですね。いつもの通りで。まぁ大目に。女であることをご強調されていますが、ちょいと目鼻をつまんで、大目に。
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この回答へのお礼

昔も「大衆」は「大衆」ですね。私もその一員です。忠臣蔵やら西洋にはその類もまたあるのでしょうが、「大衆」なくしては伝承されなかったでしょうね。
現代を特別に考えるのは間違いであるとまた思い知らされました。

お礼日時:2008/12/08 21:58

こんばんは、garcon2000さん。




背番号1のすごい奴が相手
フラミンゴみたい ひょいと一本足で
スーパースターのお出ましに
ベンチのサインは敬遠だけど
逃げはいやだわ

●つまり、現在という時代は、そういう意味で潔さがない、
生へ執着し続けるという、ある考え方によっては
「醜い」価値観に覆われた時代とはいえないでしょうか?


にゃるほど

試合の流れの中の一場面

“尋常に勝負勝負”

と、おもえども…

戦術の組み立て(采配)

勝負どころがかわってくる

肩透かし

肩越しに

「あたっても塁にでろ!」 と、声が飛ぶ

「敬遠、敬遠、敬遠だ!」 と、声が飛ぶ

交差する思い 二人を分つ

個人か全体か

【全権委任法】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%A8%A9% …

この回答への補足

ちょっと、暗喩の方向がたくみすぎて、私の理解の外になっています。

補足日時:2008/12/06 13:02
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 優性劣性の関係でしょうね、つまり優越感による暗示ということだと思います


 昔は優越感が戦争で死んでいくことが優越であり、そうでなく逃げ回るのは劣性であると感じさせるような雰囲気的な心理誘導が世間的な雰囲気としてあったのだと思います、多分当時は、戦争へ行く=強者、逃げ腰=弱者、というイメージがあったんだと思います、なので戦争で死ぬということに美的感覚があったのだと思います。
 現在は死というある種の現象は自分が生であることへの優性を示す一番簡単な表現方法なので現代はそれを平然と使うということだと思います、つまり現代は、死=嫌なこと,苦痛なこと,恐怖,グロテクスetc、というある種の負の感情を呼び起こす感覚しかないので平然と他者に投影して「死ね」と言うんだと思います、つまりこれは現代の一番簡単な劣性攻撃ツールということになると思います。
 なんせ「シ,ネ」の二文字を相手に向かって怒りと共に発すればよいわけですから幼稚園児でも出来る一番簡単な攻撃方法なわけです
 また、文字が短いことから不意打ち攻撃が出来るんでしょうね、不意打ち攻撃を狙うのは動物的な考え方です、機嫌が悪くなったときに怒鳴り散らすパワハラや些細なことで直ぐにキレる若年層なども大いにこの動物性攻撃本能で反応しているということになると思います、そのツールの中の一つが「シ・ネ」のこの2文字なわけです、ご自身なんかもその手のタイプに半無意識的に突っ込んで行って罵倒して優越感に浸りたいわけですよね?まあそれの「死ね」バージョンですね。
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この回答へのお礼

大変わかりやすいご回答で、助かります。私の思っているような感じのことを明文化して頂いたような印象です。価値観の転換がありますね。「死」に名誉を求めるというモラルが消滅してしまった。死ぬやつは偉い、生きるやつは卑怯あるいは弱虫である、という潔いモラル、そういう清々としたものが世の中の価値観から消えていった。醜いことですね。

お礼日時:2008/12/06 13:14

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