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そこらへんにあふれかえっている、思考停止的下種根性丸出し罵倒の代表である「死ね」の表現の、その流行の理由についてですが、これは現代が非常にモラル的に醜いということをあぶりだしていないでしょうか。

つまりそれはこういうことです。

現在は「生」に執着するということが、当たり前で常識的であるという価値観が蔓延しています。かつて言われていたような、極楽往生だの冥土の飛脚だの、そういう「死」への誘惑的あるいは魅惑的あるいは肯定的な観念というのは、払拭され、かわりに「生」への執着が取って代わった。ゆえにこの「死ね」の表現が罵倒足りうるようになった。たとえば、戦時中「死ね」といわれて、大して罵倒とは受け取れないはずです。むしろ、それは賛美だったかもしれません。

つまり、現在という時代は、そういう意味で潔さがない、生へ執着し続けるという、ある考え方によっては「醜い」価値観に覆われた時代とはいえないでしょうか?

A 回答 (15件中11~15件)

 一部かと理解していましたが、そんな表現をする場面があるのですね。


 一つは語彙の貧困でしょう。それは安易にことば表現ができない、しようとしない、懶惰でしょうね。
 思索も生き方も欠落といってもいいかもしれませんよね。
 刺激的とか、元気をもらったとか、誰かが使って、新鮮で適切な表現だとおもったのか、今も使う人がいるのにあきれているが、これも自分なりの言語使用の工夫と生き方をしないことの現象でしょう。
 
 思索や生きかたの低劣さ、語彙の貧困はcyototu:No.2さんのご論述が詳しいですね。多少慨嘆もおありのようですが、私も全体的内容としては異論はありません。
 お国のために、人のために、という昔だって、そりゃ生への執着は無かったわけではありません。
 死ということについての、一般受け取り方が今と少し違いますから、多くの人もそういう意識の中でいただけでしょう。人のありようというのはそれほど相違していくものではありません。
 武士の切腹はこれは背中に名誉を背負っているが故の、一定の方式の中の受け入れでしょう。
 思考の停止は今も昔もありました。それが人間、大衆です。
 当時の風潮、それが今から見ると、高度なところがみえるわけですね。それがゆえに、cyototu:No.2さんのご評論もあるのでしょう。
 人は時代の風潮と方式の中で生き、思い、考えるのでしょうね。
 人の宿命でしょう。
 どこまで深く、本質的に、時代の枠に自由に生き、考えるか。
 あまりそれをてっていすれば、地上存在ではなくなるでしょうが。
 それにしても、現今のあまりにザッハリッヒで露骨な表現と関り、生き方はいただけないですね。確かに昔もそういう人もいましたが。
 顰蹙の対象でした。今はある程度まで通用する、認められる自由性・個性性認容があるのですね。
 質問者のように文化の指摘をされる方がいろいろおられて、また進歩か変化をしていくのでしょう。
 でもは時代の枠の中で、時には安易という生存の仕方は続くのでしょうね。
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この回答へのお礼

大変共鳴いたしました!
時代のくだらなさというのはありますよ。物質が豊かになればなるほど、逆比例して人心は荒廃している、そうだと思います。そういう法則から人間は逃れられないのでしょう。こんな無節操な世の中なんて、半世紀前は許されませんでしたよね。それは、ものがなかったから、不便だったからというのが1番大きいと思います。だから、人と接することが不可欠で、必要性から人間性は磨かれる、あるいはモラルの強制を受けることがあった、でも、人間は総体的に上だったのではないでしょうか?

大衆の質がちがってきた。険悪になってきたということなのでしょうかね。

お礼日時:2008/12/06 13:18

>現在という時代は、そういう意味で潔さがない、生へ執着し続けるという、ある考え方によっては「醜い」価値観に覆われた時代とはいえないでしょうか。



考え方や、見方を変えれば「面白く」とも別の意味とも取れるとおもうのですが?物事悪く考えなければ精神衛生上は良いと思いますが?

この文章自体どう受け取ります?
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この回答へのお礼

どうしても、「生」に執着するのがきれいに思えないですね。もちろん「生」だけじゃない。いろいろな権利物質への執着。もちろん奴隷になれということじゃないですが、人間的に余裕を持ちたいものだと思うところです。

お礼日時:2008/12/06 13:20

死ねという言葉が日常に使用される社会が現代だというならば


現代はなんと素晴らしい、完成された時代なのでしょうか。
私は現代に生まれたことを心から感謝したいです。



つまり、現代においては死は現実足り得ないのです。
『死ね』という言葉は他者への自殺の命令という、
不可能性の極地であり、同時にこの言葉が日常に使われる
ということは、我々は日常において死ぬことが無いのです。
もちろん病気や事故によって死ぬこともあるでしょう。
ですがこれは、可能性と頻度を考慮すれ大多数の
人間にとっては非日常なのです。





もし死が身近に存在していたとしたら。
道端に蛆のわいた死体が放置され、ブヨブヨになった
肉が街に溶け出し、あるいは他者を刺突して奪わなければ
自己の存在が維持できず、もしくは、生きているのに
烏や鼠に肉を啄ばまれる状況だとしたら。こういった状況ならば
『死ね』という言葉はわざわざ使われないでしょう。



しかし、こういった状況が空想だと感じるならば、
『死ね』という言葉はもはや同様に空想となるのです。
これはすでに現実の死を意味していません。
つまり嫌い、という意味でしか使われていないのです。
生まれるだけで死ぬ、成長するだけで死ぬ。人間と会うだけで死ぬ。
こういった状況ではないことを意味しています。
では、何故『死ね』という架空の命令を不快に感じる人間が居るのか。
不快に感じる人間とは、つまり前述のような
(現代において架空の)死を現実のものと感じているのです。
ここに齟齬が生じます。






どちらの人間が正しいのかを一概に論じることはできませんが、
少なくとも現代において『死ね』という言葉を現実の命令と
感じている人間のほうが、健やであり、同時に確実に
救いようの無いほど病んでいるとすら考えられます。





長文になってしまいましたので、以上を一行で平たく纏めますと、、
そんなのにいちいち目くじら立てること無くね?ってことです
今は昔より大分ましですよ。どちらの意味でも。
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この回答へのお礼

これが実に「目くじら」ものだと考えております。
お答えのような「死」が一般的に遠くにある現状においてだからこそともいえます。つまり、無責任にその御伽噺で憂さを晴らすという、まるでモラルのモの字もない低劣で卑怯な風習だと感じます。

つまり、もし「死」が身近にあり、その言葉が現実的重みを持つならば、これを言い放つことの勇気と責任性をもって確信犯的に言うという、一種の英雄的行為なわけです。それをなんですか・・・

大変相対的総括的にお答えいただきまして、考えがすっきちしました。

お礼日時:2008/12/06 13:24

生への執着を第一義的に感覚なり認識しない存在は、生物の定義に矛盾しているので、それは生物としては病理でしょう。

たとえ潔く死を選んだとしても、その裏に家族や仲間や種としての生への執着の込み入った表現である場合には、健全な行為であって病気ではありません。ですから、この問題は生への執着が増えたの減ったのという捉え方では、切り口が適切ではないと思います。

私はモラルの低下であると言うよりも、日本人の退化であると考えた方が判りが良いのではないかと考えています。人類は長い失敗の歴史の繰り返しから、互いに協力し合って生きてきた方が、バラバラで生きているよりも生存の機会を増やす確率が高いことを、本能のレベルばかりではなく理屈の上でも認識できるようになって来ました。このことは経験から判ることであって、決して頭の中の思考実験で判ることでは在りません。何故なら、自分自信を振り返っても判るように、だれでも他人のことを考えるよりも先ずは自分を優先させてしまうのが普通ですから。そこで、自分を先ず中心に置いてその利益を最大限して行けば自分が幸せになれるのではないかと言う考え方は子供にでも出てくるものです。ところがこの世界はそんな単純なものではないと言うことを、人間は歴史の繰り返しで教わってきました。もし自分の生への執着を最大限に満足させたいなら、一先ず周りの人間を満足させた方が効率が良いと言う、途轍もなく複雑な人間社会の構造を理解できるようになったのです。これは単純な世界観から複雑な世界観への進化です。世の中は複雑に出来ているのですから、単純なアプローチは危ないと言うことです。その進化の結果、大人達はまだ単純なことしか考えることができない子供達に、何をするにも自分の欲望を前面に押し出すのではなく、一先ず他人の気持ちに置き換えてどういう行動をとったら相手が喜ぶか、あるいは悲しむかを考えなさいと教えるようになったのです。

一方、土地も豊かで人口も少なく、自分達で開発したわけではないがそれを理解する教育をヨーロッパから手に入れた歴史的経験の浅いアメリカ人が、その幸運さの故に、自己中心的な生き方と言う最も未熟で単純な生き方をして、それが一時期うまくいったようです。もちろん、これには西欧が戦争で内部崩壊したと言う偶然が本質的に重要な役割を演じています。ただし、これを果たして成功と呼んでいいかに関しては、私は疑問を持っています。何故ならアメリカは、先進国と呼ばれる国の中で黒人ばかりでなく白人の間でも最も貧富の差が大きい国ですから。いずれにしても、この目の前の見かけの成功を見せられたと同時に、戦争で負けた大人達の自信の喪失を見た子供達は、若さ故に必然的に単純な思考しか出来ないにもかかわらず、この現実の世界である複雑系を理解できるような高度な教育を受ける機会を失ってしまいました。そして「今を大切に生き、自分を大切にしなさい」という一見筋の通っているような、アメリカ的単純自己中心的な世界観を受け入れるようになってしまったようです。これは、単純から複雑への向かう生物の進化とは完全に反対の方向を向いた、したがって生物学的には明らかに退化の方向に向かっております。上にも述べましたが、大人達の自信の喪失は大人達も含めてこの退化を進化と誤解させてしまったようです。この退化によって、日本の多くの若者は、自分を相手と置き換えて考えてみると言う高度な知的営みが出来なくなってしまい、自分が相手からされたらどんなに嫌なことでも平気できるようになってしまったのだと思います。その程度の低さたるや、それが自分の身に降り罹ってくるまでは理解できなくまでなっているようです。単に「消えろ」と言うのに「死ね」と言う表現を平気で使うまでになってしまったのです。そう言えば、今の演歌には「殺す」だの「抱く」だの「寝た」だの、昔の演歌では考えられないような露骨で「醜い」言葉を差し挟まないことには、ヒットが出来なくなっているようですね。これも、テレビなどで煽られた刹那的自己中心的、今と自分大切型の退化の表面化なのでしょうね。

私はこの退化を今の若者達の責任だとは思っておりません。若者は被害者なのです。加害者は、自信を喪失した大人達であると思っております。

昔アメリカでは「犬と中国人は叩かれなければ分からない」というとんでもない失礼な言い回しが在りましたが、日本人の退化を見ると、そのうち「犬と日本人は叩かれなければ分からない」という言い回しが定着しないか心配しております。
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この回答へのお礼

大変、示唆に満ちた納得できるご回答、ありがとうございます。
たしかに、生の執着という捉え方は公正ではありませんでした。戦時中の道義というのも、ずいぶん自然に反したものでしたからね

退化ですか!面白くない現実ですが、あるような気がしますね。疑問を発するという心の動きがなくなってしまっている気さえします。


古来よりの、共同的人間社会を渡る方法と、アメリカニズムのような荒っぽく単純なものが、物質的にも歴史的にも台頭した結果がこれだという気はいたします。ヨーロッパの風習、人間関係は、やはり違いますからね。精神の成熟度を要求される、たとえ、荒廃しているように思えても、やはり、懐は深いと思われます。

日本人論の悲観論というのは方々にあって、どうもその通りだとしか思えないところがつらいですね。

お礼日時:2008/12/06 13:34

ネットで言う死ねという言葉はどちらかというと消えろ的なニュアンスを


含んでいる感じがするので関係ないでしょ。
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この回答へのお礼

消えろと死ねと同列に扱えるわけないでしょ。

お礼日時:2008/12/06 13:27

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