プロが教えるわが家の防犯対策術!

長谷川一夫主演の「次郎長伝」を見て疑問が出て来ました。弟子たちが過ってカタギの人の民家を焼いてしまいますが、次郎長は烈火の如く怒り、弟子たちに大金を持たせて謝りに行かせます。現在のヤクザのチンピラはカタギの人を食い物にするようなのが多く見受けられますが、それでもカタギとは一線を画すような謙虚な意識がまだあるように思います。史実かどうか知りませんが鼠小僧次郎吉が大名屋敷を襲って江戸の貧民に金をばら撒いたという話もよく聞きました。それから、これはれっきとした史実ですが、上州の国定忠治は金持ちを襲って金を巻き上げ貧しい農民たちにばら撒いていたということ。彼が捕えられ死刑にされようとした時、上州だけでなく越後から下総に至るかなりの広範囲で助命嘆願運動が起こったとのことです。そこで質問ですが、昔のヤクザというのはカタギの人たちに対してどういう意識を持っていたのでしょうか?「次郎長伝」は随分古い映画ですが、上記の一こまはヤクザのカタギに対する当時の意識を反映したものと考えたら間違いでしょうか?必ずしも主人公の次郎長を美化するためだけの描写とは思えないのです。
また、国定忠治や鼠小僧は何故貧民に金を与えたのでしょうか?為政者、権力者に対して反抗心を持っていたからでしょうか?

A 回答 (4件)

委細詳細は諸賢にゆずりまして、漫談ですが。



大正時代の任侠の話です。江戸っ子の祖母はミッションの女学校に通っていたのですが、親が「社長」という親友の家にお泊まりに行ったら、その社長は任侠の親会社のトップというような人だったそうです。
祖母はバットもって余所の女学校生徒にケンカ売りにいくようなキャラでしたが、これには驚いた。そして翌日の朝御飯のとき、大広間で食べているわけです。お客様なので、親友のお向かい、ご両親のすぐ下という上座で食べたそうですが、食べ終わって一息ついた時、そのお父さんが祖母に声をかけ、返事をした次の瞬間、座布団をおり、おかあさん(極妻ですね)も同時に座布団をおり(座布団あるのは両親、親友、お客様の祖母だけ)、畳に頭をすりつけて
「このような稼業の親をもった、不憫な娘でございます。せめて親とはちがうヤソさまの(キリストさまの)教えに学ばせたくおもって学校に入れ、幸いお友達ができた次第。どうか末永く仲良くしてやってください」

とっさに座布団をおり、こちらこそよろしくお願いします程度のことを言ったそうですが、さすがに焦ったそうです。
その後、そのお父さんは5月お盆年の瀬に必ず、自分で旬の物をもってきてくれたそうです。親友が後に語ったところによれば、自動車で近くまできて、その後歩いてきたとか。乗り付けるのは失礼、というわけです。隣三軒の人には、自分で歩いて配っていたそうです。

大正時代の実話ですが、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。やっぱりそうだったんですね。自分たちは裏街道を歩いている日陰者の人間だという、カタギの人とは一段も二段も低いところにいる人種だという意識があったようですね。
しかし、そういうヤクザの意識も戦前まで、または戦前に生まれたヤクザのものだったのではないかと推測します。
非常に参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2008/12/26 13:52

 回答番号:No.3です:


 やはり、まともな仕事をしていない。或いは士農工商の中に入らない、つまり良(領)なる民ではない。という自己の位置づけと、いわゆる義賊意識しょうかね。
 賊というのは放浪・遍歴の孔子集団などもいうのだそうですね。
 孔子も、制度からみれば、梁山泊の集団の種類だったのですね。
 治外法権、つまり誰(支配者)にも支配はされないが、誰(支配者)にも保護されない。
 そのものを誰かがどうしようと、誰も文句を言わない。
 そういう一種の“服ろわぬ民”とでもいうのでしょう。
 
 樅の樹は残ったでの、伊達藩の家老が町家を構えていて、重々知っている、大老・酒井雅楽守(うたのかみ)が立ち寄りますね。
 得たいの知れないという存在は、今も暴力団とか、橋の下のものとか、やくざとか、ちゃんと家を構えていますね。
 伊達藩家老の原田甲斐はともかく、彼らの存在はそういう治外法権ですね。まともな陽・日は歩けないけれども、身を自ら律しているでしょうね。
 
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
「義賊」「義賊意識」というのがいつ頃から、何故発生したのか、というのにも興味と疑問が出て来ました。
それから市川雷蔵扮する代官がヤクザ組織を取り仕切るところでは、お上のヤクザに対する、ゆる~い支配とゆる~い保護が見えて、必ずしも「治外法権」とは言えないように見えました。ま、映画ですから、真実とは違うのかも知れませんが・・・。

お礼日時:2008/12/30 10:40

 子(仔)分でしょう。

弟子では在りませんね。弟分っていうのもありますね。
 ねずみ小僧はそういうお話として伝わっていますが、武家のところは意外と入りやすい。商家は厳重であった。そして女とばくちに使ってしまっていたようですね。
 強きをくじき、弱き助ける。まぁ義賊のような気持ちも一面あったようですね。
 岡っ引きとか二足を軽蔑したり。意気に感じたり。無宿人の面倒見たり。
 斜(はす)に生きていても、お上には反抗心はないようですよ。
 うまく調整しあったいたようですね。

この回答への補足

やはり大半は女とばくちに使っていたんですね。
しかし、助命嘆願運動まで自然発生させた国定忠治が、貧民を助けた動機は何なんでしょうね?

補足日時:2008/12/26 14:00
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例えば「ヤクザはカタギを守る」という言葉がありますね。


これはヤクザが自分の縄張りにおける、自分たち以外の犯罪を押さえ込む事を意味します。
なぜならヤクザは基本的に縄張りからのアガリで暮らしているわけですが、治安が目に余るほど悪くなれば、カタギが近づかなくなり縄張りが寂れてしまう事になるでしょう。
こうなると必然的に収入が減ってしまい、ヤクザは己の首を絞める事になります。
ヤクザにとっては縄張りが強盗などの粗暴犯罪の増大で、カタギに避けられるのは困るのです。
ヤクザは確かに犯罪で食っていますが、それが成り立つのは社会機構がしっかりしているからこそであり、だから「カタギを守る」という意識が生まれたのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。戦後かいつか、天変地異で社会が乱れた時、ヤクザが秩序回復に貢献したということがあって、あんな暴力団が何でそんなことをするのだろうと不思議に思っていたのですが、貴方の回答で合点が行きました。

お礼日時:2008/12/26 13:59

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