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私は以前から(なぜか自分でもわかりませんが)法事や先祖供養などが大っ嫌いでした。
科学的根拠はなく、金品、時間の無駄のように思えて仕方が無いのもあります。
ただ、科学的根拠が無いから全て否定するような石頭でもなく、怪奇現象(霊を除く)は生物の神秘などと捉えています。

動物なんかは家族が死んでも供養などしません。
そこで人間だけが供養しないとばちがあたるなどといわれても人間が作り上げた空想の世界だけの話のようで納得できません。
また、もし自分が死んだとしても供養しないからと子孫を祟ったりするつもりなど毛頭ありません。
このようなことを兄弟に話すと「あんたの考えは間違っている」といわれます。
しかし私の母は「私が死んでも供養なんかなにもしなくていい」といいますし、妻のお母さんも(最近お義父さんを亡くされました)お義父さんについても、また自分についても同じようなことを言っています。

実際のところ、先祖供養は必要なんでしょうか。
供養されずに浮かばれない先祖を見た人がいるんでしょうか。
私のように先祖供養をしたくない人間って許されないのでしょうか。

特に、先祖供養しないために大変なことになった、とか、供養されずに浮かばれない先祖がいる、などの話があれば是非お聞かせください。

私は否定しているわけではありません。
必要性があればしますが、その必要性がわからないのです。
また、角を立てないように付き合いですればいい、とは思うのですが、先に述べたようになぜかとても嫌なんです。
これはなぜ嫌なのか自分でもわかりません。

よろしくお願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

私と同じような考えの人が結構いるので嬉しい!


だって、その考え方で行ったら、キリスト教の人はどないするねん。可愛い子孫を祟ろうなんて先祖がいるのかいな?(何故か大阪弁風になる)
って思ってま~す。

でも少々年長の方々は、そうすることを(法事等)見て育ってるし身に付いてしまっているから、やらないと落ち着かないんじゃないかしら。
母なんか「昔の人は他に楽しみがなかったから、」と言ってるし、私も久々に親族が集まるイベントって考えています。

割り切ってお付き合いするのも嫌なら、「その日はどうしても抜けられない仕事があって、ごめんなさい。」ってのはいかがでしょう?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
イベントって感じよくわかります。

キリスト教の考えが良くわからないのですが、やっぱり子孫を祟るという考え方はどう考えてもおかしいですよね。
もし、死後も霊として存在するのなら私は供養して欲しいと思わないでしょうし、それを共用することは絶対しないと思います。
死後の世界があるのかどうか、またどのような世界なのかわかりませんが。

お礼日時:2003/02/14 21:24

No.7の者です。


死後の世界については参考URLのNo.13をご覧ください。

(やはり先祖の霊っているんでしょうか。)

仏法用語で感応(かんのう)という言葉があります。
感応とは「心が感じ応(こた)えること」。生命同士が互いに通じ融合することを言います。
幽霊という存在ではなく死後の波長と生きている波長が交じり合ってしまい姿、形を見てしまうという現象があるのではないでしょうか?
私自身、幽霊を見たことが無いのでどんなものかは分かりません。

(浮かばれない霊を見た人がいるんでしょうか。
また、なぜ浮かばれないのか、その理由をどうやって知ったんでしょうか。 )

仏法の生命を十種類に分ける考えがあります。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の十種類です。
いろいろな環境や条件がきっかけになって生命が変化します。
生前の行いによってその人の生命に癖がつくと考えられます。
「自分勝手な人」とか「落ち込みやすい人」とか「人が困っていたら黙っていられない人」など、その生命の傾向性がそのまま死後の行き先を決めていくのです。
「浮かばれない人」とは生命の基底部が低い人。(とくに地獄界など)
生きていくのが苦しい人でも楽しい時間はあるはずです。しかし、死んだ後は、もう地獄界という基底部のみ味わっていくしかありません。そのような人を「浮かばれない人」と表現しました。

つたない文章で申し訳ございません。
仏法を少しかじっただけでは人を納得させることは出来ませんね(汗)よって「回答に対する自信」はなしに変更させていただきます。長々とスミマセン。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=443921
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
参考になりました。

お礼日時:2003/02/14 23:41

わたしもずっと否定してきました。


しかしお盆に一回墓参りに行くくらいはありかなと
最近思ってます。
なぜなら先祖への感謝の気持ちを表すためです。
先祖のため、というよりは自分のためです。
わたしがいまここにこうしていられるのは、この人達
のお陰であることを1年に一回くらい思い出した方が
よくないですか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり子孫、遺族の気持ちの問題ですね。

お礼日時:2003/02/14 21:34

 自分は、死体など自分も含めてどうなろうが知ったことではないと思っています。


 葬式自体は、故人と遺族がけじめをつけるのに必要な儀式と認識していますが。

 遺体は燃やすか埋めるかしますが、自分はそのとき「もったいない。肉なんか犬にでも食わせりゃ良いのに」と思ってしまいます。

 親にも、自分が死んだときは使えそうな臓器は全部摘出して移植手術か研究用にでも使ってもらって、葬式も金をかけるな、もしくは出さなくても良いと言ってます(現実に、葬式を出さずに埋葬とか出来るのかどうかは知りませんが。役所に許可を取らずに遺体を埋葬すると犯罪ですし)。

 ただ、毎年墓には自主的に参っています。一年に一度くらいの手間ですし、たまには故人を偲んで物思いにふけるという日もあっていいものと思っていますので。
 供養して欲しいと望んでいる先祖もいるでしょうから、それくらいの願いは叶えても良いんではないでしょうか。
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この回答へのお礼

全く同感のご回答ありがとうございます。
わたしも、亡骸は自然に還すべきだと思っています。
生命誕生の昔からそのようにしてきていますし、それで自然のバランスが取れてきていました。
土葬はまだ自然に還るからいいとも思いますが、火葬は自然のルールを無視したやり方ですよね。
衛生上の問題もあるでしょうけど、やはり自然に還すべきと思っています。
現在法律で定められているためどうしようもありませんが。

私の母は海葬(?)でしたっけ、「骨は海に捨てて欲しい」といっていますし、私もそのようにして欲しいと思っています。

話がそれましたが、やはり気持ちの問題ですね。
私も命日には手を合わせますが、形式ばった法事が嫌なんです。

お礼日時:2003/02/14 21:32

もともと仏教はお坊さんを呼んで葬儀を行うものではありませんでした。


今のような形になったのは江戸時代の檀家制度あたりからです。
塔婆供養、戒名など必要ありません。お坊さんを呼んでお経を唱えてもらっても成仏するわけではありません。いわゆるお金儲けです。

供養はその人個人の問題です。
信仰してるのならお経を読んで回向と言う形がありますが、ほとんどの方が無宗教なので自分独自のやり方で供養されたらいかがでしょうか。(遺影に向かって手を合わせるなど)
先祖が浮かばれるか浮かばれないかは先祖の生前の行いがすべてだと思います。
善い行いをしたか悪い行いをしたかによって次の生が決まってしまいます。
よって先祖供養はしてもしなくてもどちらでも構わない。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり気持ちの問題ですね。

やはり先祖の霊っているんでしょうか。
浮かばれない霊を見た人がいるんでしょうか。
また、なぜ浮かばれないのか、その理由をどうやって知ったんでしょうか。
疑問に残ります。

お礼日時:2003/02/14 21:18

度々 書いておりますが・・・



故人の供養とは、残された人の安心感・満足感であると思います。
 お墓に遺骨を安置し、仏壇に位牌を祀り、お経をあげる事で安心でき先祖が満足していると思えばそれでも良いと思います。
 なにもしなくても故人を思い自分が安心できれば、それでも良いと思います。

残させた人の自分勝手だと批判を受けた事がありますが、
 世間体を氣にして形だけの供養をしても故人に対する真の供養ではないのでは・・・

当方は両親のお墓も仏壇も作り、お寺の檀家(寺が一方的にしたようですが)で、年3回は家に僧侶が来てお経をあげますが家族や兄弟がそれで安心・満足であれば良いと思っています。

 自身は「神は我が心にあり」で無宗派です。

お墓も仏壇も法要も故人を供養(残された人の安心・満足)するための用具です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
気持ちの問題なんですね。

お礼日時:2003/02/14 21:14

現実的な問題として先祖供養に不必要さを感じる人は、金銭的な事が


浮かぶと思います。あと、付け加えるのならば世間体。
自分の家族が徹底した"無心論者”であれば供養などしなくてもよいと
思います。しかし、今の一般的社会では、まだまだ無心論者的行動は
受け入れられていません。そこで問題になるのが世間体。
別に他人にどう思われてもよい、と思っていらっしゃるのならば考えを
貫くべきです。しかしその場合、あなたを原因として世間からの非難を
あなたの家族が受けるわけです。あなたの家族がそれを承知なのであれば
先祖供養などしなくてもよいのではないですか?
僕はajisioDXさんのおしゃるように先祖への敬虔な気持ちを持つことが
先祖供養の本来のあるべき姿であり、一番の必要事項であると思うの
ですが…。♯1さんの発言、
>「先祖供養してない…」というのはまさに脅迫産業である宗教の悪い側面
これは言い過ぎです。宗教=脅迫産業という考え方は、宗教の社会的存在
意義を知らないからこそ出てくる発言だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり遺族側の気持ちの問題なんですね。
結局はばちがあたるとか浮かばれないなどという事は無いのでしょうか。

お礼日時:2003/02/14 21:12

先祖供養の一つは亡くなった方を忘れないためではないでしょうか・・・?


実は私の父方の親族は、誰一人先祖供養なんてしていませんでした。お仏壇すらなかったそうです。お墓もなぜか山口県(山口に親族はいません)にあり、母が初めてお墓参りに行ったときも荒れ放題だったそうです。それを見兼ねた母が自分の貯金で実家のそばの霊園にお墓を立ててあげたそうですが、お墓を移す時に誰だかまったく分からない遺骨が3つもでてきたそうです。
やはり、ご先祖あっての自分ですから忘れてはいけないと思います。
先祖供養をしている時って、誰もがほんのちょっとでも亡くなった方を思い出しますよね?それって結構大事なのでは?
あと人って死ぬ時に、もの凄く寂しさや孤独や恐怖を感じるそうです。それらを抱えたままあの世へ行くのですから供養してあげないと安らかには眠れないでしょう。
何かのTV番組で有名な陰陽師(池○○尋)さんが「まったく無意味な事柄が何百年何十年と語り継がれるはずがありません。物事すべてに何らかの意味や歴史上の出来事を持ってこんにちにいたるのだから・・・」と言っていました。
そう言われればそうだなって~って私もおもわず納得...TVなのに。
他にもいっぱいエピソードはありますがやめおきます...変な誤解されそうなので...。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり、遺族側の気持ちの問題なんでしょうか。

亡くなった方のことを思い出すことは大事なことなんでしょうか?
何がどういうふうに大事なんでしょう?
また、供養しないと安らかに眠れないというのは誰かがそういう様に考えた結果で空想論ではないのでしょうか。
実際に安らかに眠れない人がいるんでしょうか。

決してこれは反論ではありません。純粋に知りたいのです。
orijinaruさんに歯向かったようなお礼で申し訳ないのですが、そのような気持ちで書いたわけでないことをわかってください。

お礼日時:2003/02/14 21:09

元々供養はどこから始まったのか・・・。

テレビの受け売りなんですが(^^;

イラクのシャニダール洞窟を発掘していたら、6万年前のネアンデルタール人の
お墓が見つかり、その遺体を調べると、片目を失明したものや
右腕を生まれながら失っていたものがいたということです。
しかしその体が不自由であったろうその人達は大変な長生きをしていました。

ネアンデルタール人達は狩猟して生きていました。
体の不自由なものは、猟などはできなかったでしょうから、他のものから
食べ物を貰わなくてはいけなかったはずです。
より猿に近いといわれていた彼らにも、仲間を大切に思う気持ちがあったということでしょう。

また、お墓から無数の花粉も見つかったそうです
その人達は仲間の死を悼み、その近くに咲く色とりどりの花を
イッパイ摘んで遺体にささげたのだろうと思われています。
ネアンデルタール人は仲間を慈しみ、死を認識し、悲しみ、花で捧げた
最初の人類ではないかと推測されています。

このように人の死を悼むのに、形というのは後からきて、本来は
花を捧げる、それだけだったろうと思います。
(人が死んだらどこに行くの?あの世?死んだら何食べるの?
とか考え出すとお墓にあの世で食べる穀物を入れたりしだします)
普通死んだ人にはもう何もしてあげられません。
何かして上げたいと思う気持ちから、今の葬儀のスタイルが生まれたきたのでしょう。

あなたが葬儀を嫌っていたとしても、それは兄弟や親を愛しく思っていないという訳
ではないと思います。ただ、今の葬儀のスタイルに気持ちが感じられないだけなのでは?

最近は人は地域とか伝統とかにあまり関わらなくなってきましたし
宗教色の無い葬儀スタイルが増えてきています。
親御さんがどんなのを望まれるか判りませんが、それはまだずーーっと先の
ことでしょうから、その頃はもっと自由になっていると思います。
みんなが1番気持ちの感じられるスタイルにしたら良いのではと思います。

私自身は仏教の生死感が好きですし、うちの婆様が仏様LOVEでよくその事
について話しますので今の葬儀スタイルに違和感はありません。
今までの仏教風で行くと思います。
生きている骨董品達も(^^;それで気が休まると思いますので。
(長文ですみません/あ、興味があったらNHKスペシャル「生命40億年はるかな旅」みてください(笑))
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
他の方へのお礼で既に述べましたが、亡くなった方への感謝や敬意の気持ちはあり、また別れの儀式として葬儀は参加します。
私が知りたいのはその後の供養なんです。実際に供養しないとどうなるのか...

NHKスペシャルは私も大好きで良く見てますよ。
驚異なる宇宙、人体など。

お礼日時:2003/02/14 21:01

こんばんは。


つまりは「敬意」の問題だと思うのです。
生きている人間、なかでも家族に対しては、「敬意」を持って接するべきだと思います。
そのことは、亡くなってしまった方に対しても同様だと考えます。

「先祖供養」と言うことが、立派な産業になってしまっているのは仕方の無いことだと思います。
このような「産業」に同調する必要はないと思いますが、故人に「敬意」を払う意味でならアリかと思います。

>必要性があればしますが、その必要性がわからないのです。

必要なのは「敬虔」な気持ちになれることだと考えます。
人が生まれるとき、そして亡くなっていく時に、「敬虔」な気持ちにならない人は信用できません。
(別にあなたがそうだとは全く思いません。)

あなたが嫌ならば、参加する必要はないと思います。
なにも形式ばった供養が、亡くなった方への礼節のすべてではないですからね。
ただあなたなりの、亡くなった方への接し方を考えて欲しいです。出来ると思います。

(自分は「初詣」に行くくらいしか、宗教とは接していません。)
(それと1#さんの「ボーズ」は論外だと思います。)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
要は気持ちの問題ですね。
私も身内や身近な人が亡くなった時は生前の感謝や敬意を持って手を合わせますが、1回忌、3回忌などとても無駄なように思えるのです。
やはり仕方なく参加しても無意味なので自分の考えを通そうと思います。

お礼日時:2003/02/14 20:54

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