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・パキスタンで、コーランを燃やしムハンマドを批判した男が死刑判決を下された。
 ・日本(富山)でコーランが破かれているのが発見されムスリムによる抗議デモが起こった。

 いずれもウィキペディアに載っていたのですが、これを見て疑問を持ちました。
 イスラム教は唯一の神を信仰するもので、コーランは神の言葉=神の一部であるということですが、それは当然コーランの「内容」であって、被造物である本そのものではないわけですから、本=インクのついた紙が焼かれようが破かれようが何の問題があるのでしょうか。本を粗末に扱われることを忌むのはまさしく、イスラム教において禁じられている偶像崇拝の消極的な一態様ではないかと感じました。少なくとも部外者からみると同じことに思えてしまいます。
 神仏混交の日本人である私自身の素朴な宗教感覚としては上記の事件は「ムスリムがコーランを焼くなんてそりゃ罰当たりだ」などと思うわけですが、それはいろんなものに神が宿るであるとか言霊信仰云々といった神道的な感覚に過ぎず、イスラム教というのはもっと純粋というかいろんな意味で徹底された宗教である、と思っていたこともあり違和感を覚えたわけです。
 あと、そもそもイスラム教に「聖地」があるというのも少し違和感があります。義務の一つに巡礼がある以上当たり前といえば当たり前なんでしょうが、メッカの土地や街も、他のものと同様神の前で平等であるべき被造物なのに、そこだけに宗教上の特別な意味をもたせるというのは一種の偶像崇拝ではないでしょうか。
 宗派によっては偶像崇拝を全面禁止しているわけではないところもあるということは知ったのですが、どうも合点がいきません。 
 
 私はムスリムではありませんし、知識もほとんどありません。なので的外れな質問なのかもしれませんが、ムスリムの方や、ムスリムでなくてもイスラム教に詳しい方にこの疑問について教えていただきたいと思い投稿しました。よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

こんにちは。



コーランを破ったりしてはいけないというのは、イスラームの伝統的な信仰的感情であって、信仰の概念的なものではないのだと思います。

コーランが、信者でない人たちにも見られるようになったのは、近代になってからのことです。長い間、翻訳も禁止されていました。千年以上もずっと信者以外には触れられてこなかったもので、これは他の宗教にはないことです。それほど大事にしてきたものです。それは、偶像崇拝とはまったく別ものです。偶像崇拝というのは、信仰の対象を「(物質的な)モノ」にすることであって、信仰の媒介となるコーランは違うものだと思います。

現代の日本でも、神社で不道徳な行為はしないのは常識的なことで、福沢諭吉が御神体に不信心な行為をしたことを取り上げたところで、福沢の不道徳な行為で神罰が下らなかったということが、評価できるものではありません。単に常識のない若気の至りだったにすぎません。

他人の大事にしているものが何であれ、それを蔑ろにしたり、粗末にすることに何のためらいも感じないとしたら、それは人としての良心に問題があると思います。メジャーリーグのイチローが、彼のバットを粗末に扱われたと怒った場面がテレビで報道されたことを観た方もいると思いますが、それと同じようなことだと思います。そのバットそのものでヒットを量産しているわけでもありません。他人には、その大事にしている本当の気持ちは理解できませんが、ただ、それを尊重してあげることはできると思います。

一部のたぶんファンダメンタリストの過激な行動には、国際的にも問題はあります。それは、私たちが、その宗教を知らないのか、それとも、彼らが信仰を履き違えている部分もあるかと思います。ムスリムにも、仏教のように、大乗と小乗の違いのようなものがあるそうです。日本でも海外でも同じですが、外部の者には、本質的なことは理解できないし、なかなか言及できないことですが、少なくとも歴史的宗教に対しては、その伝統的な信仰に対する敬意と尊重はするべきことで、それを自分たちの論理だけで判断すべきものではないように思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
人の大切にしているものを粗末に扱わないのは人間として当たり前の道徳ですから、この意味でコーランを大切にすべきというのはよくわかるのです。
が、そのように伝統的一般的な道徳としてとらえる限り、死刑やら抗議デモというのは行きすぎではと思うのですが…(抗議デモでは「破った奴を殺す」という声があがったそうです)。コーランでない普通の本を焼いても、それが焼かれた本人にとってどんなに大切なものでも、さすがに死刑にはなりませんよね。ムハンマドを批判したという事実の方が問題なのかもしれませんが、あくまでムハンマドは人間で無謬の存在ではないはず…

>偶像崇拝というのは、信仰の対象を「(物質的な)モノ」にすることであって、信仰の媒介となるコーランは違うものだと思います。

これは?です。仏像やマリア像を拝んでいる人は、仏像やマリア像を信仰の対象にしているわけではないと思いますよ。あくまで対象は仏様、マリア様だと思います。
でも実際それは見た目で区別できないから、単純に外形的にモノを崇拝する行為を禁止しているんだと解釈しているんですが。コーランを極度に大事に扱っていると、ただのインクのついた紙を大事に扱っているのか、神の言葉を大事に扱っているのか区別できません。

お礼日時:2009/03/11 22:16

こんにちは、No5です。



あまりにも、身も蓋も無いこと言ったので、質問者様を絶句させてしまったようです。

しかし、これだけをいわせてもらいますと、、、、

マハトマ・ガンジーはご存知の通り、ヒンドュー教徒です。

彼のイメージから平和的な宗教を想像する方もいらっしゃるかも知れませんが、

ガンジーがよく言う「コーランも、聖書も、(バカバット)ギーターも私にとっては同じくらい尊いものだ」という言葉に出てくる、

バカバット ギーター、 これは戦争の話です。

戦争の最中に、最高神ヴィシュヌの化身のクリシュナとその友アルジュナの会話が、主な内容ですが、

比喩を理解しないまま読んだら、とてもじゃないけどガンジーのような気持ちには成れません。

『むしろ、ガンジーを射殺したヒンドュー過激派の気持ちに近いものがあります。』

『神の為に、人を殺すのは罪ではない。』と教えているのですから。

こんなものを読んで非暴力非服従運動(サチャグラハ)をガンジーは、始めました。

また、バカバットギーターなんなてのは、まだあんまり残酷でない方で、ヴェーダ経典にはハリウッド映画のホラーでも、ここまでは、、、という残酷な話もあります。

ナラシンハという神様の話なんか、いくら悪魔相手だからといって、、、腹を掻っ捌き、腸を引き出し、、、、等グロテスク過ぎるはなしです。 興味があればグーグル画像検索で「ナラシンハ」と検索してください。 腸を引き出している残酷な神像が見れます。

結局のところ、話が長かった割りにしょうも無い結論ですが、、、

『宗教依存症になり、全ての判断基準を経典に求め、自分で考える事ができなく成るなると、人は何をしでかすか分からない。 しかし、自分で考える人は、どんな宗教を持ってもおかしくならない。』

という事になると思います。

こんな事分かりきっていますね、、、、、、、。

お邪魔しました
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この回答へのお礼

ありがとうございます。いえいえとんでもないです、お礼が遅れて失礼しました。

ガンジーの話は面白いですね。多神教のヒンズー教徒だけあって、日本人の感覚に馴染みやすいと思います。

そうですね、宗教は用いるもの次第だと思います。

お礼日時:2009/03/28 15:45

すいません、身も蓋も無い事言います。



モハメット自体が、コーランの中で自分で、自分が決めたイスラム教の教えを破り、女奴隷と寝てしまいアラーの神様に怒られているシーンがあるくらい衝動的な行動をするイメージがある宗教ですが。

質問文の事件もイスラム教とは関係なく、中世キリスト教の魔女狩りもキリスト教とは関係なく、ブッシュのイラク戦争もアメリカ人の道徳観と関係なく、日本の戦時中に中韓東南アジア侵略も仏教や日本人の道徳観と関係なく、

『アホが指導者になると、周りが迷惑する。』

という事になるのではないかと思われます。

一応、コーランには「無神論者等(だったかな?)を殺してよい。」と書かれていますが、他の箇所には平和を重んじる教えも書かれています。

また、旧約聖書には、「魔女は殺さなくてはならない。」、「酔っ払いのろくでなしの子供を持ったら、親は子供を殺して良い。」と書かれていますが、「汝殺すなかれ。」とも書かれています。(だから、実際に殺す事はありませんね。)

アホな指導者が上に立つと、『とんでもない箇所を強調する。』『んなアホな!』という事を指導します。

新興宗教がする犯罪、変態行為も、案外経典の意味を曲解したものが多く、勝手に変な教えを創作して信じさせているわけではなくて、『このように経典で書かれているから、皆~~~しようね。」って言って犯罪をするんですよ。

キリスト教で言うと、魔女狩り以外にも、アブラハム、ダビデ等の一夫多妻なんかが、スケベにはもってこいも模範ですね。

仏教では、理趣経なんかが 「欲、みなおしなべて清らかななり。」なんて深遠な言葉も、曲解すれば、もうどうなるのやら???

イスラム教に限らず、『アホ指導者が立つ限り。』キリスト教だろうが、仏教だろうが、無宗教だろうが、関係ありません。

以上、身も蓋も無い意見でした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
おっしゃるように、古い宗教というのは多くの場合なんでも入る容器のようなもので、「使う」者によってどうとでも変わりうるというのは常々思います。宗教的権威が正当性の根拠として用いられているだけのこともあるかなと。キリスト教、仏教、日本の天皇(神道)は割とその性格が強いように思います。
ただイスラム教は、「容器」にとどまらない強烈な色をもった宗教だと思っていたんですけれども、そうでもないのかなあと思い直した次第です。

お礼日時:2009/03/28 15:41

 同感する者です。



 聖なる書物やその読む(唱える)行為など それらは 大事なものごとだから 偶像ではないというのは 理解が出来ません。
 神性が宿っているから 偶像ではないというのは 矛盾です。
 
 それなら 被造物すべてに 神性は 宿っているということでしょうから 端的に言って ひとを殺すことは いかに ジハードであっても 赦されないと考えます。どの神を信仰していても 信じていなくても その人という存在に関しては 同じでなければおかしいと考えます。
 わたくしも
 ★ どうも合点がいきません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
イスラム教に限らずどの宗教にもいえることかもしれませんが、なんとなく矛盾ぽい、そして結果が極端な(これはイスラム特有)ところが見られるように感じますよね。「極端」というのは私たちの価値判断でしかありませんが…

お礼日時:2009/03/11 22:36

1番です。


>「記載したもの」に過ぎないですよね。本それ自体は神の言葉でもなんでもないわけですよね。

コーランを破損する事は、紙の言葉をも破損する行為だと考えれば、理解できるのではないでしょうか。
コーランそのもの(書籍)を破損する行為は問題なくても、コーランの内容を破損するものと考えれば、疑問が解消すると思います。
そもそもコーランは、神が人間に伝えた言葉であり、書物に書かれたものだけではなく、暗記して唱えるものもコーランです。
ですから、コーランの書かれた書物が神性を帯びたものではなく、コーランに書かれた紙の言葉にそもそも神性が宿っていると考えると問題が解決しませんか。
よって、誤植のコーランには神性は伴わないと思えます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
わかるようなわからないような、微妙なところです…
耳なしほういちではありませんが、体中にコーランの言葉を書き連ねて悪いことをするとどうなるんだろう?とか考えてしまいました。

お礼日時:2009/03/11 21:56

イスラムの偶像崇拝というものを理解していないために起きる疑問だと思えます。


「偶像とは何か」という事、「なぜ偶像崇拝を禁止しているのか」という事を理解しますと、その疑問が解けます。
偶像とは、神をまねて造ったものです。
しかし神は、人間には見えません。
では、見えない神をどうやってまねたのでしょうか?
「偶像とは、人間の頭の中で作り上げたものでしかなく、それは偽りの神である」というのがイスラムの基本的な考え方です。
よって、偽りの神を崇拝する行為を禁止しているのです。
しかしコーランは、神がムハンマドを通して述べた言葉を記載したものです。
コーランを焼く、コーランを破損する行為は、コーランという物を破損する行為ではなく、神の言葉を忌ましめる行為となります。
そのために、コーランを破損する行為に対して、イスラムの怒りがおこります。
このへんは、キリスト教(特にカトリック)との差異になります。
その事が理解できますと、聖地に関する疑問も理解できるようになると思います。

この回答への補足

 下のお礼では、「記載したもの」の部分を強調したかったんですが失敗しました(汗)。

補足日時:2009/03/09 20:59
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この回答へのお礼

 ありがとうございます
う~ん、やはり疑問は消えません…

>コーランは、神がムハンマドを通して述べた言葉を記載したものです
                         ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

そうそう、そうなんですよ。あくまでも「記載したもの」に過ぎないですよね。本それ自体は神の言葉でもなんでもないわけですよね。神の言葉を記載したものだからということで単なる物体が神性を帯びるとするのはそれは一種の偶像(的なるもの)だと思いますが。おっしゃる定義に従えばたしかに偶像そのものではないですが、偶像崇拝禁止の趣旨から考えると、やはり「コーラン崇拝」も禁止すべきことのように思えてしまうのですが。
 例えば、とある一冊のコーランの一部に誤植があったとします。そのコーランを破損する行為は神の言葉を冒涜する行為になりますか?重ねての質問で恐縮ですが回答いただけると嬉しいです。

お礼日時:2009/03/09 20:58

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