私は実感として、人生やこの世など、理不尽で苦痛極まりないものとしか思えないのですが、この世に生まれてきてよかったと思える方は、なぜそのように思えますか?

但し、この質問の回答者様は、これまでおおむね、自分の希望が叶わず、思う通りに生きてこれなかった方に限らせていただきます。

A 回答 (8件)

再度回答いたします。



この世に乗り越えられない不幸などないと回答した者です。

回答者さんの周りでは自殺者が多いのでしょうか。自殺者のほとんどはノイローゼという、病気がもたらすものが多く、病気による自殺と考えられなくもありませんが、人間は心に病気がなく、空腹感だけでは、凶暴になることはできても、なかなか自害で死ねない動物なのです。

心に病気を持つことは、人生が苦痛だからかかるという単純なものではありません。もともと潜在的にあった、DNAの傷が、ストレスの過大によってもたらされる複合的な病気であり、先天的な病気の一種と捉えるべきでしょう。

多くの人間はストレスや困難が続くと、それを麻痺させるために、記憶や行動を抹消させる作用が働くようです。人間の内面で、確実にストレスと戦っている様子が伺えるわけです。

人間は有能です。どんな困難が生じてもそれを乗り越えるための、知恵も勇気も行動力も実は兼ね備えているのです。神がおそらく存在するとすれば、この人間の潜在的な適応能力にこそ存在するものであります。

人間はそれ自体完璧な存在ではありますが、誤った考えや、無知な行動に捕われる事で、能力を出し切れないでいるだけなのです。この世の仏と呼ばれる人も、幸運な人も、貧乏な人も、不運に遭う人も同一の能力を持っているのです。

この世の存在意義が、やがては人間のたゆまない困難の克服とともに、明らかにされていくでしょう。
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ANo6です。



>この希望が挫かれることを意味しませんか? しかも、奇想天外な展開ともなれば、それこそ計画性もビジョンも成り立たないような状況に追い込まれるように想像するのですが・・・。
これはどこに自分の生き方に重きを置いているかの違いでしょう。
質問者さんは計画性を重視して、わたしは意外性を重視しています。

>それはどのようにしたら、そのような発想ができるのか、伺いたいです。
これはムリですね。
上記の様に基本的な生き方のスタンスが違うので意外性に希望を持つなんて発想はできません。

昨年大怪我をして体がちょっと不自由になりました。
計画性を重視するなら結構悲観的になるかもしれません。
わたしの場合は生きていると分かった瞬間に「アチャー!次なにしようかなぁ」なんて血だらけになりながら考えていましたからね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そうでしたか。なるほど、お見受けしたところ、どこまでも「陽」の人と推察します。故藤田元司さんが、長嶋茂雄さんを、著書の中で、「マネできるものではないれけど、どこまでも太陽に近い存在なのだ。」と
書いておいでだったのを思い出します。

ご指摘の通り、もし私がご回答者様の立場だったら、途方に暮れるでしょう。

この場合、もっと根底的な部分からの違いが起因していると思われますが、その場合、このようにも思えるということなのでしょうね。

お怪我ですが、お大事に。

お礼日時:2009/03/28 21:25

>この世に生まれてきてよかったと思える方は、なぜそのように思えますか?


奇想天外な展開ばかりの人生なので次が楽しみです。
どん底もあったけどね。

>自分の希望が叶わず、思う通りに生きてこれなかった方に限らせていただきます。
思うとおり行かないと言うより毎度毎度びっくりする感じですね。
こうなると思う通りになるなんて面白くも何ともないです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
人間や人生にとって「希望」は大変重要ですよね。
しかし、思う通り行かないということは、この希望が挫かれることを意味しませんか? しかも、奇想天外な展開ともなれば、それこそ計画性もビジョンも成り立たないような状況に追い込まれるように想像するのですが・・・。

もし、そのような状況下でも、希望が持てるとおっしゃるんでしたら、それはどのようにしたら、そのような発想ができるのか、伺いたいです。

お礼日時:2009/03/28 19:57

「何かをもらうために生まれてきた」のではなく


「何かを与えるために生まれてきた」ことに気づいてからというもの
この世に生まれてよかったと思えるようになりましたね。

欲張りさんほど他人と自分とを比べて、すぐ損した気分になるもんです。
そのこと自体が損なのにね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私も何も人生を損得で考えているわけではありません。
ですが、理不尽な苦痛に辟易しています。

理不尽とは社会の本来尊いとされるもののほとんどを壊します。
「信用・信頼」が壊れ、「不信・憎しみ」が生まれます。
「希望」が壊れ、代わりに「絶望」が生まれます。

「何かを与えるために」とは、すなわち志とも言えるものでしょう。
つまり、希望ですが、こんな破壊的状況下で、できうるいいことを
大切にしていこうと思います。
それが、「生まれてきてよかった」ということにもつながればいいのですが。

お礼日時:2009/03/28 19:36

この世は理不尽で、苦労や苦しみや困難が多く、自分の希望道りに進めず、思いと全く違った人生を体験するものです。



しかし、幸不幸はこれには影響しません。未来に訪れるのでもなく、昔よかった時のことでもありません。困難にぶつかりながらも、何とか不屈の精神で生きてこれた現在の瞬間が楽しくて、仕方がないのです。

これは、苦労などは乗り越えるために存在する仮の現象と捉えるべきなのです。

この世に乗り越えられない悲しみなど存在しません。喜びとは悲しみを乗り越えたところにしか存在しないからです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
確かに人生には分岐となる試練があり、それに勝れば、道が拓かれるのは確かです。しかしそれはあくまでも克服できればの話。

年間自殺者が3万人を突破してから10年が経過したと聞きます。民放で、深夜に放送されているドキュメンタリー番組などにも、そのような、絶望的状況に追い込まれた方々のことが出てくることがあります。
こんなのを見るたびに、「外国に私たちの税金である金を、ODAと称して、外国にあげてしまうなんて。外国を助けるどころじゃないだろうに。国内の困った人々にために、金を使え。」とも思うのですが。

このような、もう既に他界した方々の霊に向かって、果たして、「実はこの世に乗り越えられない困難や悲しみなど存在しません。喜びとは悲しみを乗り越えたところにしか存在しないからです。」なんて言えるでしょうか。

最近私は、現実の困難とは、自身の能力で収まる程度の困難なら、あるいは克服も可能かもしれず、自身を磨く機会にもなるかもしれないけれど、実際は、困難とはその自分の能力や受け入れる余力をはるかに超えた、殺人的で破壊的な性質を持っている場合の方が多いと思っています。実際あの3万人の方々のほとんどがそうでしょう。生前に相談すべきところに出向き、生気が乏しくなりながらも、そのだいたいの場合、「生きるにはどうすれば」ということを相談にみえていたそうです。

また、過労死やいじめなんかで死んだ少年たちなんかもそう言えるでしょう。彼らは企業エゴや、人の嫉妬やエゴイズムの犠牲者ですが、はた目にも、とても乗り越えられる程度のものだったとは思えません。

これがこの社会の苛虐な現実なので、質問のように、「それでも生まれてきてよかったことは?」という質問になったわけですが・・・・。

お礼日時:2009/03/28 19:17

赤ちゃんを見ている時ですかね。


自分は病気なので一生家から出ることはないですが、妹の子が5ヵ月と4歳です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
この質問は、言われてみれば、相当「赤ちゃん」の存在に関係することでもあります。
実は私はこの問題でも、大分辛い煩悶を繰り返しています。
家庭を持ったにせよ、現実の社会で生きるということは、実際これだけ凄惨を極めるわけです。

私はだから、よくこのことでも苦悩するんです。「果たして、現実の世の中はこれだけ酷いところなのに、その現実を知っていながら、それでも尚、愛するわが子を、こんな地獄みたいなところに放り込んだもんか?」と。「こんな苦痛を味わせることがわかりきっているなら、止めた方がいいかな?」とも思うんです。

お礼日時:2009/03/27 03:44

きれいな答え(質問者さんが望まない答え)をするなら、思いのほか可愛い女の子とベッドを共にしてええセックスができたときですね(どこがきれいな答えやねん)。


汚ったない答えをすれば、思いのほか好みのタイプの可愛い子が超ツボにハマるエロいことやってるエロDVDに出会ったときに「地球にー生まれてーヨカッター!」と思います。ええ、ワタクシにとっては大沢佑香嬢がAV嬢になってあんなエロいことしてくれたことが地球に(以下略)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
おっしゃりたいことはわかりますが、それだけの思いをしたにせよ、
例えば、それまでの人生で、人は誰もだいたい1日数時間を寝て、毎日食事するということも必要不可欠なのでするわけです。

それだけ生きるのに欠かせないことなのに、私たちは果たして、
毎日の食事なり睡眠を振り返って、それほどまでにありがたいもの
として、「毎日食べれていい人生だった」とか、「毎日寝れていい
人生だった。」なんて思うでしょうか? 言うまでもなく、食べられることそのものは大変尊いことですが。「食べれた」から「生きた甲斐があった」では、多分、よほどのグルメ専門家が当てはまるような気がします。

「食べれた。」だから「生きてこれた。」のであり、最初から食べることそのものをだけを目的として人は生きてない気がするのです。
「食べる。」のは「生きる手段」なのであって。

おっしゃる性の点についても同様かと存じます。確かにその時は、満足するし、満たされ、感動もするものの、それは過去の満足にはなっても、今の満足をも満たすものではないような気もするのですが・・・。

お礼日時:2009/03/27 03:29

ないよ。




そろそろ開放されるべきだね
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そうですか。実は私もです。

お礼日時:2009/03/27 03:02

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