プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 次の命題を検証するのをたすけてくださいというのが 質問趣旨です。

 【命題】:おしえる者は ほんとうには ただ記号(つまり通常は ことば)を伝えるだけである。
 これを受け取って おそわる者は 自分の記憶野に尋ね 知解し 当否を判断する。
 ゆえに 単なる知識や情報のやり取りでないなら ひとは だれからも おそわることはない。自分で能力を開くのである。

 以前には 次の質問で つまり
 【Q:人が おしえる・おそわるということは どういう事態か】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4159557.html
において おしえる側とおそわる側の互いの間(または 関係)に 《まなぶ》行為があると捉えましたが 変わりつつあります。
 おしえてください。つまり ご見解を述べて 考えさせてください。

A 回答 (38件中1~10件)

なんかちょっと簡単すぎるような気が、、、



> 【命題】:おしえる者は ほんとうには ただ記号(つまり通常は ことば)を伝えるだけである。

否ですね。

行動を通した、あるいは環境を通した教育というものもあります。学校が生徒を集めるのは、そういう環境に置き、そこから学ぶという意図があります。弟子入りやOJTは、職場の環境におき、行動を見せることで教育します。

単に知識を言葉で直接伝達するだけなら、参考書と教科書だけで済みます。現実はそうはいかないので答えは自明ですね?
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この回答へのお礼

 precog さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 行動を通した、あるいは環境を通した教育というものもあります。
 ☆ つまりは
 ★ 生徒にとって 学校という環境
 ★ 弟子にとって 師匠のそばにいること
 ★ 新入りにとって 職場の環境とその実際の作業
 ☆ といったように 広く《環境》という要因として 《言葉をとおしておしえる》以上のことが ある。ゆえに 《おそわる者が 自分の能力を開発するという意味において 自力で おそわる》のではない。
 このようなご見解でしょうか。

 そうですね。ひとことで 反論をなそうとしますと こうなります。
 ○ その環境という要因も 言葉以上の情報を おしえたわけですが 《これを受け取って おそわる者は 自分の記憶野に尋ね 知解し 当否を判断する》。
 ☆ ということにはなりませんか?
 ○ ゆえに 単なる知識や情報のやり取りでないなら ひとは だれからも おそわることはない。自分で能力を開くのである。
 ☆ というふうにです。どうでしょう?

お礼日時:2009/05/20 14:36

人はディズニーランドに行って入園するとき、


その入園の仕方を1から10まで誰かに“教育”されてから行くのでしょうか? 或いは…人から教わってからじゃないとディズニーランドに入園できないのでしょうか?


私はまだディズニーランドに行った事はないですが(笑)、きっと誰かに“どうやって入園するか”をキチンと教えてもらわなくとも

1)周りの人がどこへ歩くのかからどこでチケトを買うのかを知り…、2)そしてそのチケットの販売機をどう操作するのかをその初めて見るだろう機械を見て理解し…
3)そして出てきたそのチケットを誰かに渡すのか或いは機械に通すのかを周りの人がどうやってるのか周りにどんな表示があるのかを見てその状況から知り…
4)うまく入園して楽しんでくる事が出来る。

と…思います。

私は周りの人に教わったことになります。 
それにどうやって機械を操作するか、そういった機械にはどんなスイッチがあるか等を学んだ記憶を引っ張り出すとは思います。
ですが…

その時私の周りにいた人は『私に教えた』ワケではありません。
私は前を歩いている一人のオバさんにがどこに向かうかを見て次にどっちに行けばいいのかを学んだかもしれませんが…
だからといって私が前を歩いていた人にいきなり『教えてくれてありがとう!』なんて言ってその人の手をとって熱い握手を交わしたら相手は『私は何もしてませんよ??一体何を言ってるんですか?』とびっくりされると思います。
それにチケット販売機も現在はそんな丁寧な表示をしてるワケでもないです…     …たぶん

つまり私は“誰かから或いは何かから教わったかもしれないが、そこに“教える側”なんて存在しませんが…

それが何か?


いやいや…それはさておき…

とにかくそのディズニーランドで目一杯楽しんできただろう私はきっと自信を持って高らかに叫ぶ事が出来るんです!

『私は“ディズニーランドに入園する”能力を自ら開花したぞー!』と…。


しかしながら…

今の私はそのディズニーランドに行くために終わらせないといけない大事な仕事がある。

不況と言われる今…
苦境にあるちっぽけだが大事な私の会社を如何にしてこの苦境から打破させるかを決め、そしてなんらかの新たな手を打たなくちゃならない…

果たして何をするか…

有名な経営者が苦境に立った時どうしたかどう考えたか何に目をつけたかというのが書かれたさまざまな本は読んださ。 たくさん読んだ。 
それに色んな人にも話を聞いた。
そうやって学んではみたが…
業種も違う会社の規模も違う置かれている環境も違う時代も違う…。
けど学ぶものはある…とは思ってる。
で…
言われたことが

『苦難のときこそ見落としているものがある!』

なんて事だった…

“結局(具体的には)どうすりゃいんだよ!”と言いたい気持ちが生まれるだけだったが(笑)

とはいいつつも
私は教えてもらった事、話していただいた事を踏まえて一つの事を考え出しそれをやってみる事にした。
それは『他の人(会社)と違う方法でやってみよー!(←単純)』という事だった。 
“こうすればいけるじゃないか!”と勝手に思い込んでる(笑)
よ~く検証し…“やってみる価値はあるかも?”という結論に至った。


もしもだ…
もしも私がこの夏ディズニーランドに入園できたなら…
そのすばらしき“デズニーランド”の園内できっとこうも叫ぶだろう…

『私は苦境を脱出する方法を一つ会得したぞー!!』てね(笑)
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この回答へのお礼

 sukebena_s さん ご回答をありがとうございます。
 ブラとは言っても あれとは違う bragelonne です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 つまり私は“誰かから或いは何かから教わったかもしれないが、そこに“教える側”なんて存在しませんが…

 それが何か?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ それが 一般的に言って ひとにおそわったのであり そのことの賜物だという意味になるのです 一般にはです。
 つまり 読み書き算盤を習い 世界のものごとや人間や社会のことについて 先人が学んだことを やはり 《おしえ‐おそわり》の関係において 学んできた結果 チケットを買うこともできるし 入口がどこかもわかるというわけです。

 ただし この《おしえ‐おそわり》の関係と言いましたが どうも わたしには その関係は まだ 表面的なものであって その基底では 《ひとが 自分で 自分に おしえている》のではないか。こう考えるようになったという意味です。そういう質問です。
 《学ぶ》という姿勢に 問題はないし それを変えるという意味でもありません。ただし わたしたちが ものをおそわるのは 言葉を伝えられることはあっても 手取り足取りでしつけられることはあっても そうではなく 実際に おそわるのは 自分の能力を自分でひらくことをとおしてではないのか。こういう問い求めです。

 お互いに 苦境を抜け出るよう つとめましょう。

お礼日時:2009/05/20 16:12

こんにちは


やっとラテン語の辞書を手に入れました。

virに恋人の意味もあるんですね。

それから
quiに譲歩の意味があると知りました。

譲歩。

私は今まで譲歩してきませんでした。

それと敬語を知らないし、
他人への思いやりに欠けていました。

これから敬語の学習をします。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご投稿をありがとう。

 ★ vir に恋人の意味もあるんですね。
 ☆ わたしの辞書(田中秀央編)には 《夫》はあるけれど 《恋人》はないみたいです。羅英辞典では 《 he-man 》とあるけれど 《恋人》とは違うよね。

 ★ qui に譲歩の意味があると知りました。
 ☆ あぁ 譲歩=《たとえ・・・でも》ですか。わたしの頭は さびています。
 そして 
 ★ 敬語 
 ☆ の問題にいくのですか。わかりました。ぼちぼち まいりましょう。

お礼日時:2009/05/20 18:53

>わたしの辞書(田中秀央編)には 《夫》はあるけれど 《恋人》はないみたいです。



私の辞書

羅和辞典 改訂版 水谷智洋 編 研究社

だと載ってますけど・・・
そう言われると不安になります。

virの意味が10個もありますよ。

でも、使用する辞書によって物事が変わりそうですね。

敬語は難しいです。
まだまだ、おかしな文章と表現が続きます。。。
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この回答へのお礼

 ご投稿ありがとうございます。

 ▲ (Charlton T. Lewis, Charles Short, A Latin Dictionary)~~~
 http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?doc=P …

 A. A man as related to a woman, a husband, maritus (very freq.)
 B. A man (opp. a boy)
 C. Pregn., a man, a man of courage, principle, or honor, one who deserves the name of a man
 D. In milit. lang.
  1. In gen., like our man, for soldier (syn. miles)
  2. In partic., as opposed to the cavalry, a foot-soldier (syn. pedes)
 E. With emphasis in place of a pronoun of reference, is, ille, etc
 F. Distributively, each man, every man
 G. Human beings (poet. homines, opp. pecudes)
 H. Manhood, virility (poet. and very rare)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これだと やはり 《恋人》は ないですね。どうなってんだろう?
 研究社は 信頼できると思うのだけれど。
 わたしのも 同じ研究社だった。
 1952年初版
 1966年増訂新版

お礼日時:2009/05/20 22:35

コプト語って。

。。

せっかく辞書も買ったのに。。。
それより載ってますよ。確認してみてください。


bragelonneさんの辞書が1966年増訂新版なら

私の辞書は改訂版です。
2009年3月 第1刷だから新しいです。

721ページ

vir viri,m1(女 feminaに対して)男、2(少年puerに対して)成人男子
3男らしい[真の]男.4夫.5恋人、愛人.6(通例pl)兵士(=歩兵);船員.
7(pl)人類. 8(is,illeの代わりに)あの[例の]男. 9(各)個人. 10男性としての機能.

この回答への補足

 お礼欄を補います。
 ○ コプト語が 比較的新しいエジプト語であること。
 ○ ヒエログリフに記された原エジプト語とその系譜が コプト語の以前にあること。
 ○ このエジプト語は アフロ・アジア語族に属しており セム語派とは 親戚関係ではあるが それ自体で エジプト語派を形成していること。
 ○ ゲエズは 文字の名前で アムハラ語というのが 一般であること。(ただし わたしは ロシア(ソ連)で出版された概説書で ゲエズ語として 学びました)。

 ▲ (ヰキぺ:アフロ・アジア語族) ~~~~~~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95% …

 アフロアジア語族
  エリトリア諸語
   ノルエリトリア諸語
    北アフロアジア諸語
      セム語派:ヘブライ語、アラビア語、マルタ語、アラム語、アムハラ語
      ベルベル語派
      エジプト語派:コプト語(古代エジプト語)
    チャド語派:ハウサ語
   クシ語派
      クシ語派:ソマリ語
      ベジャ語派
  オモ語派
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2009/05/21 09:55
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この回答へのお礼

 ご投稿ありがとうございます。

 ○ vir ・・・5恋人、愛人
 ☆ この(5)番が わたしのほうでは そっくり抜けています。むろん わたしのは 旧いものです。これ以上は どうも 限界のようです。
 あなたのは ページ数も かなり上回っていますから 新しい改訂があったことは そのまま事実を 物語っています。

 ★ コプト語って。。。
 ☆ エジプトの地の言葉です。セム語族に属します。つまり へブル語やアラビア語と親戚関係です。
 エジプトは アラビア語で 
 ○ ミスル misr
http://www.merriam-webster.com/dictionary/misr
 ☆ です。
 アイギュプトスって言いましたかね ギリシャ語で。そのうしろの部分 ギュプトから コプトは 来ています。つまり エジプトという意味です。例のユダの福音書が この言葉で書かれているようですね。

 ちなみに エチオピア(アビシニアでしたか)では 現代では 言語が 二つか三つに分かれていたと思います。そのうちのゲエズ( Ge'ez )語をやりましたが これも たしか セム語族だったと思います。

お礼日時:2009/05/21 00:06

とりあえず。

。。


フェルディナン・ド・ソシュール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7% …

シニフィアンとシニフィエ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8B% …

記号学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E5%8F%B7% …

この回答への補足

 とりあえず。。。
 ○ 言語記号の恣意性説は 妥当ではない。
 ☆ ことを 次の質問において わたしは 質問者とのやり取りとして 主張しています。
 ▲ (【Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?】)
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3187871.html 
 ☆ わたしは 途中から投稿しています。→ noname#80116
 ソシュール自身の説としては 必ずしも 明らかではないので 具体的には 丸山圭三郎の説を批判の対象としています。

 そのさわりを掲げます。
 (1) 《なぎ nagi 》という発音形態は 《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》の三つの意味の語をかたち作っている。これを 暇に任せて分析してみると 互いに同じ類型の意味内容をも持っていると分かる。《障害を除去する。邪魔と見做されたものが除去される》という意味の類型である。(自動詞と他動詞の違いは つねにあると見ておくことができる。)

 ○ なぎ nagi =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ
 (切り払うべきもの・波風・心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・これが消滅する という意味内容となっている)

 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。
 いま母音を無視し 初めの二音にのみ注目するなら いづれも 《なぎ nagi 》と同じ子音の配列から成ると分かる。つまり / n-g- /である。すると

 ○ nage-ru 投げる  (障害なく 延びて行かせる)
   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
   naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)

 このように やはりそれぞれの基本的な意味内容が 類型として 互いに同じものとして 取り出される。《なぎ nagi 》とつながった。

 (3) 実際 《和ぎ nagi 》は ほかにも 《障害の除去・邪魔の消滅》という内容を共通として 次の語をも 形成している。

 ○ nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜  (障害の消滅を希求)
   nega-u   願う     (障害の消滅を希求)

 (4) このように見て来ると 日本語では 子音という音素に なにか意味があるのではないかとの疑いが持ち上がる。だから 仮説を立てる。
  《な na 》と言えば   

 ○ na-si/na-i 無し/無い         (否定)
   na  な(禁止=否定命令を表わす)  (否定)

 そして 《否定》と《消滅・除去》とは 意味がつながる。ならば いますでに大胆に 《が・ぎ・ぐ・げ・ご ga/gi/gu/ge/go 》は 《移行・過程》を表わすと仮設する。《否定(=/ n /)の移行(=/ g /)》だから 《除去・消滅》の意味が発生したのだと。《障害や邪魔》の意味は あとで 付随してきたものであろうと。

  (なお もともとは 子音/ n /が否定とは反対の《同定の相》として そして子音/ k / が 《反出・反定の相 さらには 疑問・思考・変化〔ここから移行・過程〕の相》として それぞれ 仮説することになる。子音/ k / の濁音である子音/ g /は 清音/ k / の継続相を担うという展望である。)

 (5) 今この小論に付け加えたい例は 上に括弧書きで補ったように 子音/ k /を用いた場合である。

 ○ naki/ naku  無き/無く    (否定。障害の消滅)

 子音/ g /の場合も 次には含まれるけれども やはり 子音という音素に仮定した意味内容から形づくられる意味の類型が 明らかに見て取れると言ってよいと思う。

 ○ niko   にこ(和・柔)       (障害の消滅した状態)
   niko-niko にこにこ(微笑む状態) (同上)
   niko-ya-ka にこやか(同上)    (同上)
   nuku/nuke-ru 抜く/抜ける      (障害・邪魔の除去・離脱)
   noku/noke-ru 退く/除ける     (障害・邪魔の離脱。除去)
   nugu/nuge-ru 脱ぐ/脱げる       (同上)
   nugu-u/nogo-u 拭う         (同上)
   nige-ru/niga-su 逃げる/逃がす     (同上)
   noga-su/noga-reru 逃す/逃れる
 (ただし 障害や邪魔は 離脱する者のほうではなく ほかの者の側に 設定されている。)

補足日時:2009/05/21 14:27
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この回答へのお礼

   noko-ru/noko-su 残る/残す        (同上)
 (上の補注と同じように 視点の移動が見られる。消滅したもの・除去されたもの〔Aとする〕のほうではなく 以前の状態のままに留まったもの〔Aの否定=非A〕のほうに焦点が移ってしまった。)

 (6) ソシュールの言語記号の恣意性という思想は 《なぎ nagi 》という聴覚像(音)と《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》という概念(意味内容)との間には なんら自然的な論理的な絆はない と言ったのである。
  すべては 日本語なら日本語というひとつの体系をなす言語の 構造全体のうちに 互いの差異から・しかもその差異からのみ それぞれの語が 音と意味との恣意的な結合として 決められてくると。
 (シニフィアンとシニフィエとは 恣意的につながっているのだと)。 

 (7) 補注として。音素/ n / は 舌の先端を上の歯茎(もしくは歯肉)の裏側あたりに接触させて 調音する。たとえば音素/ t / も 同じように調音されるのだが/ n /は / t /と違って 接触の度合が濃く 粘着性がある。ゆえに/ n /は ものごとを同定する相を担うと仮説する。ちなみに/ t /は 接触の度合が薄いので 不定相と見た。

  同定相/ n /は あるもの A を同定していたところ 焦点が移動して 非A のほうを同定してしまった。そうなると この事態の意味するところは 元のものAの否定となった。
  留守というのは その家から出かけてしまった者Aのことではなく もともとは A のためAの代わりとなる留守番=非A のことを言った。非A を同定したことで A の否定を自動的に含み これが表に出た。
  こうして 同定相/ n /は 反対・対極の否定相をも兼ねる。

  音素/ k /は 喉の近く・口むろの奥あたりに緊張点を作って 息の音/ h /を遮りつつ調音されるゆえ 反逆児である。反出・反定の相。そして 反省・思考・疑問の相。さらには 変化・移行の過程の相だととらえた。その有声音/ g /は 母音のごとく声を出現させて調音することによって 無声音の持つ相に継続相を帯びさせると判断した。

お礼日時:2009/05/21 14:33

パルマコン



毒=薬
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この回答へのお礼

 ふうむ。

 ○ 薬としての《おしえ》 ⇒ 中毒

 ☆ たぶん 観念化そして規範化をつうじて。
 したがって 《おそわる》ということが・またその姿勢が くせになってしまうのでしょうか? あとは 慣性の法則。

お礼日時:2009/05/21 15:50

>《おそわる》ということが・またその姿勢が くせになってしまうのでしょうか? 



違いますよ。

言語の意味は「差異」によって決まる。。。らしい。

でも、bragelonneさんは

>言語記号の恣意性説は 妥当ではない

そう言って、ソシュールを批判していますよね。

恣意性の意味がわからないから調べたら
自分勝手に決めること。

でも、こうやって調べた意味と言葉を結びつけるのも
どうなんでしょうね。

使用する辞書によって言葉の意味が違ってくるなら

やっぱり恣意性はあるような・・・
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この回答へのお礼

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。でも この《言語記号の恣意性》説は もっと広く 大きな問題を呼んでいます。
 ひとは 自然状態とそれをあたかも脱したという文化状態とが あるとした場合 そういう見方は もう旧いと言ったのが この《恣意性》説にもとづいた構造主義の思想の部分です。
 つまり もはや 人間は 自然状態にはいないと言います。いわゆる本能がこわれているという見方ですね。動物ではないという意味です。すべて 自然の感性が 動物とは違って 錯乱してしまっている。そのカオスと そして片や 文化状態におけるノモス(規範性でしょうか)とのせめぎ合いの中に 生きているということだそうです。
 なぜなら 言葉において そのしるしとしての要素(シニフィアン)とその意味内容としての要素(シニフィエ)とは 互いの間に 何の自然的で論理的なつながりもない。このゆえだと言います。まったく 勝手に 音と意味とが結びつき合っているに過ぎないという説です。
 だから このように 言葉を用いて話をするにしても その基礎は もう失われているというわけです。いわゆる感嘆詞――ああ! だとか おう! だとか――には その自然状態の痕跡があるようだが 基本的に言って 人間は もう野生児には帰れないというのだと思われます。言葉の海を泳いで行かねばならない。いやいや そんな生易しいものではなく 言葉の檻の中で 窮屈な生活を送ることを余儀なくされているのだと言います。
 
 そんなことないよ! とわたしは 批判しました。

お礼日時:2009/05/21 21:01

すいません。



私も

>言語記号の恣意性説は 妥当ではない。

それに同意します。。。

なんというか
自分勝手でもいいという結論だと
ダメな気がします。。。
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この回答へのお礼

 胎動のころ     plutonien, plutonique

 ぼくは自分が陰画のままで生きて行かないはづはないと信じているのだろうか。それともぼくは頑迷に自分自身の焼付けを拒否し続けているのだろうか。

 それはむしろぼくが自分の絞りを極度に開け放してしまっているからかも知れぬ。ぼくは果たして自分で瞬間開閉器を押しているのかどうかさえ だから 怪しくなる。感光過度 現像さえままならぬ。

 しかし・・・
 ぼくは しかし 再びむしろ ぼくの乾板は 不感光の状態が つねなのだ。
 ただ 人が 有能な手品師よろしく かれの陰画を 陰画そのものを あたかも焼付けされ 引き伸ばされた陽画のごとく 手際よく おもむろに見せるとき ぼくの乾板は 猛烈な錯乱を起こしその勢いは 不感光にもかかわらず 潜像を写すのである。ぼくはこれを現像して その陰画となる。



 わたしは 自己の印画紙を忘却の河( Lethe )の早瀬に足を取られ 流してしまった。人が暗闇とよぶところ そこに行かなければ 焼付けも能わず わたしは 陽の映像を結ばない。

 人がこの世で印画紙の上に魔術を行なうとき わたしは陰画のうちに うづくまる。遠い旅路をふたたび歩みだす。わたしは日の光を超え 胎動のころに遡る。そこを経て さらに わたしはわたしの原形 両性の原細胞の結合の瞬間をとおり抜ける。その脱皮の瞬間 わたしは眩暈を覚えて倒れる。

 やがてわたしは この地に 自己の写真を見出すだろう。わたしは この地でふたたび〔原始的〕胎動を始める。この永劫回帰の原世界にてわたしは 岩漿となり やがて 深成岩としてまた日の光を浴びることだろう。

お礼日時:2009/05/22 22:04

今日も敗北しそう。

。。

どうせだから、構造主義といえば

クロード・レヴィ=ストロース
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD% …

パルマコンの話は

ジャック・デリダ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3% …

脱構築
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E6%A7%8B% …
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この回答へのお礼

 きょうも勝ちそう。
 ただし 
 ★ デリダ
 ☆ は てんで 分かりません。いくら読んでも ピンと来ません。
 ★ 脱構築
 ☆ の解説を読めば それは 分かります。ただし そんなことは 当たり前だとも思います。弁証法みたいなものだと思いますから。揚げて棄てる。

 ★ クロード・レヴィ=ストロース
 ☆ いま かかわりのある説は 例の《親族の構造》にかんする理論ですよね。わたしは いま 用意がありません。批判の側に立ってはいます。一日も二日も長のある先達が 来てくれるといいのだけれど。別のところで来てくれたから ここへも やってきてくれるでしょう。
 その人からも 聞いてください。

 あなたも ご自分の理論を披露しなさい。

お礼日時:2009/05/21 21:09
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