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ナチスドイツがユダヤ人を迫害している時にこの移民協定で、資本家だけが

パレスチナに行き、あまり裕福ではなかったユダヤ人が残り、それらが

ナチスによって大量虐殺されたということですか?


つまり、犠牲者はそういう人たちがほとんどだったということですか?

世界史を知らないので何がなんだか分かりません。
回答お願いします。

A 回答 (2件)

Ha'avara Abkommenと呼ばれる協定で、ハーヴァラというのはヘブライ語で「移転」を意味する単語です。


1933年8月25日にドイツの帝国経済省とドイツシオニスト連盟との間で結ばれた協定で、銀行家ハイム・アルロゾロフ Chaim Arlosoroffの仲介で三ヵ月にわたる議論を経て締結されました。
状況的には、1月末のヒトラー政権獲得と4月のユダヤ商店ボイコットの失敗を後に、公職官吏法や大学からのユダヤ人締め出しが行なわれていました。これに対して、世界的にはユダヤ人団体が中心となって、ドイツ製品のボイコットが行なわれていました。

シオニスト連盟側はドイツ国内からのユダヤ人の亡命をできるだけパレスチナに向かわせるため、ドイツ側は貿易ボイコットに対して、ドイツ商品を輸出する手段の一つとして合意を見ることになりました。形態としては、ドイツからパレスチナに移転する場合、ドイツの銀行に財産を預け入れ、それを担保に出国を認めてもらう。この金額で銀行は、ドイツ製品を購入し、パレスチナに輸送します。パレスチナに着いたユダヤ人は、担当銀行から現物支給にて自己財産を受け取ることができるようになりました。この当時、国際送金は普通に多額のマージンを取られる形態であったため、移転プログラムのマージンが高いように見えても、実際には通常のマージンと同等レベルであったと言われています。
ただ、プログラム利用の際、一人に対して最低1000ポンドの預金が必要とされたことから、実際に利用できたのはある程度の資産を持っている人が中心となりました。その一方で、持ち出し額に制限があったことから、それ以上の資産を持っているユダヤ人が、自分の知己に融資したりすることもあったようです。

このプログラムは正式には1941年まで存在しました。実際には1937年以降、プログラム利用が困難になり、1939年の開戦以降はほとんど利用不可能であったと言われています。このプログラムを利用してパレスチナに亡命したユダヤ人は5万から6万人と言われ、総額1億4000万ライヒスマルクに上ったと言われています。

このプログラムは、ドイツ国内でも国外でもそれほど肯定的に受容されませんでした。国内のユダヤ人にとってみれば、本当に無事に財産を維持するかどうか分からなかったこと、生命の危険がないという保障がなかったことが尻ごみさせる要因となりました。国外のユダヤ人団体にとってみれば、この協定はボイコット破りとも見えるわけで、ユダヤ人連盟間での意見の相違が大きな問題となりました。ナチ側から見れば、わざわざユダヤ人に便宜を図ってやる必要はなかったのです。しかし、これで国内のユダヤ人の多くを厄介払いできるかも知れないという現実政策的な観点から受け入れたと考えられています。

ドイツ語ですが、出典サイトを挙げておきます。
http://www.zukunft-braucht-erinnerung.de/holocau …
http://de.wikipedia.org/wiki/Ha%27avara-Abkommen
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この回答へのお礼

やっぱり存在してたんですね。


回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/04 02:21

・ナチスドイツがユダヤ人を迫害している時にこの移民協定で、資本家だけがパレスチナに行き、あまり裕福ではなかったユダヤ人が残り、それらがナチスによって大量虐殺されたということですか?



ちがいます

・つまり、犠牲者はそういう人たちがほとんどだったということですか?

いいえ

「海水は甘い」とか「太陽は西から昇り、東から沈む」などということを説明しろというのと同じです。
「ハーヴァラ協定」は、要するに「田中上奏文」や「シオン議定書」と同程度にしか信憑性ないですから(‥;)
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この回答へのお礼

本に詳しく書いていたので信じてしまいました。


回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/01 23:19

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