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 なぜ直接には説かなかったのでしょう?

 (α)の見解: バラモンないしウパニシャドの思想を改めさせるための開拓者として立ったから 直接には説かなかったが それはしかるべく後世において説かれるように用意はしておいた。
 それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。

 (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。

 (γ):その他(?)

 * もし(β)の見解を採る場合 ではブッダはいったい何を言おうとしているのでしょう? つまり潜在的な能力が普遍的にあるかないか分からないけれども いわゆる《さとり》を目指すということなのでしょうか?

 * ブッダにかんしては 何もちっとも分かっていないのではないでしょうか? 活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。なければ はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?

A 回答 (72件中1~10件)

仏性を悟り、説明したのがブツダです。

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この回答へのお礼

 なんともおこたえのしようがありません。

お礼日時:2009/08/21 08:44

おはようございます。



さて、繭の方に回答をしている段階で閉じられてしまい、言葉が消えてしましました(笑)
でも、今後の質問にも関連していくことでしょうから、気にはしていませんが。。。

で、私は「(γ):その他」です。

>>>ロジェ=ポル・ドロワ「虚無の信仰」、p.283
無神論を公然と唱えられるのを目にしたばかりのヨーロッパ、それ以来汎神論をめぐる華々しい議論がわきおこったヨーロッパにおいて、聖書の神の概念に相当する観念を完全に欠いた宗教の発見は、かかる信仰は神を否定するという結論に行き着くほかはなかった。
<<<
あらゆる物事には、(その人自身の立ち位置による)後付の解釈・見解がつきまといます。

ブッダにしても何にしても、その思想について(後付の解釈)「見解」を立てるということができても、そのことによって「はっきりとした」有無について「明らかにできる・できない」とは無関係でしょう。

形而上的思惟をきっぱりとしりぞけた(ごく初期の)仏教徒(おそらくブッダも含まれる)に対して、「しりぞけたから【無】だ」ということ自体が無意味でしょうし、「《仏性》は後日説かれるように用意していた」とか「《仏性ないし如来蔵》はブッダの説ではない」とかは、(ブッダにとっては)論外だと思われます。

このことは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7
での「宗派による見解の違い」も関与することでしょう。

>>>ロジェ=ポル・ドロワ「虚無の信仰」, p.9
仏教の「我」(アートマン、霊魂あるいは「自己」)は、指示対象をもたない術語である。我(アートマン)にかんして、いかなる問いを発しても、沈黙しか返ってこないのは、問いそのものが成り立たないからだ。たとえば、霊魂が死すべきものか不死なのかを問うことは、「霊魂」ということばがいかなる実体も指さない以上、子どもの産めない女性に、息子が丈夫なのか病気なのかを問うようなものだ。あるいは、毛など生えていない亀の体毛が硬いか柔らかいかを問うに等しい。
---
注:この言いまわしは、紀元5世紀頃のインドの(中略)「ヴァスバンドゥ」のものである(同、p.295)
<<<

《仏性》を求めるひとにおいてのみ、ブッダの向こう側に《仏性》という概念が想定されうる(見解が生じる)のでしょう。。。

。。。と、(無論)かくいう言説にしても、見解の域を脱していないのは承知しています。

この回答への補足

 じねんさん またまた ひどいではないですか。おはようございます。はいいけれども
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 で、私は「(γ):その他」です。
 ・・・
 《仏性》を求めるひとにおいてのみ、ブッダの向こう側に《仏性》という概念が想定されうる(見解が生じる)のでしょう。。。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ で じねんさんは どういうご見解ですか? ブッダはそこにどのようにかかわっていると見るのか? この問いです。
 ★☆ 《向こう側》も《〈仏性〉という概念》というのも
 ☆ ともにはっきりしない概念ですが そのように《想定されうるのでしょう》とじねんさんが見るとき ブッダはどこに位置しているのか? これです。
 そのように想定されうるように生前に説いていたのか?(≒α) あるいは ブッダはそのような後世の解釈にはかかわらないというのか?(≒γ) かかわらないどころかブッダの説とは無縁であるのか?(=β)
 もし(γ)であるのなら 《後世においては ひとがそれぞれブッダの言説集やその研究解釈集を 自由に解釈する》という見方ですか? それで じねんさんは どういう内容になりますか? あなたは想定しているのですか? どうですか? そういう問いです。
 その推論や理由説明をうかがってわたしも勉強していきたいという趣旨になります。

 だめだめ じねんさん――ご投稿はありがたいけれど―― これまでの堂々めぐりぢゃ だめだよ。
 今回は 見解ではなく 見解の予告にしか過ぎません。それもよく言った場合です。

 ★ >>>ロジェ=ポル・ドロワ「虚無の信仰」,
 ☆ こんなものにうつつを抜かしていたんぢゃ 百年待ってもだめだと観念しかけます。
 ▲ 仏教の「我」(アートマン、霊魂あるいは「自己」)
 ☆ どこをほじくればこんな間抜けな発言が出てくるのか。
 ☆☆ (α)・・・それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。
 じねんさん 目を覚ましなさい。《仏性》が
 ★ 形而上的思惟
 ☆ だとでも思っているのですか? 自然本性(記憶や知解や意志の行為能力)が 《形而上的思惟》でしかないとでも思っているのですか? いったい何を学んできたのですか? 
 【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html
 これでも読んで出直してください。

 * 【繭】も【無明 / マーガンディヤー】も 二週間以上経ちました。それらを締めたのは ふつうの行ないとしての判断であるでしょう。

 * あなたについてはふざけておられず まじめに投稿なさっていると受け取っていますが その結果(効果)は ひどいものですよ。質問に相い対して 撞木をきちんと持って鐘を撞くようにしてください。

 * それとも わたしのこのような質問で仏性を取り上げるのは 
 ★ 《仏性》を求めるひとにおいてのみ、
 ☆ の範囲に入らないとおっしゃるのでしょうか? それならそうと明らかにすべきでしょう。よほど自説に自信がないと取るしかありませんが。というよりも 哲学思想にかかわって鎖国政策をとるという自己矛盾であり自殺政策です。

補足日時:2009/08/21 08:41
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 人に在らざるモノに説く言葉はない。



 こちらが日本語を普通にしゃべっても、赤ん坊には通じない。

 しかたない。
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オコリザルです。


今回は大したことが書けません。
私の仏性の見解は「仏を現代語訳すると、ごくふつうに人間のこと」で、一区切りついたというかストップしています。

余談ですが仏教を信奉する方は、本人は無自覚であっても言動から善性も信奉しているような気がします。
いうなれば「我の存在は善であり、それこそがわが存在理由である」とでもいった感じに受け止められます。
ヘンに突っかかってみますが、愛を煩悩の最もたるものだと指摘する仏教徒サンにとって、この自らの善性は悪という明らかな弊害との対峙を招いてさえ煩悩ではないのでしょうか。もしかして善性に無自覚でいられるからうっかりしているのでしょうか。それにしても善が煩悩とは聞いたことがないですね。なんででしょうね。

たとえば存在が善である。
または善性を備える。
このような見地に正しく立てるなら、存在の持って生まれた性質たる善性をかなぐり捨ててまで悪の対話(救済でなく)を試みるならば、それにはすなわち自らが悪に染まるしか手段はなく、そのような困難に挑戦する世の悪人は生き仏の最もたる方々である。といった見解になれないんでしょうかね、善人ヅラの生き仏さんたちは。。
ところで世の中には善人と悪人もいますよね。
そのようにころころ変わるならば、実際のところ「存在は善である」は証明できませんね。でも善性として生得的に備えうるだけなら、性質の話なんであえてかなぐり捨てて悪に染まる事も出来ましょう。
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この回答へのお礼

 primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 これは
 ○ 和光同塵
 ☆ というもんだいのようですね。どうでしょう?

 ということは
 ○ 光 つまり単純に短絡してもよいはずで 仏性
 ☆ のことが前提になっているはずです。

 そして この質問は
 ○ この仏性をブッダ自身は説いていないようだけれど それは ブッディスムのあり方として どういうふうに受け止めればよいのか。
 ☆ これをおしえて欲しいという問いです。
 その方向へもお願いしておきます。

お礼日時:2009/08/21 23:49

オコリザルです。


ところでヴェーダを現代語訳すると普通に「人知」のことですよ。
観念世界ではおなじみさんでないですか。
時には人恥と読んでけつを引っ叩かないといけない、ごくつぶしです
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 ちなみに、存在そのものはただ 在る だけですので、善でも悪でも在りません。

存在の存続を主張し、それが不正によるものであれば、存在そのものは 悪 に変わってしまいます。

 存在そのものが善性を備えることが在ると思いますが、存在そのものが善であるかどうかとは、別の話です。

 存在そのものは、善でも悪でもありません。
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この回答へのお礼

 ○ 仏性
 ☆ にからめて考えてみてください。

お礼日時:2009/08/21 23:50

オコリザルです。


ヨコレスっぽいですけど、SOLAR_RAYさんのおかげで思索が進みました。
存在 なれば 在るだけで済みますが、我 ならばあるだけでは済まないんですよ。
そこに 愛 を見出せば、その 我 は、生きているといえます。
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この回答へのお礼

 ふむふむ。と高見の見物でもありませんが わたしの考えでは
 ★ 存在 と われ
 ☆ はけっきょく同じです。
 ○ 存在をわれが持続させようとするなら それが愛です。
 ☆ という見方です。
 
 ○ わたしがわたしであるとき それは 仏性がはたらいている。
 ☆ と言えると考えます。そういう意味でそのことをブッダはなぜ自分自身は説かなかったのか? これが問い求めの中心ですよ。

お礼日時:2009/08/22 00:06

オコリザルです。


○ この仏性をブッダ自身は説いていないようだけれど それは ブッディスムのあり方として どういうふうに受け止めればよいのか。

これはどうでしょうね。
それならば、弟子とは全て不肖の弟子のことで、末法の世になってようやく編まれた経典を後生大事に守る、忠犬ハチ公みたいな墓守に過ぎないとでもなるんですかね。
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この回答へのお礼

 primeape さん。
 ★ 経典の編纂
 ☆ はブッダの死後ですけれど 末法になってからではないですよ。その点は 勘違いしておられるようですので ひとこと。

 けっきょくのところ 
 ○ 仏性をもはやあからさまに持ち出して来てもよいほどの内容を ブッダも説くことは説いている。
 ☆ わけです。

 あるいは別の観点からいけば こうです。
 ○ 《成仏 ないし さとりは 誰でもできるのか?》――この問いについて 然りというのが答えであれば けっきょくとどのつまりにおいては 例外なくだれにも自然に そのさとりの元としての仏性が備わっていると言えるのではないか?
 ☆ ただし このとき――わたしにちらっと分かっている限りで言えば―― 次のような問題が生じます。
 ○ もし《仏性》が 普遍的にして永遠のものとして 人間に誰ひとりとして残ることなく皆にそなわっているのだとすれば 《諸法無我》つまり《この世界にはそれ自身によって そしてそれ自身によってのみ 存在する普遍的にして不可変のものはない》というさとりの内容のひとつに抵触する。
 ☆ ではないかと踏んでいます。どうですかねぇ。

お礼日時:2009/08/22 00:22

オコリザルです。


☆ と言えると考えます。そういう意味でそのことをブッダはなぜ自分自身は説かなかったのか? これが問い求めの中心ですよ。
コレに関する見解を導くためにお互いの見解のすりあわせです。
7番へのご返事は結局同じ見解をそれぞれの角度から追認していると受け取れます。
でもまだその面でのお釈迦様は見えてきませんね。
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この回答へのお礼

 たぶん直前(No.9)でのわたしのお応えが 補足要求には当てはまると思うのですが。

お礼日時:2009/08/22 00:26

オコリザルです。


 ○ 存在をわれが持続させようとするなら それが愛です。
言い回しを理解するには努力が必要でしょう。
簡潔に、、
生命とは愛である。
で、いいんじゃないですか。
想定される煩悩(反対意見)に予防するならば。
生命存在の行動原理、すなわち感情は全て愛である。
悪 罪 嘘 とまで変容するその愛の姿に答えを願うならば、それは神たる宇宙意思を想定するよりない。
このようになりましょうか。
ちなみに、神様は気さくに話しかけてくれます。
我に内包する煩悩として、存在理由を神に問うとすれば、そんな感じです。
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   生命とは愛である。
 で、いいんじゃないですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちょっと違います。いまここでは――と言っても わたしの場合はどこでもいつでも同じようですが―― あくまで生きるという動態を考えています。
 過程がないかたちでの《定義》は わたしは ほとんどしたことがありません。つまり学説などは 《これこれは何であるか》――《あれそれである》というように動きのないかたちででも定義しますが わたしはそういう定義の仕方はしたことがありません。(たぶん 付随的な概念の定義では 別でしょう。基本的な定義では 過程としての定義をします)。

 またここでは 《神》を出したくないです。ブッダの問題ですから 必要にならなければ出したくないです。
 要するに
 ○ 生まれてきたこのわたしを 漱石ではありませんが うんうんと押してどこまでも歩み進む。――これが 存在であり わたしであり 愛である。
 ☆ というような定義の仕方です。これで足りなければ 神を持ち出すそちらの見解に耳を傾けますが。

お礼日時:2009/08/22 00:34
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