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日本へ中国経由でキリスト教やイスラム教が伝来しなかったのは
なぜでしょうか?
中国までは景教、回教といった形で伝来してるのに、
日本に伝わらなかった理由を教えてください。

A 回答 (4件)

現代人の感覚では、宗教は個人の選択ですが、近代以前においては、宗教の選択とか広まりというのは、


1 集団の移動
2 鎮護国家思想的に、集団改宗
3 占領等による強制的改宗
この三つくらいです。
唐の時代中国におけるキリスト教・イスラム教は 1が多い。北アメリカのキリスト教も1となります。イスラム教は 3 となります。日本の仏教は 2となります。
日本での2のパターンは有名ですが、近代以前では、これが普通のパターン。
ロシアのギリシャ正教受容は、ロシアとしてギリシャ正教がいいか、カソリックがいいかという選択の上での受容です。これが九世紀。
となりのポーランドは10世紀に対抗するかのように、ギリシャ正教からカソリックになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%A7% …
このように、国としてどの勢力につくか?で宗教選択が行われます。
この例で有名なのが、ハザールのユダヤ教受容です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B6% …

日本は1,3がないので、(基本的には)2となり、日本の国家として、何をチョイスするか?ということになるため、複数の宗教を持ってくることは、国策上考えられません。
わざわざ、複数の宗教を招来させ、混乱させる必要はありませんので。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

日本に景教、回教が伝来しなかったのは
ペルシャ人、西域人の集団移住がなかったからと
いうことになりそうですね。

お礼日時:2009/10/28 10:20

松本清張が、飛鳥時代の日本に拝火教、あるいは景教が伝わっていた可能性(斎明女皇?)を書いています。

小説「火の回路」などに詳しいです。明日香村の石像などから推定しています。
ご参考まで。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ちょっと読んでみます。

お礼日時:2009/10/28 10:20

教えとしては微妙ですが、間違いなく、聖徳太子の時代にはキリスト教のなんらかの話が伝わっていたのは明白です。



それは、聖徳太子の出生の話を見れば明らかでしょう。厩戸皇子という名とそのいわれが、キリスト生誕の話と偶然の一致だと言うのは、言う人間の頭の中に脳みそが入っているのか疑います。明らかにパクリ以外のなにものでもありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/10/28 10:20

イスラム教はわかりませんが、キリスト教は


実は伝わっていた、という説があります。

佐伯好朗という人が「太秦を論ず」という論文を書いておられます。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/ju …

それによると
京都の太秦(うずまさ)は渡来人秦氏の本拠地であり
広隆寺はかつては太秦寺とも呼ばれていましたが
太秦寺と一字違いの大秦寺は漢語で景教寺院
広隆寺のちかくに大酒神社がありますがかつては大避(本当はしんにょうなしだったと思います。変換しないのですいません)神社といい
大避とは漢語でダビデ、
蚕ノ社にある三つ鳥居はキリスト教の三位一体説をあらわしているとのことです。

秦氏について、日本の史書は次のように記しています。
「新撰姓氏録」・・・仲哀天皇8年、弓月の王・巧満が日本の朝廷を公式訪問した。
「日本書紀」・・・応神天皇14年、弓月君が百済より移民を率いてやってきた。
「新撰姓氏録」・・・融通王は秦の始皇帝の子孫である。
「古事記」・・・秦氏は百済から渡来した。

弓月君と融通王は同一人物で、秦氏の先祖であり、応神天皇14年に移民を率いて日本にやってきたということになるでしょう。

佐伯氏は西アジアにかつて弓月王国というキリスト教国があり
秦氏はそこからやってきたのではないかというのです。

しかし、佐伯氏の説は年代が合わないということで注目されませんでした。

景教とはネストリウス派キリスト教のことですが
ネストリウス派は、431年、エフェソス公会議において異端として排斥されてから
東方へ布教されるようになったとされます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9% …

しかし、秦氏が日本へやってきたのは3世紀ごろと考えられるので
そのころ、まだネストリウス派は東方に進出していない、とされたのです。

その後佐伯氏は秦氏=景教徒説をすて
秦氏は原始キリスト教徒だとしましたが、学会に認められることはなかったそうです。

平安時代には空海が遣唐使として入唐し、帰国後真言宗を開きましたが
空海の唐での師・般若三蔵が景教にも明るい人で
空海も秦氏だという話を聞いたことがあります。
で、真言密教もかなりキリスト教の影響を受けているとの指摘があります。

真言宗では「南無大師遍照金剛」と唱えるが、「遍照金剛」とは洗礼名である。「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」という、マタイ5:16の漢語聖書からとったものだともいわれています。

また灌頂という儀式は、梅の棒で水を三滴人の頭に注ぎますが
キリスト教の滴礼式の洗礼も三度水を頭にかけます。

密教では「大日如来」を「法身仏」、真理を具現化を「報身仏」、釈迦を「応身仏」といい、異なった仏ではあるがすべて一体と考えます。(一身即三身・三身即一)。
これはキリスト教の三位一体説と同じだとの指摘もあります。

また古事記・日本書紀と聖書が似ているという指摘もあります。

日ユ同祖論でググるとたくさんでてきます。

イスラム教の方は、他の方の回答を期待しています。
私も興味ありますので。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
影響ではなくて、きちんとした伝来がなかったのはなぜなんでしょう?
これくらいだと「七福神はヒンズー教の影響を受けてるので
ヒンズー教は日本に来てた」とか言えちゃいますよね。

お礼日時:2009/10/28 10:18

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