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昔は名前を問われた方から名を名乗るのが作法だったのでしょうか。

「私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。」
下記サイトによれば、一言主の大神は雄略天皇にこのように言ったとあります。

http://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/bunkazaijisy …

A 回答 (3件)

 


 名乗雑考 ~ 誰が呼んだか名づけたか ~
 
 封建時代には、まず上位者の名を、取次者が告知し、平伏させる。
 下位の者は目を合せず、声も発せず、上位者からの指示を待つ。
 ほぼ同格の者は、たがいの階級差に配慮しながら、腹を探りあう。
 
 現代は、下位の者が先に腰を低め、相手の腕より下に手を差しのべる。
 初対面で、あらかじめ予備知識がない相手を、年令・恰幅・態度から、
つぎに声音・抑揚・内容から推して、どちらが優位かを判別・確定する。
 
 0.あとだし ~ ナンパ帝王学 ~
 
── 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岳に 菜摘ます
児 家聞かん 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ
居れ しきなべて われこそ座せ 我こそは 告らめ 家をも名をも。
 
 “お嬢さん、名前を云ってごらん。わたしも名乗るから。なにしろ、
この国でいちばん偉いんだから、わたしの家や名前を聞いたら驚くよ”
── 雄略天皇《万葉集 巻第一》
 
 1.なのり ~ 名乗・名告の衰亡 ~
 
── 未知の相手に対し、自分の姓名を告げ知らせる行為。源平合戦の
ころは、戦場で敵と遭遇すると、声高々と本国、家系、氏名、年齢、戦
歴などを名告り合って戦いに臨んだが、南北朝時代以後、武器に槍が加
わり、集団戦闘が主となると、しだいにその意義を失った。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%90%8D%E4%B9%97/
 
 2.つらね ~ 裏街道の連呼 ~
 
── 問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在、十四の
時から親に放れ、身の生業も白波の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど
非道はせず……」日本駄右衛門(稲瀬川勢揃いの場)
 
── 知らざぁ云って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が歌に残せ
し盗人の(略)名せぇ縁の弁天小僧菊之助たぁ、俺がことだぁ!」
(浜松屋の場)── 《弁天娘女男白波“白波五人男”》
 
 3.であい ~ 男が男に惚れるとき ~
 
── 幡随院長兵衛「お若えの、お待ちなせぇやし」白井権八「待てと
おとどめなされしは拙者がことでござるかな」長兵衛「左様さ、先ほど
から(略)見とれておりやした」権八「お恥かしうござりまする(略)
雉子も鳴かずば射たれまいに」(鈴が森)── 《極付幡随院長兵衛》
 
 4.アリア ~ 恋の自己紹介 ~
 
── ロドルフォ「ではちょっと私にみずからを語らせてください(略)
私は詩人です。書くのがしごとで、それでどうやら生きてゆきます」
──「わたしはミミと呼ばれているの。でもほんとうの名はルチアなの。
 
(略)でもどういうわけでそう呼ばれるのだか分りません。ひとり住い
ですから夕食もひとりきりですませます(♪ わたしの名はミミ)」
── プッチーニ《歌劇『ラ・ボエーム』18960201 初演》
 
 5.モノローグ ~ とわずがたり ~
 
── 吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当が
つかぬ。(略)挨拶をしないと険呑だと思ったから「吾輩は猫である。
名前はまだない」となるべく平気を装って冷然と答えた。
── 夏目 漱石《吾輩は猫である 190501‥ ホトトギス》
 
 6.ドラマ ~ すれちがい ~
 
── 数寄屋橋で出合った二人は、半年後の再会を約して別れた。
 「君の名は?」「このつぎ、お会いしたときに名乗りますわ」
 このためらいが、すれちがいの悲劇につづく。
 
── 菊田 一夫・原作《君の名は 19520410 NHKラジオ》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19450524
 忘却記念日 ~ 忘れがたい日付 ~
 
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この回答へのお礼

わー、たくさんの例をありがとうございます。
参考になります。

封建時代には、まず上位者の名を、取次者が告知し、平伏させるのですね。
雄略天皇の時代はこれだったかも。
とすれば一言主大神は雄略天皇よりも格上ということになりますかね。
そのあと、刀や弓矢、お供が着ていた衣服も脱がせて一言主大神に献上していますから。

で、「籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち ・・・」
って雄略天皇の歌だったんですね!
どうも雄略天皇という人は、自分から名乗らず相手に名前を聞く習慣があった人のようですね。

源平合戦のころは、本国、家系、氏名、年齢、戦歴までを名告り合った。
戦国武将がタイムマシンで現代にやってきたら、無礼者、となるでしょうね。
で、自分の個人情報はだだもれ。

「問われて名乗るもおこがましいが、」
という台詞からは問われてもおいそれと名乗るものではなかったと
いう習慣があったのかと思えますね。

お礼日時:2009/10/21 17:51

見知らぬ同業者の玄関で


「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎。人呼んでフーテンの寅と発します。」
と、初対面の相手に自分の氏名出身地、所属を名乗ることを「仁義」、寅さんはテキ屋ですから「面通」とか「あいつき」というらしいですけど、まず自分が名乗り、先方がそれを受けて挨拶を交わすという順番ですから、日本式は自分から名乗るのが一般的ではないでしょうか。
また源平の時の作法では、
「我こそは、一院の御使、検非違使五位の尉源義経・・・。」と名乗りを上げて、それに敵将が答えて打ち合いが始まりますから、これも挨拶は自分から。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そういえば、寅さんはまず自己紹介をしていますね。
ご丁寧に出身地や愛称まで明らかにしています。
平安時代末期の源平合戦でもまず名前を名乗っているのですね。
参考になります!
雄略天皇の時代はそれよりもうんと古いので中国式だったのかもしれませんね。
面白い話をありがとうございます!

お礼日時:2009/10/20 16:04

 日本では自分から先に名乗るのが礼儀、中国では問われてはじめて名乗るのが礼儀だそうです。

http://sckobe.exblog.jp/2890273

 一言主の大神は中国式だったのでしょうかね。

 思い出すのは歌舞伎『白波五人男』の弁天小僧菊之助の口上、「問はれて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在、14の時から親に離れ、身の生業も白波の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず。………」ですが、ここでは問われたあとでも名乗るのは礼儀に反する(=おこがましい)という見方もあるようです。

 作法って時と所で違うんですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
一言主大神は中国式だった!
うーむ、興味深いですwwwww
弁天小僧菊之助の口上もとてもおもしろい。
大変参考になりました。

お礼日時:2009/10/20 09:04

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