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皆さんこんにちは。

昭和20年8月15日に太平洋戦争は終わるわけですが、
日本政府が勝つ見込みがないと、考えていたのは、
いつぐらいからなのでしょうか?

そして、それならなぜもっと早く終わらす事ができなかった
のでしょうか?

よろしくお願い致します。

A 回答 (23件中1~10件)

どうも当時はあ号作戦の失敗で勝つ見込みが無くなったという認識をしているみたいですね。



>そして、それならなぜもっと早く終わらす事ができなかった
のでしょうか?
負けるにしても少しでも良い条件で負けたいということでしょう。
勝つ見込みが無いと判断→無条件降伏を受け入れる、では無いのです。

「何故もっと早く戦争を終わらす~~」なんて言い出すと、WW2の独伊やWW1の同盟国、その他古今東西の戦争で負けた国はどうなるのでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。少しでも良い条件で。ですね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:00

海軍が崩壊した時にはみんな分かってたと思いますよ。

ただおおやけには言えないだけだったんでしょう。 父の話では8月15日の放送にあたって、1ヶ月以上前から「天皇陛下のお言葉が8月15日、正午にあるから全国民は聞き逃さないように」と毎日アッチコッチで放送されてたらしいですよ。 つまり原爆が堕ちる前には決まってたみたいです。 ちなみに終戦は8月15日ではなく、正確には9月2日に戦艦ミズーリでの無条件降伏文書に調印した時が終戦となります。 8月15日はただ「負ける事にした」と宣言した記念ですね。 実施イは死ななくてもいい命がいっぱいあったって酷い話ですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。海軍が崩壊したときですね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:03

 勝つ見込みが全くなくなったのは海軍が連敗して再起不能になった頃ですね。



 終戦をしぶった理由はいろいろあると思いますが、「勝ちにこだわった」とか「負けを受け入れられなかった」というのはあまりないでしょうね。ポツダム宣言を出されてそれを黙殺して、原爆を落とされてなお黙殺し、2発目の原爆を落とされてようやくあきらめた・・・ここまでこだわった理由はひとつしかないです。
 無条件降伏を嫌がったんですよ。無条件での降伏では、当然天皇制の存続も戦勝国次第となります。天皇制のもとで得をしていた人たちが、天皇制の廃止と自分たちの権益放棄を認められなかったんです。

 要するにですが、国民から税金を搾取して軍隊を作り、国民の生命と財産を守ろうとしなかったこと、これが戦前の天皇と政府の罪です。彼らがこだわったのは最後まで彼ら自身のメンツだけです。終戦間際のごたごたもそうですが、沖縄戦などもひどいものですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。上層部のメンツですね。
そうなると、ひどい話ですね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:04

20年前のバルブ経済やアメリカのサブプライムローンなど後から見れば「近い将来の破綻は間違いない」ものが、数多くの警告を受けつつも破綻するまで多くの人間が踊っていました。


後世の視点で考えるのと、当事者として見るのでは全く違うのです。
日本でも戦前はもちろん。戦中に出版された軍事書籍を見ても、米国の国力と膨大な軍需生産の情報から「対米戦に勝算は薄い」という意見は決して珍しくは無かった事が伺えます。
しかしそのような主張は開戦直後の大勝利で、広大な占領地を獲得したことにより「米国恐るるに足らず」という威勢のよい意見に駆逐されてしまったのです。
例えば顧客に対し、大きな利益を唱えて金を出させた証券会社の社員が「やっぱり駄目でした」などと簡単には認められないように、一度そういう威勢のよい意見を唱えた人間はそうそう自分の意見を引っ込められません。
結局のところ人間という生き物の性質はそういうものなのですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。ワルツが流れていたので、踊りをやめれなかった。
という、例の話がありますよね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:07

戦争特需で景気が良くて国民が後押ししたからです。


負けたからといって全ての工場が操業停止になれば、国民はたちまち生活に困るからです。
食べるものもなく悲惨だったというのは、負けた後の戦後すぐのことです。

今の、多額の政府支出を求めるのと似ています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。国民が後押ししたのですね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:08

アメリカが日本を原爆の実験場にする為に、その前に降伏されては困るので無理な条件をつけていたからです。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。アメリカの策略ですね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:09

ネタですが、満鉄調査部が行った支那抗戦力調査(1939年-1940年) で、すでに日本は中国にすら勝てないと、結果が出てしまってます。


日本最高のシンクタンクの調査結果だということに、留意してください。

形式にとらわれた回答なら、鈴木貫太郎内閣の時点で、政府は終戦(敗戦)にむけて動き始めます。この内閣ができた時点で、1番さんの言われているようなデータが中央に集まり、戦争を終わらせる、という流れになります。

大陸ではソ連軍との数日の条約違反の戦闘以外では、帝国陸軍は負け戦をしていません。負け戦の実感がない400万陸軍の総意を敗戦に落ち着かせるのに、時間がかかったのです。

終戦の詔勅を録音した「玉音盤」は、8月14日深夜に録音されましたが、予告は14日から、数回にわたり行われています。特に15日は放送開始と同時に予告がなされます。これは、農民は農作業に早朝からでるので、15日正午の重大放送予告を朝一番から放送したという理由があります。
一月前からというのはなにかのまちがいでしょう。私の父は東京中央区で3回の大空襲を経験し、中央区で玉音放送を聞いていますが、予告は当日の朝からだったそうです。同じことを、鉄道作家の宮脇俊三も、「時刻表昭和史」のなかで書いています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%9F%B3% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。陸軍を納得させるために時間が
かかったのですね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:11

戦争の終わりかたって、単純な勝ち負けじゃないんですよ。


負けと一言で言っても、双方賠償なしの停戦から、賠償金の支払い、植民地の割譲、領土の割譲、政体の変更、国家の解体・植民地化までいろいろランクがあるんですよ。
ポツダム宣言は1945年7月26日に発せられましたが、その辺明記されていません。(国家の解体はなさそうな文章ですが)
日本政府のなんとしても守りたかったのは国体の護持(天皇制の維持)で、それを守るための和平工作がソ連を通じて行われています。
そんな中8月8日にソ連が対日参戦し、日本政府は万策尽きて8月9日にアメリカに対して「国体の護持」を条件としてのポツダム宣言受諾を提案しますが、「バーンズ回答」によって曖昧な回答をなされ、結局14日に降伏となります。

なぜもっと早く降伏できなかったかといえば、国体の護持にこだわった為であり、またポツダム宣言が発せられるまではあいてが停戦を望まないので降伏は事実上不可能だったでしょう。またもし7月の時点で降伏をしていても、抗戦派による内戦のリスクが極めて高かったかと思います。じっさい史実でも宮城事件が起きていますが、原爆投下やソ連参戦の前では、抗戦派の勢いはさらに激しかったでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。国体の護持ですね。
それと、相手は停戦を望まない。というのは
日本はわかっていたのでしょうか?

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:15

他の方の回答への補足にしかなりませんが、海軍としてはあ号作戦つまりマリアナ海戦に敗北した辺りで「もうダメだな」という気分にはなっていたようです。


マリアナ海戦では日本軍はアウトレンジ戦法で望み、実際日本軍が米艦隊を捉えて攻撃隊を発進させたときは小沢艦隊は米艦隊の攻撃半径外だったうえにまだ艦隊の位置がバレていませんでした。しかし蓋を開けてみるとレーダーによって待ち伏せされ日本の航空隊はほぼ全滅、相手への損害は全くといっていいほど与えられずしかも最終的には大鳳など多くの艦艇を失いました。「こちらがベスト(と思った)手を尽くしても相手に損害を与えられない」というのはかなりこたえたようです。
とはいえ、大和や武蔵を始め主力戦艦隊はまだ残っていたのですから当時の常識では「海軍の主力は戦艦」なので、それが残っている時点で敗北を認めるわけにはいかなかったでしょうね。

また連合国が優位に立った1944年から、連合国側は枢軸側との個別の停戦には応じず相手の首都まで攻め込む徹底抗戦をすると米英ソの間で合意がされていました。こちら側が「停戦しよう」と呼びかけても向こうに応じる気持ちがなければ交渉は成立しません。そして、ナチスがユダヤ人を根絶やしにしようとしたように民族差別が常識だった当時では、完全降伏に応じれば日本人が根絶やしにされるという恐怖もリアルにあったと思います。現代でも外国人に参政権を与えると日本が韓国中国に支配されるとリアルに考えている人がいます。それよりもはるかにリアリティのある話だったでしょうね。

実際のところは8月15日に昭和天皇による「逆クーデター」のような形で終戦を迎えるのですが、あの昭和天皇の決断がなければ第三の原爆が新潟に落ち、本土決戦となってさらに多くの人命が失われただろうと思えばまだ「本当の意味で最悪ではなかった」といえるかもしれません。
政府及び軍部が決断できなかった理由は#4さんの通りだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。停戦というか降伏なのですが、
東京大空襲でかなりの被害を受けたので、
その時点での降伏は難しいのでしょうかね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:21

開戦前から勝利が難しいこと、米国とは国力に差があることを知っている人は知っていました。


政府が民間人も呼んで事前シミュレーションを行ったそうですが、勝利という結果にならなかったそうです。
でも指導部はその結果を採用せず、また、諸般の事情の積み重なりで開戦となりました。
そして緒戦が上手く行ったので、調子に乗って拡大したのでしょう。

太平洋戦争の天王山(天下分け目の戦い)と呼ばれる戦闘はいくつかありますが、1944年のレイテ島の戦い&レイテ沖開戦も天王山と呼ばれます。
ということは、その時点でもひっくり返せると思っていたのでは・・・・。
(直前の台湾沖航空戦で日本が大戦果を上げたという勘違い&誤報が影響したと言われています。
実際には敵の損害はそれほど大きくなかった)

最後のほうは戦争終結を画策している最中に原爆投下がありました。
また、降伏反対/本土決戦しようとする意見もありました。
政府内で意見が一致していたわけではありませんでしたし、玉音放送を流すのも一苦労でした。
一苦労というか、クーデター未遂ですが。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。政府内でも、いろいろ対立があったのですね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:24

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