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“死”ということは、どういうことだと思いますか。

私は、“まったく無になること”だと思ってます。


でも、そう考えると、
“死ぬこと”って、すごくもったいないことですよね。

今までつちかってきた、全てが
“無”になるんですよ?

すごくもったいないことだと思います。

急に命が惜しくなってきました。
そう考えると、
自殺も思いとどまれそうな気がします。

みなさん、私の考え、
どうですか?

A 回答 (16件中11~16件)

 


>私は、“まったく無になること”だと思ってます。

>今までつちかってきた、全てが
>“無”になるんですよ?

そうでしょうか?
私たちの生活は、多くは、死んだ方々の作った科学、技術、宗教、文化、芸術、歴史、の上に成立しています。
建築物、文化遺産、橋や道路、電化製品、落語、小説、・・・・・
あなたの存在も、亡くなった祖先の生命の証しなのですよ。
子供を作ることで、命の、ある部分をつないでいっているのです。

それでも、全てが「無」だと、思いますか?
 
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「死んで無になる」ということは、今は「無」ではないとお考えなわけですね?


その「有」が実は、「無」と等しい時、「死」はどのような意味を持つでしょう。

最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事によって生じています。
自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが宇宙。
(無の無限の闇に対する自我の射影)
全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完なのです。

宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面”の移動=自我仮説に対する、
相補的な時空仮説として生じています。
そこにおいて、宇宙の膨張=不確定性(h)の収束という、異なる本質=異なる
認識可能性を一つの軸(時系列化)にするところに時間性は依拠しており、
過去の自分も、空間的広がりにおける他人も同じです。
宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常として発生し、
実は他人も共通であるという愛に向かって進むと言えます。

宇宙が認識に於いて生じるならば、生きるのは楽しむためです。
その「楽しみ」の原因をつくる欲求は、遺伝子によって発生し、また我々の生きた
結果が、淘汰として遺伝子に刻まれていきます。
もし、楽しくなくてイヤイヤ生きるならば、その個体は活性が落ちて淘汰され、
その状況でもイヤじゃない個体が増殖するだけです。

それは短絡的な快楽主義を意味するのではなく、生きるのに反したり、認識を
低下させる欲求は、人生を通算した充足量の総和の最大化に反します。
人の「生き方」には、認識性の発達(より深い認識的な目標の達成による充実感)や
社会生命性の発達(社会的行動=助け合いによる喜びor社会的価値(お金や出世)の
取得による喜び)といった、二次的な要因があり、人生を通算した“喜びの最大化”
には、工夫が必要になります(短絡的な快楽主義には帰結しない)。

宇宙の発生に、異なる認識可能性(h)の時系列化が必要であったように、その補完
(時空仮説に対する無の射影)としての存在性に於ける認識可能性の他我化
=愛こそが死生を超えて、生理的な認識性の最大化とその充足の最大化を両立させ、
生きる真の目的である「人生を通算した精神的充足量の最大化」を果たすのです。
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死は誰にでもやってきますよね


生まれて死ぬまでの期間は人それぞれ
生まれる前に死んでしまう子供もいれば、100歳以上生きる人もいる。
病気で死ぬ場合もあるし
外的な要因で死ぬ場合もある。

1日1日が充実した日々で生きたいとは・・・思っています・・・がなかなか難しいですね。

私の場合は子供4人に恵まれて、若い頃の漠然とした死の恐怖は薄れてきています。
永遠の命って子供に引き継がれていくことなんだな~と考えるようになりました。
今は子供が人に迷惑をかけず、人にやさしく育ってくれ、将来幸せになってくれる事だけが希望ですね。

もっといっぱい子供がほしいのですが、奥さんがもう限界!とw
末娘が直2歳になるのですが・・小さな赤ちゃんをみると
「やっぱりもう一人ほしいかな?」とも・・どうなることやら
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あなたのおっしゃるとおり、死ぬことは無になることだと思います。



実は今月、兄が急死しました。
今でも全く信じられません。

実家に帰ったらただそこに兄が横たわっていました。
触ると冷たくなっていました。
しかしその冷たさは既に、ドライアイスの冷たさでした。
そこにあるのは、兄ではなく、ただ肉体が残っているだけでした。
自分が一体なにを見ているのか全く理解できませんでした。

大きな兄が、たくさんの人に抱えられ棺に入ったときも、命を感じませんでした。
命のないずっしりとした重み。

そして火葬され、灰になった兄。もう形として存在しない。
写真でしか思い出すことができない人。
小さな骨壷に入ってしまい、蓋を閉めたら、葬式は終わり、親族は帰る。

兄がいない世界は、それでも流れ続ける無情さ。
でも、
生きる私たちは悲しむことができる。生きているから。

今まで運よく、よく生きてこれたなあと、自分の命の不思議さを感じた出来事でした。

どんなことがあっても、生きているだけで素晴らしい。
ほんとにそのとおりです。

死んだら何もないのです。
何も持ってゆけないし、泣くことも苦しむこともできない。

いつも、生きることを諦めてはいけないと思います。
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同感です、死んだらおしまいです、魂は残るとか、覚えてないだけで次に生き返るとか言われてますが嘘です、やはりあり得ません、1分1秒が

大事が正解と思います
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苦しまずに死なないよう生きるしかない。

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