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「概念」の正体

よく人間はすべて言葉で思考をすると言いますが、嘘だと思います。
赤ん坊が言葉をどうやって学ぶのかを考えればすぐにわかると思います。
言葉というのは本来頭の中にある概念につけた名前の集合でしかありません。

「しかし」も「but」も別の文字列ですが、同じく逆説の概念を持ちます。
概念それ自体は頭の中にあって、それこそが意味そのものだと思うのですが
その概念は概念であって言葉ではありません。
ではその概念というものの正体はいったい何でしょうか。

A 回答 (11件中1~10件)

概念という語は、言葉で「概念」と呼ばれていますので、


矢張り遺憾乍ら、言葉の世界からの解脱を阻まれていますよ。
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いきなり、余談ですが、あなたの質問から転じて、「観念が先か概念が先か」を論ずるのも面白いと思います。


さて、あなたの質問の範疇は、認識論に入るでしょうかね。

認識は必ず判断を伴うわけですが、判断とは一種の測定作用であると見なすことができますね。
ところで測定には基準(尺度)が必要となります。
認識における基準となっているのが、主体(人間)の中にある観念(=概念・・・以下、観念は概念と同じ意味で使う)であり、それが原型でありましょう。
この原型を、内的映像と呼ぶなら、外側の対象からくる映像は外的映像である。
この原型(内的映像)と外側の対象からくる外的映像とが照合されて、
両者の一致・不一致が決定されることが判断であり、認識というわけです。
言い方を換えれば、経験によって得られた対象の観念(対象の情報が脳に到達してそこで観念化されたもの)と人間(=主体)が既に内部に持っている観念(原型)が、悟性によって照合されることによって、認識は成立し、次に悟性によって判断された認識の内容を、理性が複合、連合しながら思惟するのです。
カントは外部の対象から来る感覚的内容が主体の中にある先天的な形式と結合されて初めて認識されると言ったが、内容は対象のみから与えられるとした。
しかし、主体(人間)の中にも対象の内容に相似した内容が映像として既にあるのだと思われます。
例えばバラの花を判断する時、カントの言う形式だけでは判断は不可能!!
バラの花の内容が映像として主体(人間)の中にあって初めて判断が可能になるのだと思います。
通常は、経験によって獲得された映像が観念や概念化されるのですが、赤ちゃんの例に見るまでもなく、必ずしも経験からのみ概念や観念が生まれるものではないということになると思います。
例えば、生物は、本能といういわば自律性によって成長するわけですが、この場合、自律性とは、生物体に潜在している意識のことであり、即ち生命に他ならない。
このような潜在意識の中で、特に細胞の次元における意識があると考えられる。(前意識あるいは、原意識と呼ぶのがいいかもしれない)
別の角度から見れば、この細胞レベルの意識は、宇宙にあまねく充満している宇宙意識が細胞の中に入って個別化されたものと見られる。
宇宙意識とは、宇宙に充満している、いわば神の心のようなものだと捉えられるが、それは働きつつある創造心ではなく、また構想でもない!!
知情意の機能が静止し、観念や概念が排除された純粋意識なのだと考えられます。
このような宇宙意識が例えば人間に浸透する時、細胞、組織、器官、感覚器官、脳など、体のいろいろな次元の構成部分に入って、それぞれ個別化された意識として現れるというわけです。
宇宙意識は感知性をもっているので、細胞の中に入れば、その意識は細胞についての知識(情報)を得るが、それは細胞内のDNAのもっている情報を読み取ることを意味する。
宇宙意識が細胞に入った時、そのDNAの情報を読み取ることによって、前意識(原意識)はその情報に従って働くようになるのである。
情報を読み取るとは、前意識(あるいは前意識層ないし原意識層)に、細胞それ自身や細胞よりなる組織、器官の構造や機能などの内容が投影されることを意味している。
便宜上、前(原)意識に投影された象を前(原)映像と呼ぶことにする。
したがって、前映像とは前意識のもっている映像(=観念や概念)のことを言うのです。
前意識(原意識)は、末梢神経を通じて下位中枢にある潜在意識と連結されているはずであるから、
下位中枢の潜在意識は、その中枢の支配下にあるあらゆる部分の構造や機能についての情報(=前映像=原映像)を複合的にもっていることになります。
下位中枢において複合された前映像は別名「内容象」と言ってもいいでしょう。
その内容像が形式像と合わさった時、『原型』を形成するのだと思われます。
言葉が足らなくて、申し訳ないのですが、結局、前映像は経験とは無関係に内界で形成されるということになると思います。
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意味と分割に関して、足します。


ひとつの要素は、2つの要素間の関係性でもある、とほとんど言えると思います。
この辺、僕もまだ全然まとめてないですが。てきとーです。


仏教で縁起、という概念があります。
>仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという  wikiから
これも・・まあ・・概念は、関わり合い関係の中で生まれる、というのに近いことを言ってる、とも取れないでしょうか?
仏教に詳しい人に言わすとあほかと言われそうですが。


僕個人の言葉では、存在と関係は等価、と言っています。区別は付きません。本質的に同じものだ、と見ています。

概念の存在を認知すれば、そこには必ず、もちろん無意識のフィールドでですが、その当座の概念そのものと、その概念の補集合、つまり概念以外のすべて、との関係が存在する、と思ってます。

ある概念と、その概念の補集合を加えれば、常に全体があります。

but と、だから、を両方含む集合が有れば、これはもう出来上がりです。
プラスとマイナスを足したら、0です。
白と黒も、2つが揃ったら、出来上がりです。
白と黒で、別に色が終わりじゃないですが、この2つがそろうと、ある種の完全性の感覚が生まれることは気付かれるでしょうか? それは、白と黒が揃うことで、全体性が発生しているからとなります。(先の投稿で書いた、太陰大極図のことです)


プチ完全性? とでも言いたいような感覚です。
人間は、そういう完全性を分割して、たくさんの概念を作ってきたんだなーと、因果関係が逆転します。



太極図で思い出したので追加します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ニールス・ボーア
物理学者ニールスボーアさんのページですが、彼は、粒子と波動の2重性の研究などで、同じものに2つの側面が存在することを相補性と呼んでいます。その流れで、太陰大極図にも惹かれていたそうです。



論理的とは言えないですが、実生活で、事実そうなってるなーと思えたので、それ以上追求する気は起きてないんですが、暇があったらここから先を考えてみたいなーおもてます。
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こんばんはー。



>分割は、区別ならできますが、意味そのものではない
意味、とは区別だと思います、たぶん。
違うでしょうか?
ほかと違うから意味があると思うんですが・・

意味は意味であって、同時に、成り立ちから見れば、それは区別でもあるんじゃないかと。

うまい例えが、うまい例えがない・・

探しました。関係有りそうな概念です。


1.ゲシュタルト心理学
「人間の精神は部分や要素の集合ではなく、全体性や構造こそ重要視されるべきとした。この全体性を持ったまとまりのある構造をドイツ語でゲシュタルト(Gestalt :形態)と呼ぶ」
だそうです。大体僕もこんな意見ですねー。
でもこれはひとつの主義に過ぎません。全体性こそ正しいんだー!とか言ってしまっては間違いになるんですが、
僕は、つまりこういう考え方がすごく好みです。もともと好きな東洋医学も、大体こんな考え方です。ホリスティック、とか言います。

2.太陰大極図  
http://ja.wikipedia.org/wiki/太極図

3.多義図形(だまし絵)
http://www.geocities.jp/syu_58jp/eye/115.JPG  人の顔に見えたりツボに見えたりする絵です。
http://www.geocities.jp/meto178/illusionline_gir …  老婆と女性のだまし絵です。

4.双対性(物理学の用語です)
「双対(そうつい、dual, duality)とは、互いに対になっている2つの対象の間の関係である。2つの対象がある意味で互いに「裏返し」の関係にあるというようなニュアンスがある」とあります。

5.構造主義(哲学)
ごく最近知ったのですが、これはちょっと上の4つと違いますが、でも、ある種の概念の階層性を述べているのは似てると思います。

6.苫米地英人さんのHpから、
http://www.tomabechi.com/
上の認知科学をクリックしたら、彼の、あるいは、アメリカの、概念形成に関する理論らしきことも書かれています。
それは、かなり正しいように判断しています。素人なので、専門用語に四の五の僕は言えないのですが、これはよく分かってるなーと最初読んで感心しました。



大事なとこは、とにかくこの2つの意味が重なって存在することが、全く論理的に不可能、と言うところだと、僕は思ってます。それらは、解き明かすものではなく、前提、ということになります。

できないから、こんな、例をずらずら上げることになってしまい・・
例を上げたら説明したことになるのかどうか・・ ま、いいや。またてきとーです。ご勘弁。
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「存在」は心の中にあるのでしょうか?


「心」は物質の中に宿るのでしょうか?
量子論的世界像において、全ての物質は、超弦=不確定性の
源泉である量子的な相互作用に還元されます。
「相互作用」とは概念(無限不確定性の限定化)そのものです。
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左脳と右脳の相性がよくなるにはどうすればいいんでしょうかね



と言う事なので書いてみます。普通に暮らしている場合はもうすでに、二つの意識がスムーズに行っていて、良い状態と言えます。特に何も『意識』し過ぎない状態の事です。この事を健常者、或いは『心が健康、不安が無い状態、或いは、体も特に悪くない状態』という事になります。

処が何かがあって、特に受け入れられない事などがあった場合に、二つの意識は二つに分かれます。それは『意識』し過ぎる様な事があった場合です。体に感じた事を受け入れられなくなった場合が、「自律神経失調症」。心に「受け入れられないことが有る場合が」心を病む状態です。

悩みでも深刻になった場合等は、受け入れられない事に意識を集中させています。この意識の集中と言う事が『心を苦しく』させています。

又、自分の行動を、おかしい、或いはぎこちない、或いは『違和感』として感じた時そのままにしておくなら忘れてしまいますが、おかしいと『意識』する場合が神経症という事になります。

自分自身を客観的に見て、自分自身に疑いを持った時の事です。自分自身の『働き』そのものに疑いや、不安を抱いた時の事です。自分自身への『疑いや、疑問』が心を病む事や、悩みという事になります。従って不安や疑問とは、自分自身の心の集中が自分自身へ向いたときの事になります。

意識の集中が解けない時とは、無意識の意識に自分自身を預けられなくなった時と言えます。その時に無意識の意識は、自意識と共に一緒に行動を共にしていますので、自意識を助けたいと思います。

もう一つの意識からの『助け舟』とも言える言葉によらない『働きかけが』症状や、違和感や、苦しい想い、でもあります。つまり心の苦しさの原因とは二つの意識のギャップの大きさと比例しています。二つの意識のずれを『心は』苦しみとして受け取っていると言う事になります。

その解消が、もう一つの意識との和解と言えます。それは『症状を受け入れる』という事になります。症状を受け入れられない事が、症状の固定と言うことになっています。

症状が悪いもの、という決め付けが、症状を作っていると言う事になります。症状を受け入れた時が『心の矛盾』が解消する時です。全ての苦しみとは、受入れられなくてその意識のずれで自我意識が、もう一つの意識から『圧迫を受けている』という事になります。

言い方を替えたなら、自分の中には『全てを受入れているものが存在している』という事になります。その者を無視している事が、『心が苦しい』原因という事になります。その者と仲直りをするということが『心の矛盾の解消』という事になります。つまり、自分自身が分かった、と言う事です。この事を『達道』と言います。『神に会って和解した』と言う事になります。

東洋の無の境地とは『自我意識』が出ないで、もう一つの意識に任せて生きて行くということを意味しています。オリンピックなどのメダルに限り無く近い演技や、一流歌手の歌の中や、一流の俳優の真にせまった演技などを『働かせている』働きのことを言っています。その人を働かせているものとは『自我意識が出なくとも』働いている働きの事です。

この働きと仲たがいして、この働きで、自分が働かなくなった状態を、神経症や、精神疾患や、自律神経失調症と言っても良いと思います。それは『自我意識』だけを認めていて、もう一つの意識を認められなくなった状態と言う事が出来ます。

この二つの意識の葛藤が宗教を発展させる原動力となっています。今は宗教に助けを求め難くなっている時代かも知れません。その代わりに精神科医の門に、患者として集まっていると言う現象になっています。この現象(宗教や精神科医の所に助けを求めると言う事)とは、左脳の意識と右脳の意識との二つの意識の解明が、未だはっきりしていないと言う事に付きます。お釈迦様も、キリストも、ユダヤ教なども何千年も前にこの事を指摘していますが、人間は同じ事に苦しんでいると言えます。

人間の苦しみとは『有限の壁』を自分で作ってその中で越えられないと言って嘆いていると言う事になります。処が本当は『永遠で出来ているものが、自分の中には存在しています』ただ気が付くだけで良いという事になります。

障害が或る者はその障害を受け取るだけです。症状が或る者はその症状を受け入れるだけです。人間の障害とは、或いは人間の迷いとは『受入れられなくて』苦しんでいるだけと言えるからです。迷いとは『助けを求めている事』に相当します。迷いがなくなるとは『人生には救いが無かった』と言う事が判るだけという事になります。救いが無いと分かった時、本当に自分が『救われた』事が分かります。自分自身を受け入れられなかった事が分かる時に、苦しみの正体が分ります。
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ではその概念というものの正体はいったい何でしょうか。



[意識」という答えが出ていますので、もっと進めて「思考するエネルギー」ですね。
個性化した「思考するエネルギー」がその正体ということですね。
言葉はその思考の投影にしかすぎませんね。本質が「エネルギー」ですから脳とか肉体は無関係に存在でき、「言葉」が無くても思いは通じるのですね。もっと進めて、見ることも聞くことも感じることも、何でも出来るのですね。例えば、指先で見ることも出来るという不思議ですね。
まあ、思考エネルギーですから、個々の思考の程度にしかその姿を現しえないという不思議さもありますね。禅では「握一点・開無限」の存在と表現されますね。
・・・ちょっと行き過ぎましたかね。
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この回答へのお礼

しかしエネルギーが思考するようになるには、そのエネルギーがそれぞれ別の意味を持たなければなりませんね。同じエネルギーなのにどうやって意味を持つのでしょう。

お礼日時:2010/05/05 01:43

概念は、ひとつの定義として、全体の分割、という言い方もできます。



butなら例えば、対になる概念として、「なので、だから」、という風な、順接の概念とペアで存在します。
ただ意識は、ペアの概念の内、必要な方に光を当てている、といえます。

一行目に、全体の分割、と書いたのは、しかし+だから=白紙の状態ですし、部分ではない、全体、あるいは0から生まれます。
白紙の状態とは、プラスでもマイナスでもない、ニュートラルな心理状態が材料になって、概念は生まれる、という意味合いですが・・

ちなみに僕が調べてる中では、すべての概念がペアとは限らないんですが、大体はまあそうじゃないでしょうか。
基礎になるこれらペアの概念が組み合わさり、無数の概念が生み出されます。

上手くない説明ですが。
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この回答へのお礼

全体の分割?

たとえば動物を見て、犬と猫に分割して概念を生むということでしょうか

>butなら例えば、対になる概念として、「なので、だから」、という風な、順接の概念とペアで存在します。
分割は、区別ならできますが、意味そのものは持ち得ないのではないでしょうか。

お礼日時:2010/05/05 01:32

 「意識」でよいのではないでしょうか。

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はっきり言うならば、言葉で考える脳は『左脳の意識=自我意識』です。

人間には分かり難いながらも、もう一つの意識が在ります。分離脳の研究成果ではっきりしたものです。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究


ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。”


この研究成果を考察した場合、もう一つの意識がどういうものか、大体見当が付きます。それは『宗教』と関係した事になってきたり、或いは精神疾患と関係してきたり、或いは人間の苦悩や悩みとも関係が深いことが判ります。どういう事かと言いますと、宗教関係に書いて在る物が説明できるからです。

例えば『聖書に書いてあります』天国に一番近い存在は『幼子』と言う事です。この理由は脳が未発達の為に『未だ脳の機能分化が進んでいない』と言うことを意味しています。未だ『心は』一つしかないと言う意味になります。脳が大人の脳に近ずいてくる頃、すなわち、思春期頃ですが、今は中二病と言う風に言う事もありますが、脳の機能の分化がほぼ人間には完成に近くなった頃から『人間には悩みが始まる事になります。』

昔の宗教家が無情を感じて出家するようになる頃の事です。現代では精神疾患や悩みや自律神経に失調を感じ始める頃の事です。この原因とは『心』の矛盾や対立や分裂が関係していると思います。この心の矛盾や対立や分裂こそが『人間の魂を苦悩に陥れた』根本原因といえます。この事をもう少し分かりやすく説明したいと思います。

禅問答と言うものがありますが、これは『左脳の自我意識』で解こうとしても、不可能です。論理脳、或いは分別脳で挑戦しても不可能な問題です。それで禅の師匠さんは『分別を捨てなさい』『我を捨てなさい』と言います。自我意識しかないと思っている内は、手も足も出ない状況になっています。何処から手を付けたらよいか皆目見当が付きません。

そこで禅では『言葉』を極力使わない修行になっています。人間が言葉を使わない時に働いている意識が『それ=人間を働かせている命の働きそのもの』と言うことを、師匠は知っているからです。右脳の意識には言葉がないからです。言葉を持たない意識が、言葉を使う脳に書かせたものが『禅問答』と言うものです。禅問答とは『左脳の自我意識と、右脳の命の働きという意識』とを出会わせるために書かれたテキストという事になります。

二つの意識の出会いが「見性」という事になります。つまり悟りを開くということになります。

この事を説明するなら、精神疾患などの症状が良い例となります。誰も恐怖を与えていなくとも『恐怖症』の人は恐怖感を抱き続けています。どうなだめても、すかしても、本人の恐怖感は消滅しません。脅迫行為にも同じことが言えます。『頭では馬鹿らしいと思っていても』体の底、言い方を替えたなら『意識の根底から』恐怖感が拭えないと言う事です。

その訳はこういう事で出来てます。自我意識が感じる事は『感じさせる者』が存在しているためです。右脳の意識です。自我意識が、恋人に会う時に感じる「わくわく感」、納期が迫った時の「切羽詰った感じ」、高い所に上がった時の恐怖感、或いはスピードを出しすぎた時の『ヒヤッとする恐怖感」数え始めたら切り際限がありませんが、自我意識に『言葉によらない情報』で教えている者が、確かに存在しています。

或いは『自我意識』が活動していない時に働く者と言う言い方も出来ます。すなわち『没我』と言う体験をしている最中の事です。我を忘れて、懸命に活動している時のことです。その時は『自我意識』は働いていません。自我意識は休んでいます。体も心も疲れ難い状態の時です。

その反対が『自我意識で』何かをしようとする時です。大勢の人の前では、歩く事も、話をする時も「自我意識が出て」体が言う事をききません。自我意識では体も心も自由には『働かないように出来ています』この事が精神疾患や、神経症や、自律神経失調症の原因となっています。

右脳の意識とは言い方を替えるならば、『無意識の意識』という事になります。無意識や潜在意識の意識という事になります。人間の体も心も『二つの意識』が働かせている事になります。自我意識が働かそうとする事が『精神疾患や神経症や自律神経失調症』という事になります。そうして『交代制』になっている、『無意識の意識』に働いて貰っている時が、無病息災という事になります。

何も意識しないで出来た時、無の境地、東洋の無。
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この回答へのお礼

大変興味深いお話をありがとうございました。
左脳と右脳の相性がよくなるにはどうすればいいんでしょうかね

お礼日時:2010/05/03 12:42

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