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自己の同一性は仮象でしょうか?

A 回答 (20件中1~10件)

お礼欄拝見しました。



>例えば「人間というもの」と言ったときの「もの」

そもそも「もの」という言葉は「もののあはれ」などというときのように、漠然とした対象を指す言葉でしたよね。逆にいうと、対象をはっきりさせたくない、ということでもある。

たとえば『徒然草』の十九段に

「六月の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるも、あはれなり。」というのがあるんですが、「あはれなり」が指しているのは、あばらやでもあり、黄昏時に白く浮き出す夕顔であり、蚊取り線香の煙であり、さらには夏の夕暮れの気分であり、そこに住まう人であり、追われる蚊でもあろうかと思います。
つまり、「もののあはれ」というのは、名づけによってそぎ落とされる何ものかを掬いとろうとする言葉として、一貫して機能してきたのだと思います。

そんなふうに考えると、「人間というもの」の「もの」とは、「者」にも「物」にも分類する以前の状態をなんとか言葉にしようとしているのではないでしょうか。

> 名づけということでしょうか。

お望みなら「象徴界への参入」とでも(笑)。

> 例えば横井庄一さんが記憶喪失者だとしたら戸籍上横井庄一と名付けられた人間の同一性を保証するものは身体的特徴の同一性のみということになるのか。

文学作品や昔話には、自己同一性を題材に扱ったものがおびただしく存在します。
記憶喪失もの、逆に、記憶はあっても、過去を抹殺して別人として生きる、というもの、おそらく双子もこの変奏でしょうし、入れ替わりもそうでしょう。一時期のハードボイルドミステリでは、依頼された探偵が、行方不明者を捜すというプロットが定番でした。たいてい行方不明者は、犯人か、死んでいるかなのですが、探偵は、読者の目や耳になって、さまざまな情報を集め、ひとりの人間の統一した物語を作成していくのです。

おそらくこれは、わたしたちが「自己の同一性」というものに、どうやっても信頼を置くことができない、それでも、なんとか自分の首尾一貫した物語を持ちたい、という願いの現れかと思います。それこそ、わたしたちは誰しも、「象徴界に参入」する以前の、「物語としての記憶」を持っていない。断片的な場面としての記憶がある人も多いと思うのですけれど、そうしてわたし自身も、三ヶ月の頃の情景を断片的に覚えているのですが、それが「三ヶ月の頃の情景」であると知ることができるのも、「あれはあのときのことで、あなたが生まれたのは何月だから」というふうに、家族の話と照らし合わせながら、「あのときの情景」と確認するしかありません。

自分のことなのに、その端緒を決して知ることができない。この不全感がわたしたちに飽くことなくこの種の物語を求めさせる……というまとめは、あまりにインチキ臭いですかね?

とまあ、こんなところで(笑)。
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この回答へのお礼

「もの」という語は「何か」を指示する。
何かというのは、自己同一的で、不定で漠然とした対象あるいは存在者を指示する語である。
私の曖昧な記憶です。

実は仮象について質問したのは柄谷さんの言う「統制的理念」について話をお伺いするためだったのですが、話がちょっとそれてしまいました。

それにしても「三ヶ月の頃の情景」というのは実に驚異的なんですがghostbusterならありうるなと思います(笑)。

考えてみると人生の終焉も知ることができないわけでして、ウィトゲンシュタインが書いていたように生は永遠ということになるんでしょうか。

ほんとに真摯にご回答いただきありがとうfございました。

お礼日時:2009/08/21 08:21

補足要求をくださったのに遅くなってすいません。

ちょっとまとまった時間が取れなかったので。

> >「要請」というのは、仮説として存在するということです。

つまり、「要請」すなわち公準というのは、ある大前提を設定するということです。
公理・公準となる大前提は証明不能ですが、正しいと仮定される。ここで要請が仮説である、と言っているのは、そういう意味です。

> ロックは人間(man)と人格(person)の同一性を区別しているのですが、

すいません、知りませんでした。ロックは哲学史の脈絡で、ざっとさらっただけだったので。

> つまり身体の同一性も一種の前提に過ぎないのでしょうか?

要請されている超越論的自我というものは、物自体に属するものですから、時間空間因果関係といった人間の側に属する形式を超越しています。そこには身体に起因する、たとえば疲労だとか、感情だとか、欲望だとかといった要素が入り込む余地はありません。ここにある自我は、世界の内に場所を持たず、脱身体化されています。こうした超越論的自我が世界を構成していくわけです。ここでは身体は「対象」のひとつでしかありません。

この身体を客体として見る見方というのは、いまなおわたしたちのなかにも色濃く残っていて、たとえば「わたしの体」という言い方を平気でしてしまう。「わたしの」という所有格のもとになっている「わたし」というものが「身体」を所有しているかのように。

ここには、身体は精神と異なって物質的なものだという思いこみがあります。そのときの「身体」というのは観察の対象です。観察対象が同一であることは、観察の前提です。そもそも、観察対象が同一であることを確認するために、デカルトは心身二元論を唱えたのですから。

超越論的で空間を持たない「わたし」が「身体」を所有しているのではない、「わたし」は身体として「ある」と考えたとき、初めて「身体の同一性」ということが問題として措定されるようになった。措定される、ということは、もはや自明でも、前提でもない、ということです。ロックの「人間」がどのような身体を備えているのかわたしは知りませんが、「身体」ということが問題になってくるのは、やはりフロイト以降、現代哲学の領域に入ってからであるように思います。

たとえばメルロ=ポンティは『知覚の現象学』のなかで、このように言っています。

「われわれはいままで、対象から自分をもぎ離そうとするデカルト的伝統に慣らされてきた。すなわち、反省的態度では、一方では身体を内面性なき諸部分の総和として、他方では精神を隔てなく自己自身に全的に現前する存在として定義づけることによって、身体と精神の常識的概念を同時に純化したわけである。……

対象は徹頭徹尾対象でしかなく、意識も徹頭徹尾意識でしかない。存在するという言葉には、二つの意味があり、また二つの意味しかない。すなわち、物として存在するか、それとも意識として存在するか、その何れかだというわけである。」(p.324)

けれども、わたしたちと対象の関係というのは、そんなふうにすっぱり分かれたものなのでしょうか。

机の上にあるグラスは、手を伸ばしてつかむことができ、そこに水を注ぐことができ、手を離せば落ちて割れるかもしれない、というように、「わたしの身体」を通じて認識されています。グラスを手に取る。重さを感じ、硬さを感じ、冷たさを感じる、それは同時にわたしが自分の手の重さを知り、手の表面の柔らかさを知り、自分の体温を感じ取る経験でもあります。つまり、わたしの身体と、世界のなかにある対象とは、存在するものとして同じ素材から成り立っているからこそ、その対象を知ることができる。つまり、「触れる者」である「わたし」と「触れられる物」は、同じものに属するからこそ、触れることができる。

メルロ=ポンティはここに「間身体性」という領域を考えます。この領域にある「わたし」と「触れられる物」が、「触れる」という行為を通して、「触れるわたし」と「触れられる物」として同時に生起するのです。 この間身体性としての場が、認識を可能にする条件となっていきます。

かなり荒っぽい説明をしているのですが、さらにここから後期の『見えるものと見えないもの』になると、「反転可能性」ということが言われるようになります。つまり、身体を介して対象をとらえる「わたし」は、身体をもつがゆえに、他の者からとらえられる、ということです。

ここで重要なのは、「見る者」≠「見られる物」ということです。
右手で左手に触れる。右手はあくまでも「触れる者」であり、左手は「触れられる物」です。けれど、今度は触れられた左手で、右手に触れようとする。そのとき、左手は、「触れられる物」でありつつ「触れる者」となれるのだろうか。

実際には、今度は右手が「触れられる物」となって「触れる者」であることは中断されてしまいます。それぞれが容易に立場を変えることは可能であるけれども、この「者」と「物」は決して合致することはない。

右手と左手は、ともに同じ世界に属する。「わたし」と「見られる物」も同じ次元に属し、共存し、融合している。けれども、「触れる」という経験において「触れる」右手と「触れられる」左手が立ち上ってくる。「見る」という経験を通じて、「わたし」と「見られる物」が立ち上ってくる。

このように考えていくと「……についての意識」と対象の二元論は果たして有効なのだろうか。放棄するしかない、とメルロ=ポンティは言います。

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力を合わせるわたしの身体は、対象ではなく、わたしの両手、わたしの両眼に粘着した「意識」を、こうした意識に対して横から横断的に働く作用によって束ねるものであることを認める必要がある。「わたしの意識」とは、わたしと同じように遠心的に働く多数の「……についての意識」を統一する総合的で、既存の遠心的な統合ではない。わたしの意識は、わたしの身体の反省以前の統一、対象以前の統一によって支えられ、裏打ちされているのである。

要するに、単眼のそれぞれの視覚、片方の手だけによる触覚は、それぞれの独自の視覚と触覚をもちながらも、他の視覚や触覚とともに、一つの世界を前にした一つの身体の経験を創りだすことによって、他の視覚や触覚に結びつけられているということである。

そしてこれが可能であるのは、それぞれの経験を相手の言葉に変換し、逆転し、転写し、反転させることができるからであり、これによってそれぞれの小さな私秘的な世界が、他のすべての小さな私秘的な世界と隣接するのではなく、他の世界によって取り囲まれ、他の世界のうちに先取りされ、そしてすべての世界が一般的な「感じられるもの」一般の前に立つ一般的な「感じる者」になるからである。(p.137-138「絡み合い――キアスム」『メルロ=ポンティコレクション』)
-----

ここに言語が出てくる。これは非常に重要な箇所だと思います。
すでに『知覚の現象学』において、メルロ=ポンティは、わたしたちがものを「見る」ことができるのは言葉があるからだ、という指摘をしていました。わたしたちは言葉として、ものを見ている。言葉として、認識している。

再度、ご質問に戻りましょう。

自己の同一性は仮象でしょうか?

「わたし」というものが対象となり得ないために、このことを証明することはできません。その意味で仮象であると思います。

けれども「わたし」は、日々「××さん」と呼びかけられる、言語によって変換される身体であり、「××」として行動したという言語によって変換される記憶を持っている。その身体と記憶によって、この仮象は保証されているのだと思います。

長くなりましたが、以上、何らかの参考になれば。
やっと回答できて、夏休みの宿題をすませた気分です(笑)。
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この回答へのお礼

せっかくの夏休みなのにお手を煩わせてしまいました。
あまり余計なことは言わないように注意していたんですが(笑)。
何か私の関心ごとを汲み取っていただいたようで恐れ入ります。

以下、余計なことです。

>物と者
例えば「人間というもの」と言ったときの「もの」というのは、「者」か「物」、いずれなのか。

>言語によって変換される身体であり

名づけということでしょうか。

>記憶によって

例えば横井庄一さんが記憶喪失者だとしたら戸籍上横井庄一と名付けられた人間の同一性を保証するものは身体的特徴の同一性のみということになるのか。

お礼日時:2009/08/18 09:06

自己の同一性は「健全さ、豊かさ」と思うのです。



健康を保つ栄養の吸収と不要を排泄するバランスがとれないと、仮の自
己現象(血肉にならない知識や経験、快楽)で癒されようとするでしょう。

酔っ払ってる人に思い遣りからお酒を注いだり(同じ情報経験を与えて
も更新はない)奢って謙虚を示すこと(理解を得たのではない)も強迫
観念(必要に感じさせられている)に依って、飢えや退屈を紛らわせよ
と命じ、仮象であるが故に本来の自己主張(認証基盤)や安全対策が高
じるものかは?

要は「自分に必要かどうか」の予見判断です。こういう説明ではわかり
ずらいしょう。本人さえわかってないから(汗)
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貴方の疑問は、貴方の心の矛盾から出ています。

つまり貴方には二人の人物、或いは二つの心が存在しているという事になります。

一つは貴方の自我意識です。もう一つは貴方の命そのものの意思です。その二つのものが分裂をした時が分裂病になった時です、つまり「自分が何だか分からなくなった」と云う事です。心と心が対話できなくなった時の事です。心と心が背中合わせになった時の事です。

この現象は、自我意識と命の働きの意思が別々に整合性を持たなくなって働いているという事になります。アイデンティが得られなくなったという意味が有ります。云い方を替えたなら、決裂したという言い方のほうが当たっているかも知れません。

そこまでには至らないが、心の矛盾に苦しんでいると云う場合が有ります。神経症や、心身症、或いは自律神経失調症と云うものもあります。もっと広い意味で言うならば、悩み、苦しんでいる場合です。今言った事が明確になった時には「疑問」という形で「心を」圧迫する場合が有ります。それが貴方の質問です。

人間には自我意識が有ります。生まれた時からの記憶或いは学んだ事を覚えている機能の事です。計算する事を受け持っている機能の事です。つまり分別心の事です。是は左脳の機能の事です。

それとは別に命の働きそのものを司っている機能が有ります。蜘蛛が誰にも教わらなくとも上手に蜘蛛の巣を作れる機能の事です。或いは動物達が学校に行かなくとも生きてゆく事が出来る能力の事です。

人間はそれらの動物達よりも大きな脳を持っています。それらの動物達の記憶や、能力を持っていると考えた方が当たっているかも知れません。ですが自覚は出来難いようです。

話を簡潔に進めます。人間の心は右脳と左脳の関係で成り立っています。左脳が優位に立っている時が「意識をしている時です」左脳が左脳自体で生きてゆこうとした時が「神経症」或いは自律神経失調症、或いは悩み苦しんでいる姿と言えます。

不眠症や様々な症状が在ります、書痙や吃音、或いは対人恐怖症など様々な症状が有ります。それらの神経症の症状は「意識」をした事が症状名になっています。是は自我意識が単独で自分自身を律しようとしている現象の事です。

人間の苦しみを救う機能である宗教と云うものも此処から出発をしています。人間の心の矛盾から人間の苦しみが生まれているからです。失楽園と云う事は子供の脳から大人の脳になったという事を示しています。天国に一番近い幼子には分別するほど脳の機能分化が出来ていないという意味が有ります。

人間の脳の機能から「魂の救済」と云う事を説明するなら、苦しんでいる魂、或いは深い疑問に苛まれている心は、自我意識ともう一つの意識との矛盾に葛藤している事になります。心の対立と矛盾に苦しんでいるという事です。是がどういう事かが分からない事から「深刻な悩み」と云う言い方になってしまいます。理由がよく分からない事によります。
この事を仏教では「無明」と云う事で説明しています。「自分自身が分からない」と云う事です。

キリスト教ではこの事を「神と和解せよ」と云う風に言っています。キリスト教での神との和解とは、左脳の自我意識が右脳の意識(神)と和解せよという意味になります。

仏教では自力本願であるならば「悟りを開く」と云う言い方になります。自我意識が自分自身の働きに出会うという事です。他力本願であるならば、向こうからお助けが来た。と云う事になります。

禅宗であるならば、「生死の問題が解決した」と云う事になります。今までは左脳の意識である自我意識が主導権を握って自分を働かせていました。悩みが、不安が尽きませんでした。今度は右脳の意識が主導権を握って自分を働かせています。

この姿が神と共に在る、仏と一つになって生きてゆくという事になります。絶対の安心の中で、命を働かせてゆくという事です。貴方の場合にも貴方の疑問は貴方自身が疑問を発しています、言い方を替えたなら貴方にはこの答が用意されています。

貴方の問いかけは、貴方の答え自身が発している疑問だからです。自分が分かった時に全ての疑問が氷解します。全ての答えは貴方自身の中に既に存在しているという事になります。そうしてだれも貴方に答えは教えられないという事です。貴方自身が気が付くだけで良いという事になります。
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 辞書で勉強?しました。



 自己同一性=精神世界の事柄=物体ではないので=化象

 答え

 自己の同一性(変化しないものであっても)は化象です。
 精神世界の産物なので。

 でも実際、我々はこの肉体を拠り所として心の存在を実感してます。

 その心には中心(核)があるはずです。

 人間の肉体を背骨が支えているように、心をまとめる‘核’が。

 その変化しない‘核’(精神、心)は‘現象’と言えるのかも。

 現象=実際に‘在る’もの。化象=架空のもの。と定義しての回答?でした。

 支離滅裂???

 
 


 
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 回答者の立場であるべきなのに、質問しなければならないなんて、無知を恥ずかしく思います。


 参加する資格はないと言われてしまいますが、よければ補足での感想‘哲学的思索の一般的形式’にどんな意味(思い)がこめられているのか知りたく思います。
 哲学としては単純すぎる、常識の域を出ない、ということなのでしょうか。
 また‘目に見えるものと見えないものの区別ということ自体が’から、自分の意見が‘物と心を区別してみただけである’と言うことに気づかされました。
 ‘自己の同一性’これは心の世界の事を取り上げているんですね。
 物体が在るとか無いとかではなく、植物に種があるように、心にも‘核’に当たるものが在るのではないかと。
 そしてその‘核’は仮象か仮象でないか(変化するのかしないのか)というのが、質問の趣旨なのですね。
 
 
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 手元の辞書を引きました。


 自己同一性=《哲》あるものが時間・空間を異にしても同じであり続け,
変化が見られないこと。
 (1)物がそれ自身に対し同じであって,一個の物として存在すること。
 (2)人間学・心理学で,
人が時や場面を越えて一個の人格として存在し,自己を自己として確信する自我の統一をもっていること。主体性。
 とありました。

 カントのことは全く知りません。また自己同一性、現象、仮象、という言葉について、考えてみるのは初めてです。
 こういうのが哲学かと思いながら、辞書の説明のみを頼りに考え(想像?)てみました。

 自己同一性=変化しないものが在る。とするならば、そのものは‘現象’といってよいかと思います。
 でも、その現象を認識するのは、我々の‘心’です。
 心の世界になると、実際に現象としてあるものも仮象ということになるのかなぁ、と思います。

 認識とは心の世界の事柄。

 と、ここまで考えたら、

 ‘現象’とは、実際に‘在る’物(‘在る事’という表現に当たるものを含めてよいかは考え中)
 ‘化象’とは、心の世界で起きる全ての事柄。
 この理屈で言えば、理性も感性も心の作用なので、‘仮象’ということになりますが、その‘違い’も考え中です。

 大哲学者、カントの思想?にかかわる問題らしいので、「下手の考え休むに似たり」ということになるんでしょうね。

 自己の同一性=そのものは在る。しかし、それを認識するという作用を通して‘仮’へと変化する。

 

 

この回答への補足

目に見えるものと目に見えないものの区別ということ自体が、哲学的思索の一般的形式といえるのではないでしょうか。

補足日時:2009/08/11 06:21
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>現象と仮象ってどう違うの?


やっぱりここから回答した方がいいんでしょうか。

> 現象は私たちの感官との関係においては、述語として客観自身に付与されうるもの、しかし仮象(Schein)は述語として対象に決して付与されえないものと考えています。

質問者さんは、わかっていてあえて聞いていらっしゃる(笑)。

とはいえ確かにこれは『純粋理性批判』の肝みたいなところですね。

カント以前には現象と仮象はほぼ同じものでした。
その背景にあるのが、わたしたちが感覚器官を通して知覚するもの、経験するものは、すべてそう見えるだけで、そのものの本当の姿は感官・経験によらず、理性によって得られる、という考え方です。

それをひっくり返したのがカントです。純粋悟性や純粋理性からする物の認識は、すべて単なる仮象にすぎない、真理は経験のうちにのみ存在する、と言った。このとき、「仮象」と「現象」は、はっきりと袂を分かったのです。

非常によく見受けられるまちがいのひとつに、カントはわたしたちが現実の断片を綜合し、頭のなかでこしらえている、と言っている、とする見方です。これだと、頭のなかでこしらえた像と、現実のものをつきあわせて、真偽の判定をすることができる。こういう考え方をしていると、「現象」も「仮象」もおなじということになってしまうのですが、カントが言っているのは、まったくそんなことではありません。

経験はかならず経験の対象ではない器官によって媒介され、器官の性質によって決定された形式をとるために、結果として、経験がもたらす表象は、その対象とは異なるカテゴリーに属するものとなります。

ちょうどある人を写した写真がその人ではないように、〈経験の対象〉は経験に似てはいても、それはわたしたちの経験から独立である「生」の現実であるような対象ではありません。

わたしたちは経験の外にある世界を知ることはできない。カントは経験世界を「現象界」と呼びますが、なぜ「現象界」という言葉が必要なのか。なぜ「経験の外にある世界を知ることはできない」という言明を行うのか。それは、わたしたち自身が、経験の外側にひろがる世界があって、対象はわたしたちから独立して存在することは知っているからではないか。理解の可能性の埒外にありながら、「前提」としてそこにあるものとして。

「現象」は「仮象」ではない。「現象」とは、わたしたちが知り、経験しうるものである。
では「仮象」とは何か。水に入れた棒が曲がって見えることを、カントは「経験的仮象」と呼んでいますが、この経験的仮象や、単に推論形式に関わる「論理的仮象」とも次元の異なる仮象、「超越論的仮象」があるという。

質問者さんはここらへんを理解しておられるので、話をぐっと端折ります。わたしも疲れてきた。

この超越論的仮象という誤謬がなぜ起こるのか。それは感官に足場を置かない、理性が誤ってしまうからだ。人間の認識の形式であるカテゴリーを、物自体の世界にまで拡張して、あてはめようとしてしまうからだ。

仮象がなんで起こるかというと、判断の主観的根拠を客観的なものとみなすことにおいて成り立つからです。ですから、純粋理性は自身の出過ぎた使用をみずから認識することが、迷妄に対する唯一の予防手段である、と言っているわけです。

さて、やっと元のご質問にたどりつきました。

質問者さんがおっしゃっておられる

>自己の同一性

というかたちで言われる「自己」というのは、経験的自我の諸相と言いかえることができるかと思います。

わたしたちは折にふれてさまざまな感じ方をし、さまざまな記憶を持ちます。わたしたちは「自我」を経験することはできないけれど、経験のなかにあらわれる対象を通して「それを経験するわたし」というかたちで自我を経験するのです。

こうしたもろもろの自我は、経験のなかに存在しますが、同時にそれを超えたものとも関連を持っています。

ちょうど、わたしたちは「原因と結果」を経験することはできませんが、原因にあたることがらと結果にあたることがらは経験することができる(より正確には、できごとを「原因」と「結果」という形式のなかでまとめることができます)。つまり、個々のできごとは、現実的な経験の背後に何かがある、という含意されているのです。

同じように、経験的自我は、個々の自我を超えて、それを統合していくような超越論的自我を「前提」として要請している。
この超越論的自我というのは、カントにとっては経験のひとつの機能であって、わたしたちがそれを引き出すことはできません。けれども、統一的な自我が「ある」と想定してきたのです。

さて、この要請は、仮象ということになるのでしょうか。そういうことになると思います。

「要請」というのは、仮説として存在するということです。わたしたちは行為の基礎となる仮説をたて、この仮説が有効であるかぎり、わたしたちはそれにもとづいて行為を続けます。そういう意味で「仮象」と言えると思います。

この回答への補足

>というかたちで言われる「自己」というのは、経験的自我の諸相と言いかえることができるかと思います。

ちょっとお聞きしてもいいですか?
ロックは人間(man)と人格(person)の同一性を区別しているのですが、
例えば自己の同一性をロックの言う人間の同一性とした場合どうでしょう。
つまり身体の同一性も一種の前提に過ぎないのでしょうか?

補足日時:2009/08/11 04:58
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この回答へのお礼

仮説と仮設

>「要請」というのは、仮説として存在するということです。

この場合、仮設ではなく仮説でしょうか?

お礼日時:2009/08/11 05:41

「同一性とは何か」ではなく「同一性は仮象か」に対する参考意見です。



「現象と仮象」をどう区別なさっているかは良く分かりませんが回答者なりに使い分けてみます(英語では同じ単語「appearance」になります)。


――水のなかにある棒は曲がって見えますが、水から出すとまっすぐに見えます。

 これは「視覚」は「間違えやすい」というありがちな論理です。

 「曲がって見える」といってもそう「見える」のは「事実」なのですから、「曲がっている」のは「現象」です。ところが棒が水から出て「まっすぐに見える」と、「曲がっていた(現象)」が「仮象」に反転します。「まっすぐ」が「現象」になるわけです。ここで「まっすぐ」だと判断したのも、やはり「間違えやすい視覚」の「おかげ」です。つまり「視覚は間違えやすい」のだから、「まっすぐ」も原則的に訂正可能であり、その訂正もまた「視覚」のおかげです。こうして「現象」と「仮象」は「時間差」として理解できます。
 直感の疑わしさを言い立てるのは哲学の十八番ですが、結局、間違いに気づくのも直感です。直感から逃げることができないと喝破したのは、米国の哲学者パトナムが最初です(わたしが誤っていなければ)。

 そこで「自己同一性は仮象か」のお答えはこうなります。
「仮象」であり、「現象」であると。

この「現象」をどう捉えるかはご存じのとおり「ゆるくない(北海道弁)」です。

この回答への補足

>「現象と仮象」をどう区別なさっているかは良く分かりませんが

現象は私たちの感官との関係においては、述語として客観自身に付与されうるもの、しかし仮象(Schein)は述語として対象に決して付与されえないものと考えています。

ご回答ありがとうございました。

補足日時:2009/08/09 13:33
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>現象と仮象ってどう違うの?



現象を分けると仮象と実象(?)に分けられるのでは。
ただ、究極的に厳密に考えると実象などはなく、全ての現象は仮象と言えると思います。

>また理性における仮象と感性における仮象はどう違うのでしょうか?
想像と刺激は仮象であるが、どう違うかということですか?
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