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昨今の仏教界って世のため、人のためになることをしていますか。
昔の僧侶は井戸を掘ったり、道を作ったり、救済事業を行ったりしていたようですが。
このごろお寺に行くとやたら「寄付して」と声高に言われたり
(文化財保護のためお金がかかるんでしょうが、あまりに言われるとワーキングプアは参拝しづらい。
拝観料とお賽銭くらいはしますが。)
参拝者を邪険にするような態度をとる関係者がいて
はあ?と思います。

A 回答 (16件中11~16件)

 No.6です。


 おぎないます。


 ☆☆ (No.6) 諸回答を読んだ結果です
 ☆ と書きましたが それは No.4までのものを言っています。(物理的に言って そういう事実であると 念のために)。
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この回答へのお礼

わざわざ補足をありがとうございます。

お礼日時:2010/07/02 16:56

 こんにちは。



 いくつか 反応するところを持ちました。ただし諸回答を読んだ結果ですが 質問の趣旨に沿って投稿します。

 (1) 基本的なこととしてわたしは 次のわたし自身の質問をつうじて 次の命題を得ることができました。

  質問:【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5764972.html
  命題:慈悲とは 基本的に 存在論である。(《わたし》の境地の問題に還元される)。

 もちろん《慈悲》は 《友がら》の意味の言葉から来ていますから 関係性をも問題にしています。あるいは 人間の社会的な交通(まじわり)についてです。それもこれも ただし――犀の角のごとくひとり歩めではありませんが―― ひとりの人間としての境地にすべてはかかっているといった意味合いであろうと考えます。
 ですから どなたかもおっしゃっていましたが 慈善事業や救済を がむしゃらにおこなうというのとは 微妙に違うということのように捉えられます。
 ぎゃくに言えば
 ★ やたら「寄付して」と声高に言〔う〕
 ☆ ことが 存在論としての慈悲であるとは思えません。

 (2) 上の主題ともかかわりますが 《仏教界》というようにそれとしても《世界》をかたちづくるかどうかは ブディズムとは何の関係もないとさえ言えることではないでしょうか?
 あるいはそもそも 存在論が――そして きちんと言えば 非思考としての個人の信仰のもんだいが―― 組織としての教義のもとにいとなまれるようになるということや あるいは社会集団にとって付き合いの様式(シヰ゛リザシオン)にその教義の内容が 倫理的な規範となって有力であるようなこと これらの社会表面上の現象となってしまうことは むしろ〔存在論や信仰の〕自殺行為であると考えるべきではないでしょうか?
 規範は 社会的な慣習のちからによってのみ有力である――つまり 早く言えば その教義の内容が間違いでありインチキである――ということも 一面ではよくあることです。
 いえ もっときちんと説明します。《世間虚仮 唯仏是真》などというのは ただの現実逃避であり 間違いです。
 《和を以って貴しと為せ》という――ゆるやかなでしょうが 時には有力となる――道徳規範は なるほどその中身は 誰もがうなづく命題であるようですが そこにも問題はあります。その規範命題を誰が言うかというもんだいです。組織においてなり社会的な身分関係においてなり 権限や権力を持つ者がそれを口に出す場合には 当然のごとくすでに出回っている社会的な力学関係が その発言の効果形成にあずかります。
 言いかえると 間違った判断や命令を擁護し弁解し貫き通そうとするそのためにこそ 《和》が大事だという宝刀が抜かれることがあるというものです。

 ゆえに 《仏教界》という世界に信頼を寄せるわけにはまいりません。

 (3) 新興宗教が 会員の獲得に成功したという歴史についてですが これは ひとえに社会(国)の社会政策が無策であることを物語るのみです。それ以外の問題は取るに足りません。
 なぜか? 社会においてバラバラの個人となってしまっていた人びとに所属(帰属)意識をあたえたという功績は その反面で あぁ おれはこの組織の奴隷になってしまったのかという嘆きとちょうど拮抗しているようなのです。
 奴隷というのは もっとはっきり言えます。支払わなくてはならない会費こそないのだけれど 会合やイベントや政治活動への参加(それも ただ出席するのではなく 裏方として仕事をし 自分の職業としての仕事を放ったらかしにして奉仕するという意味です)あるいは出版物の購入等々(これは ひっきりなしです) この奴隷状態は 帰属意識(つまりは 社会から自分の存在を承認されたいという欲望が満たされる)のメリットと相い半ばするもののようです。
 したがって 新興宗教がよくやったとか いや それはただのインチキだとか議論する問題ではなく 国家としての社会政策の無さだけが問題だと考えます。つまり 仏教界も どうするすべも つもりもなかったのでしょうし 実際なにもせずに来てしまったようです。ひとの自由を踏みにじる反社会性をなじっても ひとは 自由意志で行動することになっているのですから 余計なお世話になります。それなら 存在論としてまた人の境地の問題として もっと――もしブディズムを保つことについて自信があるのなら――発言をしつづけなければならないでしょう。わたしから見ればどうも《マッポウ》のようです。

 言いたい放題でしたが。
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この回答へのお礼

こんにちは。回答をありがとうございます。
なにぶん、私は学のない人間なもので、せっかく回答いただいたのですがよく意味がわからないところも多々ありまして・・・

勘違いがありましたらご指摘いただけたら幸いです。

>その教義の内容が間違いでありインチキである――ということも 一面ではよくあることです。
これはそのとおりと思います。
先日法事の際に僧侶の方からお話を伺ったのですが
三宝(仏法僧)を敬え、という考え方が仏教にはある、ということでした。
僧であるからというだけで敬うことが、一般常識のない僧侶を増やす原因になっているのではないか、と思いました。

>シヰ゛リザシオン
申し訳ない、この言葉は何を意味しているのかわかりません。
ご教授いただけたら幸いです。一応、ググってはみたのですが。

>《世間虚仮 唯仏是真》などというのは ただの現実逃避であり 間違いです。
 《和を以って貴しと為せ》・・・間違った判断や命令を擁護し弁解し貫き通そうとするそのためにこそ 《和》が大事だという宝刀が抜かれることがあるというものです。

同感です。
《和を以って貴しと為せ》というのは聖徳太子の言葉だったと思いますが、この時代の仏教は鎮護国家のために存在しています。
聖徳太子は為政者にとって都合がいいので、こういったのでありましょう。
阿修羅と帝釈天の説話があります。
正直の神・阿修羅の娘を力の神・帝釈天が力づくで奪った。
そのため阿修羅は勝つことのない戦いを永遠に続けている。
仏教的には執着心をもった阿修羅が悪い、と説かれるようですが、これなども鎮護国家的な考え方で、現代の道徳感にはあいません。

>新興宗教が 会員の獲得に成功したという歴史についてですが これは ひとえに社会(国)の社会政策が無策であることを物語るのみです。

新興宗教については質問の主題ではなく、深く考えたことがなかったのですが、おっしゃるとおりかもしれませんね。

ちょっと腹のたつことがあったのでここに書き込んでしまいました。申しわけありません。
まー、世のため、人のためとは言いませんが、一般常識をもって参拝者には接してほしいものです。
このごろは文化財には罪はないのだから、と自分に言い聞かせて参拝しているほどですので。

お礼日時:2010/07/02 16:55

こんにちは。



>昔の僧侶は井戸を掘ったり、道を作ったり、救済事業を行ったりしていたようですが。

かつては昨今とは比較にならないほどの「寺社勢力」が存在していたわけで、それを背景として相応に諸々の社会的な救済事業を盛大に行っていたのかなと思いました。

>昨今の仏教界って世のため、人のためになることをしていますか。

先日のワールドカップのPK戦、本当に惜しかったですね。
観戦し終わったあと、ふと、過去のアメリカ大会決勝PKにて、ロベルト・バッジョ(当時のイタリア代表でファンタジスタの代名詞)がボールをふかしたシーンを思い出してしまいました。
あのシーンはね、いまだに忘れられません。

彼は創価学会に信仰を置いているらしく、池田大作をつかって「バッジョを日本代表に!」なんていう願いをこめた噂も当時飛び交ったくらいです。
少なくとも、バッジョに関して言えば、その信仰は彼の「ためになった」らしい。

>参拝者を邪険にするような態度をとる関係者がいて
>はあ?と思います。

なるほど。
自分にストイックだと、自然と他人にも厳しく節制を求めてしまうという、そんな宗教関係者も中にはいるのかもしれませんよね。
まあ、あまり気になさらずに、豊かで実りあるライフ・ワークにこれからも邁進なさってくださいね。
(ちなみに私は創価学会とは無関係です、念のため。)
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この回答へのお礼

こんにちは。
回答をありがとうございます。

ああ、そうですね。
かつての大寺院は荘園を増やすことで莫大な富を得ていたのでしょう。
慈善事業を行っていたのも当時の怨霊信仰と無関係ではないでしょうし。
(つまり自分たちの罪が許されるために慈善事業を行っていた・・・とも考えられますね。)
もともと日本の仏教は鎮護国家のためのもの
(というと聞こえはいいのですが、実は天皇家と一部の貴族のためのもの)
だったので、世のため、人のためという考え方などなかったのかもしれません。

質問の書き方が悪かったかもしれません。
世のため、人のためにならずとも、もう少し世間一般の常識が通じるようにできないのか、
と思ったわけです。

>少なくとも、バッジョに関して言えば、その信仰は彼の「ためになった」らしい。
つまり、宗教とは信者にとって役にたつものだということですね。

信者でないものにまで役にたってほしいとは思わないですが
せめてスーパーマーケット以下の対応をして不快な気分にさせないでほしい
と思います。

信仰心のない私でもみほとけと対話したいと思うことがあるんです。
そんなときに隣で寄付寄付とがなられたらうるさくて仕方がない。

まー、ちょっと不快なことがあったので愚痴りたかったんです。
すいませんでした。

お礼日時:2010/07/02 16:26

木造大工さんは、酸いも甘いも十分経験為さって、そんな経験から学ぶ素直な素養をお持ちの方の様で、何時も説得力のある回答を楽しんでいます。

そんな事情があるので、横道にそれることを質問者さんに前もってお詫びしておきます。

互いに年寄り同士ですので、言いたいことを言っても若い方程には叱られないと思います。大工さんの言葉の彩を読み取っていると、大工さは苦労をして来たとは言え、多分それなりに恵まれた環境にいたのではないかと思えました。私は柳田國男のファンなのですが、日本民俗学の性質上、この学問は外国物を勉強してその翻訳をしていれば学者だと認められるような学問ではない。従って、嫌でも外国物の受け入れでない独自の意見を述べざるを得ない訓練を知らず知らずのうちにやっている。そこのところに惚れているのです。さて、柳田が言うには、表向き一見不合理に見える物でも、どこかに合理的な物が無いもので皆さんに受け入れられて来た物は存在しないとのことです。私も賛成です。

じゃあ、何であれだけ多くの人達に毛嫌いされている創価学会がこんなにも多くの信者を手に入れることが出来たのか。大工さんに取って大変良い練習問題では在りませんか。これから、不出世の天才、猪突だか、衝突だか訳の分からないこの金粟如来もどきが、糞土の中に大道を探しておられる米虫もどきの大工さんに、その模範解答を伝授致しましょう。

少なくとも一昔前までは、日本人は自分自身の同定(私の嫌いな片仮名によるとアイデンティティと言うそうじゃ)を、集団への帰属として認識していたようです。私は、三菱系列の一員である、トヨタ系である、清水建設系である、なんて言うことで心の安定を得ていたようです。職業を聞かれ、「私は三越に努めています」なんて答えて、外国人の目を白黒させた話は有名ですね。運に見放されずそこそこに生きて来られた殆どの方は、大抵どこかの系列に入っていられた。ところが、そんな系列に入ることができない方も結構居られたのです。特に戦後は、戦争未亡人、紙芝居屋のおじさん、畳屋のおじさん、ラーメン屋のおじさんやおばさんたちは、どこの系列にも属せない。ところが、上に述べた日本人の独特の帰属意識は、そのような、社会の一般的な枠から外された方達を不安にしてしまいます。そんな時に、そのような系列と言う笊から漏れた方々を上手にすくい上げて、「はい、私は創価学会です」と言えるようにしてあげた業績は大変な物だと思います。

私の見方が的を射ていそうだと言う傍証は、系列会社の頂点に立つ本社の連中で創価学会員を捜すのが至難の業だと言う事実です。苦労してきたとは言へ、運良く社会の一般的な組織に所属でき、運命に翻弄されてズタズタになってしまうような経験をして来なかった方の中に創価学会を毛嫌いする方が多く見かけるようです。米虫大工さんも、もしかしたら、そんな適度に恵まれて来た方のような気がしています。どうですか、当たっていますか。金粟如来もどきのこのご高説は、田へしたもんだよ蛙のしょんべんでしょう。

私も、池田大作の俗っぽさはどうも好きになれません。しかし、運命に見放された人達に、

 ひとりじゃないって~~
 すねきなことね~~
 いつまで~も~~
 どこまで~も~~

って言いながら、創価学会が救った社会の底辺の人達が一杯いたということもお忘れなく。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ああ、なるほど信者になることで連帯意識を持てる、ということはあるでしょうね。

うちの義母も創価学会ではありませんが、新興宗教の信者になっています。

多額のお布施を強要されるわけでもなく、信者さんの友人もできて
旅行に行ったりすることもあり
高齢の義母にとってはプラスの面が大きいと思います。
私に信者になれ、ともいいませんし。(宗教は信仰していませんので。)

ただ創価学会は「信者のため」にはなっているかもしれませんが
「世のため人のため」とはいえないのではないでしょうか。

宗教が信者のためになることと
宗教が世のため人のためになることとは
別だと考えます。

例えばNo.2山の回答にある電話相談ですけど
信者でなくても相談に応じておられるのだと思います。
こういうのを世のため人のためだというのだと思います。

信者さんは「世のため人のため」になっているというでしょうけれど。
近所の学会の人は「あそこの街灯は公明党のおかげでつくられたんですよ」
などと言っていますので。

選挙前になると何年も音沙汰のなかった人が急に「友達じゃない」などと言い出し
「公明党に投票してほしい」とうるさいです。

※中には訪れるたびにいいお寺だなあ、と思うところもあります。

お礼日時:2010/07/02 11:27

都営・戸山団地:僧侶が電話で人生相談 65歳以上の入居者が6割


http://ameblo.jp/syogai1/entry-10529902636.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
とてもいい話ですね。
この方は仏教の教えを実践されておられるのでしょうね。

お礼日時:2010/07/01 15:19

人のためになることをしているのは知らないですね。



私の寺では、檀家の無縁仏をまとめて隅に追いやって、新たに墓を分譲し、豪華鉄筋コンクリートの建物に建てかえました。木造にしてほしかったのに鉄筋コンクリートです。良く見たら車も檀家の私たちが買えないV8の大型高級車になっていました。

仏教徒と仏教ビジネスマンを分けて考える必要があって、仏教ビジネスに邁進している人々は宗教法人の税制優遇を使ったりしてうまいことやっているように見えます。その一方で在家信者や全うな修行僧もいらっしゃいます。この方たちは目先「世のため、他人のため」とは言わないですが、日本に仏教の教えを残すことに貢献されているのでしょう。もし、この方々の無償の努力が無くなれば、韓国の様にみなキリスト教に折伏されてしまうのではないでしょうか。

世を捨てて出家した方々に「世のため、他人のため」を期待してはかわいそうです。
彼らは生涯を掛けて仏教を学び後世に残すことで貢献していただきたいですね。
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この回答へのお礼

早速の回答をありがとうございます。
なるほど、人のためになることをするのが仏教ではないのですね。
仏教を学び後世に残すこと、それは立派なことでしょう。
しかしここでひとつ疑問がわいてきます。
修行僧の方たちが、仏教の理論(この言葉が正しいかどうかわかりませんが)を学ぶのは何のためなのでしょうか。
ただ知識を身につけるというためだけに彼らは学んでいる?
そうであるとすれば、それはとても空しいことのように思えます。

お礼日時:2010/07/01 15:14

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