プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

皆様、こんにちは。
私の家は真宗大谷派です。
今月始めから、お仏壇に正信偈などの真宗の勤行をさせて頂いております。
真宗の教えについては、只今勉強中です。
真宗では、念仏を唱える事で阿弥陀如来様に帰依し、どんな重悪な罪人でも極楽浄土へ
行く事が出来るとの教えですが、私凡夫の考えでは、やはり罪人は罪を犯した以上は
それなりの罰や、境遇に置かれるのが正等だと思います。念仏を唱えて極楽に行けるのは
余りにも虫が良すぎます。地獄も存在しません。
それと、先祖供養ですが、先祖供養は結局、自分が守って貰いたいが為に行っている事なので、
お位牌など必要無く、過去帳に記入しておけば良い。仏壇は阿弥陀様に念仏を上げる為にあるので
先祖に対しての供養物等も挙げる必要も無い。となっていますが、本当に心から先祖様の生前に
好きだった食べ物をご利益を目的とせず、仏壇に挙げたいと思う気持ちは人である以上、人情として
あるのではないのでしょうか?
それと、この世に幽霊とか、未成仏霊などは無い。との事ですが、以前、ある共栄団地でコンセントも
繋いでいない、ドライヤーが動き始める、戸棚の食器がバンバン飛び出してくるなど、その他諸々の怪奇現象が起き、NHKのニュースでも取り上げて話題となり、結局霊能力者の方が除霊したら、現象が納まったというのも御座いましたし、心霊写真も私自身が写したもので、ハッキリ写っていた事(日本刀が首に突き刺さった写真)も有ります。
これらの現象は真宗ではどう説明されるのでしょうか?
真宗の教えは親鸞上人がお経などから、悟られて創られた尊い教えだと思いますが、親鸞上人も人間なので、あの世を見てこられた訳でもないし、絶対とは言い切れないと思います。
質問は以上ですが、私は真剣にこれから、真宗大谷派の事を勉強させて頂き、勤行も行わさせて頂きたい
と思っているので、本当の自分の素直な気持ちを質問させて頂きました。
決して真宗に対する、非難、中傷などでは無い事をご理解下さい。
勉強不足な凡夫ですが、ご回答を宜しくお願い致します。

A 回答 (4件)

こんにちはgqrsf641 さん。


パーリ語仏典(初期経典)ファンのmaggaの思うところを書いてみますね^^

全く個人の憶測妄想ですがw

極楽浄土思想は初期経典に説かれる悟りの三段階目・不還果の聖者が行く「浄居天」という梵天界の概念からの発展かな?と感じています。そこで最終的に阿羅漢になり成仏・涅槃につくといいますし。

そのような処に聖者が多くいるなら、助けてくれてもいいのでは?
と考えたのかな????と

真言の人に怒られちゃうかもですが・・・あくまで個人的見解ですw

もし、念仏を唱える【だけ】で極楽にいけるなら本当に虫のいい話ですね^^;
(多分八正道の実践はあるのですよね??無知ですみませんw)

どんな行いをしても、死ぬ瞬間唱えれば極楽浄土・・・
死ぬ瞬間だけ~を信じれば天国永遠の・・・

もしあなたが検証を重んじるかたならば
パーリ語経典・初期経典も学ばれるといい発見があるかもしれませんよ

~一切有情が幸福であれ~
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この回答へのお礼

有難う御座います。
私も初期経典の阿含経は見た事があります。
結局、どの宗教が一番正しいでは無くて、
自分の家が先祖代々守ってきた宗教を拝むのが
良いと思います。
誰も死後の世界を見た者はいないし…
外国の方はキリスト様を崇めるように
ただ、宗教の違いで争うのは止めたいと思います。
私は感謝の気持ちが一番だと思います。
貴方様には解ってもらえるような気がします。

お礼日時:2010/08/08 16:17

>どんな重悪な罪人でも極楽浄土へ行く事が出来るとの教えですが・・・


これは悪人正機説のことでしょうか。

これは善人が天国にいけるのは当たり前、まして悪人も天国へいけるということですよね。
この場合の悪人とは人殺し等の悪行を言っているのではなく、
人のために悪いことをしなくてはならない人のことを言っているのです。
例えば殺生は禁止ですよね。
では食肉業者の人は天国へいけないのでしょうか?
庶民が口に肉を入れるために業者は動物を殺しています。
でも一括りに殺生したから地獄行き決定とはならないのです。
親鸞は人のために殺生を行っている人たちこそ天国へ行って当たり前と考えたのです。


>本当に心から先祖様の生前に好きだった食べ物をご利益を目的とせず、
仏壇に挙げたいと思う気持ちは人である以上、人情としてあるのではないのでしょうか?
目的と行為を混同してます。これは形骸化した宗教に対する戒めなんです。
かつて、荘厳な祭壇、厳粛な儀式を行いさえすれば故人は成仏できると考え、
宗教が形骸化した時期がありました。これだとお金もちしか先祖に供養できません。
しかし重要なことは「感謝」ですよね。
また逆に、好きな食べ物さえあげれば先祖供養になるのでしょうか。
死んだ人が現世の食べ物に執着するわけがありません。
あくまでも生きている人間の満足なんです。
また、生きることに必死でお金がない場合、故人の好きなものを供えられなかったから
バチがあたるということにもならないでしょう。大事なのは「気持ち」なんです。
そういうことを戒めているのです。

>それと、この世に幽霊とか、未成仏霊などは無い。との事ですが・・・
ありません。霊は迷いです。生きているあなたを迷わすだけでなく、
死んだ霊すら迷っている。だから迷わないように浄土真宗を立ち上げたのです。
だから浄土真宗に帰依していれば迷わなくてすむんです。

この答えではたぶん納得しないでしょう。
基本的に仏教には悪魔は存在しません。
だから悪魔祓いというのはないんです。
ではこの場合の除霊ですが、まず最初に言いたいことは、
食器が動く、ドライヤーが云々が霊の仕業だとして、
だからどうしたのでしょうか。人に危害を加えているわけでも、
人を迷わしているわけでもありません。
全てはその怪奇現象に自ら迷っている人がいるだけなんです。

さらに、浄土真宗では念仏に勝る悪はないと考えています。
念仏に勝る悪はいない。つまり霊が存在したところで論点にはならないわけです。

浄土真宗は個人の生きる苦しみを天の力で救ってもらおうというのが主です。
生きるのに必死な人間が怪奇現象なんてものに心を悩ませている暇なんてありません。
そういうことに神経を注ぐことは無駄なんです。

>真宗の教えは親鸞上人がお経などから、悟られて創られた尊い教えだと思いますが、
親鸞上人も人間なので、あの世を見てこられた訳でもないし、絶対とは言い切れないと思います。
あるとき、親鸞聖人が何も言わず何の教えもないことに不満を持った民衆が親鸞の所に押し寄せました。
その時親鸞は「南無阿弥陀仏。ただそれだけです」と言いました。
この言葉一言で言い尽くされています。

この回答への補足

ご回答有難う御座います。
自分は家が真宗なので、親鸞聖人を信じたいです。
ただ、もしも親鸞聖人の教えが絶対なら他の宗派の方々は
間違った宗教をされているという事になりますが、
日蓮宗の方も真言宗の方等は自分の所が一番正しいと
思っているはずです。
それなりの言い分も有ると思います。
何故、親鸞聖人の教えが絶対なのでしょうか?
勿論、浄土真宗の方が聖人の教えを尊ぶのは当然だと思います。
そもそも、いろんな宗派が有りますが、仏教はお釈迦様の説かれた
もので、どこも自分の所がそうだと言います。
真宗は今年、親鸞聖人七五〇回忌で親鸞展にも行かせて頂きましたし、
五木寛之さんの本も読みました。
実際、日本で一番多い宗派というのも、やはり、それだけ深い教えで
あるに違いないと思います。
すみません。馬鹿な頭で考えている事で、お気を悪くされないで下さい。
自分は親鸞聖人を信じたいです。

補足日時:2010/08/08 14:15
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私は昔、友人でお茶の師匠をなさっている方から次のようなことを聞きました。



「人々は産まれた環境や今までの経験から、知らず知らずのうちに醜い立ち居振る舞いの習慣がついてしまっている。お茶の作法の規則とはその醜い習慣を取り除くために有るので、それを一々何故そうするのかと問うても意味の無いことだ。もし貴方がその醜い立ち居振る舞いを改めたいと思っているなら、何故と考えずに一先ず何も考えずに作法の規則に自然に従えるようになるまで繰り返し練習しなさい。そして、それが出来るようになってからは、その作法がどんなものであったかは一切忘れても良い。また、その時になって何でそんな作法が有ったのか考えても良い。しかし、初心者はその問いを頭の隅に常に置いておくことは大変重要だが、それの回答を、作法の習得以前に考えて拘ってしまいことは、害にこそなれ、益にはならない」

と言って居りました。私は物理学の専門家ですが、若い学生には

「お若いの、初心の疑問を忘れては行けないが、しばらくは黙って先生の言うことや本に書いてあることを信じてどこまで行けるか努力せい。大抵の場合、経験を積んで行くと一見不合理に見えたり、訳の分からないことでもその理屈が自分で判るようになるもんじゃ。そして、面白いことにそうやって次々といろいろな疑問が氷解して行っても、最後まで判らない疑問が残るもんじゃ。もっと面白いことに、その疑問は、初心者としてその分野に入って来た時に思い付いた始めの疑問であることが非常に多いんじゃ。だから、一先ずその疑問を頭の隅にしまっておいて、判らないながらもどんどん先に進め。そして、その過程で派生して来た疑問を次々と自分で解決したと言う経験を十分に積んでから、さあ、最後に残った疑問が何であるかを把握し、その時になってその疑問を本気で考えなさい。あらゆる人間の営みは、何が問題であるかを正しく認識出来ることの方が、その問題をどう解決するかよりももっと重要なことなのじゃ。問題さえ分かれば、時間がそれを解決してくれるもんじゃ。だから、たとえ何かそれが問題であっても、詰まらない問題に時間を割くのは人生の無駄なんじゃ」

と言って居ります。その経験をしてから、貴方が初心者として今思い画いている疑問の中で何が本質的であり、何が未熟故に混乱している故の疑問かが判って来ます。

答えになっていないと言われるかも知れませんが、学校の教科書に書いてあるようなことや、受験に出て来るようなことは、インターネットなどで答えが探せるような程度の低い超簡単な問題でない限り、この方法の他にその人がその問題を解決する方法はどうも無いらしいと言うのが、私の拙い経験からの結論のようです。
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真剣にこれから、真宗大谷派の事を勉強して、勤行も行ううちに、自ずとご質問の回答が見えて来るのではないでしょうか。

人に尋ねて回答が得られることを期待するようでは、真剣度が疑われます。開眼することからはじぇめるべきでしょう。そういう私自身は不心得者で、これ以上申し上げることはありません。

この回答への補足

真剣度が疑われるとの事ですが、真剣だからこそ、蟠りを無くしたいと思い、
先達の方に御質問しているのです。
真宗のお方にはあまりいい気がしない質問だと思いますが、ただ、兎に角
親鸞上人を信じて拝みなさい。信じる者は救われる。上人がそうおっしゃっている
からでは答えにはなりません。
心に疑問を持ったままでも信仰して良いのでしょうか?
本当に自分自身、解らない部分なので、質問しているのです。
答えられないのなら回答しないで下さい。
感情的にならずに御回答して頂く先達の方のみ宜しくお願い致します。
あなたの回答では自ら、私にも解りませんと言っているのと同じです。

補足日時:2010/08/08 10:47
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