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社会契約論でおなじみのルソーの思想は、どんなんやろか?自然回帰みたいなもんやろか?

なんで個人の自由を掲げているのに、全体主義的な社会を提唱しておるんや?謎や。

A 回答 (12件中1~10件)

日本ではあまり知られていないのですが、ルソーはとんでもないことをカナリ言ってます。

というか、本人自体が矛盾したことをかなり言ってるのでわからなくて当然というか・・。

ルソーは個人の自由って掲げてましたっけ?ちょっと忘れてしまいましたが、ルソーはすごい全体主義者ですよ。一般意思がややこしいんですよね(-"-;)

ルソーという人は、とてつもない理想主義者で、正しい社会が必要を実現するにはどうすればいいのか?
→自分のような人間が政治をすればいい。・・と考えるわけです(- -;)。自分だけは絶対に腐敗政治は行わない、という危うい自信を裏付けるものは何もないのですが、そう信じて疑わない人だったから。
そして、国をまとめる自分は国民の全体の意思を汲み取って政治をする。
民主主義的ですが、ちょっとちがう。
ナント、国民の意思は多数決で決めるんじゃないんです。多数決が国民全体の意志かというと必ずしもそうじゃないのだけれど、他に決めようがない。
ルソーは「正しい人間が国民のためを思って政治をすればそれが全体の意志だろう」と考える。
「そ、それってアリ?その人がもし、独裁に走ったらどうするわけ?その前に、どうやってそんなに正しい人間を選ぶわけ??」と私は思っちゃうけど、ルソーはそういう所はお茶を濁して何も言わない。

しかも、この全体意思にはむかう人間は国家の敵なので、処刑してよろしい。とまで言っている。この思想は彼と同じ理想主義者にはすごい感動を与えたようで、あのフランス革命はルソーのせいであんなことになってしまったと言っても過言ではない。(有名な話なので”フランス革命””ロベスピエール”なんかで検索するといろいろヒットします)

あと、「自然に帰れ」についてですが、
人間は社会という枠組みにはめられた時から、ダメになった・・というふうに考えているようで、そこからどういうふうに理論を展開するかというと、「野生に帰れ」、と。社会も法もないクロマニヨン人の時代に戻るべきだ、なんて言ってる。↑の社会契約説となんか矛盾してませんか・・って言っても本人は何も言わないんだけど。

ルソーは矛盾と詭弁に満ちた思想家なので、あまりマジメに考えない方がよろしいかと思いますが?小説家としてはなかなかだったみたいですが。
(否定的ですが、ルソーが嫌いなわけじゃないです)
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この回答へのお礼

どもありがと。

確かに、ルソーの本は、分け分からんとこが多いらしいのう。難解な文章の本を哲学書というなら、ルソーの本は間違いなく哲学書やな。

ロベスピエールも、ギロチンで多数の契約市民?を泣かせた。ひでえ話だ。旧日本軍もお国のためといって、いっぱいひでぇことやった。
お国のために死んでくれやっていう考えは、今の日本以外の国の戦争に対する考えとして、ほぼ当たり前のことやけど。

自然に帰れで思い出したことがあります。
諸星大二郎の西遊妖猿伝と言う漫画に、戦乱によって、(花果山という名の)山へ逃げ込んだ人たちが、野人同然に暮らしている場面があります。

ルソーの夢見た世界が、今の難民の世界みたいやったら、がっくしや。

お礼日時:2003/08/23 02:25

ルソーは人間を研究したのです


謎はルソーではなく、人間では。
ウイルスのアタックの中、これでお終い。
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この回答へのお礼

どもありがと。
確かに、ルソーは、人間の持つ矛盾が積み込まれた人の典型的なモデルなのかもしれん。
(わしゃ、よーこのひと知らんけど)

お礼日時:2003/08/23 02:28

ルソーというと、『自然に帰れ』と考えがちですが、ルソーの著作のどこにもそうした言葉ないんです。


それはありがちな早とちりです。物事を簡単に理解しようとして、表面的なところしか見ていない人がよく落ちるので文句はいえないです。

さて、ここではルソーの考えを端的に表す言葉を使い、簡単に説明をさせていただきます。

ルソーにおいて『人間の自然に立ち戻れ』というスローガンが正しく解釈されたものだと考えられます。ルソーにおいて問題としたものは、自由や幸福といった自然状態のうちにあるものを、社会内でどのように達成していくか、であります(戻ってしまえ、ではありません)。
彼は人間とは性善であると考えます。しかしながら、人工的な秩序、法が不平等を生み出し堕落してしまったと考えます。彼は制度を問題とします。
それゆえに、彼はいかにいまある政治体を本来的な人間の性を取り戻せる社会にしていくかを問題として取り組みます。具体的にいえば、直接民主制などを取り上げますがあまり受け入れられなかったようです。

詳しく知りたければ、実際に著作を読んでみることをおすすめします。

最後の疑問に対する答えは、全体主義の定義の仕方に問題があると考えます。ルソーの考えは全体主義ではありません。つまり、個人個人が自分の意志で社会契約を結ぶことで本来的に個人が自由である社会状態を作れるとしています(この時点で全体主義ではないことが分かるとおもいます)。ルソーの自由と共同体とは、自分以外には服従しないことにより、その本来の善性を保とうとしているので、全体主義と結びつけられません。
また、その共同体には『一般意志』と呼ばれる共通利益を求める意志が存在するようになりますが、それは全体主義的な意志ではありません。

この回答への補足

素人考えですが、量子力学的に考えると、善が悪へ遷移するためには、善の中に少しでもいいから悪の部分がないと禁制遷移となります。悪の芽を持っていなければいくら水(摂動)をやっても、変わりません。

完全に善なるものがあったとしたら、悪になりようがないと思いました。

補足日時:2003/08/23 12:13
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この回答へのお礼

どもありがと。
本来的な人間の性は、性善説でとらえているのですね。
なぜ、善なる人が、不平等によって堕落してしまうのでしょう。ルター自身の経験的なものでしょうか?
(なんか良い例えがありましたら、どなたかお願いします)

自分の意志で契約したからといって、それがなぜ自由に結びつくのでしょうか。
例えば、ある宗教へ、自由意志で入信したとします。
彼らは、礼拝の必要、肉食の禁止、中絶の禁止、断食、などの、契約内容を全員で履行するとします。
他者の視点で、彼ら信者達(例えば、パナウエーブ)を見たときに受ける印象は、
集団に属しているなにがしか、でしかありません。

社会と契約することは、ある種、社会への服従にならないのでしょうか?

お礼日時:2003/08/23 03:08

善なる人が、制度(不平等は後です)によって堕落してしまう理由をルソーは、こう考えています。

社会秩序とは各人の特殊利害を法的に認めている。特殊利害とは各人自身の利害を求める行為であります。その結果、情念の虜となり堕落するとしています。経験的なものは誰でもあり当然含まれるものと考えておいて構いません。
ルソーは自然人(社会構成する前の人)を自己充足性をもっていると考えます。それゆえに自由であり
幸福であり、それゆえに孤独であると。しかし、社会を構成してから人は法や政体によって特殊利害を促され、非充足的になり、隷属状態になったとしています。


自由と言う考えはひとそれぞれの定義があり、また絶対的に正しい(あなたを含めて)答えはありません。ルソーにおける自由とは自己の意志にのみ従うとしています。自己意志による契約とは、裏を返せば自己意志による契約破棄も出来るということです。服従も自由意志で行う限り、それも自由の一つだと考えて構いません。自由と服従は反意語ですが必ずしも絶対的に区別出来るものではありません。また、精神的なものが自由とする立場、または状態を自由とする立場など様々あり、時代によって変わっていくと覚えておいて下さい。

付け足しになりますが、哲学は20世紀になり実体論から関係性を重視したものに変化しました。これこれが絶対であり自由の実体である、という考え、または研究はなされておりません。これもまた、覚えておいて損はないと思います。
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この回答へのお礼

再度の質問に対し,回答がもらえてうれしいです。どうもありがとうございます。

再度、分からない点について。
ルソーの考える善なる人は、利害を求めると情念の虜になり堕落する。
なぜ、情念の虜になることが、堕落になるのか分かりません。
人間には感情があります。それを捨てていきる人が善人ならば、私は善人になりたくありません。

また、なぜ孤独だけれども幸福な自然人に、なぜ、あえて隷属につながる社会契約をとくのでしょう。

私の中には、自然人というと児童大量殺傷事件の宅間容疑者が浮かびます。
しかし、社会がある以上、完全な自然人も存在しないのも事実だと思います。

彼の思想は、完全無垢な自然人が存在しない以上、実証性のない絵空事でしかないように思います。
全ては自然人という概念どうりの人が存在したらという仮定の話のように思います。

お礼日時:2003/08/25 13:02

自由とは、その存在が、どうあるのか、そのあり方自体を、その存在自身が決めれる状態のことです。


 
また、自由意志とは、その存在が如何な形であれ生き残ってゆくために、自然の中で獲得された能力であると考えます。
そのために、人間は、自分以外のものを見つめる力があるとも考えられます。
今までの自分とは異なったあり方、今までの自分にはありえなかったあり方で、生き始めることもできるのです。
それは、自分以外のものが、より広範にわたって見えているからです。また、それを、自分にかぶらせて見ることができるからです。
 
自由意志が自然において獲得された能力であるなら、それが発揮されるには、生きている場所、社会や自然環境に、自然性が保たれていなければなりません。
その能力が試されるのは、自然環境においてのみだからです。それで、結果、優れているならば、その能力は発達するのです。
 
新旧問わず社会では、自然性(つまり、そのもの、独在が生まれているということ、そして死んでいくということ。一人で生まれて一人で死ぬということ。独尊。
その人が生まれていなければ、また死んでおれば、その人の自由はない。考える必要もないでしょう。)
が、ある種の課題だったとおもわれます。
それを否定しようとも、受け入れようとも、なにせ自由意志という能力があり、それを行使して生きようとするのが人間の生き方なわけですから、一見、自然の法則と反するわけです。
自然には死がありますが、自由意志は、自身のあり方を決める能力なので、「死というあり方」は対象外なのです。死ねば体は朽ち、その存在がなくなるのは見て明らかです。あり方どころの話ではありません。
ところが、自由意志を行使して生きることが常手となった人間には、それがどうも理解できない。
そのために、死後の世界や、その他諸々の世界観を生み出し、そこに自由意志を行使する場所を、何かのあり方ができる場所として、さらに架空空間を生み出したのかもしれません。ただの想像ではなく、それは世界観なのです。
自分が生きていること以外に、自分存在を確保する存在があるという、世界観です。
時にその存在は他の仲間(他人のために生きる、のような意味のこと。実際は、他人存在に、自分の生の世話をさせている。)であり、また、遠い存在の神(無条件に、自分の存在を認めてくれる、架空の存在者)であるかもしれません。
それが現代の社会と深く関わっていることはよく分かるでしょう。
それは、自由意志と自然法則の間にゆれる、人間の生き方がもつジレンマ、宿命なのだから。
 
そこで問題が出てきます。
死という自然法則を、仮にも架空空間で解決できる我々は、自然性から脱却したと、騙し騙し思いはじめます。
その思いとは裏腹に、死はきっちりと、確実に、訪れます。
生きている間は、その架空空間を使うことで死のことを騙し騙しにしておき、わけも分からないうちに現実には死ぬのです。
問題は、架空空間を使って生きることが、自然性を認めずして、一人生まれて一人死ぬということを認めずして生きることにつながり、そこで、自由意志が試されることはないということのです。自由意志が自然のなかで獲得されてきたものならば、自分自身の死がない架空空間では、自由意志という能力は発揮できません。
能力をいろいろに発揮せずとも、架空空間で、「私」は存続できるからです。
故に、、、そこで生き方を失います。
ちーん。。
  
生き方を失うと、如何に生きるかではなく、何故生きるのかが問題となります。既に、生きていることが、私が存在していることが、架空空間では前提となっているからです。なぜ私が存在しているのか?(=おかしくない?)

ここで、私の存在しない架空空間を、想像することが人間にできるでしょうか。その空間を見つめている者を、私としないで、その私のいない世界を観ることができるでしょうか?私という前提のない世界は、実に現実世界なのです。そこは、私がいなくても存在するのです。(本当にそうなのか?この事実性は、現代哲学では認められていません。大半の現代哲学は、神や全体意識(社会的な)など、架空の産物を使わずして、正統に独我論(自分存在について)を超えれていないからです。哲学の終焉を見ていないからです。)
故に、果てしない現実を見つめる人は、自由意志を行使できるのです。それは、自分以外を見つめているということに他ならず、そのことで自分を反射的に見ることにもなり、曲がりなりにも、わずかに自分存在を超えています。人間としての生き方、自由意志を行使しているのです。揺れる自分存在を、自由に生きれているのです。
その人が生き残るかどうかは分かりません。

何故生きていたのだろう。
私の人生はなんだったのだろう。外が、見たいなぁ。
そのように思って死ぬのは、架空空間で生きている証拠であり、それが、その人の生き方だったとも言えます。それは、能力に溺れてきた生き方です。
 
仮に、そう考えることもできます。
 
ルソーを解読するたすけにでもなるでしょうか。
独在と世界についての関係はカツアイしましたが、
ひさしぶりに、すこし中身のある回答ができました。
ありがとう。
ルソーについては、NO。3の回答を、参考にしています。ありがとう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
人間だけが自由意志をもつのか、はたまた猫も杓子も自由意志をもっているのか。

私は猫を見ていると、本当に自由を感じます。
猫の行動は、自由意志以外の何物でもない気がします。
逆に、犬は、常に他者の目を気にして生きているように感じられます。

死は、人間を最も平等に扱ってくれる自然、なのかもしれません。
私が死ぬときは、絶望し、狂気の雄たけびを上げ、狂いながら、せいぜいそれを見ている人に恐怖を与えながら死ぬのが、架空空間の中で、もがきながら生きた自分の最後の意志のはつろになるかな。

お礼日時:2003/08/25 22:16

今回は始めに、すこし個人的なことを話させていただきます。

その後で幾つかの質問に答えさせてもらいます。

まず、理解をしてもらいたいのは僕はルソーの考えを説明することを目的として、この投稿欄に書き込みをした、ということです。それが、いたって個人的な考えや意見を質問される結果となり、また誤った解釈をされている方もいらっしゃったのでとても残念に思っています。

また、ルソーの考えも完璧ではありません。ルソーは18世紀の人です。いまでは十分に解明され当然と思われていることも、当時ではまるで分からなかったり、誤った考えに捕われていたりしています。原始社会が社会契約説によって成り立つなど今では当然否定されています。
また哲学自体にも問題があるのです。現代では、例えばジャック・デリダが哲学に潜む諸前提を暴露したりしています。

哲学にとって、問題となるのはいままで自分がぞれを当然と思っていたり、考えてもみなかったことに気付くことです。ですから、anima-mundiさんも、自分がこう思う、これはこうである、と決めつけているところをもう一度考え見直してみると思い掛けない発見あるかもしれません。また世間が、こうであるといっていることにも疑って考えてみるのもいいかもしれません。ジャック・デリダの発見は哲学がいわば当然解明出来ると考えられていたことを否定し、哲学それ自体のあり方を批判しているのですから。

さて質問に答えさせていただきます。
まず人間が社会状態になる理由を答えるためにはルソーの考える自然人(あなたではありません。また絶対的に正しいわけではありません)を説明する必要があります。

彼は人間は幸福であったけれども、自己完成能力というものを持っていると考えます(仮定しています)。それは自然状態から可逆的に社会状態に人を移行させます。また、その能力は他の能力を過剰にしてしまう恐ろしいものとして考えられています。それは人間が本来持っている『自己愛』を『自尊心』へ。また『他者愛(哀れみの情とルソーは考えています)』を『愛着』へと移行させてしまいす。それをルソーは堕落としています。
すなわち、ルソーは社会とは第二の本来な自然状態を不可逆的に移行して出来たものだと考えています。そうして人々は相互に執着しあいながら、自然的な孤独になれず、奴隷状態に陥っているとしています。

ルソーの問題としていたのは、いまできてしまった第二の本来的自然状態(社会体制)の中で、いかに第一の自然状態にあった幸福・自由などを回復させるか、ということでした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
人の質問する内容が、個人的な考えや意見であってもいいと思います。
また、解釈が誤ってしまうのも、それを正す機会が与えられている限り、その人の思考の自由だと思います。
しかし、誤らないに越したことはないですが、複雑な哲学を扱うことは、少なからずいくつかのトライ・アンド・エラーを繰り返した上で、理解できることもあると思います。

社会状態への移行が不可逆であるならば、不可逆の定義どおり、その社会を可逆的に戻すことはできないと思います。
不可逆変化を元に戻すには、人間がエントロピーを減らすための何らかのお手伝いをしないといけない。
それが、ルソーの社会に対する考えに近いものでしょうか。

お礼日時:2003/08/29 17:07

自由意志と死について、個人的に考えます。


人間の自由意志は、磨かれてもいい能力ではあると思いますが、磨きに磨きをかければかけるほど、その才を発揮するのではないでしょうか?
もしくは、正常な発育課程というものが、仮にも存在するなら、成体になれば自由意志を完全に獲得するのではないでしょうか?
 
磨かれた自由意志、ないし強力な自由意志が決定するあり方とは、空を飛びたいとか、風のように走りたいとかではなく、空になりたい、風になりたい、~になりたい、そういう思いをかなえる能力だと思っています。

架空空間とは、自由意志の行使によってつくられたのではなく、自由意志のために、つくられたのではないか?という考え方を、以前の回答で、しました。
 
何故、そんな必要があったのか?
何故、架空空間をつくる必要があったのか?
 
それは端的に、自然人であれなんであれ、死ぬからだと思います。
 
だけれども、さらに磨かれて結晶の域にまで自由意志が高まったとするなら、それは、「~である」というあり方自体を超えてしまうのだろうと、思います。
これならば、死を、超えることができるかもしれないと思うのです。(不死体という意味ではなく)

猫についてですが、猫は我侭な印象と、自由な感じ(ここでは、他事に左右されないという意味、自信家)が、ダブってしまうようなことは、あるのかもしれないなぁと思いました。
 
犬はあまり好きではないので、よく見れていませんが、物を食べているときにちょっかいかけると怒るので、彼にとって大事なのは、食べ物なんだろうと思っています。
あり方よりも、食べ物にありつけるかどうかが、重要なのです。
 
社会形成のきっかけが、蟻一族にしろ狼達にしろ、人間共にしろ、食べ物であったとしても、その目的は、食べ物獲得だけではない、欲求を満たすだけではないと、私は思います。
 
強く強くなった自由意志は、欲求で動くものではないのではないか?と、おもいました。前回は回答後、ルターだったか?とおもっていたのですが、今回は、さらにNO。6と4を読みおえた後に回答しました。
確実にルソーです。(ありがとう。)
 
個人の自由と全体主義についてですが、
個人の自由(孤独な自然人)、(猿が群れているからといって、出現した頃の人類が群れていたとは言い切れないし。)は、今、全体主義(個人を従属させない全体主義。只の個人主義であれば、その他の人を従属させることも可能だから。)のなかで実現するということではないですか?
これなら、矛盾しません。
つまり、殺人者は、被殺害者の自由を奪っています。
だから、これは孤独な自然人状態ではないのです。
社会の影響をもろに受けて、犯行に走ったことは容易に分かります。
増加している自殺者も、社会の影響をもろに受けて行為にはしったのは分かります。
ともに、自然人ではありません。
自然人は、(万引きした知識によるので申し訳ないが、)孤独による充足を知っているからです。
 
ルソーに言わせれば、もともとは社会的動物ではなかったということです。全体主義は、社会的動物が、個人的自由を獲得するための思想ではないでしょうか。
 
ただ、自然人にも死はあったわけで、生物として死に抗うのはよくあることです。
人間も(例外は少しいたかもしれないが)、大半はそうだったでしょう。
 
死と、自由意志を、ルソーはどう考えていたのか、少しだけ気になりました。
 
磨かれた自由意志ならば、いつか、死を越えてもおかしくはない、その可能性はあると、俺は考えます。
(不死体という意味ではなく)
自由意志が、どのように個人を超えるかというところが問題です。個人において、個人だけがそれを超えるのかもしれません。果ては、宇宙にそのなぞが散らばっているのかもしれません。

なんにせよ、生と死は、社会形成よりずっと以前から、あったのですから。 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
ルソーの死に対する態度、あるいは考えが、思想に影響を与えている可能性はあると思います。
哲学は、人間が、何かをのり越えたり、克服したいという欲望があるときに、爆発的に発展するのかもしれません。

戦国時代や困難な時代に哲学者は、現れ易い、もしくは活躍しやすいのかもしれません。

お礼日時:2003/08/29 17:14

fishbowlからanima-mundさんへの手紙



先日は、事情あったとはいえ、手抜きの回答をして失礼しました、改めて補足したいと思います。

もし、あなたがルソーの人格に関心があるのなら無意味な回答だったかもしれません。
私たちがルソーから学ぶことは、彼の疑問や解決策が、すでに歴史に属することか、あるいは、現在もまだ未解決な部分が有るかどうかによって違ってくるのではないでしょうか。

ルソーの疑問が歴史に属することなら、その時代の背景を通じて彼の限界を歴史学者が説明してくれるでしょう。
ルソーを定義することは、ある意味では、ルソーに無関心になることではないでしょうか。

「人間不平等起源論」第二部 冒頭の
「ある土地に囲いをして(これはおれのものだ)と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった・・・・」
当時の識者からも、ならず者の哲学と批判を浴び、現在の経済学においても、資本の原始的蓄積、競争原理の正当化の中ですでに否定された疑問かもしれません。

私がこの質問に回答した理由は、ルソーのこの疑問が、現在も解決していないと考えているからです。

哲学者としてのアダムスミスがこんな事を言っています。
人間は、他人から見た自分を見るため、自分自身の中に鏡を持っているが、その鏡は、ほとんど曲がっている・・・自信はありませんがこんな意味だと思います、ルソーの自分自身を見る鏡が曲がっていても、それこそ彼が正直だった証拠のような気がします。

ルソーの哲学に矛盾が在ったとしても、先人の努力に敬意を表すべきだと考えますが、余計な一言かもしれません。

大切なことは、ルソーの全体的評価ではなく、未解決の疑問を引き継ぐことのような気がします。
どうぞ失礼をおゆるしくださいますよう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かに、人間が、かってに、ここは自分の土地だといっているのにすぎませんね。

インディアンの土地を"発見"することや、原住民の暮らしている新大陸を発見することも、政治的な発想のなせるわざなのかもしれません。
ユダヤ人が、パレスチナに自分の土地を宣言することも、同じような発想が根底にあるのかもしれません。

未解決な疑問も、後世の人たちが解決すべく、色々努力しているのでしょう。
その結果が,私達によりよい実りをもたらしてくれると信じています。

お礼日時:2003/08/29 17:26

 ホッブスのリヴァイアサン(国家)が、ルソーを理解する上で参考になると思います。



 ホッブスは、自然法と社会契約説の考えから、初めて市民社会の理念(現代社会の原則)を明らかにしました。
 けれども、彼は、絶対王政を擁護した学者として、しばし誤解を受けています。その誤解を生む発言には、次のようなものがあります。
「人々はその国家が最低限の幸福を人々に与えてくれている限り、それにはむかうことは許されるべきではない。」
 しかし、これは、裏を返せば、きちんとした政治ができない執政者は退けられるべきだともとらえることができますね。

 ホッブスによると、人間は自由・平等であり、生存の権利を有する〈自然権〉ことを認めることから出発する。
しかし自然権を個々人が無限に追及すれば必ず個々人の利害の衝突を呼び、「人間は人間にとって狼である」から「万人の万人に対する闘争」が始まってしまう。
 だから人間は契約を結び<社会契約>自然権を放棄して社会・政府・国家(この場合は絶対王政)に預けたのであり、社会・政府・国家は絶対的な権利を持つとするのである。

 彼が提示した個人と社会、個人と国家の関係をいかに結ぶかという問題は、現代でも未解決のままです。
 ルソーの社会契約論では、個と全体の矛盾がより顕著になります。ルソーの考えでは、かつて自然状態(外的な障害が存在しないこと)では、人類には幸福な共同体が存在していたが、そこから社会状態に入っていくにつれて、人間は個人化していった。
 こうして各人がそれぞれエゴイズム(利己主義)に囚われるようになり、私有(個人の所有)が生まれ、社会に不平等が発生する。
 その方向へ進んでいくと社会の圧制はいっそう強まっていく。

 この問題を解決するためにルソーの社会契約論の一般意志説によると「われわれ各人が、自己の身体とすべての力を共通に一般意志の最高の指導下に委ねる。そしてわれわれは各人成員を、全体の一部として受け取る」と述べています。

ホッブス、ロック、ルソーと教科書にあるように、彼を思想史の中に位置付けることによって、彼の述べる矛盾点や哲学的成果が理解されてくるように思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
リバイアサンは、プラトンの国家よりもおもしろそうですね。機会があれば、読んで見たいと思います。

挙げられたルソーの発言で、「一般意志の最高の指導下に委ねる」とありますが、
ここで指す一般意志とは、いったい、どういうものをルソーは想定していたのでしょうか。

哲学では意志が、一つの問題になっているような気がします。ニーチェの権力への意志しかり…?

お礼日時:2003/09/05 04:16

Badcompanyさん、哲学史的な説明ありがとうございます。

ホッブスやロックを予備知識として出すことを考えてはいたのですが、そこまで説明しなくてもいいという考えと、すこしの面倒臭ささで出さずにいままで解答をしてきました。anima-mundiさんの理解にも役立つと思います。できれば、引き継いで手助けをしていただけると助かります。

今回はルソーではなく、anima-mundiさんの解答に対する疑問点を幾つか挙げさせていただきました。僕はルソーに対する説明は問題はないような気がします。問題はルソーが正しいか間違っているかではなく、ルソーの思想を理解することなのですから。あと、badcompanyさんの哲学史的な説明で問題は解決済みと考えております。

ここではどのようにしてそのように僕が考えたのかをまず説明させていただきます。


まず、一番始めのあなたの質問は2つです。ルソーの思想とは自然回帰みたいなものか?もうひとつは個人の自由を掲げているのに、なぜ全体主義的な社会を提唱しているか。

それに対する僕の答えはこうでした。答えはNOです。ルソーの思想が自然回帰である、というのは間違いです。いまの社会状態の中で自然状態で失われてしまったものをいかにして取り戻すか、である。これが第一の答えです。

第二の質問の答えは、これもNOです。ルソーの思想は全体主義ではありません。また、ルソーにおける個人の自由とは自己の意志にのみ従うとしています。ルソーの自由と共同体とは、自分以外には服従しないことにより、その本来の善性を保とうとしているので、全体主義と結びつけられません。これが第二の答えです。

私たちの議論の目的はあなたが一番始めに設置した質問の答えなのですから、この議論もその解答がきた時点で終わるのです。ですから問題は解決済みです。

第二に、anima-mundiさんがこう書かれました。
『人の質問する内容が、個人的な考えや意見であってもいいと思います。
また、解釈が誤ってしまうのも、それを正す機会が与えられている限り、その人の思考の自由だと思います。 しかし、誤らないに越したことはないですが、複雑な哲学を扱うことは、少なからずいくつかのトライ・アンド・エラーを繰り返した上で、理解できることもあると思います。』

この場合のanima-mundiさんのいう自由はありえません。なぜなら、ルソー解釈が誤ってしまっている部分は既に補正済みなはずです。この場合、僕が問題としているのはanima-mundiさんの意見が本題(上述の二つの質問)から逸れているからです。

なぜ量子力学など持ち出すのでしょうか?なぜ熱力学のエントロピーなど持ち出すのでしょうか?また、なぜ宅間容疑者など持ち出すのでしょうか?そこのところが分かりません。ですから、あなたの質問にも、どのように答えたらいいのか理解しかねます。また社会状態への移行は不可逆(前回は間違えて可逆と書いてしまいましたが、、、)です。
この言葉通りに理解していただけると嬉しいのですがanima-mundiさんはこう答えています。

『社会状態への移行が不可逆であるならば、不可逆の定義どおり、その社会を可逆的に戻すことはできないと思います。不可逆変化を元に戻すには、人間がエントロピーを減らすための何らかのお手伝いをしないといけない。』

この文をよく読んでもらうと分かると思うのですが、まず、命題です。『社会状態への移行は不可逆である。』このことから、社会をもとに戻すことは出来ないと我々は推論できます。それなのに、なぜ次の文に不可逆変化を元に戻す、と書いているのでしょうか。論理がなりたっていません。anima-mundiさんがいう自由が、こういう形態をとる限り、まともな議論は出来ません。それゆえに、あなたのいう自由はありえません。

以上によって、僕はルソーに対する説明は問題はないという結論に達しました。なぜなら、上述の2つ質問には答えているからです。それはルソーの思想を理解することなのですから。あと、badcompanyさんの哲学史的な説明で問題は解決済みと考えております。またanima-mundiさんの質問を本人は自由と考えられているものの、実際はただの非論理だからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
すみませんが、オウム返しに定義を言われても分かりません。 NHKの週間子供ニュースのように、小学生にでもわかる言葉でいってくれるとありがたいです。

また、私は科学が好きなので、そちらの業界用語を好みます。哲学の業界用語を使うのになれている方にとっては、苦痛かもしれません。以後、注意し努力したいと思います。
(自然状態で失われてしまったものをいかにして取り戻すか、ということと、社会をもとに戻すことは出来ないと推論を行うことは明らかな矛盾である、これは私の挙げ足取りとしてとらえ(非論理)、無視して下さっても結構です。覆水盆に帰らず、私の失言も元に戻すことはできない)

ところで、私達の認識や理解の差となっているものは、同じリンゴを見ても、私とあなたとが思うリンゴが同じものであるという確認ができない、つまりクオリア(質感)に関する自由意志の問題に似ていると思いました。

ロゴスによる混乱は、非論理的な人間存在そのものを体現する私の自由意志の発露によるものであって、おのずと自らに帰する問題だと思います。それが、一般意志への理解の妨げになるとしたならば、何か良い対策を御教示頂けると幸いです。

お礼日時:2003/09/05 06:46

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