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『今でも愛する夫の裏切りを知った』
『親しい知人を殺された』

上のような耐え難く苦しい経験を自分に与えた相手に対し、
報復することをキリストは赦しません。

私は、とてもこれを納得しています。

それで、上のことと関連するのですが、
今日ここで質問させて頂きますのは、

『耐え難く苦しい経験によって、
(相手を憎まずとも)被害者意識を持ち続けるということ』

が赦される行いかどうかということです。
(実際問題は、被害者意識など持ちたくないが、持ってしまうというのが実際なのでしょうけれども。)
また、その人が病に臥してしまった場合の行いについては考慮外とします。

どんな苦しみを受けても、自分が健康であるならば、
戦乱にも巻き込まれず平和に、
そして、他のいのちをいただいて生かされている以上、
前向きに生きなければと私は思います。

しかし、それが道義的に正しいのかの判断ができないのです。

なぜなら、恥ずべき事ですが以前の私は、(いや正直に言うと今もかもしれません)
そうした、(相手を憎まずとも)被害者意識を持ち続ける人を、
ある種の猜疑心を持って見ていたからです。

つまり、悲劇にかまけて、
自分の為すべき事を他人任せにしようとしているのではないかと疑っていたのです。

このような猜疑心は当然に悪徳ですが、
以上を分析すると、(相手を憎まずとも)被害者意識を持ち続けることが悪い事なのではなくて、
悲劇にかまけて、自分の為すべき事を他人任せにしようとしているのが単に悪いだけなのかも
知れないなと思うに至ったのです。

聖書で、こうした問題について述べられている所があれば、
その箇所を教えていただければと思います。

また、キリスト者のかたで見解のあるお方がおられましたら、
お考えをお聞かせください。

よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

 こんにちは。



 まづ聖書の指し示すところは 一人ひとりの信仰という生きる動態であり これは 非思考の庭であることを意味します。げんみつにお伝えしますが:
 ★ しかし、それが道義的に正しいのかの判断ができないのです。
 ☆ というときの《道義》あるいは道徳や倫理規範のことではありません。

 人にとってのあゆむべき道を ないがしろにしてもよいということではなく そうではなく その道を 《非思考の場》をとおして実践しようというのぞみです。
 
 思考に非ず ですから 倫理を――もちろん考えてもよいのですし 実際考えますが――究めてその思考としての成果を実践するという行き方によるのではありません。

 ★ 報復することをキリストは ≫赦しません≪。
 ★ ・・・が ≫赦される≪ 行いかどうかということです。
 ★ このような猜疑心は当然に ≫悪徳≪ ですが
 ☆ これらの括弧をつけた考え方は それとして・つまり倫理や哲学として思索を重ねて行きますが その考えによって みづからの行動を律したりそもそも人びとの行動を判断したりするという行為のあり方を採るものではありません。

 人との交通(まじわり)においては まづ相手と向き合い その相手と同じようになって その相手がその持てる能力をもっともよく発揮できるようにと 少しでも考えそれがよいと判断したら 実行します。そしてそれは こちらが生きて行く上で自由を得たいためです。相手が自由になれば こちらもそうなります。

 たぶんこういうときに
 ★ 被害者意識
 ☆ は持つ必要はないはずです。もし持つなら それは相手と同じようになることが出来ていないからだと思われます。自分を先に思っているからだと思われます。
 その場合には 相手のほうを先に思うことが出来るように――自然にそうすることができるように―― ときを待ちます。

 ★ ~~~~~~~
 『今でも愛する夫の裏切りを知った』
 『親しい知人を殺された』

 上のような耐え難く苦しい経験を自分に与えた相手に対し、
 報復することをキリストは赦しません。

 私は、とてもこれを納得しています。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 一筋縄で対処しうるとは思えません。
 まづ
 1. 道徳は忘れてください。
 2. もしわたしたちにも規範らしきものがあるとしたなら それは
 ○ わたしたちは ひとを愛し欠陥を憎むのであって 欠陥ゆえにひとを憎むべきではなく ひとゆえに欠陥を愛すべきではない。
 ☆ になります。相手を自分より先に思うことの中身としてです。自分を活かすためにです。

 3. もしこうであれば
 ○ 《親しい知人》であろうが知らない人であろうが 人を殺したのなら その行為としての欠陥を憎むべきです。わたし自身の内でその行為の悪について捉えこれを批判し徹底的に憎み 批判し終えたならば 棄てる。そうして特別の意識や感情を持たないかたちで その人殺しに向き合う。その人間という存在じたいは 愛する。
 ☆ となります。

 4. あるいは
 ○ 人を裏切ることは 悪であり欠陥です。ウソ偽りを行なったという悪です。これをやはり自分の内で批判し徹底的に憎み 批判し終えたなら 棄てる。そうして言わば白紙でその裏切り屋さんに向き合う。人間としての存在じたいはこれを愛する。
 ☆ ですから
 ★ 今も愛する
 ☆ というのは はっきりしません。上の作業をした上での《愛する》のかどうかがです。気持ちや愛情は うつろいゆくものであり 憎悪と容易に交替しうるものであると考えますから いまのキリスト信仰をとおしての《相手と向き合う》ときの愛とは別だと捉えられます。

 5.★ 耐え難く苦しい経験――☆ これは わたしに対する試練だと捉えます。キリストの神が わたしに与えたことだと。神がそのようにしてわたしをきたえつつ わたしを打つのだと捉えます。
 くやしい・にくい・仕返しをしてやりたいうんぬんという気持ちがあれば すべて神にうったえます。わたしの力量を超えてあなた(神)は わたしを打っていないか?と。
 それでも そのつらい気持ちが退いて行かなければ 神をのろってもかまいません。おさらばしても構いません。また呼んでくれるでしょう 神は。
 ですから 倫理規範は――それについて考えることはするのですが それによってわが行動を律するということとしては―― いっさい関係ありません。道徳規範は愚の骨頂です。

 6. 非思考の場において のぞみを持ってあゆみます。この信仰というのは いわば無根拠です。無根拠を根拠として生きます。これが 信仰をとおしての愛でありのぞみです。

 7. いづれ神に直接会うときには もう《信じる》は要らなくなります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

うまく言葉で伝えられませんが、
あなたの仰る事、本当によくわかりました。

非思考の場において のぞみを持ってあゆみます。この信仰というのは いわば無根拠です。無根拠を根拠として生きます。これが 信仰をとおしての愛でありのぞみです。

というところに、私の抱えていた疑問は集約するように思います。
自分に起こりえる事象について、このような態度でのぞむということは、
間違いなく、私に変化を与えることになるはずです。

ただ、それだけに、やはりまだまだキリストについての勉強をしなければならないと思いました。

お礼日時:2011/03/09 00:22

>自分の為すべき事を他人任せにしようとしているのが単に悪いだけなのかも知れないなと思うに至ったのです。



イエス作家はなんでもかんでも赦せとは言っていません。
「何回赦したらいいのですか?」と聞かれ、「相手が謝罪するたびに赦せ」みたいなことを応えています。


えっと旧約聖書の。。。誰かわかる人?

なんせ信者じゃないので、○○の何節とか空でいえませんが、、、

赦しについてこんな話がある。

イスラエル共同体におけるルールとして書かれたものです。 ここポイント。
例えば自分の家畜が他のイスラエル人の家畜と喧嘩して、相手の家畜を谷底に落としてしまった場合、相手は財産を1つ失ったわけで、損害を与えたことになりますよね?

そうなったとき、故意に家畜をけしかけてやったわけじゃないので、すっとんでいって説明して謝罪しろと書いてある。
謝罪された側は<必ず赦さなければならない>と書いてある。

どうしてだと思います?
財産を奪ったわけですが、故意じゃありませんよね。
今度は自分が同じ共同体のほかの人に損害を与える可能性もあるわけです。

お互いが「うーーん・・・・ 赦す」ってしたら、裁判に持っていかれないじゃないですか。
お互い悪意があったわけじゃなく過失だから簡便してやるって相手を赦せば同じ共同体内で生活を継続していけるじゃないですか。

だから過失に関してはお互いさまなので、何度起こっても毎回赦すべき ってなっているわけです。


ところが、キリスト教ってのは、その「何度も赦せ」という部分が、どうしてそうなったのかちゃんと信者に教えないので、なんでも赦すのが信者だって勘違いされているわけです。

悪びれず謝りもしない者すら赦せと神は言ったかのように語る。
神の偶像をつくり、それを神だと言っているようなものです。


新約聖書は旧約の簡略版なので、言っていることを理解するには旧約を読む必要があるんです。
新約聖書しか読まない信者が多すぎる。
結局 どうしてイエス作家がそういうことを言ったのか わからないまま イエスは何度でも赦せと言ったから赦すべきとか、無理やり赦そうとするので、「恨んでませんよぉぉぉ」ってなっちゃうわけです。

憎んでもいいケースでも「憎まないことをイエスは要求したのだから 憎みませんよぉぉ うぬぬぬぬ 赦せない・・・赦せない私は罪人」って自虐的になっている。


無知は罪。
無知ゆえに曲解して神の言葉を違う風に解釈して誤用してた結果 本心では赦していないので、苦しむわけです。

イスラエル人共同体内にのみ限定するルールだから、外の人にまでこのルールは適用されない。


キリスト教の場合、この限定を解除したので、全部が同じ共同体の仲間ってことになった。
で、どんなことがあっても赦すべきってなった。
じゃあ どうしたら赦す必要が無くなるか?
相手を神の敵 悪魔ってしちゃえばいいわけです。


そんな感じで、イエス作家の言っていることを旧約聖書を知らない人が曲解した結果、なんでも赦さなければならないってなった。

旧約聖書の許しの解説は「もっともだ」と理解できますよね? 私独自の解釈じゃなくて、ちゃんと聖書にそう理由まで書いたあるんだもん。
信者ではない私ですら知っているのに、どうして聖職者は誰も知らないんでしょうねぇ。

なんでも赦さなければならないと 聖書は言っていない。
家族を殺されて財産を奪った人まで赦さなければならないって神が言ったとしたら、神は気が狂ったとしか思えませんよね?
過失に関してはすぐに謝りに行き、謝られた側は赦さなければならない なぜなら と書いてある。

そんな曲解が、憎まないが被害者意識を持つってことになっているんじゃないかと思う。
「神が赦せといった以上 赦しますよぉ だけど、ねぇ・・・生活が。。。とほほ」って言っている人に、「あの 神は悪意があって損害を与えた相手まで赦せって言ってませんよ」って言ったらどうなるんでしょうね。
「イエスは許しを教えました」って言うんでしょうね。
「ええ 過失に関して共同体内においては赦せとはいいましたが、、、、」ってどうどうめぐりするんでしょうか?
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この回答へのお礼

再びありがとうございます。

旧約聖書、新約聖書ともに通読することが大事だと思いました。
書かれている事を、只、そのままに受け止めるようにして、
まずは通読してみようと思います。

お礼日時:2011/03/10 16:56

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」



我々はキリストのレベルにありませんから、「聖」への願望と「俗」なる衝動の両方を抱えて生きなければなりません。

「俗」なる衝動は無理に抑圧しなくても、カエサルに象徴される社会の制度を活用して解消すればいいだけです。

捜査能力も証拠判断能力も限られている個人が主張する「耐え難く苦しい経験を自分に与えた相手に対しての報復」が認められれば冤罪を生んだり社会を不安定にするだけです。

>悲劇にかまけて、自分の為すべき事を他人任せにしようとしているのが単に悪いだけなのかも

そのとおりだと思います。
より広げて言えば、「社会に任せるべき種類の事柄を自分で為そうとしている」とも言えるでしょう。
どちらも、自分のできることすべきことを弁えない点で同じです。
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この回答へのお礼

ご意見、ありがとうございます。
いま、私が考えている事と近い意見のように感じます。

お礼日時:2011/03/10 16:51

難しい哲学的なことはよく分かりませんが、人が愛するものを失うその打撃は、


計り知れないものがあります。
むしろ命を絶つ方が楽だと思う場合の方が多いぐらいでしょう。
それでも生かされている間は生きる義務がある。だがその人が立ち直れなくて、
悲しみを引きずり、前向きになれなくてもだれがそれを責める事が出来るでしょうか。

悲劇にかまけて自分のなすべき事を他人任せにしている。それはその人と神の問題であり
他人が口を出したり、さばく事ではありません。黙って見守るほかありません。
例えばニュージーランドの地震で子供を失った人に、被害者意識を持つなと言っても
現実の問題としてそれは難しい事であり、到底他人は当事者にはなりえません。
マタイの福音書5章に山上の説教というところがあり、
4節に「悲しむ人々は幸いであるその人は慰められる」と言う部分があり、
子供の時から教会に通っていた私も何十年もこの部分が理解できませんでした。
でもそれは訳が悪いからで、悲しみ嘆く人の事を他の誰よりも神はより一層深く慰めようとされている。
と言う意味であると知ったのは、かなりあとのことです。
傷ついた心は神の愛と人の愛により少しづつ回復していくものなのでしょう。
それはその人の嘆きや悲しみが受け入れられると言う、安心感によってもたらされるのです。
コリントの信徒の手紙1ノ13章愛についておよみください。
少なくとも道義的に決めつけて判断する問題ではないでしょう。
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この回答へのお礼

> それはその人の嘆きや悲しみが受け入れられると言う、安心感によってもたらされるのです。
コリントの信徒の手紙1ノ13章愛についておよみください。
少なくとも道義的に決めつけて判断する問題ではないでしょう。

良い言葉を頂けました。

ありがとうございます。

お礼日時:2011/03/10 16:48

神の言葉とされる律法には、報復の禁止は載ってなかったと思うのですが、、、、



聖書にはこんな物語がある。
ヤコブ(後のイスラエル)の娘を、他の種族がほれて、家に連れて行ってレイプした。
どうしても セックスしたかったんでしょうね。

その後に、「いい身体してたから」と思ったのかどうか知りませんが、レイプ犯は娘の兄に「その女を売ってくれ」と交渉した。
「そうですねぇ 妹をあなたに売れば、こっちも利益がありますし、あなたも利益がある。じゃ 売りましょう」ってなったわけです。
「ただし、異民族に妹を売るわけにはいかないから、割礼してください」って言った。
レイプ大きくなってから割礼 要するに包茎手術をしたので、チンコが晴れ上がって唸っていた。
その身動きが自由にできないレイプ犯を妹をレイプし侮辱したと報復として殺した。

それを知ったヤコブは「そんなことしたら、相手の種族に俺たちは憎まれるじゃないか。今後いろいろ騒動が起こってしまう」と息子達に言うと、息子達は「あなたの娘 私の妹は娼婦ってことですか」とヤコブに対して言った。

名誉を傷つけられた場合は報復をする。


このようになってますが、報復をすることが間違いだとはどこにも書かれていない。


おそらく 赦しについて拡大解釈した結果、復讐をするなと神は言ったと勘違いしたんじゃないかと。
赦免されるってこともあったかもしれないが、、、、
ああ、ありました、ダビデ。
ダビデは部下の嫁を寝取り、部下を殺して嫁にした。
預言者に「あなたの行為は強盗です」みたいなことを諭され、罪を犯したと気づいたことで、赦免された。

長らくキリスト教はユダヤ人は神を殺した と批判してきた。
赦すどころか、虐殺の限りをしてきた。

もし、キリスト教が報復を禁止していたら、ユダヤ人を「イエス殺し」と赦すどころか報復として殺し続けることは無かったのではないかと。
聖書に報復の禁止が載ってないんで、やったんじゃないかと。

しかも、実在していない人を殺したとして、無実のユダヤ人に冤罪を着せたのだから、ひどすぎる・・・・。

こんなものですよ キリスト教って。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
これは意外なお話でした。
聖書は通読したいと思います。

お礼日時:2011/03/09 00:16

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