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私たちは結果を見て善悪を判断しようとしますが、
善悪は人の心の属性であって、物理現象としての結果に善悪はないのではないでしょうか。
私が寄付を行ったとしても私が善人であることにはなりません。
結果を見て善悪を判断することは本来であればできないと思われないでしょうか。

A 回答 (18件中11~18件)

善悪は人の心の属性であって、物理現象としての結果に善悪はないのではないでしょうか。



○「思いと行い」の内に善悪が存在するのです。これは言葉の通り「心の動きが行動に現れる。」という意味ですから切り離すことはできませんね。
寄付行為についてですが、寄付をする行為自体は善ですが、その行動の前の心の動き、つまり動機まで含めるとどうかということですね。
動機まで含めると善にも「絶対善」と「相対的な善」は明確に分けられますね。
寄付で言えば絶対善を三輪清浄の寄付といいます。三輪とは寄付者の心、寄付を受ける者の心、寄付物を指しますが、この3つが清らかでないと絶対善の寄付にはならないということです。これは仏教の布施の教えですが同じですね。
寄付者の売名行為の寄付、あるいは便益を受けるための寄付、寄付を受ける者が当然とする寄付、盗んだものや不正に手に入れたもの、こんな組み合わせの寄付は絶対善にはならないのですね。
そういう意味で善も天秤にかけるとずいぶん違いがでるものです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

主観的には心と行為を切り離すことはできないでしょう。
但し、客観的にはそれらがどのようにつながっているのかを判断することができませんね。

三輪清浄の寄付は初めて聞きました。
受ける側の善性も問われるとはなかなか厳しいですね。

お礼日時:2011/05/30 13:04

 質問文を見ていろいろ考えましたが、客観的なものと主観的なものがあるんでしょうか。


 それらが混在しているようです。

 客観的な善悪は、たぶんに社会性を帯びてきますので議論の高まるところかと思います。
 主観的な善悪を考えるヒントの一つに私は、自身への「弁解、言い訳」と言う心の反応のあることに注目しています。

 我々はどうしても自分の行為を正当化しようとしてしまいます。自分の行為は正しかったのだ、違ってはいないのだと。
 これを自身への“言い訳”と受け止めてみています。

 それではなぜ“言い訳”してしまうんでしょうか。
 このあたりを考えてみると、主観的善悪が少しは見えて来るのではないでしょうか。

 また「この宇宙は、始めまりと云うものはなく終わりと云うものもない」と言った彼の釈尊は本来、善とか悪とかと云うものは無いのだ、とも言ったらしいですが、これなどは“諦観”と言えそうです。

 こんなことを漠然と考えました。

 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>それではなぜ“言い訳”してしまうんでしょうか。

後ろめたさがあるからでしょう。

主観的、或いは客観的善悪という区別はないと思います。
車は主観的にも客観的にも車です。
善も悪もあるという側面と、無いという側面を持っています。
それぞれ見え方が違うということを理解することが諦観だろうと思います。

お礼日時:2011/05/30 12:57

心の善悪は、判断材料がなくて判断できません。

倫理学が対象にしているのは行為ではないですか?

その人が善人か悪人かは判断できないが、寄付という行為は一般的に善である。

くらいなものかと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>心の善悪は、判断材料がなくて判断できません。倫理学が対象にしているのは行為ではないですか?

もちろんその判断材料はあるのです。
しかし結果や行為は材料にはなりませんね。
H2Oや万有引力に善悪を言っても意味ないですね。

お礼日時:2011/05/29 23:35

基本的に、善悪正邪などの判断は、


我々の心が物事に下す「評価」に過ぎません。

故に、物事には様々な見解があって然るべきで、
多様性を認める柔軟な心を持つ事が大切なのです。

しかしながら、事の善し悪しを判断するのは、
高度な知性の表れでもあります。

より多くの他を利する判断を下せる様に、
学びを深めたり、経験を積んだりするのは、
とても大切な事だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>基本的に、善悪正邪などの判断は、我々の心が物事に下す「評価」に過ぎません。

そういう側面もありますが、そうでない絶対的な善悪もあるのではないでしょうか。

お礼日時:2011/05/29 23:33

人の生きる上での唯一の価値基準は、人生を通算した精神的な充足量の最大化に寄与するか否かだけだ。


「善悪」自体、自己中心的に陥りがちな認識を、社会性のタガにはめるために派生した必要悪に過ぎない。

深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。

その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。

そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。

その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。

それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属するのだ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

要するに善悪は人間の発明品だということですか?

お礼日時:2011/05/29 23:31

すべてはその国の(文明の)価値基準に帰属するのではないでチュか?



たいていは このコーナーでの答えとしてかならず

あなたは何を基準に善とおっしゃているのでしょうか、とか高度な学者の論理を展開しているみたいでちゅが

正しいと思って行動しても、余計なお世話にもなるし、あなたのように結果がすべてなら、「参加することに意味がある と 言われているオリンピックの無メダリストは善か悪か。

私にはまるかばつかは、わかりませんドブネズミは悪で

ハムすたーは善ですか。

BY hamutaro
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ドブネズミとハムスターを見て善悪を判断することはできませんね。

お礼日時:2011/05/29 19:42

「物事の善悪」という言葉があります。


確かに寄付を行ったから善人とは限りませんが、善行という言葉があります。
寄付をするというのは善行であり、結果に善悪はあります。
ただその人が善悪どちらの心で善行を行ったか、それが判断できないだけです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かに善行はありますが、それは他人にとってですね。
それを行ったとしても私が善人になるわけではないということは私自身、肝に銘じる必要があると思います。

お礼日時:2011/05/29 19:37

善意で寄付する人、と善意だが寄付しない人とを


比較したら、善意で寄付する人の方がより善では
ないでしょうか。

つまり、心と結果、双方を総合的に考慮する
ことになるのではないですか。

この意味で結果から善を判断することは
できると思います。

悪も同じです。
殺してやろうと思うだけの人と、実際に殺した
人とで、どちらがより悪でしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>比較したら、善意で寄付する人の方がより善ではないでしょうか。

寄付という行為を見てその人が善人であるかをどのように判断するのでしょう。
また、2つの善を比較してこちらの善の方がよいとすることができるでしょうか。
善は数値化できるでしょうか。

お礼日時:2011/05/29 19:28

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