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私たちは結果を見て善悪を判断しようとしますが、
善悪は人の心の属性であって、物理現象としての結果に善悪はないのではないでしょうか。
私が寄付を行ったとしても私が善人であることにはなりません。
結果を見て善悪を判断することは本来であればできないと思われないでしょうか。

A 回答 (18件中1~10件)

普通は自分が善で、他人が悪。


例外的にその逆も有り。
その例外を考えるのが倫理じゃあんめいか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ややや、ごもっともです。
ひどくまっとうなご回答で驚いてしましました。

お礼日時:2011/05/29 22:29

zakky74でございます。




>行為や結果は元をただせば人の心がその発端ですから、結果を見ればその人の心をうかがい知ることができるのも事実です。ただ、結果からその因果律をたどり、人の心までたどり着くのは容易ではありませんね。

仰る通りかと思います。

そして、結果から人の心に辿り着くのではなく、心そのものになってしまう事が今の時代、特に日本では大切な事だと確信しています。

善悪判断基準を始めとして、○×判断基準、美醜判断基準・・・など、分離して分けて、人間一人ひとりが孤独になっていく道よりも、判断基準のゼロ化を土台として、全ての判断基準になれる自由自在の心、大自由の心になってしまう道が今からの時代らしさ、今からの日本らしさであろうと観ています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

古い価値観を疑ってみることは必要でしょうね。

お礼日時:2011/06/02 21:02

この世界にはそもそも善悪など存在しません。

存在するのはある事象を善か悪か判断する人間の価値観だけです。
だから物理現象としての結果に善悪はありません。しかし、その現象を人間が見て認識した時点で、その人の価値観を通してその現象を見ていることになり、善悪の判断がなされます。
あなたが寄付をしてもあなたが善人であることにはなりませんが、あなたは善人であるという判断を多くの人から受けるでしょう。
私達が人間である限り(価値観を持たず全てを客観的に見る存在でない限り)、なにかの結果を見たら善悪の判断をするものだと思います。
>結果を見て善悪を判断することは本来であればできないと思われないでしょうか。
その結果自体は本来善の存在にも悪の存在にも成り得ないとは思いますが、善悪の判断をするのはあくまで人間なので判断すること自体はできるのではないかと思います。

わかりにくい長文失礼致しました。参考になれば嬉しいです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

この世界に善悪は無いという見方もできるし、あるという見方もできると思います。
無いという見方をすれば私はこの世界は善ばかりで悪が見当たらないなとも思いまし、
あるという見方をすればその判断基準をほぼ全人類が勘違いをしているということをこの質問で指摘しています。

それを善悪と命名したのは人かもしれませんが、それは人の発明品ではありませんので間違いなく存在してはいるのです。

お礼日時:2011/06/02 15:36

#15です。



>極論すれば他人の善悪を評価することは不可能だと思います。
なぜなら、人の心は見えないですから。

そうでしょうね。
あくまで自分にとって善か悪かになるのでしょう。
ただ、自分にも自分の心が見えないということも多いですから、必ずしも、
>善悪を決めることができるのは当人だけ

とばかりは言えないような気もします。
結局のところ、善悪だけで一人の人間を判断しようとすること自体に無理があるということなのかもしれません。
動物なんかの場合だと善悪に関係なく自然という要素のみですが、自然という要素からはみ出すことによって人間という種が生まれたはずでしょうから、極力自然に戻ることが善に近づく道なのかもしれません。
「悪い動物」というものはいないように思われるので。

その自然とは何かということになるとまた難しいですが、求めても良いが必要以上に求めない、といったあたりなのでしょうかね・・・。
まあ、これも善悪の範疇を超えた価値観ということになりそうですが。
  
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

善悪という物差しは万能ではありませんね。

お礼日時:2011/06/02 15:24

一言で表現すれば、我欲を捨てて他者を利すること、とでもなるでしょうか。



ジャパネット高田の社長が被災地に5億円寄付するのも、幼稚園児が100円寄付するのもどちらも善行とみなされると思いますが、それは彼らがそれぞれの本能たる我欲を超越した結果であるとみなされるからでしょう。
高田社長が仮に1万円の寄付であれば、誰も善行という評価はしないと思います。
単に宣伝に利用しただけだという穿った見かたも可能ですが、5億という金額自体が庶民にとっては大金なので、やはり我欲を克服した結果だろうということに大半の評価はなるでしょう。
このように善(悪にもですが)には、「我と他」という要素が必然的に介在せざるを得ません。
寄付とは逆の例ですが、死という恐怖を克服してビルに突っ込む人間は、アメリカにとっての悪ですがアルカイダにとっては善でしょう。

結果だけを見て善悪を判断しがちなのは、他人の懐具合であったり、アメリカとイスラムの関係についてであったりをこと細かに検証してみるということが面倒だからなのだと思います。
よくも悪くも大雑把な部分が人にはある、ということなのでしょう。
  
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

人がどのような基準で他人の善悪を評価するかは別として、
極論すれば他人の善悪を評価することは不可能だと思います。
なぜなら、人の心は見えないですから。
善悪を決めることができるのは当人だけなのでしょう。

お礼日時:2011/05/31 21:44

さすがに回答がたくさんありますね。

皆さんのお答え、楽しく読ませていただきました。

人は自然環境の中で生きており、さらにその中の「社会」という環境の中で生きています。自然環境の中には善も悪も無く、人は全てを善として受け入れるしかない。
善悪は社会の中で生きる時に初めて生じるものではないでしょうか。

私は、善悪は本来「個人」の中から発生すると思っています。私が良い(または好き・心地良い)と思えば「善」、良くないと思えば「悪」と感じる事が正しいという考えです。
ただ、全ての人は自然の淘汰を受け、さらにその中で圧倒的多数の人が社会の制約を受けて生きています。その強い制約の中で個人の善悪は方向を揃えられ、ほとんどの人がとなりの人と変わらぬ善悪を身につけるているということなのではないかと。
例えばある宗教において「異教徒をたくさん殺すこと」が、その世界で暮らす人々にとっては善になる事も我々は認めざるを得ないでしょう。

今ではさすがにグローバルな社会正義が形づくられているので、極端な話になるかとも思いますが、このように、社会が地域的・歴史的に変わるに従って「善」の姿も変わってくるのではないか、というのが私の解釈です。

以上より、善悪は個人の行為の社会に対する影響によって発生するもの、つまり結果によるものであり、過程は問題にされない、というのが私の回答になります。過程が問題にされることがあるのは、結果を生じる確率が上がるかどうかという点に収束するのではないかと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>例えばある宗教において「異教徒をたくさん殺すこと」が、その世界で暮らす
>人々にとっては善になる事も我々は認めざるを得ないでしょう。

これを善と呼んでよろしいのですか?
だとすれば善悪は権力者の思うままですね。
自分はそれでいいと思うなら構わないのですが。

お礼日時:2011/05/31 21:35

 shift-2007さん、一見曖昧なご質問に見えますが、感想的に書いてみます。


 
 【私たちは結果を見て善悪を判】というフレーズについては、
 私たちは他人についても自分についても何かの意図と意志行為となって現れたことをその限りで、自己や社会の都合性の中の価値的判断をしているかもしれません。
 つまり情況の中のその経緯や情況に背後に隠れているある種のforceとなりたち(シンパスィや自己的同意性でアクセスするもの)については思いが追いつかないのが常ですね。

 【善悪は人の心の属性】・【物理現象としての結果に善悪はない】
 というのは人間側の問題であり、物理的現象界や自然の存在には内在もしていないし、固有に存在してないということですね。
 つまり人間側の一定の原理や当為の体系に合致するか、否かによる価値判断の結果だということですね。

 【私が寄付を行ったとしても】・【客観的存在として善人性がそこに存在している】ということには為らない
ということですね。
 だから【善悪の判断は、行為という結果を表層的に評価することから】もっと本質性を探究するべきだということですね。

 そのことはつまりその人間、その人間の存在性、その同じ善行という行為の個別性を観られるように(観るように)なるべきだということですね。
 そういう風にして評価し、判断し、対処していくべきだというご見識ですね。
 つまりは人間と人間観察の深化、進化、成長ですね。もっと批判性を持ちなさいというご主張ですね。
 行為というものの。
 そういう仰せであれば、私も反省しながら同意いたします。回答になりませんで申し訳ありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私は善悪の切り分けはすごく簡単なのではないかと思っています。
一般的には結果を見て善悪を評価しようとしますが、結果が与える影響は人さまざまで、その評価はどうしても評価者の都合に影響されてしまいます。これが善悪が絶対性を持たない理由ではないでしょうか。
しかし、大元である人の内面を見ることができるなら、善悪は一目瞭然でその行為に自我の意図が含まれているか否かでしかないと思います。
普通は自我によって行為は決定されていますので、自我を含まない行為というのは無く、逆に他人への配慮がどれだけあるかが善悪の分かれ目となりますね。

お礼日時:2011/05/31 08:29

 喧嘩の例えでいうと、喧嘩が悪いという事は、表面的な表れに与えられる善悪の評価であり、それは客観的、言い方を変えてみれば社会的、あるいは道徳的、なんて言い変えられるかとも思います。



 質問は、けんかをしているこどもの心の善悪を他者が知ることはできない。喧嘩をした子供の心情にも善悪があるはずだが、他人がそれを知ることはできない。
 
 という意見だと受け止めています。

 もしかすると“混同”という私の表現がよくなかったのかもしれません。
 いや、私が“何かを”混同してしまったのかもしれません。

 改めて回答を、述べてみます。

 結果をみて、善悪を判断することは本来できない・・・・・という事は、客観的善悪が主観的善悪となるわけではないのだ。

 と、してみました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

主観的善悪についてもどのような評価基準でそれを行っているか怪しいなと思います。
他人の善悪を結果で見ている人は、恐らく自分の善悪も結果で見るでしょうから。

お礼日時:2011/05/31 08:14

 頭弱いのでとりあえず一点だけ。



 「結果を見て善悪を判断する」

 この場合、結果そのもの、行為そのもの、の良し悪しを問う場合と、それを行った人の内面である“心”の良し悪しを問う場合と、二つの意味合いを含んでいるように思いますが、それは違うと思っているようですね。

 また、この言葉は二つの意味が含まれているとした場合、それはどちらも「客観視」したもの、と云えると思うのですが、こうした考えも異見をお持ちですか。

 「混同」に気が付いてほしいです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私もだいぶ頭が弱いのでどこまで理解しているか心もとないですが、

>この場合、結果そのもの、行為そのもの、の良し悪しを問う場合と、
>それを行った人の内面である“心”の良し悪しを問う場合と、二つ
>の意味合いを含んでいるように思いますが、それは違うと思っているようですね。

普段の生活において一般的に行われていることであるのは承知しています。
例えば、子供が友達と喧嘩してけがを負わせた場合などでしょうか。
友達を殴るという行為はよくない行為であり、そもそも喧嘩になった原因についても
心の持ちように原因があったのだと親が諭すような場面でしょうか。

>それはどちらも「客観視」したもの、と云えると思うのですが、
>こうした考えも異見をお持ちですか。

前述の子供と親の関係でいえば、親の客観的判断によるものだということは間違いないですね。

> 「混同」に気が付いてほしいです。

混同とは何と何の混同なのでしょう?

お礼日時:2011/05/30 23:31

仰る通りかと思います。



結果を見て善悪を判断する事は、その人の判断基準から出ているんだという事を自他共に理解しているだけで、その他の相当数の事も理解出来る様になるかと思っています。

結果として、結果がそこにあるという観点も大事かもしれません。
ですが、判断基準による判断の結果だという観点も大事だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

行為や結果は元をただせば人の心がその発端ですから、結果を見ればその人の心をうかがい知ることができるのも事実です。
ただ、結果からその因果律をたどり、人の心までたどり着くのは容易ではありませんね。

お礼日時:2011/05/30 23:16

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