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哲学カテゴリーの方にも答えを頂きたいので質問させてください。
ダメな自分、嫌な自分を受け入れるにはどうしたらいいかを悩んでいるのですが、
そもそも受け入れるとはどういうことなのか。

頭ではわかっています、
自分のこういうところがダメだ、
「受け入れられない」ところを受け入れる、等。

しかし、「自覚」が芽生えたり、諦めがついたり、悟りを開いたりするときって、
結局「思考」とは全く別次元の「感情」に何かが起こっているように感じます。
そうすると思考すること、哲学することは意味が無いのか、とすら思えます。
もしくは、思考から感情に影響を及ぼすメカニズムが分かれば、
思考する意味や効率もあるとは思うのですが、
どなたかそのきっかけを与えていただけないでしょうか。

私は悩むことが趣味なのではなく、
幸せになるために悩んでいるはずです。

A 回答 (22件中1~10件)

確かに考えて、自覚したり、嫌だと感じても、


本や人の意見を聞くだけでは自分が考えるように
改善しないと思います。

例えば営業が数字が取れないから、本を読んで納得して、
優秀な営業からノウハウを学んでも、自分の成績があがらないと
何も変わらないと思います。

出来なくても、随時お客さんと商談して、その振り返りをする。など
必ず実践があってから考える事ではないでしょうか?

一度、商談したお客さん、そのお客さんとはその後話さず
何年も本を読んだり、人に聞いても
そちらのほうが難しいと思います。

それなら、そのお客さんと納得いくまで話したほうが良いと思います。

なるべく根本から離れない事が近道だと考えます。

ネットに関しては、相手が対面している、日常と変わらない対応を取ると
良い訓練になるようです。

私は質問を投げるだけ投げて、返答しないのは、社会生活では成り立たないので、
いくら投げても、上記の考えも含め、結局日常で会話出来ないのではないかと考えます。

ここで訓練をすると日常で役に立ちますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>確かに考えて、自覚したり、嫌だと感じても、本や人の意見を聞くだけでは自分が考えるように改善しないと思います

僕がここで言う「改善」は、「自分が行動に移せるまでの決意、覚悟が持てるようになること」
です。
「やろうと思っているができない」ということは誰でもよくあると思いますが、
なぜできないのか。
なぜかというとそれは理屈じゃなく、
感情が動いて「やらざるを得ない」と自動的に身体が動くのではないか、と思っています。

回答いただいた中にもいろいろキーワードが出ています。


>必ず実践があってから考えること

これは考えることももちろんだけど、実践によって感情が刺激されたのではないか。


>そのお客さんと納得いくまで話したほうが良いと思います

納得とは結局感情じゃないか。「なぜ納得したのか」という問いに答えはあるでしょうか?
「それだけ話したから」は答えになるでしょうか。

お礼日時:2011/08/20 17:48

おはようございます。


思考も感情も特性があり、得手不得手があります。
私の印象では、思考は細部の認識は優れていますが、データが揃いにくい大きな問題に対しては、無理矢理なこじつけをし混乱しやすいと思います。
具体的には、ダメな自分という前提が本当に正しいのか思考で検討されておらず、前提の欠陥を後の論理でカバーしようとするから混乱するのだと思います。 より根本的に言えば、解決するよりも自我の方が大事だから解決に身が入らないのです。
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この回答へのお礼

>具体的には、ダメな自分という前提が本当に正しいのか思考で検討されておらず、前提の欠陥を後の論理でカバーしようとするから混乱するのだと思います

「ダメな自分という前提が本当に正しいのかどうか」という問いの答えは見つかるものでしょうか?
その場合何が「正しい」のでしょう。
それは客観的に見てとか、社会的に見て、一般的に見て、という観点からの「正しい」でしょうか。
僕は基本的に「正しい」ってのは自分の中だけでしか存在しない見方だと思っているので、
自我以外での「正しい」はこじつけにはなるような気がするのですが。

プラス思考マイナス思考によくある例で、
グラスに半分の水が入っていて、
自分は「半分しかない」と感じるが「まだ半分もある、と考えると幸せだよ」という自己啓発。
確かに、「半分しかない」という前提が正しいのか検討したら、
ふむ、確かに「まだ半分もある」とも言える。
・・・で?
という感じですよね。そこで「ハッ!」とはならないです、その後の行動は変わり得ないです。
「半分しかない」という印象が転覆したり、ブラインドされて見えなくなったりはしないですよね。
少なくとも僕は。
そう考えると、感じ方に正しいも何もないのでは、と思うのです。
「あなたが感じたことは全て正しい」なんていうのも嘘ではと思うのです。


>解決するよりも自我の方が大事だから解決に身が入らないのです

その通りですね。ということは、解決は不可能なんでしょうか?
自我を抑えるとか、自我を変えるしかないのでしょうか。
そうすると、それは自分ではなくなるのではないでしょうか。

お礼日時:2011/08/20 18:06

確かに。

。No.2の方の回答を読んで感じました。
私も不安定になった時は、混乱して、自分がどれかわからなくなりました。
なのに、人からの意見は絶えず聞かされる状態で更に悪化しました。

どちらにせよ、一度考えない時間を作る事ではないでしょうか?
それを作る事がかなりの困難でしたが、忙しく身体を動かすが一番だと
私自身は思います。
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この回答へのお礼

>どちらにせよ、一度考えない時間を作る事ではないでしょうか?

これは確かにそうだと思いました。
じっとしていても考えてしまいますよね。
今の仕事も考える時間がないような仕事です。
んで、帰宅すると酒を飲めば思考は止まります。止まるような気がします。
そうしてふと考えると、忘れている時間が多いほど幸せなのか?という疑問。
そうすると、僕が望んでる「自覚」みたいなのは得られることはなく、
忘れ続けて生きるしかないのか?とか思ってしまいます。


回答者さまは、「一度」考えない時間を作った結果、
何か改善されましたか?それとも今も忙しく身体を動かしていますか?

お礼日時:2011/08/20 18:12

ここ(哲学カテ)は基本的に人生相談の場ではないので、私なりに質問者様のご質問を噛み砕いて出来るだけ私自身のために分かりやすくして考えてみたいと思います。



>ダメな自分、嫌な自分を受け入れるにはどうしたらいいか
それについて貴方が有効だと思いついたのが「自覚」ということですね。
>そもそも受け入れるとはどういうことなのか

>頭ではわかっています

俺はこういうところが平均より劣っている(と理性は自分に告げている)。
これって既に自覚しているってことですね。
問題はその先でしょう。
劣っているけれどいまのところ自分の感情はそれを受け入れない。
したがって進学校選びでも一ランク下げることが出来ない。
というようなことなら、結局自覚が徹底していないと言うことだと思うのです。
自覚というのはあくまでも理性的な心の働きなので、
貴方の当面の身の振り方、先行きなどを徹底的に総合的に考えとおして、
そうだな、こういう方向に進めば自分としての最善の生き方が出来そうだとかいう
筋道の通った考えが確立します。
もちろん貴方が当面責任を持たねばならない範囲内でのことですが。
そういった心の働きに、普通、感情は余り活躍しないと思います。
むしろ邪魔なのではないでしょうか。

>自覚」が芽生えたり、諦めがついたり、悟りを開いたりするときって、
結局「思考」とは全く別次元の「感情」に何かが起こっているように感じます。

私見では、そのときに貴方の感情はいわば一ランク高みにぽこっと飛躍するのでしょう。
アウフヘーベン(止揚)という言葉がありますが、これではないでしょうか。自分の心にわだかまっていたマイナスの気分(劣等感)をむしろばねにしてより高い場面で逆に生かすということでしょう。

ようやくちょこっと哲学的な感じになりました。

ご参考になれば。
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この回答へのお礼

私は哲学に詳しくはないので哲学用語での「自覚」の定義とかを知らないんですが、
よくありそうのは、
誰かが死んだときとか、外国に行ったりとか、
何かショッキングなこと、それこそ震災とかが周りに起こったときに
「ハッ!だめだ俺はこのままじゃ!」とかそういう目覚める感じがあると聞きます。
行動に結びつく、自覚。「気付き」とかも同じかもしれません。
悩める若者が「自分探し」をするのは多くがこの感覚を求めてだと思います。

>結局自覚が徹底していないと言うことだと思うのです

そうだと思っています。回答者さまの考えでは、じわじわと理詰めでスジを通すことによって、
自覚は確立されるものだということなのですね。
僕の印象では、確立された(と思った)としても、
「これは徹底的に考えてスジを通したものだ」というのが
「危うい」感じなんです。安心できない。
徹底的に考えた、筋道の通った(厳密に言うと「筋道を通した」です)考えというのは、
結局自信が持てないんですよね。
だからなにか、「自覚」というのはポコッと生まれるものなのではと期待してしまうのです。

おっしゃるように、徹底されてないだけということも大いに考えられるので、
もっと徹底して考えるしかすることがないとは思うのですが。


人生相談になってしまって失礼しました。
ありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2011/08/20 18:29

>ダメな自分、嫌な自分を受け入れるには、、、、



駄目な自分とは何か、嫌いな自分とは何か、自問したことはありますか?

私は、過去に自問した結果、「駄目な自分」=「駄目な自分の過去」であり、「嫌いな自分」=「嫌いな自分の過去」であることが判明しました。このことを熟考する前は、「駄目な自分」が過去に限定されておらずに、現在から未来へ「駄目」が継続するかのごとき誤解・曖昧さをもっていたのです。

今、ハッキリ言えることは、自分の過去は、精神として受け入れようが拒絶しようが変わらないので、「駄目な自分の過去」は不変です。一方、自分の未来は依然として、意思の影響下にあります。ですから「自分の未来が駄目」という命題には蓋然性が無いことがわかります。

今朝、すれ違いざまに隣の老人に挨拶しなかった自分=「駄目な自分の過去」
今度、隣の老人とすれ違ったら、こちらから挨拶をしよう=意思の影響下にある「未来の自分」

「駄目な自分」「嫌いな自分」という概念の処理は、十分に理性的に可能であって、感情の助けを必要としないものです。
(感情が何処まで制御可能か、そして、感情が幸福感に何処まで貢献できるか、という議論はまた別の機会に!)
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この回答へのお礼

私の場合は、ダメな自分とは、俗に言うマイナス思考な自分です。

おっしゃっているのは、
「過去の自分はダメなとこがあったけど、未来は変えられる」ということだと思います。
その通りなんですけど、
僕が悩んでいるのは思考の部分であって、
思考は変えられるのか?ということに尽きます。
ダメな思考をする自分をどうしても変えられない気がしてしまいます。
自動的に発生するものなのです。だから、
「それを変えるのではなく、受け入れましょう」という自己啓発本の言葉を見つけ、
なるほどそりゃそうだ、と思い、咀嚼しているところなんです。
でもそれが意味わからなくて。

未来は意志の影響下にあると僕も思うのですが、
マイナス思考や感情は意志で変えられるものでしょうか。

お礼日時:2011/08/20 19:22

 感情という言葉で指し示す対象や内容が少し不明確なんですね。


 生き方、存在性。自己。
 といっても所詮はやはり不明確でしょうね。考えなどを越えた自分たる存在といってもやはり不明確ですね。
 つまりは自己たる日常性とでもいうのかな。本当の自分とか。
 そういうところでしょうか。本当の、現実のあり方ですよね。
 そういうところに直截に直接にタッチする手法として私はSelf-Realization Fellowshipというヒンドゥ的修行と勉強を40数年やっています。
 普通、私たちは自分の真底を見つめることも、はタッチするできないですが。
 そこらを生きる一つの自己追究ですね。HPもありますが、ここで出すと削除されますので、検索するとでてきますよ。

 
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この回答へのお礼

そもそも言葉なんて、ちゃんと伝わっているものという前提で結構です。
不明確だと思えば不明確ですし。
お互いに言葉の定義が外れてても気付きは得ることができるかもしれない、
そう思って回答をいただいています。

紹介していただいたもの、調べさせていただきます。
正直な反応としては、何十年も探求しないといけないのか、と思うと生きるのが嫌になりそうです(笑)。
そのへん、インスタントに幸せが得られると思ってるのが間違いなのかなぁ(笑)。
それも「ハッ」とはなりませんけど・・・。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/08/20 19:30

「幸せになるために悩んでいるはずです。

」というところに間違いが在ります、人間の計らいが悩みの元になっています。

「自分の」幸せは何処を探しても存在していません。深く考えた場合人生の何処を見渡しても「自分の幸せは」無い事が分かります。

悩みが何かが分かる時、少しは分かる事もあると思いますので「悩み」に付いて少し考察してみます。悩みとは「心の矛盾」の事を云います。二つの考えが在ってその二つの考えの大きさによって悩みの「大きさとか深さ」が決まってくる事を示しています。

人間の最大の悩みとは、「生と死」です。言葉を替えるなら「永遠と有限」です。この二つの事柄を同時に考えている時に「深刻な悩みを悩む」と言う風に思います。

この問題の到達点が「悟り」です。キリスト教においては「神と和解する」と言う表現方法になっています。この事を詳しく書いてみます。

人間には分かり難い話ですが「意識が二つ内在しています」この二つの意識(人格)の考え方の相違を「人間の悩み」と言っています。動物や昆虫や草や木にありながら、人間も持っています。それは命です。

命にも人格が存在しています、その人格を「命の働き=仏性や神」と呼んでいます。

しかしながら、人間にのみ在って、「動物や昆虫や草や木」には無いものが在ります。このお陰で人間は万物の長として君臨出来ていますが、代償も大きいと思います。

文明を発展させる力になっていながら、片や人間を苦しめているものです。人間だけが持っている事によって、人間が文明を発展させながら、人間には悩むと言う事実が「人間の苦しみの原因となっています」

その原因とは「意識する事」です。はっきりと言葉にするなら、「意識する自分」VS[意識していない自分]と言う二つの人格(心)が人間には同時に内在している事です。この事実が光を放つ場合が知識の集積(文明の発展)、この事実が影となって現れる現象が「人間苦」と云う事になります。

光となる場合「意識」と「命そのものの働きが」同調出来ている場合です。

影となる場合は「意識」と「命そのもの働きが」同調で出来なくなる場合です。具体的な事を書くなら、「自分自身に疑いを差し挟む場合です。」言い換えるなら「心の矛盾」として人生を疑う事を云います。

その疑いには基本的には、三つの形が在ります。もう一度繰り返しておきますが「自我意識」VS[命の働き]が同調出来なくなる場合です。

一つは「身体機能」です。「自分の働き」に任せておく場合を健常者と言っています。自分の働きに疑いを差し挟む場合を「自律神経失調症や心身症や難事性の病です」

一つは自分が「取っている行動」に疑いを差し挟む場合です。この場合を「神経症」と言っています。自分の行動を「自分の働き」に任せておく場合を健常者と言っています。「自分の働きに」疑いを持った事を意味します。

一つは「心の健康」です。自分の心の健康を「命の働き」に任せている場合を健常者と言っています。「自分の心の健康」に疑いを持った場合「心を病む」と言っています。

どの場合にも「生き難い想い」が付きまとっています。漠然とした不安や罪悪感などです。

どの場合も完治した姿は、自分自身の信頼を取り戻す事です。自分自身の疑いを晴らす事です。自我意識には出来なかった事を認めて「自分の命そのものの働きに任せる事」です。

つまるところ「心の矛盾の解消」です。

それが「悟り」であったり「(識られざる自身の)神と和解する事」です。

生き難い想いや、悩みとは「心の矛盾」の現れです。

二つの心の違いを簡単に書いて終わりにします。

メンタル面が強いと言う場合「自我意識が引っ込みやすくなっている状態です」他の言葉にするなら「無意識の自分に入りやすくなる場合です」

メンタル面が弱いと言う場合「自我意識がでしゃばってしまい引っ込めなくなってしまう事です」云い換えるなら「無意識の自分を信頼出来なくなって、或は怖くなって」「無意識の自分と上手く切り替わらなくなってしまう事」を云っています。
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この回答へのお礼

>「幸せになるために悩んでいるはずです。 」というところに間違いが在ります、人間の計らいが悩みの元になっています
>「自分の」幸せは何処を探しても存在していません

おっしゃるのは、「探しても(悩んでも)幸せは存在しないのだから、諦めろ」ということだと思います。
その「諦める」というのは考えて(思考して)論理的に解決できることなのでしょうか。
もしできないのならば、何をしたらいいのでしょう。
何もするなというのは、つまり「忘れろ」ということでしょうか。
今の私の仕事は無意識に任せるような仕事で、業務中にあまりこういったことを悩みません。
帰宅しても、酒を飲めば悩みを忘れられます。そして眠る。起きる・・・。
このように死ぬまで過ごしていくしか、悩みから逃れる方法はないということでしょうか。
それでも、完全に忘れ去ることができる自信はありませんが・・・。


>生き難い想いや、悩みとは「心の矛盾」の現れです

それはわかります。わかるのですが、
それを聞いても、安心や気付きを得られない自分がここにいるのです。
回答者さまがおっしゃる、「無意識と自我意識が同調した姿」は分かったのですが、
今の同調できていない私がそこに至るまでの道筋が見えないので苦しいのです。
逆に、回答者さまのような説明を聞いて「無意識と自我意識が同調」した人はいるのでしょうか?
悟ったり、「神と和解」した人はいるのですか?

あと、文中に出てくる「命の働き」と「自分の働き」っていうのは同じことを言っているのですか?
読んでて少し混乱したので。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/08/22 01:55

あまり自信はありませんが、


言われるとおりだと思いまいた。


自覚の定義についてはちょっと違う意見ですが、
自覚は、把握と感情が両立することだと考えています。

自分のこういう所が欠点だーこれは把握です。
でもそれが誰でもそんなものだ、ということに気づくことは、感情にプラスの影響を与えます。

把握とは、自分一人を相手にするので、特定の部分的な把握です。
プラスの感情は、全体性ー世界全体であったり、世界のすべての人の共通項です。




細かい仕組みは難しいですが、
思考が感情に影響をあたえる時って、
本来全世界の一部、全体の一部を取り出して考えてたはずの思考とその結果が、
実は全世界に適用される部分があり、全体に影響を与える応用される、と気づくことが、
言われるところの、感情に影響を及ぼす仕組みに大まかに相当すると思います。

質問で言われる場合の感情とは、全体性に関係があると思うので。



自覚とは、上にも書いたですが、最初の把握と、後の感情が、上に構図のように、矛盾なく
並立することに気づく、ということだと思います。





質問文での、把握と、感情と、自覚とは、
言い換えると、把握と、感性と、認識という、脳の3つの機能を代表します。

この3つが揃いぶむ時、どれが一番目に来る、という順位は決まっていないので、
思考に自覚が加わって、感情に影響をあたえることもあれば、
思考に感情が並立して、自覚が生まれることもある、と思います。




先に自覚とは、把握と感情が矛盾なく両立することと書いたですが、
もっと厳密に言うと、上の脳機能で言う、把握と感性と認識という3つが矛盾なく並び立ち、
部分(把握)も全体(感性)もそのまま(認識)も、みな矛盾なく整然としている、ということじゃないかと想像します。
質問文の言葉で言うと、把握と感情と自覚の3つが矛盾なく成り立ってると、めでたしめでたし、というふうな意味合いです。


という個人的意見です。
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この回答へのお礼

>思考が感情に影響をあたえる時って、
本来全世界の一部、全体の一部を取り出して考えてたはずの思考とその結果が、
実は全世界に適用される部分があり、全体に影響を与える応用される、と気づくことが、
言われるところの、感情に影響を及ぼす仕組みに大まかに相当すると思います

あー、確かに僕が望んでいるのはそんな感じかもしれません。
パーッと開ける、ような。
全体性、ですか。

でもやはり

>自覚とは、上にも書いたですが、最初の把握と、後の感情が、上に構図のように、矛盾なく
並立することに気づく、ということ

と「矛盾なく」とおっしゃるように、矛盾を解消することが解決法なのだとは思います。
そして、矛盾を解消した後に自動的に「気づけ」たらいいのですが。

言葉をお借りすれば、
これまで僕が考えていたのは
「把握→感情⇒自覚(めでたし)」だけだと思っていましたが、
「把握+感情+自覚=めでたし」というのも、なるほどそうかもと思いました。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/08/22 02:25

お礼ありがとうございます。


他の回答者さんへのお礼も読みました。言葉の定義に対する姿勢から観察すると、分かっていただくには、切り分けて説明するタイプの私では無理だと判断しました。申し訳ございません。
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この回答へのお礼

いえ、そんなわざわざ謝っていただくなんて恐縮してしまいます。

でも、今は分からないだけで後から読み返すと思います。
そのときに回答を読んで気付くことがあるかも知れないと思っています。
ありがとうございました。すみません。

お礼日時:2011/08/22 02:28

そうですね。


今も動いてますね。
頭で考えるより、動いたほうが実際の結果が出ますよ。

自分の頭の想像では出来ないと答えが出ていたのに、
人が関わったりする事で出来る事が沢山あるんですよね。

結局は、自分の頭の中だけでは、
自分すらわからないと言う事なのかと。

人のために動くとなれば、感情が必要になると思いますが。
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この回答へのお礼

そうですか。

僕も、少なからず動いてきて、実際の結果が得られたこともあるのかも知れないですが、
そこに「幸せ感」がないんですよね。
どうしても頭で解決するほうが幸せに近い気がしてしまう。
夢物語なのでしょうけど。
(↑でも本心では「夢物語なんかではない」と思っているから質問してしまっている笑)

ありがとうございました。

お礼日時:2011/08/22 02:40

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