天正10年春、甲州武田家の命運が最早尽き掛けようかとしていたその時、真田昌幸は主君勝頼に自身の知行地上州岩櫃への下向を進言しました。
結局これは実らず、一門衆小山田信茂の持ち城郡内岩殿へと赴き、小山田の痛烈な裏切りに会い武田滅亡を早める事となりました。
良く巷にて聞く話は「この時勝頼は選択を誤ったのだ。」と云われますが、
私が思うに、上州に赴いたところで結果は同じだったという事は考えられませんか?
真田もやはり自領の民を守るため勝頼の首を差し出したのでは? と考えます。
歴史のIFはタブーですが、皆さんはどの様に推察されますか?
それとも、昌幸が本気で勝頼を戴き武田家存続のため奮闘する用意があったという証拠文献は残っているんでしょうか?
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
勝頼の首を差し出す事が絶対無いとは言いませんが、私としてはその可能性は低いと思っています。
まず、主君の首を持って降ったとして、それが必ず敵方に受け入れられるかどうかわかりません。
殺してはいませんが、上杉家家臣の妻鹿田新助は上杉龍若丸の身柄を北条氏康に引渡して降り、氏康から所領安堵を得ようとしましたが、氏康はその不義な行為に怒り妻鹿田新助を処刑しました。
逆の例も勿論あり、朝倉景鏡は主君の首を手土産に織田信長に降り、所領安堵を得ています。
戦国時代ですから主君を裏切る事は珍しい事ではありませんが、必ずそれが受け入れられるわけではありませんし、その主君の身まで手にかけるのはリスクが大きいような気がします。
裏切るなら何もそんな事はしなくても木曾や穴山のよう早く裏切った方がよいように思います。
智謀の将である真田昌幸ならその辺のリスクは計算に入れていると思うのですが。
ちなみに小山田信茂は勝頼を殺したわけではありませんが、織田信忠にその遅すぎる裏切り行為を嫌われ咎められ処刑されています。
それから真田昌幸は岩櫃城のそばに勝頼を迎えるための館を大急ぎで建ています。この館の跡は石垣だけですが現在も残っていて、そこに説明書きの看板が立ててあります。勝頼を殺すつもりならそのような館は建てなかったように思います。ちなみにその館は後に寺として一時期利用されたそうです。
それと真田昌幸は自領の民を守るために戦を避けるタイプでは無いように思います。例えば第一次上田合戦の場合、この時、属していた徳川が北条と講和をし、その講和条件において真田の沼田の領地が北条に属する事になり、徳川から引渡しを命じられました。
これに怒った昌幸は徳川と手を切り戦になります。沼田の地は真田の領地になってからの年月はまだ浅い地でした。本当に領民の事を思うなら戦はせず北条に引き渡していたでしょう。しかし、昌幸は領民を動員して戦をしています。
こうした事から私は真田昌幸は勝頼を本気で受け入れる気があったと思っています。
ただ、それが全て武田家のためかと言うと微妙です。
それまでの武田家の中には親族衆や有力な譜代の武将が多くおり、真田家が武田の中で突出した力を持ったり勢力を広げるのは無理でした。
しかし、多くの者が裏切ったおかげで、岩櫃城に勝頼が来てくれれば武田家の主導権を昌幸が握る機会が出てきます
真田家だけでは大きくなる事は難しかったでしょうが、しかし、武田の御輿を担いでいれば、それを利用する事ができます。
数多くの武将が武田を裏切ったとは言え、腐っても鯛というか、武田に共感を寄せる者はまだ残っていました。
それを昌幸が利用できる大義名分を手に入れられます。
勝頼よりその嫡男、信勝を前面に押し立てる手もあります。武田家をこれだけ弱体化させた勝頼を大人しくさせる、真田のいいように操る事は無理では無いように思います。
主君を傀儡にして勢力を広げた、力を強めた武将の例は戦国時代には数多くあります。
その例に真田昌幸が倣ったとしても不思議ではありません。
つまり武田の旧領回復を名目に主君を担いで、実際は真田の勢力を大きくするという事を真田昌幸が考えていたとしても私は驚きません。
この時、武田家の危機ではありますが、それを利用する好機でもあるのです。
上杉の援軍も望めます。
特に真田の領地の隣の北信濃は一向門徒の多い地域で武田が長年保護してきました。反織田の気風の強い地域であり武田への共感の強い地域です。まず、こうした地を味方につけ上杉と共に戦えば、真田からすれば必ずしも絶望的というわけではないと考えても不思議ではないと思います。
まあ、本当に武田家のためを思って勝頼を迎え入れようとしたという事も考えられますが。
ご回答どうも有り難う御座います。
私は、昌幸が勝頼のために館を造営していた事実を知りませんでした。
だとすると、昌幸は本気だった可能性が高いですね。
それが例え自己の野心を満足させるためだとしても、真田の名の高感度を後世に上げるに十分なエポックの一つに成り得ると思います。
判官贔屓と忠臣家も相まって、真田一族が現代まで日本人に好かれている由縁でしょうか?
No.5
- 回答日時:
昌幸は武田家滅亡以前に既に北条氏と接触を図っていますから
生き延びる気持ちは相当高かったと推測されます。
しかし、下向途中に裏切るような武将で無い事だけは確かです。
>歴史のIFはタブーですが
1 北条氏の家臣となって武田家存亡を図る
(地形的に群馬県の山国まで深追いするのは相当危険な上、北条、上杉の挟撃がある。)
2 信長の家臣となって首級を差し出す。
3 他国に逃がす。
の3通りが考えられると思いますが、
お家大事であれば元から勝頼下向など進言しないと思います。^^;
No.3
- 回答日時:
武田征伐の際勝頼に冷遇されていたと言われている諏訪勝豊は
一族にお家再興を進言されたものの勝頼につくことを決め、討死を遂げました。
まあそれは置いといて、、、
真田昌幸は勝頼の父・信玄に寵愛されていました。
なので少なからずその恩は感じていたのではないでしょうか。
また勝頼の武将としての質は、信玄のそれと比べても劣っているとは思えません。
(そもそも武田家滅亡の遠因は信玄にあります)
なので昌幸に勝頼を戴き武田家存続のために動く思惑はあったかもしれません。
それに昌幸の表裏比興ぶりは上杉・徳川・北条の三大勢力の間で存続を図る過程で形成されたものだと個人的には思っています。
まあしかし歴史のIFに証拠文献などはありませんから推測の域は超えません。
ご回答どうも有難う御座いました。
そうですね。真田昌幸ほどの一流の軍師が、主君を裏切ることでの被る影響や世間の評価を理解していないとはとても思われません。
それが、いかに下克上の世の中であったとしても、あの信長ですら守護斯波家や将軍家には手をかけていない。
確かに要害岩櫃城ならば、真田の両拠点上田・沼田との連携が取りやすいし、同盟国越後も近い。昌幸得意の籠城戦が展開できる、数ヶ月もてば上方勢の多い織田軍は撤収するとの目算があったのかもしれませんね。
逆に郡内領では後が無く、当に死に花の地に相応しい。
No.1
- 回答日時:
さあ・・どうでしょうね。
おっしゃるとおり歴史のIFは、無意味です。
同様に、ある筈もありませんが、証拠文献が残っていたにしても、
それを証明する手だてがありません。
「勝頼の首を差し出したのでは?と考えます。」・・そうかもしれません。
全て推測の域をでませんからね。
その上で私の推察ですが、信行は別にして、
その後の、昌幸、幸村の行動が、あなたの質問の答えに、
なっている気がしますが・・・・。
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