美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。
私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。
私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。
しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。
私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。
が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か?
美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。
念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。
(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。
(2)醜さとは何かを定義する。
(3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。
これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。
それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
No.19
- 回答日時:
こんにちは、iacta-alea-est2さん。
Clouds always follow the sunshine. と「好事魔多し」とが同様なんだろう?
ってなことは、まあいいんだけど…
●―――悔しがっても後の祭りです。自分で自分の首を絞めたのです。
↑
キャー コワイ!Y(>< ;)Y
その一口が…
“ 禍福は縄の如し ”
ぐるぐるぐる キャー
洗濯機をみつめ シンキングタイム!
「受難曲」
後の祭り…
祭りの後…
祭り…
謝肉祭
「大食」
(>×<)食べてません。
お口ミッフィー×××
【教会暦と音楽】
http://www.prmvr.otsu.shiga.jp/ensemblevoce/Bach …
(1) 謝肉祭
時間を追っていきますと、謝肉祭に関しては礼拝用の音楽ではなく、お祭り用の音楽やユーモラスな動物の謝肉祭など多くの曲が書かれています。15世紀後半頃からの謝肉祭の音楽が今に伝わっており、メディチ家が全盛期を迎えていたフィレンツェではお祭り好きの市民が山車を作って町を練り歩いたといわれています。メディチ家の当主、ロレンツォ本人の歌といわれているものも残っており、「バッカスの勝利」という長い歌の歌詞では次のような言葉が繰り返し現われます。
幸福を求めたい者は求めるがよい、
明日のことはなにも確かではないのだから。
塩野七生氏によれば、この歌は何百年も歌い継がれ、日本で言えば明治時代の人がそれをイタリアで聞いて帰り、帰国後に吉井勇に語ったことがヒントになって、ゴンドラの歌が生まれたのではないかと考えられています。即ち、
いのち短し 恋せよ乙女、
赤き唇 あせぬ間に、
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
という名曲です。
このような享楽的な時代は長くは続かず、厳格な修道士サヴォナローラによって、ロレンツォは追放され、謝肉祭のお祭り騒ぎも禁止となって厳しい節制の時代をむかえることになります。それでも、上の歌が伝わっていたということは、庶民はどこかでひっそりと楽しんでいたのでしょうか。
●天使のように清く、愛のように甘いって、どうやって彼は飲んだのだろう
↑
これ、カップの中をみつめてる彼の顔が浮かぶなあ。
【ラテ・アート】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%86% …
韓国ドラマ 「コーヒープリンス1号店」は必見でしょー
http://www.showtime.jp/special/korea/guide/coffee/
『志賀直哉「転生」論 : 小説形式の複合』
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004875512
>ぐるぐるぐる キャー
うーぬ、リトルキスちゃん、喜んじゃって、もう! ドラマを観ているノリだなぁ。うん、放っておきましょう。ね? 傷を広げたら気の毒だから。運が巡り巡って、私も気の毒なことになるかもしれないんだから、ね。訳の分からないことは放っておくに限る。
>塩野七生氏によれば、この歌は何百年も歌い継がれ、日本で言えば明治時代の人がそれをイタリアで聞いて帰り、帰国後に吉井勇に語ったことがヒントになって、ゴンドラの歌が生まれたのではないかと考えられています。
うん、あんまし関係ないと思う。だって歌詞が全く違うんだもん。塩野さんは、私も読んだけれど、あやしいところが多いんだなぁ。もちろん、読者が自分で見抜けるはずだと思っているとかいうのかもしれないけれど。だって、命短し、恋せよ乙女、って西欧に似たような歌がいくらでもあるもん。
>これ、カップの中をみつめてる彼の顔が浮かぶなあ。
カップの中でタレーランは悪魔と天使を観たのかぁ。二つが混ざっているって、ゴシック調かな。
追記:読みかけだけれど、この志賀の論文も微妙っぽい。「形式」と言っているのなら、まず、その当時、どういう形式が流行りだったかを包括的に論じ、志賀の小説において、どのパターンが多いかを言及しなくてはならない。しかるに、こういうまとめは一切なく、誰でもわかることをダラダラ論じている。溜息。もちろんリトルキスちゃんに対してではないよ。えい、デコピン一発!
No.18
- 回答日時:
No.4です。
お礼をありがとうございました。誤解されるかな、という危惧があったのですが、やはり誤解されました。私の日本語が拙いせいでしょう。作文の練習のための投稿ですのでご容赦ください。
私は、カラヴァジォという人は、精神的な病に罹っていたと思うのです。
ただの耽溺主義者とは規模が違います。何をどう投げてもブーメランのように自分のところに戻ってしまう。それを私は醜さの定義としたのです。内にこもって、自らを慕い、聖書の物語のヒーローに自分を投影するのです。
自分至上主義、(隣人)愛の徹底的な否定、神を恐れぬ傲岸不遜。
もう少し上手に表現できると良いのですが、更なる説明はキリスト教の教義の説明になり、望まれていないところでそれをするのは、気が引けますので、これでご勘弁願います。
そういえば、”人間失格”を書いたころの太宰治が少しだけ似ているかもしれませんが、彼は弾むように明朗な”走れメロス”も書いています。人間、自分だけを見ていると、生きてゆけない、という手本だと思います。
いえいえ、私の書き方が悪かったのかもしれません。
>ただの耽溺主義者とは規模が違います。
>自分至上主義、(隣人)愛の徹底的な否定、神を恐れぬ傲岸不遜。
ここで「耽溺」という語を選んだのは、そもそも私なのですが、決して軽視するつもりではなかったのです。いろいろ芸術家の名前を軽く並べたのがよくなかったのかもしれません。村上隆などは、軽薄でしたね。私としては話を広げたいという希望を持っていたのです。しかし、いろいろ並べたおかげで、Ciapolpoさんのおっしゃる地点が明確になったという怪我の功名がありますが。
もっとも弁解すると、私の考えるに、カラヴァッジョ的な話は、実は、そう特殊ではないのです。ロマン主義の芸術家に多いのですが、聖書の物語に自分をなぞらえ、聖人の位置に自分が収まってしまっている者らが多くいるのです。というのも、民主主義の中で教会の権力が剥奪されるさなか、司祭たちにとって代わり、民衆を導こうという欲求がロマン主義にありましたから。カラヴァッジョの場合は、少々、時期的にみると早いので、かなり異端だとは言えますが、芸術家が聖人とみなされるというロジックはかなり古くからあったのです。
これが現代的なテーマか否か、と言われると、どうでしょうね。ジャン・ジュネがいます。彼は、二十世紀初頭で小説家ですが、何を書いても、自伝的になってしまいます。そして、自らを聖人になぞらえます。サルトルが『聖ジュネ』という著作をあらわしたそのタイトルだけでも、窺い知ることはできるでしょう。もちろん私はかなりジュネを読んだのですが、
>自分至上主義、(隣人)愛の徹底的な否定、神を恐れぬ傲岸不遜。
はどれも当てはまります。しかしカラヴァッジョが私には、思い切りの良い生き方であると感じられるのに対し、ジュネの場合、盗み・売春をする自己正当化を聖書の理屈によって行うわけで、さらに強烈なナルシシズムを放っています。これは、言葉は悪いですが、オナニスム的などと評されます。
もっとも、私は残念ながら、あまり、ジュネの作品を愛好できませんでした。彼の身勝手さを愛することができない限り、感動はできないでしょう。私はそのすべを見出すことができず、「怖い作家だなぁ」という思いを捨てきれませんでした。彼は愛の作家だと自分では思っているらしいが、私にはそう受け取れませんでした。愛という言葉をめぐって、私が想定することと、彼が想定することが、かけ離れているからです。もちろん文献などを読んで溝を埋めようとしたわけですが、根本的な感受性の問題で、溝は空いたままでした。カラヴァッジョも、彼なりに愛は描いているのでしょう。しかし、Ciapolpoさんは、到底その理屈に承服できない、というところなのかな、と想像したのです。私はカラヴァッジョは、まだ受け入れられます。というのも、あの粗暴さに、開き直りと潔さを感じ、そういう人もいますか、という距離を置けるのです。それに絵画ですから、そうそう長く観ないでもよいのですし。ジュネは嘔吐するかもしれません。もし、恐ろしげなものにご関心?があったら、『花のノートルダム』や『泥棒日記』などをお手にとってみてください。この「醜さ」の系統の極致を振り切っていると思います。
太宰治は……うーん。あれも強烈ですが、自らを聖人だとは考えないタイプだと私には思えます。人間失格でも、俺がいるから悪いんだ、俺がいるから、と言って、主人公は失踪するのです(「俺」がいなくなったせいで周囲がもっと不幸になるという発想はない)。聖人はこういう潔さは持っていません。私は天上に消え去るが、森羅万象に溶け込んで世界を見守っている、とか何とか。連綿と理屈をこねて、我はともにあると主張するのです。死にゆく人が発する言葉ならわかりますが、そうではなく、日常的な離別の一つについてなのですから、少々あきれます。私は聖人それ自体には敬意をもっていますが、聖人に自らをなぞらえる言動は、何につけても、醜いなと感じてしまうのでした。
もちろん、Ciapolpoさんがお手すきなら、詳しくお話しを聞かせてください。様々な感受性をめぐって、私の勉強になりますから。繊細な配慮ができるかわかりませんが、もちろん、ご意見は尊重したいと考えています。しかし、あくまでこのスレッドは楽しみのためです。過剰なご負担になるなら、捨て置いてください。
No.17
- 回答日時:
拙文にいつも丁寧なお礼をくださり感謝しております。
ダンディについては、なぜかココ・シャネルが真っ先に浮かんだのですよ。
付き合っていた当時の男性達の美意識に直接感化されたのは言わずもがな、時代背景として幸運にも機能美が高く評価されたものの、特質すべきは現代に通ずるやはり彼女の好んで用いた黒い色調ではないでしょうか。
それは彼女の修道院育ちによって少なからず培われた潔い美意識であり、裏返せばそれは、自身の生い立ちの《分を弁え続ける》覚悟とも捉えることができます。
>日本の美術品にも、これくらいの配慮が欲しいな、とは思います。
はい、日本の古典作品というのは、恐らく作品の存在の存続などさほど念頭に置かれていなかったのではないでしょうか。
むしろ儚くうつろいそして滅ぶことを自明としていたと思われます。
絵巻物以上に屏風絵など幾多が消失したことでしょう。
それでなくとも、そもそもの保管や一般展示が容易ではないのですよね。
そういった鷹揚である意味無頓着な日本古来の観点は、何だか、先の日本の作品における非対称の美意識にも通じているように感じられます。
それは西洋に見出せる対称を忠実に描いた作品の陰画として描かれていった非対称性とは異なるものだったと察せられます。
京都の繁華街のど真ん中に小さな美術館があるのですが、その最上階の一部が吹き抜けで空が一部垣間見える和の空間となっています。
雨上がりの際に床の間や畳の上に観る作品はなかなかのものです。
仰っていらしたように、月明かりの下で鑑賞できたら言うことないでしょうね、きっと。
あるいは、バーゼルのベイラー財団のモネの作品から目をうつせば蓮池が望めます。
静謐で贅沢な空間を演出可能としているのは、やはり作品に対する愛情が不可欠なのかもしれませんね。
日本の場合、ことに自国の古典作品に対する国を挙げての自助努力がいまだに求められてしかるべきかと思えて仕方がありません。
ところで「装飾芸術」という言葉にデゼッサントの「さかしま」を想起したのですが、このタイトルはなかなかのものだとは思いませんか。
>ダンディについては、なぜかココ・シャネルが真っ先に浮かんだのですよ。
早々に質問を締めましたが、これは私の早計だったようです。というのも、シャネルの名前を想起しただけで、視点が広がったのですから。恥ずかしながら、私はボードレールの「女はダンディとは程遠い〈生き物〉である」という台詞が念頭にあって視野狭窄に陥り、ついぞ、思い到りませんでした。確かに、不利を認識している者であればある程、ダンディという戦略に打って出ますね。
・貴族に比べてお金の無いブルジョワ、
・差別されている女性、
・学歴の無い建築家(若き安藤忠雄)、
など。ここに私は、現代的な不遇にある人間らを加えてみたいとは思ったのです。というのも、そうすることによって、敗けを覚悟した人間に、美が某かの生活の張りを心に与えられますから。もちろん、偉そうに議論を仕切る立場に身を置いている他ならぬ私自身、やはり上にあるものを感じ、そことのやりとりで何かの処世術の必要を感じているのですけれど。粋はよろしいが、これは上の者が下に接する時の処世術と思えます。もしマシュマロさんが、この者のダンディに心を斬られた、とお感じの出来事があったら、一つ披露してくださいませんか。
>むしろ儚くうつろいそして滅ぶことを自明としていたと思われます。
これもこれで、芸術家にしてみれば、潔さであり、ダンディズムなのかもしれません。「芸術には寿命があって、あたしの作品はもうダメだな」とおっしゃる方の方が、「私の傑作は何千年も生き残る」と豪語する方よりは、私は魅力的だなと思います。が、後の世代にしてみたら、惜しいことに違いありません。
>そういった鷹揚である意味無頓着な日本古来の観点は、何だか、先の日本の作品における非対称の美意識にも通じているように感じられます。
本当に、私もそう思いますよ。さすがに庭師のご経験を踏まえた質問と言うだけあって、よい質問だと私は感服したものでした。やはり経験が裏打ちしている問いは、重みがあってよいなと思います。
>静謐で贅沢な空間を演出可能としているのは、やはり作品に対する愛情が不可欠なのかもしれませんね。
これはお金が無尽蔵にかかりますものね。しかし、案外、フランスでも、自国以外の文化はあまり盛大に保存しません。ギュメ美術館などありますが、ちょっとがっかりするくらいの大きさでしたもの。日本も予算の配分を、日本美術にもっと回すべきだ、と私は思います(もちろん西洋美術も好きですが)。
>ところで「装飾芸術」という言葉にデゼッサントの「さかしま」を想起したのですが、このタイトルはなかなかのものだとは思いませんか。
そうですね。時代の潮流を見据えて、逆流させたという意味で、reboursとみなせるのですから。しかし象徴主義を、「ヘーゲル的な象徴段階への意識的な退行」などと言おうものなら、第一人者に大目玉を食らうのが、現状ではあります。私は非常によく似ていると思うんですがねぇ。もちろん、symboleという語に与えた定義は、時代や人で様々あって、ナイーヴに重ね合わせたら、文献学的に間違いが生じてしまうのでしょうけれど。
No.15
- 回答日時:
★(趣旨説明欄) (1) もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。
☆ もし趣旨説明に挙げられているような人すなわち
★(同上) そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。
☆ と規定されるような人にとっては 《美と醜》の定義や区別はあるはずがありません。
見るもの・聞くものすべてが ――たしかに知覚としては――見にくかったり美しかったりで過ぎ去るのであり それらのモノコトに意義を見い出したり思いを寄せたりすることはなく ただただ世間のクウキに応じて勝ち馬に乗る これだけをもっぱら思っていることでしょう。
★(同上) (2) 醜さとは何かを定義する。
☆ もしそれでも むしろそのようなシッチャカメッチャカの美学についても 定義の問題を真剣に考えるとするならば 案外ふつうにまともな答えも見つかるかも分かりません。
こうです。
見にくさは――けっきょく うつくしさと同じように―― 人に
よってその事例も定義もちがう。
しかも同じひとりの人にとっても 年代によってあるいはその
ときの内面的な状態や外側の情況などなどによって 感覚的な受
け取り方がちがって来るという定義になる。
しかもしかも 同一人が同じひとつの作品に向き合うというと
きにも ときと場合によって 美醜の判定が転覆することさえあ
るがごとく 定義も実感もちがうものである。
言いかえると さきほどのシッチャカメッチャカ氏は このような必ずしもその内容が定まるものではない定義や実態を逆手に取って いいように《臨機応変に》ふるまっている。こういうことではないか。
★(同上) (3) その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。
☆ 以上の答えによるならば この問いは 無用になります。何でもありの序列となることでしょう。
*
★(同上)( a ) 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。
★(同上)( b ) ~~~~~
ただし、多くの人の場合どうするか。・・・ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。・・・
しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。
~~~~~~~~~~~
☆ この( a )と( b )とは 矛盾しています。《スノッブ》なら 《知恵をお持ちでない》とは思われないからです。知恵を持たないなら スノッブとは言わない。
*
★★(No.10お礼欄)( c ) ・・・というのも、これはあなた(=No.10の回答者)のことではなく、他の投稿者とのやりとりで生まれた言葉だからです。あなたには何の関係もないことです。
◆(回答No.13)( d ) はからずもひとつの同心円の事象として、わたしも皆さんもその事象に巻き込まれているのを認めなければならないでしょう。
★★(同上お礼欄)( e ) ~~~~~
> [ファンタスマゴリーの抽出]の仕種が、いかに現実の様相と乖離しているかに気付く手立てがない、というところが、ネットにおける仮想人類との結婚の罠ではないでしょうか(※抜粋のために統辞を少し変えました)。
ネットの場合、結局、独り相撲をとっているということにもなりますからね。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ( c )と( e )とは質問者の発言であり おおむね同じ内容を示しています。つまりは 質問が取り上げる事例は No.10の回答者のことではないという旨です。
ただし ( d )は どうでしょう? ひとつの解釈が( c )や( e )のようになるのは自由でしょうが それだけで済ませるか? 検討の余地はありましょう。《ファンタスマゴリ》の演出者は誰か? という問いです。
*
★(趣旨説明欄) ~~~~
私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。
が、逆転の発想があることに気付きました。
~~~~~~~~~~~~~
☆ この《逆の発想》に水を差すような回答になってしまいましたが 以上が妥当な考え方になろうかと思います。
美の乞食云々が、まぁ言ってみれば、あなたも含むのだから、話をしろということですか。特にあなたを攻撃しているのじゃないが、あなたがそのone of themとして関心をもつ権利は有している、と。
No.14
- 回答日時:
仁科ですおやすみなさい
1)醜いものは自分。心。それを映す鏡や他者や下手な文。
2)他者に醜さを感じる理由は投影。自己に醜さを感じるのも投影。同族嫌悪。醜悪は無自覚な偽の善良さ。不調和さ。下手さ。無反省さ。低劣な心の維持と表現と影響。
3)その例は病んだ人。気が触れている福島県知事。復興したがる原発ムラ。似た者同士否むばか。ばかな自分。自分は完全には正しくないという自覚のなさ、自覚なき偽善、反省も本音交換もない環境、テレビ局と視聴者、感情と理性が未分化な大人、自分や自分たちはきっと普通に善良なはずという前提で平気に無責任に暮らす人々、大人で善良気取りなのは醜いしずるい、と、自らもよい子病の大人である私が思い、自分を善良だと見なしたい、すなわち醜さとは一一同族嫌悪。すなわち一一反面教師。すなわち一一鏡。現状や可能性としての自己の醜悪を映す鏡。ネット依存者とか未婚の男性とかばかとか
醜さに序列をつけるなら、しょせん同族嫌悪にすぎない、ということへの自覚がないことが最も醜く、しょせん仲間だなんて思うのも暗いですが、無知や醜さや冴えなさや下手さの自覚が本人から醜さを取り除く契機になりえ、同じ穴のむじな同士で偉さ正しさ比べあい嫌いあい敵対すれば調和は乱れ気分悪く離間の企ても忍びこみやすく、心を修め自覚の深化に従えば悪感情は減り寛容にもなりえ、譲れないところでは反面教師にもしあい、自己嫌悪にも陥りつつ、同族への敵意が減れば平和だし、減らないなら自他の醜悪さに怯え引きこもれば平和でつまらない美としての調和に近づき、醜かったり醜くなりえたりする自覚に基づいて自己を改めれば、より醜さを免れうるはずで、多少は美に足をつっこみ醜悪への契機を忘れなければ、自己調律が暮らしのなかで示され、うまくゆけばコピーされ派生していくかも精神性における美化、なんか胡散臭く
自分だけ美しいとか自分がいちばん醜いとか思う場合、対象愛がなく、自分だけ美しくて他はより醜いとするのはナルシシズムで、人への愛が少ない父親環境で育ったのか気質か、対象愛もなく自己愛すらもないとなんにも愛せないので朽ちます。
私はかろうじて自己愛だけはようやくある二次ナルシシズム段階で足踏みしてるらしく、対象愛が内発しないので自己にまつわることにのみ頭や心や言葉や性器が内発し、それらで自分をつっついて感じて悦に浸ったり悲しんでみたりしてばかりいますが
ちゃんと心や社交力が発達し、十分な自己愛とともに対象愛をも獲得した人が、もし他人のナルシシズムを醜いと感じるとしたら、その理由は、自らも退行して二次だか一次だかのナルシシズムに陥る可能性があるからだと思います。気をつけないと、または気をつけても、自分もついついやがてそうなるという危惧、例えば他人への愛を失いけちになるかも、自意識過剰になるかも、調和しない物を拵えるかも、ふさわしくない方法を採用してしまうかも、低機能に陥るかも、ネットで不毛な幻を追いかけつづけることになるかも、など、そうなるような自分かも知れないという自戒に根ざした嫌悪感。緊張感。かったるさ。自分への警鐘。それが一一醜さ。
醜いものの例示
いつまでも未婚の男性(可能性としての自分)。
ポエムラインのない言葉。ポエムラインとは詩人でもある吉本隆明のいう自己表出。自己の琴線の根っこから湧く本音の通り道。ポエムライン外から出される言葉は白々しく醜く、テレビなどでほぼ全ての人が他人の書いた原稿どおりに発語している、その言葉は私のようにすかすかで、無責任で醜い。しかも無責任であることを自覚していなかったりする。人としての仕事を曲がりなりにもか純粋に善良にしおおせていると思っている。
現福島県知事。SPEEDI予測を隠し、民を囲い込み放射線被曝の検体にしつづけている、彼にはリコールより精神鑑定が必要に思う。無自覚そうだし。キチガイという点で投影・嫌悪・憎悪の対象。
雑談)とりあえず、ひかりのくに……っていうブログがありまして、熟女が好きな私は、熟女から三回くらい言及され、単純な幸せを感じながら、Webの向こうに高機能な美熟女を勝手に思い描いては醜い心をあたためてこれから眠るのですが、サイコロさんも言及されてました。ちっともあたたかくない言及のされかたでした。人の素敵さをなるべく信じたいあほな私にはよく分かりませんが、わりとせまいようなネットの一端が少しわかると思います。あとあんまり関係ないみたいですが、おじさんは単著ばかりでなく立派なしがらみ多いちゃんとした作家さんらしいです意外です。
仁科さん、こんにちは。お仕事、どうですか。おや、雨合羽さんの投稿を読んでお礼をかきこんだ後ですが、何だか似ていますね。結局、自己の幻影にどう向き合うか、が問題なのですから。
原発問題が、ただでさえ追い詰まっていた仁科さんに、さらに拍車をかけた、という近況報告があるように思えました。囲い込んで実験サンプルとは。福島県知事はなんて悪い奴なんだろう、と私が言っても、あまり面白くありますまい。原発の現場の方の視点の持ち方について、私はどうコメントしたら配慮があるのか、あまり考えがありません。
しかし、おそらく、仁科さんはステップアップすれば、「ダンディ」になれることでしょう。常に自分を監視し、正常なナルシシズムを破壊するくらいに自己を嫌悪するということなのですから。よくいえば、自分を客観的に捉えられる。だが、悪く言えば、自分のことを他人事のように見てしまう。自分を人形のように巧みに操ってみたら、面白いでしょうに。
>とりあえず、ひかりのくに……っていうブログがありまして、
ははは。ノーコメント。他人が私について作り上げた幻影に興味はありませんから。何かやっていれば、他人があれこれ言うのは当然のことです。私のこうした態度もある意味、KYなのかな。さて、ここでいう醜さとは、
――無自覚なまま、他人にオナニーを見せつけること。
No.13
- 回答日時:
[題目の実証的で現実的な部分に急いで入りたい]であろうサイコロさんに、具体例を申し上げようと思いますが、はからずもひとつの同心円の事象として、わたしも皆さんもその事象に巻き込まれているのを認めなければならないでしょう。
かつてモデルニテにふさわしい早技は、素描、版画、印刷であることをボードレールの慧眼は指摘しましたが、さらにそこに写真が加わったのは間もない頃で、さらに100年のちには先の3点が零れ落ちてインターネットが加わることになりました。
わたしたちはインターネット時代のコンスタン・ギースを見据えながら、現代の現代性の美を求めることもできるのですが、しかし150年前のギースの目の前に広がったのは夥しい人間の生の営みの姿でした。したがって、空間と時間の具体的な側面に還元された人間の美について発見することは、批評家にとっても芸術家にとっても挿絵画家にとっても愉快であったでしょう。しかし今日のギースの目の前に広がるのは、空間と時間のあやに彷徨い込んだ人間の脳髄の他律的営みです。わたしが挙げる醜さの例とはこれです。
そこに[湯浴みする]人間についてはすでに語られていました。
いわく彼は[永遠に恢復期の人]であり、ボードレールはさらに幼児になぞらえます。[霊感は充血と何らかの関係がある]とは鋭い指摘です。パソコンの見過ぎと仮想的対象への対峙の習慣は、脳神経に奇妙な磨きと負担をかけ続けるでしょう。ついでに言えば、ダンディズムの対極へ向かっているとの教えもあります。[飽くことを知らぬ情熱、見ることと感じることの情熱に支配されているギ氏は、ダンディズムからかけ離れること激しいものがある]。このボードレールのいうダンディとは[飽いて無感覚になった男、あるいは身分制特有の打算と方針からその振りをしている男]ですが、まさに金持ち喧嘩せず、そのことなかれ的日和見でさえない冷やかな無関心の装いによって、いまインターネットの社交界の礼儀作法となっているものにほかなりません。しかしギースは脳神経に磨きがかかっていますからそのようには振る舞わない。[彼は滑稽におちいらずに誠実であるという、かほどに困難な術を体得している]とポードレールは褒め上げます。
[彼の情熱と彼の職務、それは群衆と(潜在的なネット住人である人類の仮想と)結婚することだ]。群衆は実体でした。新聞や出版物の読者は、国境を超えていましたが、まだ経済と地域社会と地域的慣習によって人間のくびきに繋がれていました。潜在的なネット住人の人類とは仮想です。これは奇妙な罠のようです。[世界を見ながら、世界の中心にいながら、世界に対して身を隠したままでいる]とギースを評した批評家は150年前に言いました。そしてその精神について、[飽くことなく非我を求める自我であって、この自我は、各瞬間ごとに、非我を、いつも不安定でうつろい易い生そのものより一段と生気ある影像イマージュにして、再現し、表現する]と読み解きました。
「群衆(ネット)のさなかにいて退屈するような人間は、馬鹿だ!馬鹿だ!私はそんな人間を軽蔑する!」
[まるで影像が自分から逃げて行くのを怖れているかのように、大急ぎで、いきおい激しく、活発に動き、一人でいながら喧嘩腰で、われとわが身を小突きまわしている]すなわちその仕種は[ファンタスマゴリーの抽出]の仕種なのですが、それがいかに現実の様相と乖離しているかに気付く手立てがない、というところが、ネットにおける仮想人類との結婚の罠ではないでしょうか。
ボードレールは役目を見抜きます。古典的審美眼にとらわれた常識人たちの軽蔑を被ることにはなっても、[誰か世界人が特に果たすべきものであった一つの機能を、進んで果たしたのだ」と。いまやこの湯浴みする機能は、才能や運や僥倖がなくとも容易に手に入るものになりました。醜さの序列については、ファンタスマゴリーの激しさと精神の迷妄の深さに現れ、ひとえに鑑賞眼によって決められてゆくでしょう。
雨合羽さん、どうもありがとうございます。見事なご投稿ですね。でも、かなり前提が多いお話の仕方になりそうです。他の閲覧者の方には、許してもらう他ないかな、と思っていますが。
>しかし今日のギースの目の前に広がるのは、空間と時間のあやに彷徨い込んだ人間の脳髄の他律的営みです。わたしが挙げる醜さの例とはこれです。
脳髄の他律的営み、ですか。ここがちょっとよくわかりません。ヴァーチャルな世界が脳裏に広がる。それが他律的である。うーん。「記憶の芸術」の項目になりますが、ギースの場合は、記憶してきた情報に責めさいなまれながら、それを自らの意思で制御しようと格闘するのでしたね。ギースのようになれなかった、「現代生活の画家」こそ醜い、ということでよろしいでしょうか?
結局、ギースは何をしたのか。あるいは、ギースは何をしたとボードレールは信じていたのか。これは現代を描きながら、そこに古典古代の美を見出したことにあると思います。ボードレールは常にレアリスム支持ではなく、描く対象を理想化するという古典主義の意義を認めていました。現代という古典と無縁な世界を描きながら、情報を自律的に操作し、古典風の美を自在に引き出したところに、ギースの功績があると言っていると思えます。
さて、現代の群衆がネットにいるというのは、その通りだと思います。匿名であり、いつ会うのかもわからない。どこかでちらほら、政治的な声も上がる。「危険な階級」という話しも出る。ネットに犯罪の予告が出たりする世の中です。ネットにこそ群衆がいます。おそらく、OKWaveは、それでも上品なところなのでしょう。ネットにおけるギースとなると、雨合羽さんもまた、そうですね。また私から見れば、猪突先生などは「現代生活の画家」だなと思います。何にでも楽しみを見出してらっしゃったから。リトルキスさんも、そうだな、と思います。私は案外、文句ばかり言っていますし、投稿する箇所をかなり選んでいます。たぶん、遊歩の才能はありません。しかし、単なる比喩として以上に、さらに「現代生活の画家」で示されたテーゼと言うべきものと、ネットのフラヌールが重なり合うのか。焦点は次でしょうか。
> [ファンタスマゴリーの抽出]の仕種が、いかに現実の様相と乖離しているかに気付く手立てがない、というところが、ネットにおける仮想人類との結婚の罠ではないでしょうか(※抜粋のために統辞を少し変えました)。
ネットの場合、結局、独り相撲をとっているということにもなりますからね。自分の心の暗闇に浮かびあがった相手の虚像が現実かどうか、わからない。その妄想を制御できてこそ、古典的にも、面会して話す人間関係と同じ快楽を引き出せるということでしょうね。すると、ここでいう醜さとは、
――イドラに踊らされること。
No.12
- 回答日時:
こんばんは、iacta-alea-est2さん。
醜さとは、――面(つら)である。
【QNo.3903311もし記憶を参照しなかったら】No.27
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3903311.html
カフェ
それは…
悪魔のように黒く
地獄のように熱く
天使のように清く
愛のように甘い
汝の名は コーヒー
シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
「にらめっこしましょ わらうとまけよ あっぷっぷ」
あ、あ
し
ー
こんにちは。ここにもありがとう。
・記憶
・コーヒー
・睨めっこ
最後の二つは、なんとなくわかった。でも三つだと高度すぎる(笑)。リトルキスさんは、コレスポンダンスの詩人の末裔だと認めますよ。つまり様々な要素を並べ、融合反応を起こすのでしょう。
タレーランの言葉、もちろん知っていたけれど、天使のように清く、愛のように甘いって、どうやって彼は飲んだのだろう、と思ってみたりします。きっと、砂糖をかなり入れたんだな。だってフランスのコーヒーって、普通に注文したら、すべてエスプレッソだもの。日本でいうフツーのコーヒーが飲みたければ、カフェ・アロンジェって言わないとならないの。
No.11
- 回答日時:
こんばんは、iacta-alea-est2さん。
美の巨人の対極が美の乞食だとした場合…
醜さとは何か?
セブンの映画をひとつ思い浮かべて…
キリスト教の「七つの大罪」をモチーフ
そのなかにあるひとつの罪Gluttony グラトニー 大食
痩せ細ったであろう美の乞食から美の巨人をみれば罪ある者と
目に映ることだろう。「醜い」と。
しかしながら、それはいわば美の乞食自身がもっとも忌み嫌う
「七つの大罪」のうちのひとつの罪Envy エンヴィー 嫉妬
を、美の乞食自身もまた罪を犯していることとなる。
互いに反発しあいながらも惹かれ合う共通項に美を見出すことはできないだろうか?
美とは何か?
リトルキスさん、こんばんは。たとえばボードレールの散文詩に「貧しき者らの視線」というものがあります。ここで貧者が、豪華なカフェにいるカップルを眺めている。女は貧者が醜いと思う。すると男は女の冷たさを醜いと思う。醜さは一度始まると連鎖するものです。醜さとは、
――諍いである。
No.10
- 回答日時:
質問の趣旨においてとうてい認めることのできない事柄が書いてあり 回答する筋ではないにもかかわらず ほかの回答者とのやり取りが積み重ねられ すでに或る種のデ・ファクト・スタンダードを成すとすれば そこにおける火の粉を振り払わずばならなくなる。
★ ――周囲を殺して、自分が目立とうとすること。
☆ 殺されるべき中身しかない者から見れば 殺している相手は それは目立とうとしてやっているのだと見えましょう。
★ ――他を見下すための自己顕示。
☆ 同じことでしょうが 見下ろされた者でも自己顕示しているわけです。
ということは 《殺された中身 あるいは 見下ろされた中身》 これらを問わずしていったい何を言おうとするのか?
★ ――実存は本質に先立つ、と開き直ること。
☆ これは 長い議論が要ることと それ自体は 中立の内容でしかないだろうこととで 保留してよい。
★ ――作品に注ぐ愛情の欠如。
☆ こんなことは ほぼ人の動機を根掘り葉掘りして詮索することにひとしい。無駄であり それは対話には無理。
★ ――ナルシシズムに耽溺すること。
☆ これも そう規定したところでやっと議論が始まるというたぐいの議論。自分がもっともかわいいというのでない人間は わが子に対する母親くらいを除いて いなかろう。
★ ――他人を不毛さに巻きこむこと。
☆ 巻き込まれるほうが わるい。
★ ――飢えた虚栄心。
☆ ?
★ ――初々しさ、未成熟は醜さである。
☆ ?
>そこにおける火の粉を振り払わずばならなくなる。
お気の毒に。身に覚えがありましたか。それは誰しも、一つくらい身に覚えがあることでしょう。私もありますよ。しかし、
>これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。
と質問文でしておいたのですが。
実際、あなたの名前は出ていないし、関係のないことを書いてると思います。最後の二つに「?」ってありますが、あなたと関係ない事柄だから、「何の関係あるのか意味不明」ということで、「?」なのでしょう。最初から関係ないから、そりゃそうですよ。
私の方に、醜さの定義としたものについて、あなたと特に話す気はありません。というのも、これはあなたのことではなく、他の投稿者とのやりとりで生まれた言葉だからです。あなたには何の関係もないことです。
No.9
- 回答日時:
#7&#8です。
賽は投げられちゃった二世さん、有難うございます。
恥ずかしいことに、アッシは、この年になるまで、ダンディー=粋人、かと誤解しておりました。
今後の人生において、私をダンディー呼ばわりする奴が出現したら、ハッキリと抗議しようと思います。
どうも、ありがとうございました。
P.S.賽は投げられちゃった二世さんの原質問を読んでおりますと、日本語の文字や語彙を使いながら、なにか西欧の文章を読んでいるよな錯覚を覚えます。これは確信犯ですか?
ありがとうございます。今回の日本語は、確信犯です。おどろおどろしい感覚を演出できるかな、と思いまして、わざと、です。散文詩など、こういうものが多いですね。私は最近、ユーモアに惹かれています。同じ内容をいうのでも、少しおふざけをすると、人生楽しくなるな、と。本当はもっとコンパクトに問いは書けたと思いますよ。しかし、それをしませんでした。
九鬼周造の著作をチラッと読み返しましたが、やはり粋は、日本独特の美意識だそうですよ。西欧を見て回って、粋があまり理解されないことを認識したんでしょうね。何しろ西欧は階級闘争の国ですからねぇ。生存をかけて、やれることは、何でもやって当然くらいなのでしょう。仮にそれが美についてであっても。私は嘘はついていませんが、しかし普通に日本語で「ダンディ」という時は、「渋くてカッコいい」くらいの意味でしょうから、どうぞファンの方々を放っておいて差し上げて下さい。蘊蓄を語ると、時に、粋ではなくなるってこともあるでしょう。
日本にも生存闘争的な「ダンディ」を目指さんとする方は、増えていますね。ちょっと面白いなと思ったので、ダンディについて、他の質問を増やしてみたところでした。
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