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 現実の《わたし》なる人格とは別に そんなものがあるのですか?

 わたしには 考えられません。まったく知りませんでした。(ちらっと耳にしたようには思いますが 堂々とそういう見方が あたかもジョウシキとなっているかのように話をされたところから 尋ねています)。

 そんなことを言うなら 電話しているときと 手紙を書いているときと 面と向かって話しているときとは それぞれ互いに人格が違うことになるのではありませんか?

 いったいどうなっているのでしょう?



 
 別の人格などは無いという立ち場で 納得の行くまで問い返しをおこなうことになると思いますが よろしくお願いいたします。

 質問者と同じく 無いという立ち場の方は 無いよと言って このようなことが話題ないし問題になるのは どういう事情なのかを ご存じでしたら おしえてください。

A 回答 (73件中11~20件)

根本的に、思考的背景が浅いところに2つの観念の対比(リアルとネットという対比)が生じているのが《ネット人格》という語彙を支える構造であるため、人格というテーマに混ぜ込むべき事項ではない、というのがわたしの投稿の主旨です。



つまりこの語が拡げうる議論は、論点を絞り出すところから始めなければならないでしょう。たとえば、ネットコミュニケーションでは大脳新皮質と眼窩前頭皮質が過度に働くであろう、そして、情報交換における報酬と快楽が意思決定や行動の動機となるはずである。このとき、他者とはどのように存在を規定されているか、しかし自己とは、旧皮質の情動的な階層を保って世界を認識しているがゆえに、情報が制限されるネットコミュニケーションにおいては、他者に対して自己に都合のよい情動性を投影することによって、新皮質および眼窩前頭皮質が満足するような共感の擬態を単独に創りあげようとするだろう。。。。

、、、たぶんまず伝えておくべきは、《ネット人格》という語彙が小中高生の、ううん、大学生の大方も変わらないけれども、こどもの語彙だとわたしが思っているということでしょうね。いわゆる学校裏サイト的な場所にふさわしい。といっても、こどもカルチャーも侮れないのが現代らしさで、言葉は独り歩きして、軽い符牒として大人が使うのにちょうどよい按配になっているのでしょう。その軽い符牒は、《リアル人格》というこれまた軽い符牒と1対なのですが、人格にリアルもマドリードもへったくれもないわけです。それらの符牒は本質的に人格を解析するための論理構造に支えられているのではなくて、本質的にネットを人間の存在論的ツールとして捉える(道具を使う人間の道具との関わりに焦点をあてる)論理構造に支えられているのでしょう。

返信いただいた内容は扱っていることがらが違うと感じましたので応答のかたちになりませんでしたが、こんなところで参考になれば。

***

先日わたしの質問に回答をくださったばかりのサイコロさんがおやめになったようで、サイトから自らを引き剥がす弾みがついて良かったねと申し上げますが、外国暮らしは寂しいですから、いつでもまた来てはいかがと添えます。
そういえば、ブラジュロンヌさんはわたしにお尋ねでしたね。ブラジュロンヌさんが超ド級の規約違反の私信で質問を立てたのがあんまりなので、お気を強くという回答を付けました。あのとき、『美の乞食に問う:醜さとは何か』は欠席裁判だと思うかどうかとお尋ねでしたね。

わたしが思うに、あの質問には、ブラジュロンヌさんのカリカチュアが質問の前提に混ぜられた可能性は伺われます。質問者本人にはそのつもりはないかもしれませんが、わたしは半ば無名のなかに半ばブラジュロンヌさんを思い浮かべました。見る人が勝手にあてはめるカリカチュアの本来の働きというわけです。カリカチュアであるとしてもボードレール風を模倣したスタイルによく嵌っており、スタイル演出の役割を果たしていると感じました。そして、導入部の枝葉末肢のことよりも質問の本筋が美学の問題として良質でした。実際、ブラジュロンヌさんのことを示した回答はありませんでしたね。
はっきり言って、あんな模写の芸当は20代を捧げたくらいの積み重ねで身に付いた成果のひとつであるはずなので、質問者はこんなところにはもったいないボードレール研究者だとわたしは思いました。

もう一度言いますが、回答群には、ブラジュロンヌさんに関するものがありません。暗黙にもです。
わたしの文章などは、指示語が先に立って、説明的術解を直後に置くようなことを平気でするので、(猪突さんはたぶんそれを面白がって褒めてくれていたように思うけれど)、もしや暗示があるのでは? などと思って読まれると思い込みに揺さぶられて脈絡の明晰さが損なわれかねません。読みにくいと思って飛ばして下さる方は問題ないのですが、長い伏線や脈絡を辿れず勝手な読み込みをする方がいちばん相性の悪い読み手です。
ブラジュロンヌさんがサイコロさんに対して書いていたのだったか、どこかでわたしの投稿の冒頭部分を引用しておられたのを見ましたので、そしてまさにそれが、指示語が先に立っている代物で、しかもボードレールの文を括弧付きで織り込んであるものでしたから、読み間違えてるなというのはわかったんですが、まあ、後の折にボードレール本文もご紹介したのでブラジュロンヌさんなら読み直せばわかるだろうと思ってそれきりに。以下の#13の回答ですね。ギースと言う人は、ゴシップ紙の挿絵画家で、ボードレールが論じた人物です。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7166906.html?pg=3

「同心円の事象....その事象に巻き込まれている」とは何を指しますか? 
答えは 「インターネット」、または「インターネット時代」です。数行後に書いてあります。

この際、黙って聞いていただきたいのですが、
折々、ブラジュロンヌさんは被害妄想と混乱と記憶の書き換えが涌き出る。と数名は思っていることと思います。
証拠になっていないものを証拠のように揚々と挙げてくるし。。。
これらを装って挑発の種にしているとみるひねくれた向きもあるやもしれませんが、装っても天然でもどっちでも同じです。

あと、あのボードレールの自訳というかスサノオ訳には、あまりこだわらないほうがよいと思います。
訳す心のスサノオをして訳した文もきわめてスサノオなので、訳した態度もスサノオでうっちゃるのが妥当というものです。

バイタ電波、は、チャネリング系のようで面白いと思いました。
わたしは、ブラジュロンヌさんをブロックしたことはありませんよ。されたことはありますが。
そろそろ桜もほころび始めました。よい春を。

この回答への補足

 まづは 言い落としました。すみません。

 春爛漫に向けて 毎日をすこやかにお過ごしくださいませ。




 ★ チャネリング
 ☆ って何ですか? 占いかなんかのたぐいですか?

 現実のことであると言うために さらに事例を出しておきます。

 繁華街を夕方あるくと 接客業のおねえさんたちが それと分かる姿で見かけられます。出勤ですね。
 交差点では 信号によって止まります。ちょっとした人ごみをつくります。そのとき やはり その種のデンパが来ます。
 いわゆる余裕としてのアソビだったら 放っておきますが 時には あたかもすでに意志をかたちづくるまでの勢いでその念力をも込めて 発射する場合もあります。ですから こちらは言います。《違法バイタ電波行為は やめなさい》と。

 バスの中などで見られる反応とは違ったものが返って来ます。どんなだと思いますか?
 ふつうは―― 一般の女性たちは―― 顔を背け目線をあちこちにやって 知らん顔をするのですが けっきょくホステスさん方は もうすでに《ええ 分かったの?》と言うかのように 一瞬の間ののちに まづ アハッと笑います。そして たいていはこちらを向いて さらにニコッとして アハッ アハッ アハハハハーと笑い続けます。その内 信号が青に変わると 隣りの女性らと談笑して去って行きます。

補足日時:2012/03/26 13:05
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この回答へのお礼

 《ネット人格》論は それほど大きく問題がこじれているとは見えないのですが?

 あまがっぱさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
 《赦し》論のほうで長い議論をしました。あとに回してすみませんと思うのですが そのあと 息抜きにほかの質問を見ていました。こんな回答が目につきました。
 
 ▼ ~~~
 お礼欄はお礼のためのものである。
 考えが異なったり、間違っていると思えたとしても、ただスルーするようにと、ここのガイドラインに書かれています。
 ~~~~
 ☆ 例によってなのでしょうが たぶんそれだと哲学カテの意味がなくなりましょう。




 かえって別件から入りましょうか。
 ☆☆(No.64お礼欄) うやむやで済ますことを避ける そのことのみでしるします。
 ☆ この条件においてのみ触れただけでも 異議ありということのようです。
 欠席裁判か否かの判定については 次のふたつの文章から出来ると思われます。ちなみにわたしも投稿していますが 途中からブロックされたということです。その時点で欠席裁判が無条件に成り立ちました。

 ▲ (【Q:美の乞食に問う:醜さとは何か?】趣旨説明欄) ~~~
 美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。
 
 ☆☆(【Q:《いきほひ》の美は 縄文人の火焔型土器が原点か?】趣旨説明欄)~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7168385.html
 (β) 《次の作品は 果たしてうつくしいか?》 

   ( a ) 尾形光琳      紅白梅図
   ( b ) 大徳寺龍源院   枯山水(方丈前の石庭)

 ( a )は初め ひょうたんのお化けかと思いました。
 右側に描かれている紅梅は みごとにその枝っぷりをしめしていると感じましたが 左の白梅は 今度もやはり何かのお化けがうらめしやぁとさぞ言っているかに見えます。
 色合いだとかについて 実際に見てみるなら また違った感想を持つのかも分かりませんが 第一印象は そんなふうです。美とは感じません。
 けばいとも感じられる金色は ぎゃくにあざやかだとも感じられますが。それは 洗練されたアマテラス人格語の成熟度を表わしましょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 あまがっぱさん。さらにご見解を吟味しつつ思ったことですが もうこれ以上は不毛です。《触れているか》どうか これだけで話は決まりましょう。その質問者が すべての発言をウソで固めているという反面の事実にもよります。その人間が
 ★ ~~~
 「同心円の事象....その事象に巻き込まれている」とは何を指しますか? 
 答えは 「インターネット」、または「インターネット時代」です。数行後に書いてあります。
 ~~~~~~
 ☆ というとき あまがっぱさんの心つもりとは別に わたしの文章もその同心円に入るとわざわざ言っているのですから。(そのお礼欄) 
 そして《特定の人とは関係ありません》とことわったから 関係ないということにはなりません。
 こんなところでしょう。

 ボドゥレールの翻訳は わたしのそれの問題ではありません。からみましたが 問題はそれとは別に成り立ちます。


   *

 ネット人格は 《人格》と規定するのが間違いだということで おおむねみなさんが納得していると思います。せいぜいが 性格だとか人物像だとかキャラだとか そういった部分人格であると。

 前回は リアル人格との対比に重きが置かれていました。今回は たしかに《ネット人格》じたいの内実を分析しておられます。詳しくなると思いますが 結論が変わらないだけではなく その理由についても 同じ筋道に見い出される内容だと見られます。

 ★ 本質的にネットを人間の存在論的ツールとして捉える(道具を使う人間の道具との関わりに焦点をあてる)論理構造に支えられているのでしょう。
 ☆ ちょっとワルを演じたいのなら 旅の恥はかき捨てといったように《旅》の事例を ネット世界に喩え得るものとして出しました。実生活ではほんとうのことを言えないから言いたいというための表現の場としてなら 旧いですが《目安箱》の事例を出しました。
 このように日常生活のほかにそのひとつの側面として 生活の道具であるような事例を出して ネット世界と同じようではないかとたずねました。

 特に問題も見落としもないと思うのですが。


    *

 ★ ~~~~
 わたしの文章などは、指示語が先に立って、説明的術解を直後に置くようなことを平気でするので、(猪突さんはたぶんそれを面白がって褒めてくれていたように思うけれど)、もしや暗示があるのでは? などと思って読まれると思い込みに揺さぶられて脈絡の明晰さが損なわれかねません。読みにくいと思って飛ばして下さる方は問題ないのですが、長い伏線や脈絡を辿れず勝手な読み込みをする方がいちばん相性の悪い読み手です。
 ~~~~
 ☆ このあたりがなお気になりましたが そしてあとでヒラメキを得て考え直すことになるかも知れませんが いまでは このように思います。すなわち つねに・そしてどこまでも尋ね返せばよいと。問いと答え この繰り返しであると。


 こんなところです。

お礼日時:2012/03/26 12:20

>《ネット人格》なんて 別の人格があるのですか?



これは対比的な概念であることに意味が有るわけです。
《ネットでないリアル人格》を何処に想定しているかというと、
学校、近所づきあい、職場など特定の場で固定的な人間関係が成立している状況を考えるものです。
そうした場所で、相互監視的に人物像の印象を他者が見定め合うと同時に、
自己が自己の属性と認めることによってアイデンティティを保持しているその属性の本質的な基底材である周囲のもろもろの条件が、自らにも人物像を写像させていますが、
しかしながら、とりわけ、学校や近所づきあいでは、それが短絡的に行われるのですね。
条件となる要素が少ないために、属性の出方が少ない。
集団の都合上、全体項を満たす条件が希薄であるために、複雑な情報は人物像に反映しない。
そのようなレベルで、せいぜい《リアル人格》が見做し価格のようにその学校集団などにおいて機能するのです。
すでにこの一枚岩的な人格の印象創出からして、集団の構造的かつ内的要請によるのですが、
やはり今日の学校集団や、住宅地のつきあいの構造的問題は杞憂の種ですね。
「自分ってこういうヒトだから」「ポジション」「キャラ」などにも同種の問題が潜みますが、
こうした状況依存的で薄く簡素な抽出にすぎない《リアル人格》が念頭にあったうえで対比的な《ネット人格》という言葉があり、普段の印象や態度や様子からは想像もつかないといった程度の意味で、人格というテーマそのものに拡げるような視座はこの際必要ないでしょう。

この回答への補足

 あまがっぱさん。変な言い分ですけれど よかったら いつでも お相手しますよ。
 
 課題ごとにわたしの見解を示してまいります。

 モニターみたいになるのかも知れませんし。




 ふと そういうことが思い浮かんだものですから 感覚人間のままに しるします。

補足日時:2012/04/03 20:11
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この回答へのお礼

 なるほどと まづは分かったようになったのですが そこからまたあらためて考えて行こうと思い直すわけですが まづは あまがっぱさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 昔――江戸時代でしょうか―― 《目安箱》という自由な投書をゆるす制度がありましたね。身分制の雁字搦めの中にあっても少しでも自由の空気を吸いたい 吸わせてやろうということだったのでしょうか。
 現代において《リアル人格》の生活はすでに身分制による制約があるわけではなく 《ネット人格》の行動はすでに単なる投書ではなく双方向のやり取りを自由にこなせるわけのものになっています。いますが そうなのですが 或る種の仕方でこの《目安箱》の制度を思い浮かべました。

 そうなりますと――もしそのような視野で捉えてよいとしますと―― 人はたとえば ときどきは旅に出ます。これも 《ネット人格》の一種なのでしょうね。 
 テレビでは 外国人のタレントを出します。これもネット人格の場に当たりましょうか。
 あるいはつまり 趣味をもってその時間を思う存分気の向くままゆったりと過ごす。
 うんぬんと言って 考えすすめて行くと 意外ともっと複雑なのではないか 日常生活は と思うようにもなりました。すなわちたとえば にゅうとらるさんの言葉によると
 ● (回答No.60) ~~~~
 「わたし」が

 紳士を演じるのも
 蓮っ葉を演じるのも
 ボクサーを演じるのも
 赤ん坊を演じるのも
 雄弁家を演じるのも
 アホを演じるのも

 「わたし」が
 (意思と責任をもって)
 している、
 というそれだけだろ。



 何も演じずに生きる、
 というのは
 できるんだろうか、
 おいらはオカンも演じるし
 仕事も演じる。
 ~~~~~~~~~
 ☆ というのが ふつう一般だとしますと 
 ★ 《ネットでないリアル人格》を何処に想定しているかというと、学校、近所づきあい、職場など特定の場で固定的な人間関係が成立している状況を考えるものです。
 ☆ なのですが この対比は それほどあざやかに区分されうる二つの世界だとも思われない部分もあることに気づく。のではないでしょうか?
 あるいはこうかも知れません。上の引用した見方にあるごとく 人はすでに生活日常の中でもいろんなキャラを演じていて 決して固定的な人格において生きているわけでもない。のではないか? です。
 ★ 固定的な人間関係
 ☆ は そうですけれど。つまり いくつかの側面を持った人格ではあるのですが 対面する人びとは 変わりつづけるというわけではない。いつも同じ顔を見ているのではあります。

 あるいはもっとその内実を見てみる必要がありましょうか。でも 初めに納得した気分になったあと どうも 居心地が落ち着かないのを しょうじきに申しますが 見い出しました。
 ★ ~~~
 そうした場所で、相互監視的に人物像の印象を他者が見定め合うと同時に、
 自己が自己の属性と認めることによってアイデンティティを保持しているその属性の本質的な基底材である周囲のもろもろの条件が、自らにも人物像を写像させていますが、
 しかしながら、とりわけ、学校や近所づきあいでは、それが短絡的に行われるのですね。
 ~~~~~
 ☆ 職場は どうなのでしょう? という問いは措いておいても どうなのでしょう?
 つまり
 ★ 人物像の印象を他者が見定め合うのは 相互監視的に
 ☆ だけか? 

 ★ 周囲のもろもろの条件が 自己の属性の基底材となる
 ☆ だけか? (属性の であれば そうかも知れません)。

 ★ 自己はその属性を属性と認めることによってアイデンティティを保持している
 ☆ だけか? 属性よりも重要なものが――それが何であるか分からないとしても―― あるのではないか?

 ★ ~~~
 ・・・周囲のもろもろの条件が、自らにも人物像を写像させていますが、
 しかしながら、とりわけ、学校や近所づきあいでは、それが短絡的に行われるのですね。
 ~~~~~
 ☆ もし《短絡的》だと認識すれば おおかた その閉塞性は打破できるのではないでしょうか? 家族らのもっと親しい人とそのことを話すことによって その狭窄性は乗り越えられうるのでは?


 よって
 ★ ~~~
 「自分ってこういうヒトだから」「ポジション」「キャラ」などにも同種の問題が潜みますが、
 こうした状況依存的で薄く簡素な抽出にすぎない《リアル人格》が念頭にあったうえで
 ~~~~~ 
 ☆ という導出の仕方には まだ部分的に納得できないものがあると思い直したのですが 反動的すぎましょうか? 
 言いかえると リアル人格のほうが むしろもっとドロドロした部分もあるでしょうし幅が広いと思ったのですが いまふと またまた 思い直しが現われました。
 つまり いまや現代人は 物分かりが良すぎるようになって けんかはしないわ泥仕合は未然に賢くも防ぐわでほんとうに《状況依存的で薄く簡素な人格として日常を生きている》というのが 実態でしょうか?



 すみません。途中で大幅に転調しつつあります。
 でも このままを決定稿にしたいかたちで 書き継ぎますが というのも最後にあまがっぱさんのご見解によると 《人格》の問題でも じつは ないのだと言っておられるからです。
 ★ ~~~~~
 こうした状況依存的で薄く簡素な抽出にすぎない《リアル人格》が念頭にあったうえで対比的な《ネット人格》という言葉があり、普段の印象や態度や様子からは想像もつかないといった程度の意味で、人格というテーマそのものに拡げるような視座はこの際必要ないでしょう。
 ~~~~~~~
 ☆ つまり これまでにも見て来たとおり ネット上での自己表現には リアル生活でのそれとは違った側面が現われることがあるといった特徴のことだと分かる。こういうことでしょうか。

 ● (No.7お礼欄=それまでのやり取りをまとめた結果として)~~~

  現実・・・・・・・・ネット世界
 _________________
 1.おとなしい・・・・粗暴になる
 2.嘘をつく・・・・・ほんとうのことを語る
 3.率直・・・・・・・率直
 __________________
 ~~~~~

 ☆ といった変化が見られるそうです。プラスにもマイナスにも変化を見せるということのようです。

 ううーん。話があっちこっちにブレてしまいましたが こういうことでいいんでしょうかね。

 あぁ ただし ぜふぃるすさんという例外がありました。かれの場合は リアル人格に匹敵するネット人格を リアル人格の総力を挙げて表現しうるように ネット上の自己表現において創り出して行くのだというご見解のようです。(そのときそう考えたことが いまあらためて捉えてみると これだと 違ってくるようにも思えます。つまりは けっきょくリアル人格がそのままその持てるチカラを十二分に発揮して行くのだと思えるようになりましたから。ふうむ。どうなのでしょうね)。

 あまがっぱさん ありがとうございました。



 あっ あまがっぱさん。欠席裁判に参加なさった件は まだ完全に消えたわけではありません。
 いちど むしろ欠席裁判を弾劾するために投稿参加をなさったかと思う一件があったのですが ボドゥレール関連で何とか言う写真家か誰かの事例を出されたときですが――つまり あとで削除されましたが 質問じたいに あまがっぱさんの名前を出して 呼びかけたことがあったその件ですが―― ただしその後 裁判のほうへ寄って行かれました。と記憶しています。
 今までそのことを出しませんでしたが この質問においてほかのみなさんに対してもその問題に一度は触れておくべきだと思っていましたし いま触れることになります。うやむやで済ますことを避ける そのことのみでしるします。

お礼日時:2012/03/25 08:14

「美・サイレント」




季節が変わるたびごと
花を抱いて娘達は
着飾って街に出るわ

それを目で追うあなたは
私のことなど忘れて
横顔の向こうで誘っているのよ
んー 胸さわぎ

Be silent be silent be silent be silent

あなたの○○○○が欲しいのです
燃えてる × × × × が好きだから

女の私にここまで言わせて
じらすのは じらすのは
楽しいですか


【QNo4462818 吉本隆明の思想について】
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4462818.html
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仁科です、すみませんACのことよく知らないまま書いてたのばれました、3年に及ぶ研究なんかなくてウィキぺのACのページ読んで3分後くらいに書きましたすみません、3年間の閲覧を因にしたところにAC情報の縁があってbr-AC説いう果でした、でも他人からの指摘はできないものなのですね、自分だけをACと言えるくらいで


自分の問題ひとりで抱えるの苦手です
辛気くさく繊細ぶってすみませんでした
ごみくず書いたのはまたひどいことでした麻痺してます、麻痺とかゴミ人間とかもそういうある種の超越願望で

brさん絶対的超越的なところへピュッと派手に入るの気持ち良さそうですが信仰よくわかりませんけれど、相対的なのに対する絶対なら相対にたいして相対的に設けた世界で、そちらに超え出てている感じがするのはたんに相対的なことを看過するからですか、けちでな相対的ところを繊細におずおず巡るのも学者や生活者らしいことではないですか

僕もあほいう言葉使いますけど、哲学なら心理学でも認知とかなんや瞑想とかでもその胸中に湧く『あほ』いう思い『あほ』いう判断の中身を吟味するものと違いますか、こいつあほや頭おかしいで済ましたら哲学的にも怠慢やないですか
レクですか。brさんレクなけんかですか、人ごとが当人にとっての大事か中事か小事かくべつつきません、他人の心配してる場合ではありません仁科です

久々に仁科で書きこんだら部屋みるみる汚れました掃除洗濯ゴミだし後回しになりこれ哲カテ依存の弊害、またシャワー浴びながら体洗って、わざわざ存在を愛そうと意識しないとならないのもそもそも自己受容が暮らしに根付いてないからだなと思います

鳥さんはリトルキスさんで伝記にあたるよう鳥さんからお告げがあったきがして哲学伝記アダルトチルドレンで検索すると中島さんがACだと載ってました人間ぎらい自己批判のひとです

決めつけ思い込みにすがってないと人せかいあらゆる輪郭なんだか頼りない感じがします、自分の目ない幼弱です裸で踊れません、人格が交流の中で見いだされ認められるように、自分のACらしさも交流のおりおりにかいまみえる思い出の小窓なんだか悲しい

自己受容より先に外界受容をという順序が意外です、仕事依存や自己犠牲の原因みたいですが、信仰からですか、
対人社会よりまず自己や身の回りの掃除も大事です、ねんねです
劇的比喩や自由よくわかりません、自由は言葉使いの自由とかルール作りの自由のことですか

ネット人格は故人の本みたいにネットにある痕跡もで、メンターたりうる本や記述なら主体本人がなくなっても向き合って語り合えるそうですし、でもあほな僕は心についての助言もむりでした。この場合のあほな僕のあほは哲学や人倫にあるまじき怠慢つまり既存のレッテル(AC)を持ち出して風評も考慮せず全くの善意から他人にそれをただ貼って済まそうとした僕のあほのことです
だらだらすみません

この回答への補足

 ○ ビジネス

 これはまだ何も決まっていません。

補足日時:2012/03/23 22:35
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この回答へのお礼

 きしみさん ご回答をありがとうございます。

 ★ AC
 ☆ これは 確か二十年以上前にわたしは聞いたと思います。新聞記事だったかと思いますが たしかに《モラトリアム人間》のごとくで あたらしい視点があるかなとは思いましたが それ以上には進まなかったことだけはおぼえています。

 ★ 相対的なのに対する絶対なら相対にたいして相対的に設けた世界で、そちらに超え出てている感じがするのはたんに相対的なことを看過するからですか、けちでな相対的ところを繊細におずおず巡るのも学者や生活者らしいことではないですか
 ☆ そうですよ。相対世界を超えているということは 相対世界の中で相対世界について より一層自由を問い求めて行くということのほかではありません。
 
 ○ 和光同塵

 と言ったりします。《超然主義》は お呼びではないわけです。生活第一です。

 ★ あほ
 ☆ 意味がないという意味です。と定義していますよ。

 ★ レクですか。brさんレクなけんかですか
 ☆ レクリエーションのことだろうか? それは あのバカが言っていることだ。おれには関係ない。


 ★ 自己受容
 ☆ この言葉ははっきりしません。たとえば

 ○ 自分を愛するのと同じように 隣り人を愛しなさい。

 というときの《自己愛》は あんがい知らない人もいます。おのれの自由ゆえに まづ・もしくは同時に相手の自由をという順序でないと どうしても空回りすると思います。ただの観念としてのアマテラス語と規定しています。つまりは あたまで立っている。逆立ちしている。と。
 そして《受容》という場合は ぎゃくに《世界》を受け容れられるかという問いが先に来ると考えます。なぜなら 自己は 自己愛としてすでに およそ誰でも自然にそうするからです。

 ★ 鳥さんは・・・
 ☆ その人は コージンマルの人です。名をさえ聞きたくありません。
 ★★ けんか腰の人にたいしても 鳥の飛びっぷり凄いです、
 ☆ あぁ なるほど。それは 何でもあり思想ゆえでしょう。のっぺらぼう人生ゆえでしょう。いま A と言ったあと B と言う。それは 二つのことのあいだには 時間差があるから A と B とが矛盾していても いいのだという論理であるようです。つまり 自分の主張が ふたつの別のことでありうるという理屈です。

 ★ 決めつけ思い込みにすがってないと・・・思い出の小窓
 ☆ 先ほどの《観念だけの――お題目としての・恰好をつけるだけの――アマテラス普遍語》は つまりは訛っているという状態の言葉です。逆立ちしています。
 あるいは その観念は あんがい強固であるわけです。たとえば《バイタ》という言葉を使うのは はしたないという A 語観念。相手に《被ばくヤロウ》というのは 無条件に失礼だという道徳堅固なる A 語人間。《 AC 》なる規定を保持する A 語教信徒。
 これらの場合は 道徳や規範という四角い窓を自分の心の前にわざわざくっつけて世界を見ている。窓をとおしてしか見えないし 見ない。世間も空も 四角く見えるというわけです。
 ぢゃあもし

 ○ 決めつけや思い込みなどないのだという思い込みや決めつけをしたら どうなるか?

 どうなりましょうや?
 《わたしがわたしである》ために人びとは ややもすると 教養だ修行だ経験だと言って やたらいいものだと思ったら何でも自分の身につけようとする。反対である。要らないものをぜんぶ振り捨てて わたしがわたしである状態になる。のではなかったか。心の前に窓は要らない。アマテラス語単独分立の状態が いけません。

 ★ 自由
 ☆ とは おのれの欲するところをそのままおこなって みなの納得するおこないである場合を言います。
 その境地の人間になるのは じんるいの最後のひとりとしてだという生活態度です。
 ☆☆ 《わたし》が自由になるのは じんるい最後のひとりだという志向性と見通しのもとにです。
 ☆ 自分は しんがりだという意味です。ただし人びとの中には その人たち本人の要望に応じて もう見捨てたり放っておいたりする場合もあります。


 ★ あほ
 ☆ そうですね。ただ あほであることによって 上司にかわいがってもらえるということもあります。出世が早い場合があります。あるいは 世間の知恵だけによっても 世間をじゅうぶん渡って行けます。哲学から見れば 二流でしょうね。その一流の哲学では あまり経済的な成功は見込めません。(まぁ ときには ベストセラーになる場合もありましょう)。


 ・・・

お礼日時:2012/03/23 22:31

ぶらじゅろんぬさん、


お返事ありがとう。


ACですか?
ずいぶん昔、
調べたり語り込んだりした
ような気もするのですが、
ほとんど忘れちまいました。


少なくとも
他人(医師であっても)に
「あなたはACである。」などと
名づけられるものではありません。


自らACと名乗ることによって
本人が「生きやすくなる」
ために用意された
便宜的な言葉だったと思います。


当然「病名」ではありませんので、
「治る」とは言いません。


・・・だったと思います。


勝手ながら諸事情で消えます。
ほぢゃ。               
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 当然「病名」ではありませんので、
 「治る」とは言いません。
 ~~~~~
 ☆ あぁ それは知りませんでした。忘れてしまっていました。つまり
 ★ ~~~
 自らACと名乗ることによって
 本人が「生きやすくなる」
 ために用意された
 便宜的な言葉だったと思います。
 ~~~~~
 ☆ そうでしたか。これは うっかりでした。みなさん すみませんでした。




 あぁ でも たしか新聞記事だったと思うのですが これこれに当てはまる場合は AC だと診断してみたりが たしかあったとは思ったのですが 勘違いしておぼえているのかも知れません。それにしても二十年以上の昔に聞いたのではないかと思います。

 いづれにしましても 素人の見方をしたというだけのことであると お断りします。




 ありがとうございました。

お礼日時:2012/03/23 15:00

うわ~散らかってるなあ・・・。


ぶらじゅろんぬさんこんにちわ。

ネット人格ですね、ネット人格。



「わたし」が

紳士を演じるのも
蓮っ葉を演じるのも
ボクサーを演じるのも
赤ん坊を演じるのも
雄弁家を演じるのも
アホを演じるのも

「わたし」が
(意思と責任をもって)
している、
というそれだけだろ。



何も演じずに生きる、
というのは
できるんだろうか、
おいらはオカンも演じるし
仕事も演じる。



ほぢゃ。
                   
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 にゅうとらるさんは

 ○ アダルト・チルドレン
 
 にお詳しいですか?
 この用語は もうだいぶん前に聞いたことをおぼえています。いろんな規定をするようですから そしてそれはそれで 事態や情況の把握を容易にし有益にもなりましょうが 基本的な解決を言っている説を聞いたことが少ない。のですが。

    *


 はこぶるさん。の状態 もし触れるとすれば こまりました。となります。むろん勝手なコメントです。途中で議論をすすめることだけにかかずらわずに 何かどこかで触れて欲しくないことに触れてしまったのか? と尋ねていればよかった。

    *


 ▼ (回答No.33) ~~~
 ちなみに私はネット人格ですよ。どこの世界に、二千字前後も自分の意見をだーっと他人に向けてまくしたてる人がいるものでしょうか。またクドクドと引用する人間がいるでしょうか。ネットの特性を生かして、それにあわせて投稿しています。しかしこうなると、本来の私の姿と外れて、非常に嫌みな人間と映ることもあるでしょう。仕方の無いことです。そうした開き直りを込めて、ネット人格と割り切っています。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ふつうに考えれば だからネットでもそれとして自分を演じていると捉えればよいのですが これは 《ネット人格》という別種の人格だという主張のようです。思い込んでいるようですし 決め込んでいるようです。




 こんなところでしょうか。

 

お礼日時:2012/03/23 14:05

>はっきりと事実誤認をただそうとして発言する場合や あるいは もう解消したかを確認するためにこころみに《挑発》してみる場合



事実誤認を問いただすことは、あなたのご自由でしょう。私も、それがあなたの名誉を傷つけることなら、謝らなければなりません。しかし、「解消したかを確認するために」とは、器が狭いことですね。それは他人に迷惑をかけているのと同じだと思います。今の文章もまた挑発でしょうが、何を確認なさっているのやら、私にはさっぱりわかりませんでした。私はもうやめましょう、と言っているのみです。それは静かに確認を取るべき話題ではないでしょうか。

>もしこのいざこざとしての前提がわたしの勘違いであったのだとしたら 欠席裁判を執り行なうこともあきらかに見え透いた誹謗中傷を表わすこともなかったでしょう。というのが 勘違いではないだろうという論証です。

この一節は、きちんと意味が取れませんでした。「俺は勘違いではないと知らしめるために、誹謗中傷のキャンペーンを打っている。お前が誹謗中傷の意図があったかどうかは関係ない、俺が怒っていることが証拠だ」と読んだのですが、そういうことですか。ブラジュロンヌさんともあろう自尊心を高くもっている方が、そういう愚かなことを書くとも思えず、一体何を、書いたのだろうかと首を傾げています。というのも、それは論理による証明という意味での「論証」と呼ばないことですから。もっていきようのない怒りを、ぶつけているだけでしょう。

しかし、いろいろ勘違いが多いのです。まず私の名前ですが、困りましたね、全く違うのですから。No43のお礼欄でいろいろ書いてありましたが、私の翻訳など、何を読んだのだろうと思っていました。「野郎」とは何を根拠にしているのだろうか、とも疑問でした。しかし、私を別人と勘違いなさっているということで、納得いきました。おそらくここから、勘違いのすべてが始まっているのでしょう。違うということを示すためには、私の名前を言うことが一番効果的なのでしょうが、それはできません。そこでOKwaveで私が示した、私の訳がどこかにあったら、もう一度読んでみてください。全く違う訳文ですから。

あなたがここまで私を追いかけてくる動機が恋愛感情なのか、それとも、野郎ということですので復讐心なのか、よくわかりません。おそらく私に対して、何か理想があったけれど、満たされなかったことが怒りに転じたのでしょう。しかし、猛烈な執着心であることは確かなようです。被害は拡大しそうですね。すなわち、他のユーザーに対しては、すでに、あなたから罵倒されるということによって迷惑がかかっています。売女と被爆ヤロウはないでしょう。加えて現実の他の方に迷惑がかかる可能性が大きいのなら、やはりやめざるをえないようです。退会しようと思います。
私にとっては、少し残念な終わり方です。私としては、(かつてにせよ)自分の対話した相手が、ストーカー化しているが、本当は、きちんとした方だと思っていたかったのですから。しかし、ここまで来ると事情は全然、楽観視できないようです。

おそらく戻ってくることはないでしょう。二度、戻ってきた私ですが、私自身が強くなったにせよ、他の方に迷惑がかかることは避けたいのですから。仁科さんやハコブルさん、相談にのってくださり、どうもありがとうございました。リトルキスさんも、本当はもう少しお話をしたかったところです。特に「飛び合い」をテーマにした面白い質問を考えたのだけれど、果たせなくて残念です。他の戻ってきたことを期待してくださった方、ごめんなさい。
最後にブラジュロンヌさんも、仲が良かったのはかなり前のことになりますが、どうもありがとう。少し頭を冷やして、普通の感覚に戻ってくれますように。仮に私を救えるとしたら、私の相談にのってくれることではなく(「けんか」なるものをすることではなく)、あなたがまともな方に戻ってくださることです。たまに哲学カテをのぞいてみます。
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この回答へのお礼

 ★ 売女と被爆ヤロウはないでしょう。
 
 ☆ ただしくは

  ○ 《バイタ電波》および《被ばくヤロウ》

 ですが これらは あんたに何ら関係ない。まったく関係ない。むろん はこぶるクンおよびぼさぼさクンというあんたとは別の相手とやり取りしているところで書いているもの。

 関係ないことで いちいち投稿をしてくるものだから 何かあるだろうかとその意図を見究めようとして わざわざウソをついて《賭けを打った。あんのじょう効いた》とまで言って その無関係さによって 恥づかしくなったり自分が情けなくなったりすることを防いでやったのみ。

 お  門  違  い。だよ。





 ほんとうは ちょとつクンが ボドゥレールの文学的価値をうたがいそうではなくそれがあると主張するあんたの文学的センスの無さをなじったのだが ボドゥレールの詩作品に鑑賞しうる良さを その翻訳で示したのはわたしだった。つまり あんたは ちょとつクンを説得できなかった。詩そのものの内容にかんするかぎりは。
 だから わたしが一枚噛んでいる。それが消えたか もう消えたか もう大丈夫か と気にしていたというのみ。わたしにかんする限りで。むろん そういう話はいっさい出さなかった。ところが ここに来て もろにわたしが標的になった。ふりかかる火の粉は払わずばなるまいて。それだけ。それのみ。


 この問題すなわち文学論が解けないかぎり またやって来よう。むろん来ないことをのぞむが 心に刺さった棘が抜けないかぎり 落ち着くことはなかろう。とまでは こちら側でも思うのが ふつうのこと。
 あとは またやって来たときのこと。ぢゃあ あばよ。

お礼日時:2012/03/23 13:38

ハコブルさん、どうもありがとうございます。

よくわかりました。私が「頭が良い」には参りました。前にブラジュロンヌさんをそう評されましたが、決してよい意味ではないことがわかっていますから。きっと奥深い意味がおありなことでしょう。おそらくハコブルさんには他に見えていることがあるだろうと思い、それを伺ってみようかと考えたのです。
何かするだけ、ろくなことにならないというお考え、よくわかりました。私も私で、ブラジュロンヌさんを相手にすると辛辣さが増し、自分のためにならないと常々思っていました。おっしゃる通りにしようと思います。おそらく今後は、
・ブラジュロンヌさん、スレッドを立てては、挑発行為を繰り返す。
・私はそれを目にするといやだな、と思うけれど放っておく。
・ブラジュロンヌさん、さらにスレッドを立て、挑発行為を繰り返す。
・私が放っておき、ブラジュロンヌさんがついに飽きる。
ということになろうかと思います。それとも、ブラジュロンヌさんが我慢比べを仕掛けてきて、私が音を上げるということが起きるかもしれません。少々暗澹としますが、それもまた、仕方のないことなのでしょう。ありがとうございました。

仁科さん、軽んじている訳ではありませんでしたが、確かにわざと名前を書きませんでした。おそらく他人に助言している場合ではないだろうと思ったのです。私の相談事というのは、簡単にいえば、レクリエーションの時間が面白くないとぼやいているだけです。どうでもよろしいことではあります。
さて、言葉を選んで慎重ですが、要するに、ブラジュロンヌさんはアダルトチルドレンの症例であるから、慎重に扱うようにという助言と受け止めました。おそらく仁科さんご自身は、彼に対して今まで、そうやって接されてきたのでしょうね。何となく、そのように感じていました。仁科さんは、彼の望む若者像を演じていたようにも思いました。ブラジュロンヌさんは、仁科さんのことを策士だと言うことで、「俺はわかっているんだぞ」というサインを送りながらも、それを喜んでいたように思います。そしてNo49のお礼欄では、彼はあなたに甘えているな、と感じました。仁科さんからすれば、サイコロは要領が悪いな、と感じることでしょうね。こればかりは、どうしようもないのです。私は見知らぬ老人を受け止める度量がない、と申しますか。あるいは単に、そりが合わないのでしょう。

リトルキスさんは・・・名前を出されたくないということですね。私としては善意のつもりだったけれど、これが欠席裁判と感じるのですか。こうやって改めて言われると、傷ついていたんだなと思いました。
あの時、私は本当はお礼欄に長い文面を用意しました。でも投稿前に、これは重いなと思って、消してしまった。変わりに短くて、様子を見る文面を投稿しました。私はリトルキスさんがどこまで本気か、はかりかねていました。ブラジュロンヌさんの肩を持ちたくて、詭弁を弄しているのか。それとも、本気で抗議しているのか。前者だろうなと思いました。そうしてそうなら、何をいっても受け付けてくれないだろうと思ったのでした。実際、No30に、そういう投稿が来たから、いっそうそういう気持ちになりました。
でも、改めて数ヶ月後にこうやって言われるところを見ると、本当に抗議していたのだな、と思った次第です。私の方は、もうほとんど忘れていたのですから。さすがに誰も死んだとは思わないだろうとは思います。あの文面では。しかし仮に誹謗中傷の意図がなかったとしても、確かに第三者のユーザーの名前を出すことはエチケット違反でした。ごめんなさい。

さて、ブラジュロンヌさん。結局、ブラジュロンヌさんが何をしたいのか、私にはついにわかりませんでした。私に、誹謗中傷と迷惑行為をやめろ、というだけのことですか。迷惑行為=あなたの欄への投稿は、できるだけやめたいと思います。誹謗中傷と、ブラジュロンヌさんが感じることも、控えようと思います。また他のユーザーとのやり取り全般で、あなたのことに触れたものはありません。どうも私の投稿を監視なさっているようです。それはそれで大変なことでしょう。ご安心ください。
欠席裁判ですが、2年前の件については、すでにきちんと謝罪したと思いますし、謝罪は受け入れられていたと考えていました。というのも、その後、再びやり取りが復活した時期があったからです。「美の乞食」については、私には誹謗中傷を行おうというつもりも、ブラジュロンヌ像を織り込むつもりもありませんでした。その時、すでに述べた通りです。
最後に、(特に要望を表明している訳ではないので、何をしたいのか判然としませんが)、私にブロックをやめ、けんかの相手をせよ、と期待しているのかな、と感じています。それは無理です。私はお相手しかねます。私としては、もうこれで幕引きとしたいのですが、ブラジュロンヌさんの方は何をお考えなのでしょうか。当て付けのスレッドを立て、削除すれすれのラインで私を挑発し続けたいのなら、どうぞご随意になさってください。マナー違反であると論証することも私に取っては疲れることですし、こうやって投稿することも、労力がかかります。また第三者を巻き込んでしまっています。もうやめたいな、と感じています。双方の合意で終わりにすることが一番だと思いますが、そうは感じませんか。
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この回答へのお礼

 ☆☆(No.43お礼欄) ~~~
 相手がわたしを敵だと見るのを《受容》して 必要なかぎりで それに応対するというかたち。このかたちにかんするかぎり 敵が居ます。
 相手によって 理由はまちまちです。なぜなら その相手の・わたしに対する《敵視》の仕方が違うからです。

 賽子の野郎は そもそも文学の感覚がないと来ています。専門は ボドゥレールですが だからここでは《詩》ですが その中身については まったくと言っていいほど分かっていません。その翻訳もまったく味気なく死んでいます。ただし その周辺の事柄にかけては 一人前の知識があります。詩人の生涯のあらゆる事柄 その時代その社会のありさま 家族や交友関係 その読書の経歴 その思想等々あらゆる事情を探り出す研究をしているようです。
 そして 詩心は ゼロです。
 わたしは このことを言ったことはありませんが・つまりいま初めて言うのですが すでに質疑応答のやり取りを通じて そのようにわたしが評価しているということを相手はうすうす知ったのでしょう。だから わたしを敵視しています。
 ~~~~~~

 ☆ この問題が 自分の中で解決しないかぎり・あるいはまた 誰とのやり取りで起きたかにこだわることなく問題のみとして捉えるようにならないかぎり あなたは わたしのところに来ましょう。

 すべてはその前提(つまり しがらみ)を受け身として受けたところから わたしの行動も発言も出て来ています。
 そちらが《挑発》と受け取るようなことも すべて受け身からの発言です。はっきりと事実誤認をただそうとして発言する場合や あるいは もう解消したかを確認するためにこころみに《挑発》してみる場合や すべて わたしが自由でいつづけるための行動です。

 この問題はおしまいだというのであれば あるいは そんな問題は初めからなかったというのであれば そう受け取ってほんとうにおしまいですが それでも あんたのことだ コージンマルばかり。
 ウソでも しかしながら もう済んだことだ もしくは 初めから何もないと確言したならば それで ことはぜんぶおしまいでしょう。





 つまりは もしこのいざこざとしての前提がわたしの勘違いであったのだとしたら 欠席裁判を執り行なうこともあきらかに見え透いた誹謗中傷を表わすこともなかったでしょう。というのが 勘違いではないだろうという論証です。
 それとも 《ネット人格》なら 何をやっても勝手だという信念をお持ちなのでしょうか。広田さん。

お礼日時:2012/03/23 10:04

【QNo5170144 無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?】


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5170144.html
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で人のけんかあんまりどうでもいいです。

はこぶるさんサイコロさんブラジュロンヌさんの三つ巴を猫の絵にして思います。口げんかしても言葉通じないと犬吠えあってるみたいになりますから なぜか哲学そんなの普通なのか このページでもbrさんサイコロさんに言葉を書いても、いちいちなぜかよくある細かい文字の契約書みたいに『読み解かないでください/理解できるかな? くくく』みたい分かりづらくてなりません サイコロさんにとっても理解不能なほどで、brさんもっと簡単に抽象的でないように書けば話 さくさく進むと思います そして人々 心地よいしかるべき距離感を見出して保てるとおもいます
 あとbrさんなぜかへびや蜘蛛っぽいので、人に距離感あえてとらせない方法好んできたと思います。へび蜘蛛でひと不快に不自由にさせた麻酔をかけることなります。
 多くの人にとってサイコロさんもbrさんも悪でないです ブロックされてbrさん強く憤り、悲しむbrさんサイコロさんを人類の敵と見なします。サイコロさんはbrさんからすれば愛すべき敵であって 人類みんなの敵ではありません。キリスト教 brさんにとって敵は愛すべきで、brさんは信仰により世界全体とかと和解癒着とかしてるらしいので、brさんの敵は全世界の敵いうことになるのか 繊細なサイコロさんは情熱的愛情の攻撃をされ brさんをブロックする必要あったのだと思います ブロックし問いを立て言葉使って複数の人と仲間になりbrさんを遠巻きに眺め落ち着く必要性まで あったのと思います でbrさんその群から疎外され更に怒り高めたと思います

 助言書きます。いや無理です 暮らしや心廃れてる自分が人にそれぞれの修め方を書けるわけありません。でも書きます。
 brさんは全回復はしてないアダルトチルドレンかも知れないので 人から『 お前の言葉は要らない・受け付けない 』というメッセージを受け取ることや、ブロック機能を行使されることには耐えられないことがあります。なのでサイコロさんもその他の人もそういうおもんぱかりをもってbrさんとの関係の仕方を探っていくと良いと思います。brさんいっけん強そうですが、その内側には自己受容の未熟な部分があり、神や世界と和解してても 自らや他者との和解が不足してて、自分のことを自分で認められるかや、自分の存在他者に認められているかどうかについての気がかりがあり、ひとの物腰をうかがい、ひとに受容されているかどうかで心が揺れやすく、信仰を必要とするほど繊細なので、人はbrさんのその繊細さを忘れない方が良いです かんたんに互いに安定した関係性をやすやすと期待してもむだと思います 世の中におおぜいいるめんどくさい人々の1人だと思います

 brさんは 全回復はしていないアダルトチルドレンなのかも知れないので、人から『お前の言葉は要らない』とか『お前は在るな』とかいうメッセージを受け取ったり、そんな言語的/非言語的メッセージ受け取ったような感じがしたりして 悲しく腹立たしくもなったとき『あ じぶんは今 アダルトチルドレン としての 繊細さが うずいている から このように 心が 感じすぎて いるのだ 』と 思いかえすと、怒りや 悲しみが 強く湧いていることの 原因を、一部でも 自分に 引き受けることが できて、すると他者への攻撃心や執着心も少なくなり、距離感を保てますから 関係性がはたんせずにすみよいと思います。人から疎外された悲しみもそうして緩和して、自分のなかをおさめつつ 信仰による受容感覚を取り戻せばよいと思います。怒りや悲しみが心に強く湧くとき、その理由のすべてを他者のせいにせず、心の漣や嵐が、より内部にある自らの感じやすさ 繊細さにも起因してると思えば、人に対する敵意はおさまるかもと思います。

 私は他者から敵意があってもなくても、自分けっこうぽんこつだ思ってひとり自足してればいいと思います
 
 brさんとサイコロさん気の毒なくらい二人とも繊細です ハコブルさんとかに助言求めているところ似てます。
 どうするか落ち着いて自分で決めればいいです。
 


 
・その他の女性
 おっぱいさんですね

この回答への補足

 フェイスブック やってみる?

補足日時:2012/03/24 21:50
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この回答へのお礼

 つづいてです。
 
 ★ brさんもっと簡単に抽象的でないように書けば話 さくさく進むと思います 
 ☆ これは すでに段階が違って来ていると理解すべきです。むろん 初めはそういうふうにしていました。じっくりとそして同じことを何回でも説明していました。局面ががらりと変わってしまいました。以前と違ったいまのそのような対処の仕方は これもすべて 受け身から出発したものです。
 もしこの・わたしの言う流れが分からないのなら 困ったものです。

 何とか説明しようと思えば:
 すでに今は 人間の復活劇という第何幕かに入っています。あるいはつまり すでに生け捕りにしています。その状態をさぐりつつあるところです。と言っても 問題はすべて本人がどうしたいか どうするか これです。見守っているところです。生け捕りの状態がやはりいやだと言ってくれば 放し飼いにします。ほかのわたしのような人に託すこともあります。
 それとも わたしがブロックして 来ることをも拒めばよかったろうか?



 助言をいただきました。それでも批判します。
 ★ ~~~~
 ・・・人から疎外された悲しみもそうして緩和して、自分のなかをおさめつつ 信仰による受容感覚を取り戻せばよいと思います。怒りや悲しみが心に強く湧くとき、その理由のすべてを他者のせいにせず、心の漣や嵐が、より内部にある自らの感じやすさ 繊細さにも起因してると思えば、人に対する敵意はおさまるかもと思います。
 ~~~~~~
 ☆ それでも開き直りになりますが ここに捉えられている世界は 程度問題の世界です。五十歩百歩の世界。
 百歩疎外された者が 五十歩疎外された者に おれのほうがかなしいはずだ なぐさめてくれと言おうとしている。あるいは それも言わないから おれはえらいと言っている。
 つまりは 感受性において 百歩の人と五十歩の人とをくらべて いづれにしても自分のほうがつらい立ち場だからえらいのだと思って自重せよと言っている。
 
 わが心の信仰の庭は この相対性の世界を超えています。




 ★ ~~~
 ・その他の女性
 おっぱいさんですね
 ~~~~~
 ☆ ほかにも。みんなですよ。

お礼日時:2012/03/23 00:55

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