プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

震災から一年が経ちました。私の住むフランスでは日本を慰めようというのか、励まそうというのか、日本に焦点を当てた催し物が行われています。その一環の一つで、パリの国際ブックフェアは、今年、日本に焦点を当て、文学者二十人ばかりを呼びました。その中で私は、大江健三郎の講演を興味深く聴きました。彼の論点で主要と思われたのは、カタストロフをどのように捉えるかということです。

印象に残ったのは、カタストロフをカタストロフと捉えない人たちがいるという指摘です。口述筆記した訳ではなく、あくまで私の関心に沿って、記憶の中から言葉をまとめますが、およそ、次のような話だったと思います。
つまり原子力の問題が、これだけアジアの諸国に迷惑をかけたにもかかわらず、まだ続けていこうと思っている人がいます。メルトスルーとかいうけれど、実はたいした問題じゃないのではないか。どうにかなるのじゃないか、と考えたがる。
しかし、この問題には歴然と、被害者がいるのです。自分たちが被害を被ったことは、ある種、自己責任といわなければならない範囲もあります。しかし、諸外国に迷惑をかけ、どのような被害が及ぶのか、まだ未知数です。そして自分たちの子孫にも多大な被害が出ることでしょう。こうなると、今に生きる日本人は加害者になっているとしか言いようが無いのです。カタストロフをカタストロフと認識したのなら、原発をやめる以外にない、と。

こうしたくだりが仏語に訳された時、会場のフランス人から拍手が起きました。フランスのように遠い国でも心配であり、近い国なら、もっと迷惑していることでしょう。 私はこの話を聞いていて、「仮に誰に責められた訳でなくても、我々現代に生きる日本人は、知らぬ間に加害者になってしまったな。そして罪を償うという意識を持った上で考えることを、本当は諸外国に望まれているのかもしれない。」と深く感じたのです。
白状すると、私自身もカタストロフを甘く考えていたのでした。自分が加害者の共犯になったとは思っていませんでした。東京電力や、発電所を誘致してきた自民党のせいだと思っていた、というのが本音です。また諸外国に対する責任という点にまで目が向いていませんでした。自分の家族や、その近辺という範囲が復興すれば、それで良いのかと思っていました。しかし、カタストロフをカタストロフと認識するとは、自らが加害者だと考え、その責任を負うことである、と感じたのです。

ここで、よくあるように、チェルノブイリや、他の諸国の原子力爆弾の実験を引き合いに出して、日本だけが加害者という訳ではないということは容易でしょう。あるいは、被害が科学的に論証できないと言い立てることもあり得るでしょう。しかしこれは、レイプしておいて、レイプは他の人間もやっている、と開き直るような態度であって、セカンドレイプと呼ばれる行為です。私は、それだけはやってはいけない態度だと感じています。

日本が国際的に見ても大きな加害者になるのは、太平洋戦争以来、二回目です。太平洋戦争については、その遥かあとの世代として、負の遺産を受け止めるという役割でした。ところが、原子力となると、まさに当事者である世代として、その負の遺産を背負っていかなければなりません。軍事法廷のような審判はくだらないでしょう。しかし、やはり害をなしたことには変わらないのです。そこで皆さんに聞いてみたいのです。
(1)カタストロフをどのように捉えていますか。
(2)加害者としての責任を、お感じになりますか。
(3)そのために、何か償うことをしようとお感じになりますか。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (13件中1~10件)

こんにちは。



対外的に説明するなら、私達日本人はこのたびおこった大地震や津波などの自然災害の被害者であり、
かつ、原発事故で生じた(陸)海空上の放射性物質の拡散に関しては加害者であると言えます。

一年前の今頃の私は自宅の窓を密閉し、いかに我が子等を守るかが最大の関心事で神経過敏な毎日でした。
だから、当時直後にパリで発表された大江氏の主張は過分に自虐的な印象を受け、正直キツかったです。
趣旨がまともに読み取れていなかったと思います。 だから、近日中に再読の上自問自答してみるつもりです。 
サイコロさん、良い問いかけをありがとうございます。
(それにしても、なぜ氏は母国ではなくパリで発表したのでしょう?)

ご質問の「原発事故の加害者としての責任」を自ら問うなら、真っ先に未来あるこどもたちに対してですね。
でも、対外的にはそれは「自己責任の範疇で当然の報い」と映るのかもしれません。
また、加害者と被害者との関係と言えるかは定かではありませんが、おかげさまで事故前と変わらぬインフラを享受している都会に住む者として、事故により避難生活を余儀なくされている方々に対する更なるアクションもまた求められているはずです。

余談ですが、昨年の今頃は欧州からの国際貨物が(放射性物質の件で)暫くクローズされていましたよね。
なので、GWに渡欧する際には、差別とまではいかなくとも、現地で嫌味の一つも正直私は想定していたのです。
でも、実際は(日本の経済面では悲観的な見解が多かったものの)日本の科学技術や日本人の勤勉性、知性に対する信頼や賞賛もまた健在でした(同行した主人が技術者だから余計そう感じたのかもしれません)。
でもだからこそ、その信頼と期待を再び裏切らぬよう、私たちはそれを自覚しまた自戒すべきだと思います。

私たち日本人はたとえ今後も自然災害の被害者となり得ても、先の原発技術に因るカタストロフィの加害者であり、かつ再び加害者となり得ないであろうという強い覚悟が求められていると言えましょう。
そして国内外に対する充分な説明を欠かして政府指導者が原発再稼働に至るとすれば、それはやはりいささかなりとも問題であり間違いなく私たちの国民の責任ではないでしょうか。

この回答への補足

【締めるにあたって】
例によって早仕舞いをすることをお許しください。ずっと開けておくとお礼が遅れて、申し訳ないと思いますので。

いくつかの態度がありますが、大まかに二つであったと思います。まず、加害者ではないし、罪悪感も感じていないというもの。罪悪感を感じざるを得ないが、方向性を模索中であるというもの。前者の理由はいくつかあります。
・被害が特定されていない。
・諸外国に補償金をつけこまれる不安がある(?)。
・他の国もやっていること。
・そもそも日本国という枠組みが不明瞭である。
これらの態度に対して、私は、誠意が無い態度ではないか?と自分の考えをお伝えしました。自国を守るとは、知らぬ存ぜぬという態度を取ることではないでしょう。たとえば裁判でも、被告が罪を認めず、積極的に償おうという態度が見られなかった時、世間は怒りをあらわにします。同じことで、私には、それが無責任な態度であると思われたのでした。

今回のカタストロフ(原子力汚染)については、自然災害が発端という意味では仕方ない側面がありました。また日本がバッシングを浴びて、憎まれている訳ではありません。しかし、相手に糾弾されてからでは遅いと思うのです。自ら率先して償おうというときには、胸を張って、自尊心を保てます。しかし、「償え」と言われて、咎人のような扱いになってからでは、もう信頼は地に落ちています。
私としては、信頼を保つことが、せめて我々が将来の子供らに対してできることではないか?と考えたいところです。こうした信頼をどうするのか?という点について、罪悪感を感じないと感じた方々の記述は、説得的とは感じられませんでした。ある意味、卑しい責任逃れの答弁であると感じました。

カタストロフをカタストロフとして認識する態度は、私たち自身の心の持ちようとしても、決して無意味ではないと思います。No2の方は、東日本の食材を食べようというキャンペーンが張られているという報告をしてくれました(フードアクション)。それは自分の身を差し出し、汚染を引き受けることで責任を取ろうとする態度だといえます。これは裏を返すと、責任感を感じている方は、案外多いのではないか?と私には思えるのでした。
なぜこのような自虐的な行動が支持され、キャンペーンにまでなってしまうのでしょうか。 私の考えでは、何に対して、どのように責任を取るべきなのかが、曖昧であるからこそ、このような問題が起きたのだと感じています。つまり、自らが責任を取るべきことを明確に認識したのなら、自傷的な責任の取り方は避けられるのではないか、と私は思うのです。

BAの他、No2、No7は、かなりしっかりしたご回答だと感じました。結局、
・事故を知ること、
・二度と起こさないようにすること、
・ 原発の停止も辞さないこと、
・原子力の恐ろしさを世界に訴えかけていくこと、
・被害から、できるだけ子供たちを守ること、
これらによって、道義的な責任は償うことになるだろうと思います。そして補償といったにせよ、まずは復興が優先となるでしょうから、道義的な責任を担ってもらうのは、もう少し後の世代にゆだねなければならないかもしれません。それは私のように戦後に生まれてきた世代が、戦後の復興と経済的な補償がすみかけている後、道義的な償いを求められているのと同じことだろうと思います。

最後に、戦争を併置したことにはかなりの反発をくらいました。私自身は、それらの反発が説得的であるとは、正直に申せば、感じませんでした。しかし私はその議論の中で、 戦争責任と震災の責任の答弁には、ある種のアナロジーがあると感じたのです。つまり責任を受け止めるという生き方をする人間はどちらも受け止める。しかし、責任を受け止めないという人間は、どちらも受け止めない。
私は、これが上の世代の様相なのだなあ、と今更、分かった気になりました。自分が、原子力の責任を負うべき世代になったと感じて、初めて、彼らの気持ちも想像がつきます。基本的には、責任を取りきれないので、逃げ腰になる訳です。大江のように責任を背負い込もうとする方も入れば、実は責任は無かったなどと答弁する方もいます。このネットでは、後者の方が圧倒的に多かったように思います。責任を背負う者と、責任を逃れる者の二極化。私の世代も、今後、同じことになるかもしれません。

なおアメリカでは、すでに水面下で、日本が拡散した原子力に対して不安が高まっている風潮が有るのかもしれないと、No13さんの意見から感じました。証拠が突きつけられるまで待つのでは遅く、後手に回らずに、きちんと責任ある形で対応できたら、と私はあらためて考えました。

補足日時:2012/03/21 08:58
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この回答へのお礼

マシュマロさん、どうもありがとうございます。

>だから、当時直後にパリで発表された大江氏の主張は過分に自虐的な印象を受け、正直キツかったです。

まず、様々な方の投稿を読んで分かってきたのですが、最初に、私自身、質問で至らないと感じた点を、お詫びとともに述べさせていただかなければなりません。それは何が「加害行為」であるかを定義していなかったことです。かなり漠然と書いてしまいましたし、私自身、ぼんやりと「加害者なのかな、どうかな」と感じていたという段階でした。結局、震災という天災が発端ですから、どうしようもなかったじゃないか、という意見はあってしかるべきなのです。では、何が間違った対応であったのか。おっしゃるように、原子力汚染を拡散させてしまったことである、と明確に私は書いておくべきでした。

次に大江の自虐的な態度ですが、もしかしたら参考になるかもしれないので、私の意見を書いておきます。国際ブックフェアには、大江の他、二十人あまりの作家がやってきたのです。その中でひときわ沈痛なことを言っているのが大江でした。大江は、元々の作風からして、自虐ネタが多い作家です。古義人なる自分のアルター・エゴを主人公として、徹底的に恥ずかしい場面や、失敗談を披露していきます。私も最初は、また大江の自虐癖が始まった、と思ったのです。ところが、他の作家らの態度と比べると、大江のみがまともな人に思えてきました。「まとも」というと、その他が「異常」ということになりますので、語弊があるかもしれませんが、真剣に問題を考え、対外的にどのような態度を取るべきかを考えている人は、大江なのかな、と思ったのです。

これは震災という文脈なしには、あり得なかったことだと思います。皮肉にも、時代が大江に追いついたということでしょう。そしてカタストロフは、自虐的なまでな態度を取ってちょうどいいくらいなのだ、と思い知ったのでした。その他の作家の発言については、あげつらうことになるので、名前を挙げて書くのを控えます。口頭発表なので、私も責任ある形で批判はできません。けれども「日本が未だに震災に見舞われてこんなに苦労しています」とか、「我々はおかげさまで復興してきました」という話を聴衆は求めているのではないのかな、と私は感じたのです。結局、コミュニケーションの仕方として、まず謝るべきことを見定めて謝り、その上で、打ち解けた話をするということが必要なのかとも思ったのです。その場では、いかにして震災を文学者が書き記すかということが問題となりましたが、「私は震災のことに捉われたくない。冷蔵庫みたいに保存する役割なんて嫌です。もちろん責任は感じていますよ。でもね」という類いの発言は、「ああ、この方は勘違いしているな」という印象を持つものでした。それと同時に、私の態度も反省したのです。

確かに被災地の方の問題もまだまだ残っていますね。結局、「復興するまで、対外的な償いは待ってください」と言わなければならないかもしれません。戦後の日本も、そういうものだったのだな、と改めて思いました。私はずっとあとの世代ですので、漠然としかものを考えていませんでしたが、補償とは長期的なプランを持つべきもので、当事者らは日本を復興することに努め、あとの世代が金銭的な補償をし、私の世代が道義的な償いを果たす、というものであったのかもしれません。震災の対外的な償いは、金銭補償が次の世代ということになるのでしょう。これもあとの世代に残した負の遺産といえるかもしれませんが。

おっしゃるように、日本に対して、欧州人は親切ですよね。私も服を買った際、値札からさらに、震災割引なるものをしてもらったことが印象に残っています。決して恨まれている訳ではないのです。でも、責任はあるのです。自ら率先して責任を償わなければならないというところが戦争と違うところだと感じています。戦争の場合、「償いなさい」と言われて、それに従うという形でした。今回の場合は、自尊心を保ったまま振る舞うことができます。こうしたときに「責任など無い」などと言い逃れることは、何か常識を外れた行為であり、信頼を裏切ることになると感じられたのでした。

案の定、「責任など、取りようが無い」とか「責任など感じない」というご意見も寄せられています。しかし気になったのは、高齢者の方の意見に、そういうお話が多いということです。大江のように戦争を背負っていくタイプの老人もいれば、逆に、責任など全くないと述べて恬然としている方もいらっしゃる。それはそうでしょうね、責任が重すぎて、背負いきれないと思うのは全く当然です。戦争のときと同じ理屈を適応すれば、責任逃れをすることなど、屁の河童でしょう。他の方のお礼欄でも書きましたが、今が現役の世代は、原子力の責任を負うことを自覚する者らと、責任逃れの言説を労する者らとで二極化すると私は予想しています。それにしても、ご老人らの世代の巨星といってよ吉本隆明が原発続投を唱えたのは、外国に対する責任という問題意識が欠落していると読めたのですから、残念なことではありました。

お礼日時:2012/03/21 00:37

アメリカからの投稿です。



1)まず、一般のフランス人が日本に対して好意的なのは、偏西風は日本からヨーロッパにふいてゆかないからだと感じます。

アメリカ西海岸では、日本からの瓦礫が打ち上げるのはあと何ヶ月、と、(責任者やメディアは)秒読みしている段階です。一応放射能の検査を行って、処理することになるのでしょう。お片づけのボランティアを募るのが難しいかもしれません。

福島の原発事故のあと、アメリカ国内で計画されていた新規の原子力発電所は全て延期か中止になりました。現在、また一から始めるところもあるようですが、許可を取るには、二重三重の緊急事態対応機能をつけなければなりません。

2)と、言うわけで、福島での事故が、世界中の原発担当者に警鐘を鳴らした、と言えます。

私が日本人だと判ると、たいていの人は、”お気の毒様”モードに変更して、日本政府の原発危機への対応の怠慢さをののしることを中止します。ただ一組、若いオーストラリア人のカップルが、”今まで毎年遊びに行っていたけれど、日本にはもう危なくて行けなくなってしまった。”と口を滑らせたのに行き逢っただけです。ですから、本音を探るのは、大変難しい。

3)現在の日本に出来ることは、一にも二にも、原発や石油に替わる代替エネルギーの開発であると思います。それを商業ベースに乗せて、開発途上国に持っていければ、一石二鳥です。石油のために争う一面もある、中東紛争の解決にも貢献できるかもしれません。災い転じて、福となす、ですね。

それにしても、第二次世界大戦(太平洋戦争)はアメリカに乗せられて、いやいや開戦した、と仰る方が多いのにビックリしました。本気ですかね?
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この回答へのお礼

Ciaopolpoさん、こんにちは。そろそろ締めようかと思ったときでしたが、ご意見いただけてよかったです。どうもありがとうございます。

ご投稿を読むと、面と向かって批判はされないけれども、日本から拡散した原子力に対する不安をアメリカは感じているようですね。そして、今はまだ水面下の議論であるが、今後、批判追求が起こりうるという風潮がある、とも感じ取りました。なるほど。私が思うより、もっと差し迫った現実があるのかもしれません。そうなると私の意見など、今更気づいたか、ともお感じかもしれませんね。

私自身は、下手をすると、結局、戦争責任と同じことで、「えっ、それは関係ないんじゃないの」ということも咎を負うことになるかもしれない、とさえ思い始めています。データによる論証というのは、そう「公平な」ものではありません。被害か被害でないのか分からない範囲のものも、「論証」されてしまうかもしれません。戦争責任の数値で、もめているのと同じことです(私はもう相手がいうのだから、全部認めて責任を負う他ない、と思っています。その一方で、初期動作で下手を打ったのも日本だとは感じています)。

歴史は繰り返すと申します。「責任がない」とか「咎められるまで待っている」というのでは、あまりに怪しいのであって、自分の国のことながら、少々、げっそりします。エネルギーはこれで日本が先端をきって開発できたら、かっこいいでしょうね。なかなか難しいことだとは思うのですが。

戦争のお話ですが、戦争責任はアメリカにあるというお話には私も暗澹とします。これはメディアの影響でしょう。アメリカが作為的に戦争だと仕掛けた証拠がウィキリークスから出た、などと友達に聴いたことがあります。これは一例ですが、そういう言説が日本では飛び交っているようなのです。他の質問できちんとした回答をしているご老人までがそうなのだから、どう考えたら良いのか分かりません。 日本の戦争責任を真摯に受け止めている人は、次第に少なくなっているのかもしれません。私自身はプライベートでのやり取りを含めて、そのように感じます。

お礼日時:2012/03/21 08:47

No1です ( ̄ヘ ̄;)ウーン他の方へのお礼も読ませていただきましたが ちょっと一方的過ぎるかなと感じてしまいました



まぁご指摘に有った回答は
1) ここで言うカタストロフの意味が今一わかりませんごめんなさい
2) ご自身で行っておられるように放射能の被害者という判断はものすごく微妙 海洋汚染についてもどのような数値が出ているのかまたその数値が本当の数値かその影響がどの位有るのか解らないので 現状では加害者と言う意識は私には有りません
3)当然被害に合われた国等が有り国家賠償と言う形になれば私たちの税金から賠償金を払い償おうと思います

最後にウィペキより抜粋
 沖縄や小笠原諸島は日本へ返還すべきであると主張し講和会議への不参加を決めた。このとき初代インド首相ネールは「彼ら(日本)は謝罪が必要なことなど我々には何一つしていない。それ故に、インドは(サンフランシスコ)講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない。」と述べている[要出典]。ネール首相は日本に名誉と自由を他の国々と同様に与えるべきであると考え、講和条約に出席することを拒み、1952年に日本と独自に全ての賠償権を放棄した日印平和条約を締結した(中略)また、ビルマとユーゴスラビアも招請に応じなかった。

戦後間もなく公式な場で日本に対して感謝の言葉を述べた国は結構ありますよ その後の世界情勢や国の政策によって世論は変わったりもしますが だから戦争の事をこの場で書くのは軽率だと思っただけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。まず私の強引さについてですが、少々反省しておりますし、お気持ちは分かります。しかし大体の方が、実は何度もやり取りしている顔見知りなのです。一部、いい加減にしてくださいよ、という気持ちも少し入っていたところはありました。

質問に対するお答えは、よくわかりました。基本的には、加害者とは思っていない。責任が追及されてから応答する、ということですね。それは一つのお考えとして承っておきます。しかし、私としては、他の方に述べたように、加害者であるかもしれないことが分かっているのなら、自ら率先して動く方が誠意ある態度ではないか、と考えています。数値が出てからでは遅い、ということです。

さて、戦争のお話。インド首相のネールが講和会議への不参加を決めた。これは事実でしょう。さてその理由についてですが、私はどう読んでも、「感謝している」とか「恩義に感じてかばっている」というような意味合いでは読めないのです。場合によっては、インドは太平洋戦争と無関係であったと突き放した見方とも読めます。
引用には書いていませんが、他で、日本軍がインドの独立に関与したという見方もあるそうです。しかし、インドに取っての相手は戦勝国のイギリスです。インドが日本の一味と見なされて戦犯になるよりは、無縁となった方がよいという態度の取り方もあると思います。「感謝」とは呼べないと考えます。

ユーゴスラビアとビルマですが、全然事情は異なるでしょうね。ビルマに関しては、戦場です。しかしここはイギリスを始め、様々な国から侵略の危険があったところです。確かにビルマは戦後も日本に友好的でしたが、結局、どの虎に身を差し出すか、ということだったのではないかと思います。そして事実、日本はビルマに戦後、補償をしています。諸手を上げて感謝したのであれば、補償は必要なかったでしょう。戦争賠償金は二億ドル、経済協力は五千万ドルだそうです。やはり「感謝」とは異なるのではないでしょうか。

お礼日時:2012/03/21 02:24

No.6です。



>ありがとうございます。レイプはたとえ話ですので、そう重く見られても、何ともお返事に困りますが。

例えだから、間違いを放置していいというわけではないでしょう。

>私の問いより、戦争問題の方にご関心があるようですね。

ナチスの例えで言いたかったのは

被害を与えたからといって、単純に謝罪や賠償、原発放棄しても近隣諸国も含め明るい未来は来ないと予想されるということです。

謝罪や賠償をするならば科学的データを蓄積し国際的な評価にさらすことが必要です。
原発放棄をするならば、代替エネルギーを計画的に進めていかなければなりません。

単純な謝罪や賠償は相互不信を煽り、原発放棄のダメージは日本の極右化を加速させるだけです。

この回答への補足

失礼、急いで打ったもので、変換ミスがありました。

>それ「岳」のお話なら

正しくは「だけ」という平仮名です。

補足日時:2012/03/20 23:20
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この回答へのお礼

なるほど、厳密な議論をお望みになる訳ですか。それは失礼いたしました。モグさんは、

>レイプと事故を一緒にするのは乱暴ですね

とおっしゃいましたね。確かに、それ岳のお話なら、あまりに乱暴です。しかし私の質問では、そのように書いていません。事後処理の仕方として、責任逃れをするような態度があるとすれば、それはセカンドレイプに等しいと説明したのです。ですから、ここでの比喩は、
・逃げるような態度=セカンドレイプ
というものです。では、セカンドではなく、ファーストレイプはどうなっているのだ?と言われるかもしれません。私はこう述べましょう。
・事故後の不適切な対応=ファーストレイプ
私は、事故そのものをレイプ行為だとは述べていないのです。その後の処理の仕方を問題にしているのです。

ナチスのお話は論点が多いですね。結局、どのようにお考えなのですか。ダメージをあまりにも引き受けることは避けなければならない。しかし、責任は発生する。となると、国際社会から責任を査定され、突きつけられた段階になって、最低限度を引き受ければ良い、というお考えですか。

私の問いが問題にしている罪悪感そのものについてはお答えがありません。これは、基本的には、無いということなのでしょうか。あるいは、あるけれども、あると口にしてしまうと責任が発生するので、黙っておかなければならない、ということなのでしょうか。後者だとしたらということで、お話ししますが、裁判などの事例を考えますと、加害者が自ら率先して償う態度を見せた方が、罪が軽くなりませんか? また自分たちが被害者であれば、加害者に誠意ある対応を期待するのではないでしょうか。

お礼日時:2012/03/20 23:17

個人的に加害者だ、と思うのは勝手ですが


国家として加害者だ、とすることは危険です。

国際関係は弱肉強食ですから、そのような態度
では、外国の餌食にされます。
それは従軍慰安婦問題を見てもわかるでしょう。
隙を見せれば食いつかれるだけです。

他がやっているんだから、日本だって悪くない、と
突っぱねるのが国家の正しい態度です。


”日本が国際的に見ても大きな加害者になるのは、太平洋戦争以来、二回目です”
   ↑
これは間違いですね。
あれは米国が起こしたくて、無理矢理起こした戦争です。
日本は被害者です。

質問者さんの態度は、個人的には立派かも知れませんが、
国家レベルでみれば、国益を害する行為ですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。質問に答えてほしいのですが、どうも抗議文をお寄せになったと見えます。ヘキュウさんの回答は、読む前から、何となく予想がついていました。
・損をしてはならない。
・出費をさせるあらゆるものは悪である。
・得をしているものがいれば、道義的に問題があったとしても、同じことをして許される。
・国家の威信を傷つけるものは、ともかく相手が悪い。
こういう方針であるように思えてきました。

>国家レヴェルで見れば、国益を害する

国益を本当の本当に、お金としか考えられないのですか。国益は、信用力や、文化の問題など、多岐にわたります。ヘキュウさんは、罪悪感も感じないし、国際人としての感覚もお持ちではない。そうしたものを感じられないということを恥とも思わない。ご意見はご意見として伺っておきますが、残念なことだと感じます。

私と考え方が違うことは、質問文を読めば、すぐにわかるでしょう。右派でも結構ですが、もう少しやり取りを建設的にするように配慮が欲しいものです。それとも「外国に住んでいるお前は知らないだろうが、日本の老人はこんなにもものを考える力が無いのだ」と私に思い知らせ、私を失望をさせるために投稿をなさっているのでしょうか。

お礼日時:2012/03/20 21:09

日本国とか、日本人という概念が共同幻想なのだから、共同幻想における一部の集団が加害者で、一部の集団が被害者だと分類すること自体が幻想以外ではありえませんなあ。



原発推進派の全てが加害者で、原子力の電気を消費していたすべての人が被害者であるという共同幻想もなりたつ。

加害者が日本にだけ居って、その他の国には加害者が居らないと考えるのはなぜかいね?
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この回答へのお礼

親方、お久しぶりです。前回の問いでは、愛想を尽かされたかと思いました。私も少々、口が滑ったようです。さて、吉本隆明ですか。共同体そのものが幻想であるのなら、責任の所在を明示することそのものが、幻想にすぎない、という風に読みました。

どうなのでしょうね。これは結局、裁判に喩えると、「被告は自我が著しく損傷しており、責任を取る能力が認められない」というお話ではないですか。ここでは、個人の自我と共同体という意識を重ねて考えている訳ですが。

親方のお話をさらに発展させると、責任を取りたくないから、共同体意識を放棄するという方も、そのうち現れるでしょうね。いや、すでに戦後で現れているのかもしれません。

お礼日時:2012/03/20 20:53

(1)カタストロフをどのように捉えていますか。



 カタストロフなんでしょうか。
 思考の崩壊と言うことではその通りだとは思います。

 専門家や担当官が、事故後に
 「こんな事故が起こるとは思いもつかなかった。」「想定外だった。」
 という発言に全てがあります。

 彼らは、専門家なのですから事故前に最悪に事態がどうなるか想像してはいたわけでどの位安全であるべきか線を引いたにすぎないのです。今の設計と運用で事故が起こる確率が非常に低いから大丈夫と見切ったんです。しかし、事故に直面したわけですね。

 そして「こんな事故が起こるとは思いもつかなかった。」と発言してしまう。
 本来、「この対策で事故にならないと判断した。判断が誤っていた。」です。

 深い反省とそれに基づく対策がなければとても任せられないという簡単な図式でしょう。

 メルトダウンを2ヶ月も隠し、スピーディのデータを公表しなかった。
 とんでもない連中に命を預けていたんです。

 これからも同じことをやろうとしている。私には、信じられません。

 今度は人の命で博打を打つことになります。


(2)加害者としての責任を、お感じになりますか。

 本当のことを知ろうとしなかった責任、その先にある行動をしなかった責任ですね。
 (1)でとんでもない連中の言うなりにやらせてきた責任ですね。
 
(3)そのために、何か償うことをしようとお感じになりますか。

 二度とやらせないということです。-

  
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この回答へのお礼

ありがとうございます。浮き世トンボさんは、責任者らが責任逃避の答弁をしていることを指摘してくださったと思います。「知ろうとしなかったこと」に責任があるとは、その通りだと思いました。結局、二度と起こさないということでしか、償いようが無いのであって、そのためには知る必要があるのです。

お若い方らしいと思っていましたが、ご老人よりしっかりした考えをお持ちなのですね。覚悟はしていましたが、この質問欄のご老人らの投稿が「責任逃れ」ともとれる理屈が多く、図らずも、浮き世トンボさんがご指摘になった無責任さの縮図になっているようです。日本の老人らは、責任逃れのプロフェッショナルであったか、と今更、認識を新たにしたところです。これは戦争責任を追及され、責任を背負うということがあまりにも重荷であったから、そのように振る舞うしか無かったということなのでしょうけれども。

私たちの世代もまた、そうなるのかもしれません。あるものは責任を感じて重く受け止め、またあるものは様々な理屈を付けて責任から逃避するということに。どちらが善悪とは一概にいえないのですが、逃避する方がかっこわるいと個人的には感じるのでした。

お礼日時:2012/03/20 21:21

レイプと事故を一緒にするのは乱暴ですね。



あと、第一次世界大戦後の多額の賠償金がナチス台頭の遠因になり、さらなる悲劇を引き起こした訳ですから、単純に謝ればすむ、賠償すればすむものではありません。

国家の司法が機能する場合の各個人の最適な行動に倣って
司法が機能しない国際社会での各国家の行動を決定しても同じ結果は得られないです。

大切なのは、中立的な視点で予測される結果から謝罪や賠償といったアクションを計画していくことです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。レイプはたとえ話ですので、そう重く見られても、何ともお返事に困りますが。私の問いより、戦争問題の方にご関心があるようですね。

お礼日時:2012/03/20 20:45

太平洋戦争においても、庶民は被害者でもあり、敗戦国日本人として責務も課された(勝っていれば課されなかった以上、これは「迷惑を与えたお詫び」ではなく敗戦国への罰<勝っていればなかった)。



賠償責任を公的に果たしたにもかかわらず、内政から目をそらせるために針小棒大に追及するならず者近隣国の強迫は別にして、戦争当事国としての真の責任は、二度とあのような悲劇(人が人を殺す事が正義になる)を起こさないよう、国際協調と相互依存の促進に貢献する事によって果たされる。
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この回答へのお礼

プシテックスさん、お久しぶりです。お元気そうで何よりです。

さて、私にはよくわからないのですよ。まず戦争のお話。勝っていれば、お咎めなしであった、と。いや、賠償金や軍事法廷は無かったかもしれません。しかし、植民地主義研究をしている歴史学者などから、厳しく追及されたことは確かだろうと思います。裁きというものは、軍事法廷という表面的なものではないと思います。

賠償責任を果たした、とおっしゃる。従軍慰安婦問題など、まだ残っていると思うのです。道義的な意味での責任がのこっているというお話は、同意するところです。

ところで、今回のご投稿は質問に対するお答えではありませんね。

お礼日時:2012/03/20 20:43

 (1)私にとってのカタストロフは生きるものが存在できないくらいに破壊され破滅した世界。


 (2)今個人的には、加害者として責任を感じる事はありませんが、将来、周辺国で何らかの
   具体的被害が出て来た時には申し訳ないという気持ちになると思います。
 (3)将来、周辺国で被害にあわれた方が出てきて、償えと言われたとしても
    個人的にはどうする事もできません。
   
  私としては被災された方も加害者にされてしまう事が納得できません。
  また、戦争と事故では加害者としての意識レベルが違いすぎます。
  あなたご自身が加害者だと認めるのならばどのように責任を取り、どのような償いをしようと
  行動されるのですか。
  ただ、このような事故を繰り返さないためには原子力発電には反対です。大きな経済損失
  により不自由な生活を強いられても・・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。戦争と自己では加害者の意識の持ちようが異なることは、おっしゃる通りだと思います。いかなる意図・悪意も無かった訳ですから。情状酌量を求めることはできるでしょう。しかし、大きな害をなしてしまったという点では、同じだと思います。本音を言えば、あなたの戸惑いと似たものを、私も感じていたのでした。

お礼日時:2012/03/20 20:37

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