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私は論理的に考えて、全知全能の神様が作った世界が、今こんな体たらくになっている時点で、愛の神とは思えないんですが…。
それはサタンが招いた結果?人間がサタンの誘惑に負けた結果?
そういうサタンや人間を生んだのも神様なわけですがその点についてはどうお考えなのでしょうか?
結果ばかり見ないで今まで神がどんなことをしてくださったか、どんな方法で愛を示してくださったか考えるべきといわれますか?
私は神が最初に世界を作ったとき、み使いを作ったとき、人間を作ったとき、神は現在のような結果も予知できたはずだと思います。だって全知全能ですから。私だったら愛しているなら作りません。私が全知全能の神様だったら復活しない人間、み使いが出てきてしまうなんて悲しすぎるので、それしか一番いい方法が無いならいっそ世界は作りません。まぁできない時点で全能じゃないですけど…。そう考えると今の結果を容認しながら世界を創造した神が、どんなに愛を示してくれたとしても手のひらの上で転がされているような気しかしません。これが不完全な存在(例えば人間)ならね、良いんですよ。至らないながらも善処したんだと言われれば素直に感謝できるかもしれません。しかし、神は全知全能です。その割には不器用というか、なんと言うか…本当に全能なのか?と疑問符を打ってしまいます。もしこれで全能というのならとても愛の神とは思えません。
第一、なんで完全な状態でこの上ない幸せな世界に住んでいたならサタンとかエバは神様に反抗してしまったんでしょうね?自分のほうが上手く世界を統治できると思ってしまったのは、神様に何か至らないところや疑問に思うところがあったからでは?サタンや人間だけが攻められるのも腑に落ちません。まぁ神様の世界なんで好き勝手したら良いんですけど、それなら自分のことを全能だとか至高の存在だとか公正で愛の神だとか言うなと思ってしまいます。
確かに、優しい面も神様にはあると思います。自分のわが子を生贄に差し出したことなんて最大の愛の表れだとよく言われていますね。そんな愛の証明さえも、もともと世界を作った動機に愛なんてあったのかと思ってしまう私にとっては???です。所詮何でもできる完全無欠で公正な間違いを何一つ犯していない神様にとっては創造するときに容認した一つの予想できたプロセスであって、茶番なんじゃないのと思ってしまいます。
ちょくちょくノアの洪水とか、カナンの人たちを侵略したりしますけど、まさに信じるものは救われるといった感じで、「信じる人には」優しい神様ですね。最後に大掃除して信じている人のみは復活もさせてあげるそうですし。でもそれって自分に賛同しない人は死ねってことじゃないですか?それって愛なんでしょうか?

などなどの事がありまして、私には神が愛だと信じる人の気がしれません。どうかこんな私にも少しは理解できるように説明してくださいませんか?

色々失礼なこと言ったかもしれませんが、神が愛だと信じている人はどういった理屈で信じているのか純粋に知りたいだけなんです。ごめんなさい。
よろしかったら神が愛だ。と論理的に説明できるほど確信を持っておられる方、お答えいただけると幸いです。

A 回答 (24件中11~20件)

こんにちは。


エホバの証人の7日目の解釈はキリスト教世界の解釈と同じで、現在の状態(時の流れ)が見えていないと思います。
ヘブライ4:1.~11.には、現在も安息日(創造の第7日)が続いており、神の安息に入れる余地が幾らか残されている事が解ります。週ごとの安息日の取り決めは律法によるもので雛形です、実体は創造の第7日、聖なる安息日です。
その安息日の主が至高の神から全権を委ねられた全能の神イエスです。
そして7日目に創造しているのが新しい天と新しい地でこれが神の王国です。
この王国を至高の神の御意志通りに造り上げているのがキリスト・イエス(安息日の主)と言う事です。
神の王国の天の王国に入る人達を探しにイエスは地上に来ました、そしてその残りの者たちに証印を捺し終えてから千年王国が始まり、地上の王国に住む者たちの救いの業が始まります。
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この回答へのお礼

pantomanaさんこんばんは
確かに、ヘブライの記述には、彼らは私の休みに入らせないと書かれていて、現在は創造の七日目が
であるように読み取れますね…改めて言われるとなるほどですねぇ自分で読んでいるだけだと全く理解できませんでしたが^^;
このあたりはあまり詳しくエホバの証人さんとお勉強していなかったので彼らがどのように解釈しているのかはわかりませんが
(創造の業が終わったとは言っていましたので、6日目と勘違いしてしまったのかもしれません;;;)

救いは七日目の創造が終わって千年王国が来てからなんですね
神様の行動にはいつも疑問を持ってしまう私ですが、最後に人類を復活させてくれるのはすばらしいと思います。(欲を言えば動物も…彼らは罪を犯していないから無理ですね。。。)
その中に救われない人が居ることは悲しいですが…

お返事ありがとうございます!

お礼日時:2012/05/10 22:14

buabuさん、こんばんは。


補足質問に関してです。
神が長い時間辛抱している理由は、2つ考えられます。
(1) キリストの花嫁となる、弱い肉の体でも聖なる神の子供となれる、肉体の命を呈しても平和を愛し義を愛し、悪を憎む者の数が満ちていない事。(黙示録7:3.)。
(2) として、永久に滅ぼし尽されるべき悪が芽生え切っていない可能性が考えられます(詩編92:7.)。
もちろん、全ての人が救いに至る事がメインと思います。
あと、アダムとエバが不完全とは、創造の7日目を経て完全に聖なる者と認められる者となると言う意味です。
ですから、ちょっとしたいたずら程度の問題ではなく、命を左右する真剣な判断で行った事柄です。
「エバは欺かれました」が「アダムは騙されなかった」(第1テモテ2:14.)のです。
と記されているようにアダムは自らの意思で神に所有権のある善悪の知識の木の実を盗み食いしたのです。
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この回答へのお礼

なるほど~神様的にノルマ?のようなものがあるんですね。。。
なんでそう決めたのか気になるところではあります^^;

ここでいう不完全というのは、聖なるものではなかったということで、十分に知識があった状態で神に忠実を誓うか、誓わないかを自分で判断できたということでしょうか?
しかしエバは「欺かれた」…それも罪のうちなんでしょうか?
創世記は何回も読みましたが、エバが実を食べてしまうところではアダムの気持ちを察するに、本当に歯がゆい気持ちです。
サタンに騙され、実を食べてしまった伴侶を捨て置くか、神への忠誠を保つか。結果アダムはエバを選んだ…うう、か、悲しい。。。まぁ全て私の想像、ただの妄想なんですが;

エホバの証人はすでに想像の七日間は終了しているという見解でしたが、pantomanaさんのようにいろいろな解釈があって面白いですね

お返事ありがとうございました

お礼日時:2012/05/04 23:22

創造主(至高の者)も、全権を委ねられた創造者(全能の神)も、万物を創造されました、目に見えるものも、見えないものも、その中には、善も悪も含まれています。


神が信仰(信頼)される最も基本的な理由は、神は平和な神で、被造物の平和に寄与しない悪を絶対に用いる事のない聖なる方であるからです。
神(至高の神)は、6日間の創造を終えて、創造の第7日目を聖なる日と定め安息を取られました。
つまり、天の父至高者は、独り子の神イエスを始めイエスに造らせた御使いや人間を神と同じように悪を絶対に用いない聖なる者とする目的の日が創造の第7日の安息日です。
善を愛し悪を絶対に用いない霊(心)を育む時間を神は与えています。
この7日の始めにエデンの園の中央に生命の木と死を招く善悪の知識の木を生えさせたのです。
残念ながら天的被造物のサタンとなった御使いやノア日に持ち場を離れた御使いたちとアダムは(エバは欺かれた)自らの意思で悪を用いたのです。
アダムの罪の為に死が全ての人に入りましたが、その罪を赦しアダムと同じ条件で聖なる神の聖なる子供となる道を与える為に自らの初子を犠牲にし、弱い肉体を持っていても、絶対に悪を用いない事が可能であると言う信仰の模範を示したのです。
イエス自身も、苦しんだ事柄から従順を学び完全な者となりました。
エホバの証人もキリスト教世界も、アダムとエバは完全であったと言っていますが、聖書には完全であったとは一言も記されていません。
イエスが、この7日目の内に、しかも初穂として完全な完成者となったのと同様に全ての人間は創造の第7日の終わりまでに復活してから、羊と山羊に分けられ、羊は完全な者に山羊は第2の死に入ります。
神の愛は、信仰にある者は勿論ですが、全ての人が救われる事で非常に長い期間に於て、耐え難きを耐えて、聖なる子供となる人々を待っているところにあると思います。
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この回答へのお礼

人間が聖なる子供となるために神が非常に長い時間待たなければならない理由とはなんなんでしょう?
サタンや人間は、あくまで神の作ったルールの中で生きているだけで、人間が聖なる子供になるために長い時間待たなければいけないのは、神がそういう仕組みを作ったからでは?
もちろん、サタンが忠実なみ使いのままでいることや、人間が悪を用いない未来もあった仕組みの中でのことですが、今現状を生み出す可能性のあるルールの中で創造物を生かすことに神はなぜ疑問を感じないのでしょうか

あと、アダムとエバが完全でないならば、子供がちょっといたずらしてしまったからといって永遠の命を剥奪するなんて厳しい神だなと思います

お礼日時:2012/05/04 15:51

<創造の目的> この疑問については創造者なる神がなぜ人間を創造されたのかというところから考える必要があると思います。

創造者はご自分が享受しておられる幸福な状態を他の者とも分かち合いたいとお考えになりました。それで、ご自分と同じ特質を備えた者、つまり神の子として、まず天使たちを、次いで人間を創造されました。(創世記1:26)

<自由意志> ところで、その神の特質の一つに「自由意志」があります。つまり、自分で物事を選択して、自分で自由に決定するという特質のことです。(申命記11:26-28)神が天使や人間に自由意志を付与された時、当然、彼らが神のご意志に反して利己的な動機で他者をないがしろにする可能性があることは十分予見しておられました。しかし、神は「自由意志」を尊重しておられ、たとえ正しいことでも天使や人間に強制されません。それが創造者なる神のポリシーなのです。もし、神が強制するとしたら、自由意志を与えながら、それを無視するつまり奪い取るという矛盾が生じてしまいます。

<神の正義> それで、確かに神は全能性を有しておられますが、公正の神であられるゆえに正義に反することができません。それは、能力的に「できない」のではなく、心に正義を固く思い定めているゆえに「しない」という方が正確でしょう。自由意志を尊重することが正義にかなっていることは、一般市民の自由意志を無視して支配している圧制者の例を見れば一目瞭然です。

<公正な裁き> しかし、神は物事を放置しておられるわけではありません。自由意志が与えられた天使や人間は自分たちが選択した結果責任を負うことになります。当然、利己的な動機で自由意志を濫用すればそれに伴う様々な悪い結果が付きまとい、また最終的に公正の神の裁きによって処罰されます。例えば、すでにノアの大洪水の時に、自由意志を濫用して女目当てで地上に降りてきた堕落天使たちとそれに追随する人間は責任を問われました。(ペテロ第二2:4-6)とはいえ、そのような処罰は最終的な段階であり、神はそれまでに悪行者が悔い改める猶予を与え、何度も何度も訓戒や警告をされます。神はできるなら悪行者が悔い改めて正道に戻ることを望んでおられます。(エゼキエル18:23)しかし、神は自由意志を尊重するゆえにたとえ正義であってもそれを強制することはされません。

神の処罰の正当性についてですが、そもそも「悪」とは何でしょうか。それは他者から奪ったり、だましたり、利用したりなど色々な形となって表われますが、要するに悪とは「他者の正当な権利を侵害する」ということです。それゆえに、悪を行なった者にはペナルティーが科されます。例えば人間の世界での刑法の場合、そのような犯罪者はその犯行の重さに応じて一定期間その者の正当な権利つまり自由が制限され、罰金、投獄、ある場合は死刑という形で実施されます。他者の権利を奪ったゆえに今度は自分(犯罪者本人)の権利・自由が奪われるつまり制限されるのです。神の裁きも同じで、「目には目を、歯には歯を」という言葉は有名です。しかし、犯行そのものだけでなくその動機も吟味され、その犯行を意図して行なったかどうかによって刑罰に違いが生じます。(出エジプト21:12-15, ヨシュア20:1-6)

この刑罰の目的にも意味があります。「目には目」という裁きは、つまり加害者が被害者と全く同じ状態に置かれるということです。その時、加害者である悪行者は自分が行なった悪の重大さに気づくかもしれません。実際にそのような刑罰によって目が覚め、正道に立ち返った例は少なくありません。(裁き人1:4-7, 歴代第二33:10-13)これは親が子供をしつける時と全く同じことです。神は天の父としてご自分の子供らを正しい道に導いておられるのです。それでも、飽くまで悪を悔い改めない人がいることも事実です。神は強制はされません。しかし、しばらくの猶予が与えられた後、他者の正当な権利を侵害する行為を飽くまでやめないことが実証された者たちは神の最終的な裁きによって滅ぼされることになっています。

<神の手立て> アダムとエバが神のおきてを破ってエデンから追放されて以降、人間は罪と苦しみ、そして死に付きまとわれてきました。人間は神から離れた結果責任を刈り取っているということができます。しかし、アダムとエバの場合は自ら選択した結果として当然それが臨みましたが、その子孫である私たちはそうではありません。最初から死すべき罪人として生まれたのであり、それ以外に選択の余地はありませんでした。神はその点を憂慮され、望むならもう一度神の元に戻ってくるための手立てを設けられました。それがキリストの贖いです。それに基づいて悔い改めるなら罪が許され、再び神に近づくことが可能となりました。また、神は将来、死者を復活させることにより、死を相殺させられます。このように、神は贖いと復活という手立てを設けて罪と死から人類を救済されるのです。(なぜ贖いによって罪の許しが可能になるのかについては別途ご質問ください)

<論争解決までの辛抱> このように、創造者である神には最終的な目標があります。最終的には、ご自分と同じ特質を持つ神の子たちと共に平和で義にかなった世界を楽しむことができることを願っておられます。それを考えると、今現状での人間の世界で起きている悪や苦しみは神にとっても心痛以外の何物でもありません。それは親が子供の苦しむのを見ているのと似ています。全能の神がなぜそのような辛抱する必要があるのでしょうか。それは私たちの益のためです。というのも、神からの導きなしでも物事はうまくいくとサタンは主張するようになりました。創造者の観点からはそれが成功しない愚かなことであることは明白でしたが、多くの堕落天使たちや人間たちがサタンの考えに従って自分勝手な行動をとるようになりました。もちろん、神の正義を支持する者たちも多数いたわけですが、天使たちの間ではそれが論争となりました。(創世記3:15)それで、神はサタンの主張が正しいかどうかを彼らが証明するための期間をお与えになりました。(ヨブ1:6-12, 2:1-8)人間が苦しんできた歴史とはつまり、サタンによる支配の歴史ということができます。明らかに彼の支配がうまくいかなかったことは今や明らかになりました。それで、神はサタンを退け、次いで神に従うキリストによる統治を実施されます。それによって神の正義の統治が正しいことが証明されるでしょう。そのようにして、神は天使たちの間の論争に決着をつけ、サタンと堕落天使たちは永遠の滅びという処罰を受けることになっています。(啓示20:10)

<結論> ですから、人間の世界の悪や苦しみは神の全能性や愛に矛盾しているのではないかという疑問については聖書が明確に答えています。神の全能性はその崇高なお目的と正義に基づいて運用されています。また、神の愛に関して言えば、神の手立ては人間にもう一度やり直す機会を与えており、できるだけ多くの人が悔い改めてご自分の元に戻ってくることを待っておられます。神は家出した子供が家に帰ってくるのを待つ親のような心境で私たちのことを辛抱しておられるのです。(ペテロ第二3:9、ルカ15:11-24)人知れず辛抱しておられるこのような神の愛情を察することができるでしょうか。神はサタンによる支配を容認しつつも、正しいことを求める人々の祈りに応えて個人的な導きを与えてこられました。それで、聖書を読むだけでは神のご意志を理解することはできません。聖霊が与えられ、神の導きを受けるときにはじめてその真の意味を理解できるのです。(コリント第一2:6-10, マタイ13:10-15)

<おまけ> 質問者のbuabuさんの考え方、私は好きです。何となく、昔の自分がした質問を思い出してしまいました。あることが正しいと言うからには、それがどうして正しいと言えるのかを証明できなくてはならないというのは全く当然のことだと思います。(ヨハネ18:23)これはどちらかといえば数学的な考え方ですね。とはいえ、証明過程の「途中式」が飛び抜けて「解(答え)」だけが提出されているにも関わらず、それを多くの人が盲目的に信じているということは意外によくある話です。それにしても、私も若い頃いろいろ年上の人たちに質問したのですが、「生意気なだなぁ」とか「へ理屈を言う子だなぁ」というふうに反応されたことが度々ありました。「こちらは真剣にまた誠実にまた論理的に考えて質問しているのだから正当なはずなのに・・・」とも思ったのですが、やはり、私の質問の内容よりも「言い方」に問題があったのでしょうね。

ところで、buabuさんは本当の神の組織とはすべてが理想的で完璧な組織だと思いますか。しかし、聖書を読むと明らかなように、神が導く本物の組織でも腐敗が生じることがあります。例えば、イエスの時代に、ユダヤ人の大祭司たちは正式な神の代表者でしたが、彼らはイエスに敵対するほどに腐敗していました。しかし、聖書は、聖書を理解するための「手引き」の必要性を示しており、キリストは羊たちを教えるために「会衆」という教育システムを用いておられます。(使徒8:31, エフェソス4:11-16, マタイ23:2,3)ですから、人間の不完全さを見るのではなく、神は不完全な人間を用いてでもご意志を啓示することがおできになるという信仰が必要です。(ヨハネ11:51,52)確かに、組織内の腐敗は一時的に許されますが、それにも神の明確な目的があります。最終的に神の組織は裁かれ清められるでしょう。(ペテロ第一4:17)
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この回答へのお礼

遅くなって申し訳ないです;;;

全知全能の神様は、できないのではなく「しない」のですね
しかし、神様が「しない」と決めたわけですから、そこが残酷だなぁと思ってしまったのです。
確かに、エバが実を食べる事を阻止するのが自由意志の妨げだということはわかりますが、そういう仕組みを作ったのは神様では?と思ってしまいます。
何でもかんでも誰かが「こうする!」と決定したことを阻止しないなんて、危険では…?
ある人が「Aさんを殺す」とか「非行に走らせてやる」と決めたからといって、「なるほど、やめたほうがいいが、自由意志は尊重しないといけないからな、好きにしなさい」なんて普通いわないかと…まず「やめろ!」といってできる限り阻止しません?
また、そういう対応でしか自由意志の尊重をできない仕組みなわけじゃないですか、、、なんでわざわざその仕組みの中でやっていこうと神様が決めたのか…疑問です
(購いも、命には命、という仕組みを神が作った。「目には目を歯には歯を」も確かに平等かもしれませんが、私はそれでは購いきれないものがあると思います。死刑制度反対派がよくいわれますが、殺されたからといって犯人を殺してそれで0になるのか?というのに似ています。愛する人を殺されて、犯人が死んだところでその人は戻らないし、せいぜい犯人がのうのうと暮らしていると思うと許せない遺族の気持ちを救済できるくらいで、本当のところで罪を購えている訳ではないと思います。
自分の一人子を捧げるくらいで人類を許してくれた神もやさしいな、とも思いますが、神様が決めたルールの中で、しかも復活するとわかっていて捧げた犠牲とは茶番のような気もしてしまいます。なんでそういう仕組みで世界を運営しようとしたのか…)

ノアの大洪水も、確かに長い間警告がなされていたのに人類が耳を貸さなかったというのもありますが、言い方っていうのもあると思いますし、人類全てに伝わったかというとそうでもないんじゃないでしょうか?例えば、日本だと縄文時代ぐらい?かと思いますが、ちゃんと警告は伝わっていたんでしょうか?日本じゃなくても世界中の人間に伝えることはできたんでしょうか?
そもそも日本に大洪水があったのかは確認取れてないですが…世界規模ならあったはずですが遺跡に行ったとき縄文人は大洪水に悩まされたとはいっておられませんでした
土器などの出土品が途切れたこともなかったような…
もし大洪水があったとして、縄文人たちは死んでしまったのかとおもうと悲しいんですよね…
(それか日本人が聖書で言う人間に含まれていないのかも…)

論争が終わるまで忍耐し、終わったら神の王国が来るのはいいですが、仰るとおり、論争の間というのは人間が苦しんできたこれまでの歴史ということもいえるわけで、それをいくらサタンの主張を尊重するためとはいえ、黙って聞いてる神様に猜疑心が。。。
その間にどれくらいの人間が死んだのかなーと、、、そしてそうすることでしか最善の選択でなかったというならば、神様のポリシーというか、神様の作った世界の仕組みって残酷ですねと思ってしまうんですよね


神の組織について…今現在の神の組織(あるかは知りませんが)は不完全だと思います。やはり、サタンの世の中にいるわけですし、聖書は神の王国が来てから全て丸く収まるんだといっていますし…
ただ、今、私は神様を信じていないので、聖書に書かれているような神の組織や、全知全能の神がいる確立は20パーセントくらいに考えています。神様が居ないともいえないし、でも私が聖書を読む限り、神様は愛とは思えなかったので、聖書の真実味もあったもんじゃないと思っています。
そんな中、聖書を真実だと思うひとが居ることに驚いているわけです^^;

お礼日時:2012/05/04 15:34

「さわらぬ神に祟りなし」という言葉がありますが、


この言葉はキリスト教でもあてはまると思います。
天の父は、「わたしを愛する者をわたしは愛する」と
仰られます。神からの愛とは、簡単にいえば「恵み」
と「祝福」です。逆もあります。父は太陽のような
お方ではありますが、幸運と不運を自在に操られる
お方でもあるのです。
「御名を聖なるものとし、尊ぶ」ことは重要です。
神は恐るべし、まず怖がってください。
神の逆鱗に触れないように。
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この回答へのお礼

遅くなって申し訳ないです;;;
今の私じゃ、神の逆鱗に触れてしまうかもしれませんね
おっしゃるとおり、神様は怖い存在でもあると思います。
私よりももっと力をもっておられるので…
多分、わたしは神様を実感していませんが、本当にいるなら怖いと思います
地震や台風が怖いように、力あるものは怖いものだと思います。
神を恐れることは、私でもできると思います。

しかし、「神」という存在を明確に理解していない以上、漠然と「力」に対して恐れることしかできないとは思いますが;

お礼日時:2012/05/04 14:51

心は清らかであるとは、・・・自分で感じてください。

ご自身の魂の奥底を尋ねてください。

神とは・・・神は、創造主(天、地、地の下)・全知全能・永遠不変・万物の運命の支配者、愛そのもの、「聖」なるお方・・・といったすべてにあてはまる唯一のお方です。また祈れば聞いておられ、祈りに必ず答えてくださる方です。創世記に書かれてある「罪」によって、人間は神から離反しています。

聖書・・・確かに聖書には、霊的な真実が書かれています。霊感によって書かれたこの神聖な書物は無視できません。聖霊が来て、教会が成立し、新約聖書はその教会の中で書かれたものです。歴史的には、初めに教会ありきです。

三位一体・・・イエスは神が定めた旧約を成就させて、自らの身体で新約を打ちたて、天に上げられて父の右におられる。ロゴスは神である。イエスと父は一つ・・・以上少し考えるだけでも三位一体が正しい。三位一体を認めない宗教団体は、異端であり呪いがあります。

私の立場・・・既存のキリスト教を、(神が)私に与えて下さった霊感によって識別し一新させる。霊的なイノベーションを目指しています。

この回答への補足

そういわれれば、現状維持が私にとって心が清らかになる方法です。
今の自分を穢れているとも思っていませんし、清らかとも思っていませんが、私にとって正直で素直な心が一番清らかなので。そう在れる様に善処してきたつもりですし、していきます。なので私にとって現状維持が一番心が清らかな状態です。

聖書を信じておられる方の回答はいつもそうなんですが、私はその答えを掘り下げた回答なんです。未信者にはその理由は理解できないですよ…神様を信じている人に言うなら花丸百点かも知れませんが
神は創造神・全知全能~→何故そういえるのか?
聖書が霊的な真実を書いている→何故そういえるのか?
(ちなみに聖書に書いてあるから。っていう理由は私にとって理由になりません。その聖書の信頼性を確信できていませんので)

三位一体から先は…すみません不勉強で理解できません

補足日時:2012/04/12 23:28
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この世界には悲しいことがたくさんあし、人の命もはかないものです。

この世は移ろいゆくもの。天国はこの世より大切なものです。天国とはどんなところか、まず心を清めましょう。それ以外の方法では神も天国も見えませんから。天国を見ないで天国の話をしても可笑しいでしょ。

この回答への補足

つまり神の愛を認識するなら心を清める必要があるということですか?
と言うことは私の心は汚れているんですね、少なくとも綺麗ではないんですね。
神の愛を実感している人は心が清らかなんですね!尊敬します

天国、つまり神の愛を見るためには心を清らかにすればいいんですね
心が清らかな状態とはどのような状態でしょうか?

聖書に書かれている事を何の疑いも無く信じる心ですか?
それなら、たこやイカは食べられませんね。鱗の無い海の生き物は食べちゃだめですもんね。
私は大阪人で、小さいときからたこ焼きを食べていますし、寿司ネタで大好きなものはサーモンとイカです。そして私はそれを悪いことだと思っていませんが、これからは食べないほうが心が清らかで居られますか?
(どこの宗教でもそうですが)基本的に女性は男性に所有されているもので、女性は子供のときは父のもの、結婚してからは夫のもの、未亡人になったら息子のもの、正確な名前がわかる女の人は数えられるくらいしか出てこないと、大変女性を軽視、厳しい聖書ですが、その通りに生きたら心は清らかになるんですか?
そこまですることは無いなら、一体どれとどれとどれが守らなくてもいいもので、どれとどれとどれを守れば心が清らかになれますか?

聖書を忠実に守ることではなく、神を信じる、信じようとする気持ちが大切で、神のことを思いやることが心が清らかになる方法でしょうか?
しかし、私は神様と話したこともありませんし、姿もみたことがありません。ネットで神様のHPをみたことも無いです。
(こういっては何ですが、空気と似たようなものです。酸素とか窒素とか、実際見たことないですし、酸素のおかげで生きているんだと教えられましたが、酸素を愛することなんぞできません。)
そんな人に対してどうして思いやればいいんでしょうか?愛は見返りを求めないものですが、さすがに挨拶ぐらいはして頂かないと、最低限「存在証明」して頂かないと思いやれるものも思いやれません。他人を身内のように思いやることはできないです。それは他人はどんな人かも解らないからです。誰かを愛するためにはその人のことを知らなければ難しいと思います。
(「思い込み」なら他人を愛することも可能だと思いますが(アイドルのファンとか)、それって本当の愛とはいえないと思います。一方通行の愛って独善的ですよね。)
神のことを知ろうと思うなら、神がどのような性格で、趣味趣向、生まれ育ちや、自分のことをどう思ってくれているのか、大変気になるところです。聖書が唯一の手がかりと思い、人生で2,3回ほど完読しましたが、やはり文章が難読で解釈も様々なので、なかなか理解できません。今のところ神に対する印象は愛とは程遠いものです。神の愛を実感している人に同じ質問をしたことが何度かありますが、
神のことは聖書に全て書いてるよ→じゃあ根本的なところ。神様ってなんで人間作ったの?世界をつくったの?ってことは書いてなかったんだけど…→神の心は人よりもずっと高いところにあって、人には図れないんだよ→じゃあどうすれば…→聖書読んで神様が人間にしてくれたこととかを感謝できるようになればいいと思うよ^^→読んだけど…結構えぐいよねこの神様→ここの聖句なんて神様の愛が感じられない?→いや…旧約の神様読んじゃったら何されても怖いよ…だからなんで最初に世界を作ったのか、どういう考えでつくったのかによるじゃん。もしかしたら自分の名誉のためかもよ?そのためならどれだけ人間を虐げてもいいって考えかもよ?→神は愛って聖書に書いてるよ→じゃあ君、桃太郎が桃から生まれたって信じてるの?→聖書は真実だって聖書に書いてるよ→じゃあハリーポッターにこの本は真実って書いてたらハリーポッターは真実なの?→聖書が信頼できるって聖書を読めばわかるんだよ。神のことを信頼してれば聖書を信じられるよ→だから神を信じるためになんで神が愛か知りたいわけじゃん。なんで神が世界を作ったか知りたいじゃん→神のことは図れない→それを言われちゃおしまい。じゃあどうすれば→聖書のこの聖句をy(ry
と言うことになりました。
私は神って思い込みの中にしか存在できないと思っていたんですが、エホバの証人さんは論理的に考えることを重視しておられ、その考えの元に神を愛だと感じ、信仰しているそうです。
それが不思議だったのでこの質問をしました。
この考えはをもつ私の心は汚れていますか?
できたら、わかるように私も清らかな心を持ちたいと思います。
どうすればいいでしょうか?

補足日時:2012/04/05 21:46
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NO.4。

再投稿です。
エホバの勧誘を受けた時、一点だけ同感した部分があります。
『キリストは救世主として神から派遣された一人の人間に過ぎないのに、最高の神として礼拝されている。最高の神が無視されている』と言うことです。
ごもっともと聞きました。そして『エホバ』なるものこそ最高の神格を有するのだとか。
それなら、イスラムの唯一神論、釈迦を悟りに導いた『仏』、古代中国の『天帝』と同じ神格に統一されます。
『開祖』=最初に神の教えを伝えた人が、神を超える存在として崇められる。
これこそ人間の脳内での産物です。人間以外の動物は、神の存在も死後の世界も考えていないでしょう。
『サタン』に関する解説も、その場限りの無責任論です。その内誰かを『サタンの回し者』などと言い出し、かっての『魔女裁判』のような人権無視の悪業を展開するかも知れません。既に一部の宗教学会では、それに近い犯罪的行為も繰り返されています。
現代の全ての宗教が、こうした危険を内包しています。未だに古代ギリシャやローマ時代のような、インド社会に残るカースト制度のような階級序列が、その人の神との距離を定めています。
宗教団体は、古代社会の身分制の名残でしかありません。
ご要望の反対の論理で申し訳ありませんが、唯一神を信じるか、万物に精霊が宿るのか、古代の自然神信仰とも比較してみては如何でしょうか。
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この回答へのお礼

>キリストは救世主として神から派遣された一人の人間に過ぎないのに、最高の神として礼拝されている。最高の神が無視されている
これは私も最初の訪問を受けたとき教えてもらいました。確かに納得しました。
しかし、kamobedanjohさんが言われるようにエホバの証人である必要は無いんですよね
しかもエホバの証人は口だけのところがあって実際はエホバと言うより統治体を信仰してますから…本人達がどう思っていようと組織の形態がそうなってます。。。ね

自分としては、今は既存の宗教に頼ろうとか思っていません。
宗教には興味がありますが。。。特に最近は神道!
信仰とか宗教心とかは、人として心の平衡をとるものだと思っています。
誰にも必要な感情で、私ももちろん宗教心は持っていると思います。
しかし、それが他の人と同じものでなければいけない理由はどこにもありません。
一人ひとり性格が違うように、宗教の形も一人ひとり違うと思っています。
それに私はそこまで寂しい人間でもないし心に余裕が無いわけでもない、幸せな人間ですので。
今回、この質問をさせて頂いたのは、明らかに矛盾しているもの(あくまで私が思うに)を信じている人の精神状態が知りたかったからです。

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/04/02 20:20

捕捉になります。


この話の前提となるのは、最初に神があって二千年位前にキリストなり釈迦が出てきた。この矛盾です。
つまり神は元々は一つでキリストなり釈迦なりが自分の都合の良いように解釈をしたのではないか?
こう定義していくわけです。
これを認めると自分の宗教の否定になるし認めないと自分たちの宗教とそれ以前の神の解釈と整合性がなくなる。ここに行き着くとキリスト教に釈迦を絡ませる、学界にキリストを絡ませると自分たちが正しいとなり相手をくそみそに否定する。聞いていてこれが宗教を信じるものか思うくらいの否定です。
これの理論づけを相手に合わせて延々とやっていく。
エホバの証人を信じていた女性には悪魔と罵られ、学会の信者からは睨まれる学生時代を送りました。
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この回答へのお礼

なるほど~
確かに免疫の無い信者の方にすると否定されているようにしか聞こえなかったのかもですね

>エホバの証人を信じていた女性には悪魔と罵られ、学会の信者からは睨まれる学生時代を送りました。
そういえば一度エホバの集会に行ったとき
「みなさん本気でアダムとエバとか信じてるんですか?日本列島では違うみたいですね。縄文人はその頃には家族を持って狩りをしたり土器作ってのんびり暮らしてたみたいですね。遺跡なんかも沢山ありますし、そこでは大洪水の跡も全く無いきれいな地層がディスプレイされてますよw」
と言うと(本気で疑問に思ってただけで否定しようとは思ってませんでした。むしろ確固とした信仰を持っているなら堂々と論破して欲しかった。)、哀れみの目で見られたことがありました
宗教の人って、自意識過剰?と言うか、自分の信じてることを相手も信じていないと平常心で居られない人が多いですね確かに。
こっちは疑問を投げかけているだけでも、否定されているように感じて勝手に憤慨されたり…
そんな人を産出している宗教は私も信じる気になれないです

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/04/02 20:03

>私は神が最初に世界を作ったとき、み使いを作ったとき、人間を作ったとき、神は現在のような結果も予知できたはずだと思います。

だって全知全能ですから。

Ans.言われる通りです。この疑問に対するキリスト教会の回答は「被創造物が創造主に対して、なぜ、こんな私たちを創造したのか!」と、文句は言えないのだそうです。

>よろしかったら神が愛だ。と論理的に説明できるほど確信を持っておられる方、お答えいただけると幸いです。

Ans.キリスト教で言う、神の愛とは、キリストです。

本来人間は人間自身だけの力では、神の許しを得ることは、できなかったのですが、神は人間を「愛」するあまりに(どうしても人間を許してやりたいために)、自分自身が人間となって、地上に降りて

十字架上の死という、最大の苦しみの「罰」を受けて、人間を許されたのです。

この神の「愛」を信じるのが「キリスト教の信仰」であろうと私は思います。

>「信じる人には」優しい神様ですね。最後に大掃除して信じている人のみは復活もさせてあげるそうですし

Ans.キリスト教徒が全員、簡単に天国に行けるわけではないと思いますよ。あの山上の垂訓の中で、キリストは「あなたがたが、天国に行くのは、針の穴をくぐるより難しい」と言っていますよ。

ちなみに、私は熱心なキリスト教徒ではありません。
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この回答へのお礼

被創造物は創造者に対して文句言えないんですか!
すごい、まぁ神様だから当然といえば当然ですけど、自分のこと愛とか言っている割に…利己的(笑)
キリストの贖いによる愛を信仰することは私には難しいようです

>キリストは「あなたがたが、天国に行くのは、針の穴をくぐるより難しい」と言っていますよ。
そうなんですよ!
聖書の中でいかに楽園に行ける人が少ないかが書かれてるんですよね…
大多数を滅ぼすことになる世界を作った神を愛だと言うなんてとても理解できないんです

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/04/02 19:48

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