アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

類似した質問だと思いますが、心のつかえを解消させたいために再度質問があります。

少し【A】~【B】の表現を変えた・文章を増やしたんですが、医者に伝えるために言い換え文を求めているんです。
誰か言い換えて回答下さい。
【A】と【B】に関しては文章にまとめて言い換えて回答下さい。
【C】に関しては「変換された」を「変換が起きた」「変換があった」というふうに言い換えたいんです。
【C】の《え:「ネガティブな内容を何らかに言われたり、そのように動かされた感覚など」》に関しては、以下のような感じで言い換えてほしいということです。
【C】の《え:「ネガティブな内容を何らかに言われたり、そのように動かされた感覚など」》に関しては「ネガティブな内容を強制的に考えさせられる感覚がありました」それ以外の言い換え文にしてください。


★最近でも以前にもあったことである。「今までやったのを治す」「さっきやったのを治す」「診察で聞いたことは関係なく治す」「関係なくやったのも治す」「ブログに書いたことは関係なく治す」「関係なく治す」「○○さんがやったのを治す」などの言葉が頭の中や心の中で≪発せられたりした≫感覚があった。
 それらの言葉は、≪精神病(症状)とかを何らかが治す意味である言葉≫だと思ったり感じたりしたんです。
 ↓
★以前から「今までやったのを治す」「さっきやったのを治す」「診察で聞いたことは関係なく治す」「関係なくやったのも治す」「ブログに書いたことは関係なく治す」「関係なく治す」「○○さんがやったのを治す」などの言葉が頭の中で浮かんだ。
 それらは、「私の症状を軽減する言葉」と感じた。

★自分の(頭の)中にあった「関係なく治す」と言う言葉が心の中や頭の中で出てきたが、何らか(例:職員さんの言動)のきっかけで「関係なく治さん」と言う逆の言葉に頭の中や心の中で≪変換されて発せられた≫ことがあった。
要するに、「関係なく治さん」と言うのは≪精神病(症状)などを動かさないと言う意味の言葉≫に思ったり感じたりした。
「関係なく治さん」と言う言葉が≪発せられる≫前までは「関係なく治す」と言う言葉が何らかの理由で≪発せられた≫ことがあった。
このような流れのことは何らかの理由で起きたことを感じた。
 ↓
★(1)「関係なく治す」という言葉が、自分の頭の中に突然浮かんだ。
(2)何らか(例:職員さんの言動)のきっかけで「関係なく治さん」という真逆の言葉に変わった。
(3)「関係なく治さん」という言葉は、「症状を固定化する」と感じた。
((1)から(3)の順序で起こり、とある理由で起きた事実を知った。)

★(1)心の中・頭の中で質問をする(=心の中や頭の中からある疑問が出てくる)(2)自分の外の音(=人の声、犬の吠える声、テレビの音)、自分の中の音(=幻聴・耳鳴り)、他人が動いているのを見た(=家族の誰かが2Fから降りてきたのがわかった、降りてきた場面を見た時など)ことなどがきっかけで自分の中から質問と関連した回答が出る(=心の中や頭の中で言う感じで、疑問として出したものに回答を当てはめる)それで辛く感じた。(3)回答の言い聞かせなどで、例えば「今日は○○さんからメッセージが来るのか来ないのか」と質問したことに対する回答が後で正確な回答だったりウソの回答だったりした
((1)~(3)の流れのことについて、自問自答だという意見を聞いたんです)

(2)に関しては操られた感じで言い換えると、「何らかがきっかけで回答を言わされた」「何らかがきっかけで回答が発せられた」「何らかがきっかけで回答が返ってきた」というふうに表現するということなんです。
 ↓
僕はふと疑問が生じたことに対し、外界からの刺激、己の内なる声や錯覚、自らが見聞した経験や事実をきっかけとして、自分の中で仮定と考察、反論を行う。その時、その判断が行われると直感的に気づく事に、あるいは判断そのものの中で、苦痛や辛さを感じることがある。そして、そのような工程を経て結論を出した後に、最終的に自分が正しかったり間違っていたり感じたことがあった。


ヒントをあげます。
・・・・・・「自分の意志で起こした」「自分の中の意志が起こした」「感じがした」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【A】一昨年(2010年)喫茶店で働いているとき、心の中(=頭の中)で「ある」と言う言葉が浮かんできた(言った感じ)。その時、《あ:記憶されていた文字》「ある」がいっしょに浮かんできた。それが何らかのきっかけ(=喫茶店の利用者さんが「何だぁ」と言って嫌だったこと)で《あ:記憶されていた文字》「ある」が文字「有る」に変換された。
それを辛く感じたことがあった。要するに「有る」がモトの文字「ある」に変換されることなどに辛さを感じたということである。
変換が数ヶ月か起きた後、《う:文字が変換されるのが解除されるまでの流れの出来事も起きた》。

【B】パソコンで「Outlook Express」を開いた後、例えば「[受信トレイ]に20通の未開封メッセージがあります」「受信トレイ(20)」という文字を見たり心の中(頭の中)で言う感じではき出したりしたときに「おい」という幻聴がきっかけで「--通の未開封メッセージがあります」「0通の未開封メッセージがあります」という、《い:別の文字》に変換されたり、「--通の未開封メッセージがあります」「0通の未開封メッセージがあります」という言葉に頭の中(心の中)で変換されたりしたことがあった。変換内容が後で当たったり外れたりした(後で迷惑メール以外のメールなどが来ている[来てない]ことに気付いた)。

《あ:記憶されていた文字》ということについてですが、わかりやすく言うと、自分の目に焼き付いたり、頭の中に記憶されたりしていたもの(要するに文字を見てその見た文字が映って見える 要するに見た文字がそのまま長く残ったもの)が浮かんでくることなんです。
写真のように文字が記憶されると言えるんです。

「有る」という文字も、見た文字が自分の目に焼き付いたり、記憶されたりしていたものだと思うんです。

文字が長く記憶されている(見えている)のも例えば人の顔を見ると、見た人の顔がそのまま長く自分の中で見えるのや、人の顔を見た後に文字を見ると文字が人の顔に見えることと同じようなことだと思うんです。

《い:別の文字》というのも《あ:記憶されていた文字》と同様です。
《う:文字が変換されるのが解除されるまでの流れの出来事も起きた》の別の表現(言い換えた表現)も知りたいんです。

【C】実は、自分がどこにいても、「つなげて言う」「短く区切る」「ずっと鳴らす」「自分も動かす」「途中から読む」「朝もやる」「朝も言う」「何回も言う」「何回も変える」「考えが入ってくる」「捨てる」「まんまにする(=そのままにする)」「家にも何かやる」「体にも何かやる」「来週も操られる」「(曲の)題名を言う」と言ったような言葉が、頭の中で勝手に浮かびました。それらの言葉が浮かぶ以前は、《え:「ネガティブな内容を何らかに言われたり、そのように動かされた感覚など」》がありました。

【D】「できました」と心の中(頭の中)で言いながら筆談ノートに書いたが、喫茶店の職員さんが声に出して利用者さんに注意したり利用者さんに仕事を伝えたことがきっかけで(=その時自分にも声が耳に入っていた)頭の中(心の中)で「できた」という言葉が浮かんだ。「できた」という言葉が浮かんだ時に自然に「できました」というモトの言葉に変換もあった。いずれも辛く感じた出来事でもあった。それは、とある理由で起きたことを感じた。

【E】喫茶店で誰かが通りにくい所を通るために「通ります」と声に出して言った時、頭の中(心の中)で「通る」という言葉が浮かんだことがあった。それは、とある理由で起きたことを感じた。

これについてですが、その時僕も職員さんも利用者さんも厨房でいっしょに仕事していたんです。
「できた」「通る」という言葉は自分の心の中・頭の中で浮かんだんです。


【A】~【E】の言い換え文について、例えば【A】だけ言い換えるだけでも結構ですので、回答下さい。

言い換えた表現が1つだけでなく、いくつか知っていたらそれも書いて教えて下さい。

明後日と5月の精神科の診察で先生に伝えたいために言い換え文を書いてほしいのです。
遅くとも明日までには回答を下さい。

A 回答 (25件中21~25件)

 もう少し書きます。

悲しくて平凡なことを書きます。
 念頭するといういくつかの言葉についてです。自己であるための言葉、修身の言葉でもあるような、ほどよいていどに自分の行いをデザインするための工夫としての言葉、自分の内なる言葉を保つための工夫、心の中で言葉がほころびやすい質問者さんの内的工夫、要するにつまり「つなげて言う」「短く区切る」「ずっと鳴らす」「自分も動かす」「途中から読む」「朝もやる」「朝も言う」「何回も言う」「何回も変える」「考えが入ってくる」「捨てる」「まんまにする(=そのままにする)」「家にも何かやる」「体にも何かやる」「来週も操られる」「(脳内音楽を)止める」「(曲の)題名を言う」という言葉のうち、受動的でどこか不穏であまり耳慣れない言葉を変え、能動的で肯定的であまり病的な雰囲気の伴わない言い方に書き直すと、「つなげて言う → より詳しく言い表す」「ずっと鳴らす → もうしばらく鳴らし続けてみる」「自分も動かす → 主体的になってみる」「途中から読む → 少し飛ばし読みする」「何回も言う → 忘れないよう繰り返し唱える」「考えが入ってくる → ふとひらめく、ちょっと思いつく」「家にも何かやる → 家族との関わりに参加する、家庭内の何かしらの雑事を引き受ける」「体にも何かやる → 自分の身を大事にする」「来週も操られる → これからも主体性を保っていくことができる」「脳内音楽を止める → 頭の中に流れる音楽を止めたいと感じた、ちょっと止めたくなった、自分で止めてみたくなった、止めたられるかなと思って止めた、音楽が止むほうが好ましいような、心地よい用ような気がしたから音楽を思い浮かべつづけることをよした、無意識が内的充実を図り、沈黙か言葉の主体的運用求めたため音楽を消した、無意識が心を静かで落ち着いた状態にしようとしたらしいので、そんなみずからの内なる声にためしについしたがってみた」とかにもなって、またそういういくつかの言葉に「操られる」という言い方は、「もっと自分の扱いについてこうすればいいんじゃないかなと自分でひそかに気づいてやっていみてる」とか、自分なりの感覚や感性でそういうふうに工夫している」とかいう表現にするとどうでしょうか。実はあんまり考えないで書いてるんです。
 別の質問ページを読みながら書いていますが、上記のいくつかの工夫の言葉がどこかから「発せられた」という言い方は「そうするとよいような気がした」でよいような気がします。ひらめきや直感でもよいと思います、けれど自分ひとりでひらめくことは、自分ひとりで時間を構造化している場合においてはしばしばけっこうな割合で正しい答えなのかも知れませんが、しかし他者との関わりでは、他者と時間を構造化する場合には、ひとりでひらめく答えはけっこう有効でない場合があります。なんか分かりきったような当たり前みたいなことを書いていますが、なるべく誠実で率直な回答を書こうとしています。
 自分の中の情報としてある「鳴らすな」「動くな」という強いブレーキ、人生の初期に周囲から渡されたルールの言葉で、交流分析でいうCPっぽい言葉で、それはひとりで時間を構造化しはじめる前に渡され、言葉を自分で編むことは他者たちとの交流には要り、車や犬の音声で心の中の言葉が邪魔されることは不愉快で、音に精神活動が阻害されるので辛く、そういう邪魔な音はうっとうしくて、「鳴らすな」「動くな」というような強い命令文は、それに従うと主体性を奪う言葉なので辛いと思います。質問者さんやその周囲の人たちの自我状態は、おそらく交流分析でいうところのNP(受容的な親としての自我状態)が不足しているのだと思いました。
 ネットの掲示板で人からメッセージが来るかどうかは、その場合はひとりではなく他者とともにする時間の構造化なので、ひとりで頭の中で出す答えは間違うものだと思います。当たればそれはまぐれ当たりです。まぐれであっても当たってほしいとか、来ていたらいいなとか思うのは、それはたんにメッセージの到来をそれだけつよく期待していたということだと思います。期待して、本当はひとりでは支配できないはずの他者との時間構造(できごと)の内容を、支配したいとか、支配できるとか思いたいほど、楽しみに期待していたのだと思います。それくらい質問者さんがネット上で他者に共感されることに飢えていたのだと思います。心のつかえをなくしてくれる医師はなかなかいないと思います。脳内音楽を止めるとまだ嫌な感じなのは、脳内音楽によって隠しているんじゃないですか、何か頭の中にある嫌なメッセージを、「動くな」とかの。おそろしく単純な空想をすると、質問者さんが幼少期にいろんな禁止の言葉を浴びながら暮らしていたなら、他人から浴びたその言葉がまだ心の中にこだましているのではないかと思います。
 自分の内側にあるもの、たとえば怒りとか孤独感とか、禁止されている(されていた)ことの多い窮屈感とか寂しさとかが、人に「発見された」とか見透かされた、暴かれた、ばれた、とかいう感じを持つ理由は、質問者さんが自分のそういう内面を人によく分かってほしいという気持ちが強いからじゃないですかと思います。喫茶店(作業場)でもネットでも医師に対しても、自分の感じ方や思い方をひとによく共感し理解して欲しいという、その期待がとても強いから、もうすでに人があたかもこちらの心を見透かしているという空想を、質問者さんはひしひしとリアルに感じてしまうのではないですか。統合失調症とか寂しいひととかには、そういう心の動きがしばしばおきるものなのだと、たしかべてるの家の人が当事者研究で、サトラレ症候群と名づけて研究発表していたと思います。テレビのそばで感じたという「死んだ人」とは、死人に口なしいうかんじで、質問者さんの心の中でまだ自由になりきれない感覚、要するに古い禁止の言葉が音声つきで生々しく(音声や文字のみでのフラッシュバックのようにか)今も心にこびりついていて、「バッチンだよ」「バッキュンだよ」はおそらく質問者さんが幼少期の頃に身近にいた大人が吐いた言葉で、その記憶はイラッとする音や声の幻聴になってフラッシュバックして、トラウマを誘発し心をかきむしるような、そんなフラッシュバックをもたらすような幻聴、情緒を萎縮させるような恐るべき幻聴があり、今もその否定的な声や言葉や態度にがんじがらめになっているご自身のイメージなので死んだ人がイメージするのかもと思います。もしそうなら人との関わりや言葉のかけあいにおいて、なかなか心や言葉がうまく効果的に機能せず辛いと思います。それでも森田療法によればそれでもあまり気にせず働いたり気丈に暮らしていくことべきらしいですが、根強い幻聴があるという感覚は私にはよく分かりませんけれど、人と分かり合いにくいということへの嘆きはあるものだと思います。死んだ人のイメージが生きている人のイメージに変わるには、やっぱり専門家の助けが要るのだと思います。古い記憶の受容や過去との決別や、自己と人との和解などが必要かもしれず、それらによって蘇るものだと思います。素人なのにいろいろと勝手に書きならべてすみません。
    • good
    • 0

すみません考えが浅かったです。


なんだか考えるのが不器用そうな人だなと思いましたが、それは私のことで、他の質問ページを読むと思ったよりずっと複雑なのでびっくりしました。
質問者さんになりきってその心の状態をなるべく時間軸にそって書いてみました。

 人生の初期において言葉は他人のものだった。自分はほとんど沈黙していた。言葉はなかなか通じなかった。人は自分にあれこれ言う。だいたいが命令だ。あれをするなそれをするなこれをするなということが多い。自分がへんなやつだったらなおさらだ。
 自分に言葉がないことは悲しいことだ。言葉は思考を助ける。言葉を自分で操れなければ自分のことをうまく操れない。そのまま人の言葉に操られてしまう。自分の言葉を操れなければ他人に支配されたままだ。
 自分の中から自分のために湧いてくる言葉は、自分に優しい言葉だったりする。自分の体や心や頭をこんなふうに使うものだよというメッセージなのだろう。他人からの言葉よりもそういう自分からの言葉に従う方が心地よい。
 自分は自分の心を保つために色々な工夫をつい行っていた。それらはみずからの内面からの救助だった。このようにみずからを助けなさいという通信だ。それらの工夫は自分の内面からついやって来る助け舟のようなものだった。心の中がけっこう切羽詰っていたのだろう。
 その工夫はたとえば「(脳内音楽を)止める」「題名を言う」「来週も操られる」「体にも何かやる」「家にも何かやる」「まんまにする(=そのままにする)」「捨てる」「考えが入ってくる」「何回も変える」「何回も言う」「朝も言う」「朝もやる」「途中から読む」「自分も動かす」「ずっと鳴らす」「短く区切る」「つなげて言う」など、これらは自分で自分を支配、制御、解放するためのインスピレーションだ。他人からの言葉や命令に従っているばかりだと、自分の使い方が下手になる。だから自分の無意識のようなところから、これらの工夫が来た。いわば自分専用のマニュアルみたいなものだ。「来週も操られる」というのはこれからも自分で自分を操ることができるという希望のことかも知れない。このまま他人の言葉にばかり従っていると破綻をきたすという危機感によっても送られてきた言葉であり取扱説明書だった。
自分をどうこうする権利を他者たらもぎとったのである。自由になった。そのぶん自分で自分を扱わなければならなくなる。責任が出てくる。これはこれでそれなりに厄介で辛いことだ。自分で自分を担うという、新たな辛さだ。実存的な辛さ、人生の基本的な辛さかも知れない。支配的な音楽は停まり、自分だけの沈黙が来る。脳内音楽を再生しつづけるか止めるかについての決定権は、第三者から自分の手に移った。沈黙と言葉の獲得だ。音楽の代わりになまの世界の音が聞こえてくる。自分の本音が惹起し言葉を結びだす。それによって自分の思考をある程度ドライブできるようになる、そうしなければならない。沈黙をまた音楽や教条的な言葉で埋めれば洗脳される。脳内音楽も元は外界にあった音楽だったとすると、それは自分の言葉ではない。外側にあった音を鎮め、頭の中は自分の言葉が湧いてくる場になり、精神活動の自由度が上がる。これ色んな言い方で繰り返し同じことを書いているが、それまで他人たちの言葉や脳の内外の音楽で充満していた脳がひっそりとして、自分自身の言葉をそこに置けるようになる。自分で自分を操るようになったのだ。精神の自他分離が成り、その際には寂しかったりする、辛さを伴ったりもする。脳内の音楽をふと止めるという、その判断をかすかな内的要請によってしたことは、自立だった。自立に伴う寂しさや辛さがあったのかも知れない。
自分で見出す工夫は自己をより確かに扱うための工夫だった。それは主にハンドリングであり、自己操作、それ自体を目的としたものだ。おそらく外界環境にほんろうされやすい自分なので、そういう確かな明文化できるほどの解かりやすいハンドリングが必要なのだ。何かをしすぎないための自己調整、自己抑制のための工夫なのだった。自分の精神が見出した丁度良い工夫だ。自分で自分を思い通りに使うために効果的でひとりで自分の行為を整える際に使ううまい工夫だった。
どれも自分の個人的な心の中での工夫なので、他の人達からはなかなか理解されない。
もっぱら自分のため工夫なので、他人のための工夫ではない。
以前これらの工夫を第三者の人から否定されたり、禁止されたりした。そのときは辛かった。せっかくの自助努力の助け舟なのに、それを奪われたら辛くなる。
それらの工夫をすることや、その工夫を示す言葉について、
世の中には他者との関わりがある。他者からの要請がある。そこでは自分で自分をどうこうすることについての権利が削減される。我慢しつつしみあわなければならないことが増える。ああすべきだこうすべきだなど、それに禁止や制限されることが色々ある。明文化されている決まりや明文化されていない決まりごとのようなものがある。人々はその決まりごとをその場その場で察知してふるまう。それは暗黙の了解という命令のようなものだった。エチケットだのマナーだのがそういうあれだ、あれというのは読むべき空気というやつだ。とるべき態度や振る舞いや言葉使いについての決まりごと。人々はそういうものに操られている、というかお互いにそういうマナーや暗黙のルールなどを守ることをお互いに期待しあう。その期待にお互いに応えることでお互いの距離感や心地よさをほどよく保っている。お互いの物理的な距離や、立場の差なんかの再確認をしている。場にヒエラルキーがある場合には、もし嫌な性格の人が上の立場にいると、上にいる人ばかりが満足して、下の立場にいる人が辛さを感じたりする。
他者たちとの場では、もっぱら自分ひとりのための工夫が、効果的でない場合がけっこうある。その場合、辛うじて自分を保つための工夫を使えないときが出てきて、そうなると自分はそのときそのぶんだけ我慢しなければならない。他者たちとの関わりに参加する場合、自分ひとりのための工夫やルールをひっこめ、つつしむということが起きる。ひとりで時間を構造化している状態と、他者たちと時間を構造化する状態とには隔たりがある。もっぱらひとりきりで時間を構造化することが多い者は、他者に開かれた場にあって、自分という膜の内側と外側とがぴりぴりする、内外双方のルールの間で自分や自分のふるまいに関する意識がきしむ。
他者たちとの場である社会はより複雑なので適応するためにあの手この手が要る。外界や心の中にある情報のどれが必要で有用でどれが不要なのかよく解からなくなるくらい多様だったりする。

質問者さんは複雑な人なのに、病気や症状というレッテルで人を分類して見ると、人がより単純に見えてしまって面白くないです。「操られた」や「暴かれた」などの受身の表現は、医師や他者からすると容易に被害妄想という行為だか状態だか症状だかを連想させることになると思います。
複雑な心裡過程を全て「幻聴です、統合失調症の症状です」の一言でくくって説明した気になるのも惜しいことだ思います。質問者さんの心の過程はわりとユニークなので、孤独だと思いますから、共感を求めているのだと思います。質問者さんが「僕が考えたり感じたり思ったりしたことはこういうことなんです」と言い、相手の人がその内容を言葉や心で反復し噛み砕いて理解することは、質問者さんにとって目的ともなりうるくらい幸せなことだと思います。分析し分類する病院の先生よりは、共感的に「そうなのですか、あなたはそんなふうに感じたり思ったりしていたのですね」と解かってくれるカウンセラーさんとか傾聴ボランティアさんとかとの語らいの方が、実のところ質問者さんにとっても、その、欲しているところなのじゃないですかと思いますが、医師には医師ならではの診断とか処方とかの役目もあるので、医師に心裡カウンセラーのような役目を期待しても仕方ないのかも知れません。医師と心裡カウンセラーさんとが協力すれば、医師の態度も変わるのではないですかと思います。カウンセラーさんが協力してくれれば、医師が質問者さんの内的営みに対する共感や理解もなしに、ただ統合失調症の幻聴だとだけ言い渡すこというような、質問者さんにとって物足りない寂しいことは起こらないような気がします。
人にわかってもらう方法として、こういう相談サイトで人に理解されるのも良い手段なんですね。人が質問者さんの素直な気持ちを言い換えて書き換えて表現することは、人が質問者さんの気持ちを汲むことになるので、質問者さんには悦びになるのだと思います。でも私はあまり上手な言い換えの文を書けずに、すみませんでした。
    • good
    • 0

【C】実は、自分がどこにいても、「つなげて言う」「短く区切る」「ずっと鳴らす」「自分も動かす」「途中から読む」「朝もやる」「朝も言う」「何回も言う」「何回も変える」「考えが入ってくる」「捨てる」「まんまにする(=そのままにする)」「家にも何かやる」「体にも何かやる」「来週も操られる」「(曲の)題名を言う」と言ったような言葉が、頭の中で勝手に浮かびました。

それらの言葉が浮かぶ以前は、幻聴が嫌なことを言ってきたり、幻聴からの嫌な命令に従っていたりしました。


【D】「できました」と、心の中(頭の中)でも唱えながら、筆談ノートに「できました」と書いていた際、その喫茶店の職員さんが声を出し、利用者さんに注意したり仕事を伝えたりした。その声を聞いたことがきっかけになり、頭の中(心の中)に「できた」という言葉が浮かんだ。と同時に「できました」というモトの言葉への速やかな変換も起きた。
 それらは辛い出来事だった。職員さんから利用者さんに注意や指示をする声が聞こえたことも辛かったし、自分の心の中で起きた言葉の変換も、辛く感じた出来事だった。
 一度は心に浮かんできた「できた」という言葉が、すぐさま「できました」に切り替わった理由は、以前にあったある辛い出来事のためだと思う。
    • good
    • 0

【A】『ある』と『有る』


 一昨年、幻聴と、それに伴う頭の中の文字の切り替わりがあり、辛く感じた。
『頭のなかで文字の切り替わり』とは、次のようなことだ。
 外からの刺激、たとえば人の厳しい声などによって、心に浮かぶ言葉が少し違うものに変換される。そのことが辛かった。
 たとえば、「ある」という幻聴が聞こえたとする。聞こえるだけではなく、同時にひらがなの『ある』という文字も頭に浮かぶ。その時、ふとした刺激により、たいてい他者からの刺激により、『ある』という文字が『有る』へと変化する。このことに辛さを感じた。
 他人によってこちらの頭の中が勝手に書き換えられる不快さであり、その書き換えは一方的で、しかも意味があるのかないのか、よく分からない。
 インターネットで、自分の文章を、より解かりやすい文に書き換えてもらうことは便利で、ヒントをあげればそれなりの回答が来ることもあるので意義があり、また自分の主体性によってすることなので自己支配感は維持できるが、幻聴や心の中の言葉などの勝手に書き換わることは、こちらにとって全くの受身で、意味もよく分からず、思い通りにいかず、辛いばかりだ。
 具体的に言うと、2010年当時、自分は喫茶店で働いていたのだが、その時に幻聴があった。『ある』、という言葉が聞こえ、また頭の中でも『ある』という文字を思い浮かべた。そして更にそのとき、そこにいた客が、嫌な声で「何だぁ」と言った。それがきっかけになって、そのとき浮かんでいた『ある』という文字が、『有る』という文字に切り替わった。ひらがなから漢字に切り替わっただけの、意味の薄い切り替えだが、その意味のなさが不気味で辛かった。またこちらの意図しない切り替えであり、その客の声や態度に不快さを感じたうえ、さらにこちらの心に浮かぶ文字まで勝手に変換されて、辛さを感じた。
 それ以後、やはりふとした刺激によって頭の中で『有る』という言葉が『ある』という言葉に変わったり、逆に『ある』が『有る』に切り切り替わったりして、いちいち辛さを感じた。
 その変換はくりかえし起こり、ふいに切り替わるのである。幻聴があることでさえ、こちらの随意にならず鬱陶しいのに、そこに勝手な文字の切り替わりも加わって、まったく不愉快なことだ。まるで頭の中までコントロールされているような不愉快さだ。パソコンで文章を書きながら、文字の変換が意図どおりにいかないと少しイライラするが、そういうイライラに似ているかも知れない。思い通りに働いてくれないという不快さだが、加えてまるで自分の中の変換キーを誰かが勝手にいつでも押すことができるかのようで、こちらの心の文字変換の設定をする権利を、自分ではない何者かが握っているような感じがし、頼りなく落ち着かなかった。こうした切り替えにいったい何か意味や意図があるのだろうかと思った。
 そういう、いちいちふとした刺激がきっかけになって起きる文字の切り替わりは、数ヶ月間続いた。
 そして数ヶ月間経つと、その『ある』と『有る』との文字の切り替わりはなくなった。
 

【B】『20通』と『0通』あるいは『--通』
 パソコンでメールを開くときも幻聴や困難さがある。
 たとえば「受信トレイに20通の未開封メッセージがあります」や、「受信トレイ(20)」と表示されてあるのを見て、自分はその表示を目で見て理解し記憶しつつ、心の中で声に出して読む、つまり黙読する。
 そのとき、幻聴が聞こえてきて、急に幻聴は「おい」などと言う。
 すると、さっき理解し記憶したばかりの表示内容が、変化する。(変換される。)どういうことかというと、「20通」だった部分が、「0通」や「--通」のように頭の中で切り替わるのだ。その頭の中で切り替わった表示を、また黙読した。
 パソコンの画面上では、「20通」という表示は依然として確かに「20通」のままなので、「0通」や「--通」という文字への変換は、一瞬だけのこちらの錯覚なのだった。
 それからメールを開いてみると、20通が全て迷惑メールだった。意義のあるメールが1通も届いていないのだから、実質のところ0通のようなものだ。なら、さっきの「0通」、「--通」という錯覚は、あながち間違いでもなかったのかも知れない、当たっていたのだと思った。
 そんなことが何度かあった。中には、迷惑メールでない、意義のあるメールも来ることがあったから、0通という錯覚は、予見としては当たらず、ただの錯覚でしかなかったりもした。

 
【C】嫌な刺激と、心の声
 実のところ、幻聴というのか、自動思考というか、頭の中に言葉が勝手に浮かんでくる。どこにいても。
 勝手に言葉が浮かんで来る前には、おそらくきっかけとして、外からの嫌な刺激がある。その刺激はネガティブなもので、他者にたいする嫌な感じや嫌な予感、嫌な記憶など、自分がネガティブだと感じる刺激であり、人から何か嫌なことをされる感じや、嫌なことを言われているという感じ、また他者が嫌なことをしたり、嫌なことを言ったりしている感じなどだ。
 そういうことがあると、それをきっかけにして自分の頭の中に言葉が勝手に湧き出してくる。
 その言葉は例えば
「考えが入ってくる」「来週も操られる」
「自分も動かす」「(曲の)題名を言う」「ずっと鳴らす」「短く区切る」
「途中から読む」「つなげて言う」「何回も言う」「朝も言う」「朝もやる」
「家にも何かやる」「体にも何かやる」「何回も変える」
「捨てる」「まんまにする(=そのままにする)」
 など。

 
【D】『できました』と『できた』
 心の中で『ある』という言葉が勝手に『有る』に変わったり、その真逆のことが起きたりしたように、『できました』という言葉が『できた』という言葉に勝手に切り替わったこともあった。
 やはり他者の不快な声がそのきっかけとなった。ただ、他者や何者かが意図的にこちらの心の中の言葉を変換したわけではない。心の中の言葉の変換は自動的に起きたのだった。
 そこは喫茶店で、自分は筆談ノートに『できました』という文字を書いていた。その時、店員さんが厳しい声を出し、おそらくその刺激がきっかけになって、自分がそれまで胸に唱えていた『できました』という言葉に変換が起きた。『できた』という言葉に変わった。またそのことに辛さを感じた。
 そしてまた逆に『できた』という言葉から『できました』という言葉への変換が起きることもあった。その時にも辛さを感じた。
 そういう変換があること自体に、何らかの確かな理由があるような気がした。変換がおきることの理由や意味があるのではないかと思った。『ある』と『有る』の変換や『できました』と『できた』の変換には、それなりに何か重要な意味や理由が含まれているように感じた。

 
【E】『通ります』と『通る』
 こんなこともあった。喫茶店で仕事をしていた際、厨房には、自分や、職員さん、利用者さんなどの、異なる立場の人たちが一緒に働いていた。
 そのとき誰かが狭い所を通る際、そこにいる人に「通ります」と声をかけた。
 自分はそれを聞いて、『通る』という言葉を心に浮かべた。
 その『通ります』から『通る』への言葉の変換にも、その他の言葉の変換のように、何かしらの理由、ある種の運命的な意義のようなものがあるように感じ、なぜそんなふうに変換されるのか、その理由や意味が気になるのだった。


★『治す』に関する言葉
 以前から、次のような、『治す』という言葉を伴う幻聴がある。
 心に湧いてくるこれらの言葉について、自分はどれも精神病等の治療に関する言葉のように思う。
 (例)
 「今までやったのを治す」
 「さっきやったのを治す」
 「診察で聞いたことは関係なく治す」
 「関係なくやったのも治す」
 「ブログに書いたことは関係なく治す」
 「関係なく治す」
 「○○さんがやったのを治す」など
 

★『関係なく治す』と『関係なく治さん』
 精神病に関すると思われる幻聴に変化があった。
 まず、「関係なく治す」という言葉や幻聴が、頭や心の中に勝手に湧き出てきた。その言葉は精神病などの症状を治療するという意味だろうと思う。
 次に、職員さんの言動に接した際、その言葉が「関係なく治さん」という言葉に変わった。文意が逆になった。
 思うに、「関係なく治さん」という言葉は、精神病等の症状を放置するという意味だろうと思う。
 これらのこと、「治す」という意味の幻聴の発生から、職員さんの言動がきっかけになって、幻聴の意味が逆転し、「治さない」という、精神病が放置されるという逆の意味を結んだことには、何らかの必然性があるように感じられた。
 

★辛さを伴う自問自答
 辛い自問自答のしかたをくりかえしている。
 まず、気になることがあり、自分の中に問いが作られる。
 その問いは、たとえば「今日は○○さんからメッセージが来るのか来ないのか」というものだとする。
 次に、なんらかの刺激をきっかけにして、問いへの答えを強迫的に決める。心の中で無理やり答えを言う。
 この時に辛く感じる。
 答えを出すきっかけになる刺激はさまざまで、人や犬やテレビの音声、家族のふるまいなど外界からの刺激だったり、内的な幻聴や耳鳴りだったり、他者の雰囲気や他者への予感や他者にまつわる想起だったりする。
 そして強引に見出した答えは「来る」だったり「来ない」だったりするが、そう答える根拠は浅いか不明である。なので答えが当たっていたり間違っていたりする。
    • good
    • 0

【A】2010年の頃、喫茶店で働いていたとき、に頭の中で「ある」という言葉の意味と文字としての「ある」が同時に浮かんできました。


その時、お客さんの「何だぁ」という言葉をきっかけに頭の中で「ある」は「有る」に変わりました。
「ある」が「有る」に変わることが辛く感じることがありました。また、「有る」が「ある」に戻ることもありました。

Aの文章をまとめてみました。
あまり力になれずすみません。ですが、分かりにくい文章ではありますが、決して分からない文章ではないので
しっかりと伝えればお医者様も必ず理解してくれますので、このままで良いと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

【あ】文字としての「ある」が浮かんでくる以前に、文字などを見たんですが、それが頭の中で浮かぶと言ってもよいか。

【い】変換が数ヶ月か起きた後、《う:文字が変換されるのが解除されるまでの流れの出来事も起きた》の文章の、《う:文字が変換されるのが解除されるまでの流れの出来事も起きた》の別の表現を教えて下さい。

【う】もし言い換えれるなら【B】~【E】の文章も分かる範囲で言い換えて欲しいです。

再度【あ】~【う】に対する回答を下さい。

お礼日時:2012/04/02 04:15

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!