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 数日前に、ひさびさにひとつの宗教にこり固まっている
 人たちと話をしました(論戦?)

 日蓮宗系の人たち(女性)で、日本人が全員、法華経に
 帰依しなければ日本が滅ぶとのこと。
 まあ、そうした信仰そのもは法華経の信者ならば、(過激かどうかの
 違いはあるにしても)ありうる話で、目くじらを立てることもありません。
 
 ただ、問題はその根拠です。
 その方々にそう主張する根拠を問うと、
 自分たちの教団の経典のここに書いてあると
 「自分たちの経典」の一節を指し示すのです。

 私が「世の中には色々な宗教があり、その数だけ
 経典や聖書のたぐいがありますね。その人たちも
 あなた方と同じように「自分らの経典」だけを根拠として
 自分らが正しいと言い募るならば、その両者のあいだに
 どうやって対話が成り立ちますか?
 あなたがたは、ほかの人を説得したいんでしょう?
 あるいは少なくとも理解してもらいたいんでしょう?

 それならば、自分らの経典をいったん離れて
 相手の立場にたって、相手にも分かるような
 議論の進め方をしなければいけないんじゃないですか?
 だからこそ釈迦は「たとえ話」を多用したんじゃないですか?」

 と言うと、「いや、自分らの経典が正しいんだから」
 とか、なんとか話がそれ以上、かみ合いません。

 そこで質問です。
 どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?
 彼らは他人を説得したり納得させたり
 さらには自宗に改宗させたりしようということを
 放棄しているのでしょうか?

 それぞれの経験と立場でご回答いただければ
 幸いです。

 

 

A 回答 (13件中1~10件)

宗教への基本的な考え方に二つのタイプがあります


宗教排他主義VS宗教多元主義です

宗教排他主義とは基本的に正しい宗教は一つという考え方です
キリスト教など一神教はこれになりやすく正統と異端の争いをします
仏教でも法華経系で自分たちが正法で他の宗派や宗教を認めないこともあります
宗教の伝道者や民衆の信仰者はこれが多いです=確信があり押しが強いです

宗教多元主義は宗教の本質が一つで宗教の表現はいろいろという考え方です
キリスト教でも仏教との対話を目指すところもあります(特に禅系と共存しやすいです)
日本の神道は基本的に宗教同源であり宗教帰一の考え方です
昔は神道と仏教が習合していました、神社に仏像があったのです
宗教の学者やインテリの信仰者にはこれが多いです=学問があって寛容的です

>日蓮宗系の人たち(女性)で、日本人が全員、法華経に
 帰依しなければ日本が滅ぶとのこと。

日蓮の「立正安国論」によるのでしょう。同じようなことを述べてます
鎌倉時代の話です。この後に元寇があったので予言の一部が当たったようです

>私が「世の中には色々な宗教があり、その数だけ
 経典や聖書のたぐいがありますね。その人たちも
 あなた方と同じように「自分らの経典」だけを根拠として
 自分らが正しいと言い募るならば、その両者のあいだに
 どうやって対話が成り立ちますか?

宗教多元主義のような考え方ですが(宗教を同列に扱う)
相手はそのような考え方をしないです
宗教への基本的な考え方があなたとは違うのです

宗教排他主義の人は世の中の色々な宗教のなかて
正しい宗教がひとつあり、その他の宗教は間違いと考えます
自分の宗教が正しいなら、その他の宗教は間違いになります
何故ひとつの宗教のみが正しいかは彼らには自明のことです
真理は一つだからです→ある宗教と別の宗教の両方が正しいことはない

宗教排他主義の人は他の宗教との対話が成立しません
他の宗教を認めないので対話するつもりもありません
説得や改宗をさせようとするときは他の宗教の間違いを指摘します
しかし、相手も負けていずに反論して論争になります
こういう宗教の議論が不毛なのは経験的に分かっています
だから、宗教の議論を避けるのが社会の常識になっています
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この回答へのお礼

なるほど。分類すれば宗教排他主義であり
 そもそも彼らは対話を目的としていない!

 驚きですね。
 最後の
 <だから、宗教の議論を避けるのが社会の常識になっています>

 という部分。
 これも驚きですね。
 しかし、まあ相当の確率で事実なのでしょうね。

 

お礼日時:2012/06/05 08:27

タイに住んでいます。


タイの仏教は、日本の仏教とかなり違います。
いわゆる、小乗仏教、上座部仏教です。
別に私はどこの信徒でもありません。
そもそも、タイの仏教には、宗派の厳密な区割りは無いようです。
誰にでも門戸が解放されており、束縛もされません。去る者は追わずです。

私自身は何も活動はしていませんが、タイ人の家内は、かなりの仏教マニアで、あちこちのお寺へ行っては、その教え(悟るための方法論)をつまみ食いしています。
熱心な仏教徒ですが、別に自分の宗派の信者を増やそうとなんか全然していません。
そもそも、どこの宗派の信者でもありません。単に、仏教徒であるだけです。

妻は、自分が悟りを得るための方法論を探し求めて、ありとあらゆる仏教の本(タイ語)を読みあさり、あちこちの偉いお坊さんの話を聞きに行き、テープやCDを聴き漁り、あちこちの瞑想の集まりに参加するといった具合です。
その熱心さには頭が下がる思いです。
そして、人格的にも、非常に尊敬出来る人間です。
狂信者では、全くありません。
つまみ食いした様々な方法論を自分の頭で取捨選択 して、実践しています。

仏教は、そもそも、悟りに至るための方法論、実践論を説いた物で、ある意味悟りへの科学とでもいえるものです。
その基本が八正道という物であり、それを実践する事で悟りを得ようとします。

八正道とは、正しく見、正しく考え、正しく語り、正しい行いをし、正しい生活をし、等々、中道を実践し、人格を完成する事を目的としています。
自分の頭で正しい道を考えて、実行しなさいと言うことです。
そこで、お釈迦様が、正しい道というもののガイドをして下さると言うことです。

普通に俗世で生活していては、八正道を実践するのは難しく、容易に悟れる物ではありません。
そのため、出家して、俗世間のしがらみから離れて修行をする事によって、悟りへと到達しようとします。

しかし、日本の仏教は、原始仏教からかなり変質しており、全く別の宗教と言っても過言では無いと思います。

他人を折伏しようとするそのご本人が、まず、自ら八正道を実践しているでしょうか?
八正道は、仏教の基本中の基本です。
自分がそれを実践せず、知識として知っているだけなのにかかわらず、もう出来るような気になっているだけではありませんか?

その方は、自分が誰かに折伏されて入信し、盲目的にそれに従っているだけなので、同じように、他人を盲目的に折伏しようととしているだけなのでは無いでしょうか。

自ら思考停止に陥るのは、八正道に真っ向から対立しているのは明らかです。
日本の仏教徒たちの言っていることは、内容は仏教ですが、実践していることは、本当に仏教なのでしょうか?

ここを私は、非常に疑問に思います。

教団の活動や折伏活動、宗派間の争いをしている、その事自体がすでに世俗にまみれた活動ではありませんか?

そもそも、そうした活動から離れて八正道を実践するために、出家という手段と、出家者(僧侶)を支える在家信者のシステムがあるのです。

日本の仏教信者の活動は、仏教の本来の目的である、悟りへの道と、真っ向から対立している様に思えてなりません。

衆生を救済すると言いますが、自分さえも救う事が出来ない人に、どうやって他人を救うことが出来るのでしょうか。
お題目を唱えるだけの、思考停止状態で、どうやって自らの人格を向上させるのでしょうか。
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この回答へのお礼

まったくおっしゃるとおりですね。

 やはりタイには、素朴な仏教が根付いているのですね。
 八正道をおおまじめに実践している人など
 なかなかお目にかかれませんね。
 

お礼日時:2012/06/04 22:50

確かに法華経は釈迦本意の仏説であり、本来、仏教といえば法華経のみと言ってもよく、それ以外の仏説は人々を法華経に至らせるための手立てとして説かれたものであって、つまり当初、釈迦の本意を説きたかったのが、仏教の『ぶ』の字も知らない当時の人々にとっては、法華経をいきなり説かれてもチンプンカンプンだった為に、先ず仏教の『いろは』から順を追って教えて行かざるおえなかったのです。



それで結果的に法華経以外に種々様々な教経が残ることになったのですが、つまり、分かりやすく言えば、小学生にいきなり大学講義をしても無理なので、やはり何事も基本的な『いろは』から教えていかねばならないようなものかと思われます。それで結局、法華経を説くまでに40年近くも費やしたのですが。

では、そうまでして説いた法華経には、一体何が説かれているのかといえば、かいつまんで言えば、実は老若男女、国籍を問わず、万民がその自身の生命の中に卓越した限りない能力を秘めていて、それを発揮さえすれば、いかなる事態にも悠々と立ち向かって乗り越えていける勇気や希望に満ち満ちた強靭な境地に変革できるというもので、それで法華経は、本来誰にも内在する、その価値あるすばらしい偉大な能力の存在とその開発方途を説き教えているのです。今風に言えば、自己啓発セミナーみたいなものです。

それで法華経によって、そのことに目覚めた者を仏(仏の語源のブッダとはサンスクリット語で、その意味するところは『目覚めた者』)と呼ぶのですが、いずれにしましても、法華経によって自身の偉大な能力に目覚めた者がどんどん増えれば、必然的にその社会は繁栄し、幸福な国家とはなるでしょう。

ですから、物も言いようで、その女性たちは法華経のすばらしさは分かっていても、何か物事をネガティブにアプローチする傾向性があるのでしょう。また、arakanさんのご指摘のように釈迦は法華経を説くまでは『隋他意(ずいたい)』と言って相手の立場に合わせて受け入れやすいように説法をして行って、最終的に『隋自意』として法華経を説いたのですが、おそらくその辺の経緯も理解しておらず、人からの伝聞をそのまま主張しているだけのようで、それで浅薄な知識のため踏み込んだ話ができないのでしょう。

早い話が、勉強不足ということでしょう。
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この回答へのお礼

と言うことは?
 法華経を奉ずる人であっても
 教学の位が高い人であれば
 相手の機根に合わせて
 対機説法をすることができると言うことでしょうか?

  

お礼日時:2012/06/04 23:40

#7の者です。



>仏教の開祖である釈尊などは臨終に際し「私をよりどころ
>とするな」のようなことを言っていますよね。

>きわめて内省的、理性的です。

教祖がどうあれ、たとえば仏教では本来、偶像を拝むなと言った
にも関わらず、今や仏像のない寺などどこにもありません。
要するに、おっしゃるところの「内省的、理性的」なるものは、
宗教が社会活動となった時点で、どっかへ行ってしまい、
偶像を拝んだり功徳を施せば救ってくれるものになるのです。

仏教は排他的ではないようですが、それは多神教の利点を
活かして、“ローカルな神様が仏教に帰依して家来になる”
といった形で変形する事で吸収しているに過ぎない(完全に
両立させているのは、そもそも無宗教な日本人ぐらい)。
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宗教っていうのは世界観でしょう。


わからないことをわからないままに放置できないのは人間の性質ですが、科学的な発見が少なかった時代に、世界はいつ誰が作って、人は生まれる前どうなっていて、死んだ後どうなって、世界の果てはどのようになっていて、なぜ朝になると日が昇り夜になると月が昇るのかといったことについて、共同社会でみなが信じる物語を作り出したのが原始的な宗教だろうと思います。
人には自分たちの作為ではどうにもできないことがあり、それを司る仮想の意思が神仏の原型です。
そういった世界観はアイデンティティーの重要な一部ですから、自分が信じる宗教が否定されるということはアイデンティティーが否定されるということです。
十分に納得できる重大な出来事があって、代わりの物語が用意されなければ、確立されたアイデンティティーを放棄することはできません。
これは論理の問題ではなくて好みの問題です。好き嫌いです。その宗教を信じたいからその宗教を信じるんです。
宗教を信じている人たちにとっては、その宗教を信じる人たちの集団に属していることの方が重要です。教義などの細部に論理的におかしなことがあるかどうかということはそんなに大きな問題じゃありません。
日本中の人が法華経に帰依したって何十億年かすれば太陽が膨張して地球は滅ぶそうですし。
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この回答へのお礼

<宗教を信じている人たちにとっては、その宗教を信じる人たちの集団に属していることの方が重要です。教義などの細部に論理的におかしなことがあるかどうかということはそんなに大きな問題じゃありません。>

いや、ところがその教団は「折伏命」なのです。
 (決して内向きではありません)
 それなのに折伏からほど遠い方法論しか
 取れないのはなぜかという疑問です。

 もっとも、外に向かって「折伏している私」
 を仲間内に見せつけてその集団への
 帰属性を強める深層心理が働いているのならば
 別ですね。
 つまり、本当の関心は仲間内への帰属にある。

 そうかもしれません
 

お礼日時:2012/06/04 15:47

>ひとつの宗教のみが正しい根拠とは



○根拠は開祖の認識そのものですね。それを信じる者は開祖以上になることはありません。
日蓮宗系ですと日蓮の仏教に対する認識となりますが、法華経を経典としたことは日蓮が天台派で学んだ故のことであり、問題は法華経の内容を全く理解してなくて、日蓮宗を起こしたことに根拠しますね。
日蓮は個性の強い人であったが故に問題を起こしましたが後代の弟子は、その個性の悪い面のみを真似ているだけですね。教えがあるわけではなく、法華経をお題目とした一種のテロ組織ですからね。この行動パターンは法華経系の宗派に引き継がれ、更には現代のオーム真理教の行動パターンに通じるものがあります。
でも日蓮だけではないですね。法然や親鸞、それにつづく念仏系も同じパターンですね。仏の教えの真意が何かがわからず信仰を立てたがために思考停止の盲信という罠に陥っているのですね。
ご指摘のように釈迦ブッダは、私は教えである。教えをよく学び生きる糧としなさい。といっていますので、教えがわからず、お題目や念仏のみで信徒を確保するということは、強引に行動すれば単なるテロ組織に成り下がってしまうのですね。
これは、日蓮宗系の宗教団体だけではないということですね。鎌倉期の僧は当時の世相もあり、末法思想、終末思想のみで信徒を増やしていったのですが、現代も非常に似ていますね。
仏陀の教えに立ち戻ってもう一度考え直して欲しいものですね。そうすれば宗派間、宗教間のよいところや違い、治すべき点等楽しく話あえるとおもいますね。
まあ、はっきり言えば、日蓮に、「すいません私がだめでした。日蓮系は解散してください。」と
言って欲しいですね。そうすれば日蓮並みに狂った人も治るかもしれません。
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この回答へのお礼

私自身は日蓮をまったくの狂信者であるとは
 思っていません。
 腐敗した既製仏教の陰に苦しむ民衆の苦難を
 救うために立ち上がった「宗教的行動者」なのでは
 ないかと思っています
 が、それは今回の質問の主旨ではないため
 深入りはいたしません。

 今回の質問とそれに対するみなさんの答えを通じて
 すこしわかったことがあります。

 ひょっとすると宗教を信じる、あるいは宗教を求める
 人の中で、「目先の安易な救済」
 それも「おのれのみの救済」を求める人が
 意外に多いのではないかということです。
 
 私は、
 宗教と言うと「自己犠牲」および「真理の探求」
 とワンセットで理解していましたので
 そこでずれが生じてきたのではないかということです。
 
 ご回答ありがとうございました。
 

お礼日時:2012/06/04 09:24

「宗教が正しい理由」というより、宗教とは自ら『正しさ』


を規定するものである以上、異なる宗教=別の「正しさ」
などあってはならないのも当然である(排他的)。
なぜなら、論理的に検討できる科学的根拠がない(信じる)
のが宗教だから。
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この回答へのお礼

排他性が宗教の本質という主張でしょうか?
 まあ、その手の(特に新興の)宗教が
 多いことは事実でしょうが、
 たとえば仏教の開祖である釈尊などは
 臨終に際し「私をよりどころとするな」
 のようなことを言っていますよね。

 きわめて内省的、理性的です。
 

お礼日時:2012/06/04 01:05

おっしゃる通りと思います。


話をするなら順序というものがあるのに、冷静な判断力を失ったトランス状態にあると、そうなるのかと思います。

それが熱心さゆえとはいえ度が過ぎるとどうかと思います。

どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?
ということですが、ひとつにはその人が冷静な判断力を失っているということ。
そして、もうひとつが、そこまで追いつめられてしまうような、その人の環境があるということ。
双方あるのではないでしょうか。

特に環境という面についていえば、それだけ不安な社会状況にあるともいえるでしょう。
それゆえに不安を餌にするような宗教も出てくるでしょう。
免疫力が低下するから病原菌が増えることと同じで。
そう考えるならば、特定のそういう人達よりも、人をそういう状況に追い込むような不安な社会状況こそ問題だと思います。
逆説的かもしれませんが、そういう社会状況をより良く変えていくにはやはり信仰ともいえるくらいの強い信念が必要と思いますが。どうでしょう。
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この回答へのお礼

おっさyるようにいくつかの可能性があると思います。

 1 そもそも彼らは、相手を説得したり
  共通の真理に至ろうとする気がない
 
 もしそうなら、今度はその理由を考えたたくなります
 
 →2 彼らは、自分らが触れた(自称)真理を他人に
 言い募ることに酔っている。

 →3 その原因には、彼らが抱えるコンプレックスなり
  何らかの代償(補完)作用がある

 まあ、ここからは(その宗教を奉ずる人の)
 個人のプライバシーでもあり
 静観する以外にありませんが、
 もしたったそれだけの理由だとするならば
 拍子抜けというか・・・・困りましたね
 
 
 

  

お礼日時:2012/06/03 22:58

仰る通りです。

彼らなりの根拠はあっても、信じない人には通用しない話です。
そもそも、他の信仰を強く否定する排他的な信仰や、「これじゃなきゃ絶対に駄目だ!」「絶対に布教するぞ!」などという狂信的な信仰は、何かを「信じる」という意味では「信仰」と言えるのかもしれませんが、人のためにある本来の「信仰」や「宗教」とは違います。そういった意味では「間違った信仰」(というか信仰ではないもの)をしている人は世界中に沢山います。

それらはすべて指導者に問題があります。というのは、私達は「死後の世界」や「生きる意味」などにはとても興味があります。誰もが知りたくても知らないことに対し、「これが答えです」と差し出されれば、引き付けられてしまう人が多いのも解る気がします。
ですが本当は信じるだけでは救われないのです。一時的には救われた気分になるのでしょうが、本来の宗教の「救い」ではありません。
「信仰」や「宗教」はそもそも人が悟るためにあるわけです。そこまでいかなくても「学び」がない信仰は信仰ではなく、「ただ盲目的に信じているだけ」または「気休め程度に信じているだけ」となります。
それでも一応社会で「信仰」だと認められているのは、「自分は凡夫だ」という「謙虚さ」と、他の信仰も認める「寛容さ」があるからでしょう。(最低限それらを教えていれば、問題らしい問題はほとんど起きないはずです。)

本来なら、どういう宗教にしろ「悟り」を指導できない人が「宗教指導者」となるべきではありません。凡夫が「これが信仰だ」などと教団を作ってはいけないのです。しかし、現実は違います。
まともな(本来の)宗教が、例えば「これが正しい」と拘ってしまう「心」を教えるものだとしたら、末端の信者が「これが正しい」と他者に主張することなどあり得ないのです。(恥ずかしくてそんなことはできないのです。)

多分、日蓮系の新興宗教に多い排他的な信仰を良しとしている人達は、まともな指導者に出会えていないのでしょう。
鎌倉時代に、生きる希望を失った人達に対して「題目を唱えなさい」(すがりなさい。希望を持ちなさい)と説いた信仰を鵜呑みにして、今の時代にそのまま当てはめ理解しようとしているわけです。字さえ読めない人だっていたでしょうに。ですからそれは信仰へのきっけけ、入り口と理解すべきなのです。
「日本が滅ぶ」などという恐怖に縛られた信仰などあり得ないのに、そういうことをマインドコントロールによって植え込まれてしまったわけです。

それと「正しい」という気持ちに囚われていると、他の信仰を否定するだけで自分達の信仰を正当化できるわけで、勧誘もやり易く本来学ぶべきことはどうでもよくなってしまうのです。その方が楽なのでしょう。もちろん、指導側も徹底的に他の信仰を否定することを指導します。勧誘することも、他の信仰を否定することも「信仰」には必要ありません。

それらは全てインチキ宗教家と、それを放置してきた私達の責任でもあるし、もちろん宗教法人の認可の問題でもあります。
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この回答へのお礼

 < 彼らなりの根拠はあっても、信じない人には通用しない話です。>

 そうなんですよねえ。
 よくそれをぬけぬけと言える。その神経というか
 思考回路が不思議でしょうがありません。

 ところで、私としてはそうした「経典主義」「唯一絶対主義」
 擁護派の人からの反論も期待したのですが
 それは今のところ一切ないようですね。

 おーーい。責任者出てこーーい
 と言いたい心境です ww 

お礼日時:2012/06/03 19:50

私も同じ経験をしたことがあります。


キリスト教でしたが、聖書に書いてある
ことを根拠に、正しいと断言するのです。

では、その聖書が正しいことの根拠は
どこにあるか、と問うと答えられません、
というよりも、その問いそのものが意味を
なさないのです。

つまり、万物は神が創った。じゃあ神は誰が
創ったのか、といえば、神は自ずから存在する
ということで、答えになっていないのと
同じ論法です。

彼らは自分の頭で考えることを放棄している
のでしょう。
そもそも自分の頭で考えたら、宗教など信じる
ようにはならないと思うんですけどね。


”どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?
 彼らは他人を説得したり納得させたり
 さらには自宗に改宗させたりしようということを
 放棄しているのでしょうか?”
    ↑
宗教てのは理屈じゃないんです。
ただ信じる、というだけです。
放棄している訳じゃないのです。
明らかに正しいのに、どうして信じないのか、と
いうことです。

しかし、私たちはこういう信者を笑えるでしょうか。
民主制は疑いもなく正しい、と信じている
人がいかに多いことか。
あの国は民主的でないから悪い国だ、という
前提で議論している人がいかに多いことか。
私に言わせると、同類です。
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この回答へのお礼

 もちろん笑えませんね。

 われわれはすべて何らかの幻想にとらわれる
 あるいはその可能性に満ちている。

 だからこそ、私としてはその個別性を超えた「宗教」を求める人ならば
 本物かもと思ってきましたし、
 そういう人に出会えばおおまじめに対応してきました。

 まあ、結局は「きわめて自然な、きわめてニュートラルな
 知性」があるかどうかに尽きるようですね。

 

お礼日時:2012/06/03 23:04

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