プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

私は、カトリックのクリスチャンでもあり神道でもあり仏教徒でもあります。中でも最も親交があったのはキリスト教でした。

幼少より、神父様や厳格なシスターに、人間は世界で最も尊いものであるから、病める時、幸福な時、嵐、雨の時いつでも隣人を愛しなさいと教えられてきました。そして、中学1年まで、人間の祖はアダムとイブだと本気で思ってました。そして、イエスキリスト
は、神から与えられた人間の形をした心の支えだと。聖書にある事は、全て事実だと。哲学者のカントもクリスチャンで道徳的な自由を肯定する為にこれでもかというくらい文章にならない屁理屈をこねくり回したと聞きます。


私は、心の支えとなる理想を現実に当てはめようと必死で、しかし、現実は愛することとは逆の事ばかりで、愕然とした事が数えきれないくらいあります。
。今の今まで、理想と現実のギャップに理屈ではわかっていても、「私は、人として選ばれたのに」と苛まれていました。

今、私は、こう思います。

理想は理想であっていい。それは、困った時にシェルターの役割を果たす十分なもので、必要である事はないと思いました。そして、現実を現実として受けとめ、前を向きながら現実を生き抜く事だと。ここまでくるのに、長い遠回りをしてしまいました。


そこで、素朴な疑問です。 日本においては、宗教をよしとしない見方が大多数です。しかし、人生における節目には様々な宗教が関わっています。過激な疑問ですが、大多数の日本人は、何を心の支えにしているのでしょうか。ほとんどの世界各国においては、宗教色がとても強いです。それによる争いが耐えないのも事実ですが。
最近、ある欧米の方から、復活祭についてとても楽しそうにある種ホームパーティーの一つとして家族の写真を見せてもらいました。私は、微笑ましくさえ思いました。
日本人は元来、外来されたものに対して、中国、韓国より受け入れが早く新しいものを吸収したから近代化が進んだなんてよく言われてますが、現代社会において宗教に関しては、特に新興宗教にネガティブであまり多くを語りたがらないとおもいます。

私は、日本で生まれ育った日本人なわけですが、大多数の日本人が精神的肉体的に究極に追い詰められた時、何を支えにするのかとても気になります。

因みに、私の親類の一人は宗教はあるけれども、心の支えは家族で無宗教だという答えが返ってきました。

A 回答 (16件中1~10件)

>大多数の日本人は、何を心の支えにしているのでしょうか。



大半の日本人は「科学」を信仰していると思います。

言っておきますが、「科学的視点を徹底している」分けではありません。あくまでも「信仰」レベルです。何故なら、日本人の国民性の多くは合理主義よりも、慣習や伝統を重んじます。それに加えて科学的な視点を自分自身に徹底している分けではなく「科学で証明された→正しい事」などを判断しているだけに過ぎません。


これは「聖書に書かれている→正しい事」と言う信仰心に非常によく似ています。



私も科学の信仰レベルで、科学的分析力を自分自身に養わせるようなレベルには到底いたりませんが、そのような科学に依存する見識は、己の判断を鈍らせ、ふとした時に虚しさを感じるものです。


そして、聖書と違う点は、聖書に書かれている事は絶対に「変わりません」が、科学に書かれている事は時代によって変わります。そのため、信仰を求める多くの人は「変わらない正しいモノ」を求めますので、科学を信仰する事は相関性が若干悪いのは事実です。


それを支えにしているから、貴方のような「漠然とする空洞感」を感じるのだと思います。
(とは言え今の時代、国教を持っている国がその空洞感を完全に回避しているとは思わないが。)

この回答への補足

少し方向性が見えてきた気がします。そして、本質を突き詰めるほど人間の無力さを感じます。本題とはずれますが、その無力感を払拭する為に理想をもち続け少しでも進化する事が人間にとっての喜びなのだろうかと思いました。

補足日時:2012/05/01 01:12
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この回答へのお礼

皆様御回答ありがとうございます。
様々な視点から論じて頂き大変有難いです。

「日本人」に限定していた事が、自分の中で苦しんでいた事、自分の視点から問題を解決しようとしていた事、人間を優位的存在としていた、極めて非現実な回答を待ち望んでいたと気づきました。
その決定打となったのがkannzou001様の御回答でした。

この問いの回答は、試行錯誤しながら行動に移す事だと思い知らされ、せっかく、皆様から貴重なご意見を頂いたので、自分の人生と共にライフワークとしていこうと決意いたしました。

本当にありがとうございます。

また、疑問がでた時はお世話になるかもしれません。ありがとうございます。

お礼日時:2012/05/01 13:00

宗教とは、神を第一原因とする世界観・価値観である。


それは、自律的に生きる上で必要なマッピングであり、
日本人のように集団主義で、“周りと同じようにしたい”
という他律的意識において、不要なものである。

それゆえ、集団主義色の強い東アジアの稲作農耕文化圏
に儀式宗教的な仏教や儒教が広まり、遊牧文化圏で個人
主義色の強い中東や欧米に、意識的にコントロールする
ロジカルな一神教が広まったのだ。

その証拠に、同じ仏教圏で唯一遊牧文化圏に広まった
チベット仏教は、五体投地や聖地巡礼など(あるいは
ラマによる政教一致の支配)、厳しい戒律を伴う宗教に
変貌している。
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日本人の心の支えはまず第1に浄土真宗、次に曹洞宗です。


他力本願なら「念仏」、自力本願なら「気合い」。

詳しくはこの本↓を読んでください。
浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか
http://www.amazon.co.jp/dp/4344982509

日本人は各種行事で融通無碍にいろんな宗教を取り込んで無宗教化してるように
見えますが、実は禅宗の「無」を土台にしています。

キリスト教は極めて少数です(1%くらい)。
日本にいる八百万の神の1つにイエスを追加したような感じです。
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結論から言うなら、宗教の定義が関係すると思います。

。宗教の意味は、人間が生きるための『元になる教え』と言う意味があると思います。

人間には生きてゆく場合に障害になるものがあります、その障害が『罪の意識や、業(生きて事による苦しさ)』にあると感じます。

つまり身体や。行為する事、或は感情の湧き上がる事や湧き上がる考えに付いての障害です。

今書いた三つの障害を言葉にするなら『自律神経失調症や過敏性腸症候群や難治性の心身症』と『神経症』と『心を病む事』が該当します。

これ等の障害と見られている事が、宗教と密接な繋がりがあります。宗教の目的は『魂の救済』です。障害を持っている事からの救いが『宗教の究極的な目的』だからです。

人間の障害とは『心の矛盾』を、心に掛かる圧迫感として感じているからです。『漠然とした不安』=『何処から押し寄せているのかわかからない、不気味な感覚』です。この感覚をキリスト教では『罪=原罪』仏教では『業』と形容していると感じています。

この、心に掛かる圧迫感が古来よりの人間の苦しみとして、キリストもお釈迦様も、現代人である我々も悩んでいます。二つの意識によって一人の人間の苦しみが始まっているからです。

一つは『自我意識です。』顕在意識です。この意識は左脳に存在する意識です。処が右脳にも自覚出来ないながらも『意識』があります。この意識が分り難いため、先に書いた障害の『原因が特定出来ないでいます。』

つまり脳の機能分化による悩みが『人間の悩みや障害になっています。』聖書による失楽園の意味は、『脳の機能分化の結果、人間の心は二つに分かれてしまって、悩みが始まっている。』と言う意味になります。

つまり人間の脳の成長がほぼ完成するという意味は、脳の機能分化が完成すると言う意味です。知恵が付いたという意味になります。科学的な文献を紹介します。

ウイキペデアからです。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”



更にその事を動画によって、発信している脳科学者の動画です。


URL:

右脳の意識は『無意識の時の人間を支配している意識です。』或いは人間を『生命体として生命を維持する機能です。』

全ての命あるものに備わっている『者』です。仏教では『仏』です。キリスト教においては『神』です。お釈迦様が『一切衆生悉有仏性』と看破したものです。つまり『命そのものを働かせている意識』です。

身体の機能全て、人間の行動全て。心に湧き上がる感情や考えの全てが、右脳からの情報や機能によって成り立っている事を示しています。

言い換えるなら『右脳の意識は』神や仏として、自覚出来なくとも『人間を、その大元から支えている存在』と云う事がいえます。人間の頭の半分は元々『宗教から出来ていた事』です。

健常者と云われている人達は、自分の二つある心が上手く同調出来ている人という事が出来ます。悩みを抱えている人とは『二つの意識が主導権争いをしている人』と言う言い方も出来ます。

人間の障害とは、脳の機能の主導権争いをしている人で、身体の機能においての主導権争いが『自律神経失調症などの身体的なもの』

行動においての主導権争いが『神経症』

心における主導権争いが『心を病む事』を意味します。

その主導権争いの終結が『宗教の目的』となっています。つまり心の矛盾の解消です。その姿をキリスト教では『神と和解する』そうしてその後では、『神の(前に立とうとしないで)僕となる』

仏教では『湧き上がる不安の元が自分自身の中に在る事を知る』=『見性』です。つまり悟りを開いて、安楽な境涯に至る事を意味します。

命そのものの働きは、自覚する事は難しいかもしれませんが、脳梁を切断した場合では科学的に証明出来ています。

自我意識が単独で『身体の機能を維持しようとしている事が』その原因です。右脳に身体の機能を任せる事で健常者になります。

自我意識単独では眠る事も、字を書く事も、歩く事さえ出来ません、自我意識単独で行動できるという思い込みが神経症の元を作っています。

自我意識の計らいや思惑で『心を自由にしようとする事が』心を病む事に繋がっています。

自我意識と『命の働き』=『無意識の時の自分を支配している意識』が仲違いしている場合に、心は圧迫を受けています。

精神科医が処方する薬は、右脳からの情報を遮断する働きから成り立っています。薬の効能が切れた時点で、又情報は送られて来ます。正しい情報の処理を学ぶ事で解決する問題です。

症状と考えているものは、頭の中で作られた妄想です。症状を受け入れた時に妄想は消滅します。それは『現実と頭の中の事実が一致する場合です。』

検査をしても何処にも『元々異常がなかった事』を認める事だけです。思い込みが解ける事が実際には『真に難しい』事であります。

症状らしきものを受け入れた時、症状は消滅します。それは『治そうとしなくなった時』です。

何処にも異常がない事を『了解した時』に健常者の仲間入りをする事が出来ます。

宗教の必要性を感じていない事は、頭の中の自分の宗教と上手く同調出来ている事を意味します。
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理想は理想であっていい。

それは、困った時にシェルターの役割を果たす十分なもので、必要である事はないと思いました。そして、現実を現実として受けとめ、前を向きながら現実を生き抜く事だと。
⇒ 理想、目標、人の道、戒律を守る、その他何と表するものであっても良いと思うのですが、現状だけに生きるのではないことが、進化してヒトの脳を持つ者としては、かなり大事なことだと思います。 現状を楽に生きる、世間をうまく生きるという方法でも満足できるヒトも少なからずいるでしょうし、それさえもなかなか難しいヒトも結構います。 しかし、おそらく過半数あるいは半数に近いヒトは、イデア、理想のようなものに向かう姿勢をとても大事にしていると私は思います。 少なくとも、物書きや歴史上の事蹟を残したヒトは乱暴者や法規違反のヒト、無学のヒトでも、目指す自分の生き方を持ち続けたヒトが、圧倒的に多いと思います。暴風雨を避ける港やシェルターではなくて、欠くことが出来ない目標、目指す道なのだと思います。
 
ここまでくるのに、長い遠回りをしてしまいました。
⇒ 長い遠回りでも、近道でもかまわないでしょう。やり直しは出来ないです。 正しい道なのか、最終的に到達できるのかもわかりません。間違いか正しいかはわかりません。 自分のこれまでとこれからをそのままに受け入れることが大事なのだと思います。
 
私は、国籍は日本ですが血としては半分だけ日本人なので、皆様のお答えをそれぞれ参考にしながら様々な資料を慎重かつ多義的に熟読、研究しないと、真の日本人の心を理解できないと判断しました。
⇒ 多義的に考えることは大事だと思います。 なお、「真の日本人の心」という単一のものはありません。10世代、20世代と日本での血統しか持たないヒト1000人には、相当数のバラバラの感じ方、考え方、行動スタイルがあります。地域差も大きいし、昔生業としていた職業集団が持っていた気風を引継ぎ影響されていることもあります。文化は、傾向として何かを言うことは出来ますが、「真の日本人の心」というものがあると思ったら、大きな間違いです。
 
私のアイデンティティとしては、日本人だと思ってます。ひいては自分としての「日本人とは」の答えを出すべき時期がきたと思ってます。現段階では、答えがわかりません。
どれくらいの時間がかかるかわかりませんが、必ず「お礼」として自分の答えを表明します。
⇒ 考えること、問い続けることは大切です。 時間は相当に掛かるし答えはないかもしれません。 一番大事なことは、考えるだけでなくて、その時点で考え感じた範囲で、仮説試行的にでも行動することです。 信仰でも、祈ったり、唱えたり、それにあった律や戒を守り、しっかり信徒としての行動をとることで、一歩の前進が出来ます。 信仰を持たないと思う場合でも同じです。 自分が理想としたり、目標とする生き方に向かって、自分を律し(=自分を磨くと思う人もいるし、プロとして精進努力すると言う人もいます)行動や生活の中心に持ってくるように努力し続けることが、答えを探す本道です。
 
日本においては、宗教をよしとしない見方が大多数です。しかし、人生における節目には様々な宗教が関わっています。過激な疑問ですが、大多数の日本人は、何を心の支えにしているのでしょうか。ほとんどの世界各国においては、宗教色がとても強いです。それによる争いが耐えないのも事実ですが。
⇒ 宗教は普遍宗教だけでなく民俗宗教もあります。民族宗教という概念もあります。 神仏混淆と呼ばれている教義の統一性を欠いた言語説明が困難な内容のものもあります。日本には、正月、節分、節句、盆、夏祭り、地鎮祭、上棟式、お祓い、合格祈願、良縁祈願、商売繁盛、厄除け、神前・教会式結婚、宮参り、初詣、除夜の鐘、通夜、四十九日、成人式、復活祭、クリスマス、何でもありです。
イスラムでも、カトリックでも、習俗の中に組み込まれたものは沢山あります。 明確な教義がなく、教祖や神父、牧師、教導僧はいないが、呪術師、神官、僧侶のようなイベント専門家が式を進行支援するのでも、形は違っても宗教です。 明確な教義がなくても、心に不安を生じたときに困ることはないのです。 お祓いしてもらったり、祈願したり、真言呪やお経の読経を聞いたり、懸命に祈れば、お宮でも仏像、神像、山や磐でも滝でも、お守りでも良いのです。 祝詞や聖書の一部を読むのだと、聞いていてもわかりますが、読経やアラビア語のコーランを聞いてわかる人は限られます。 イスラムでは偶像崇拝を禁じますが、キリスト教の信者の一部にはマリアを崇める人もいます。 聖人を崇めたりするのは、多くの宗教で良くあることです。明確な教義などがなくても、教義がわからなくても、心の支えにして生きることも、苦しいときの神頼みをするのも出来ます。 これらは日本だけでのことではありません。
⇒ 世界で宗教による争いと言われるものの多くは、経済資源の奪い合いです。 水利権を村と村が争ったり、比叡山の法師が強訴、金峰山の襲撃事件、一向一揆や天草の争いでも、スラブやアラブ、アフリカ、インドパキスタンで起きる争いも、経済や支配権の争いが基本です。 宗教で争うことは、イスラムでも、法華でもあるのですが、社会事件になるのは、別の意図が絡む場合です。中国でも、日本でも、廃仏毀釈はかなり決定的でしたが、こうした宗教の採否だけなら、長く続く大規模な争いにはなりません。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/521195.html
 
日本人は元来、外来されたものに対して、中国、韓国より受け入れが早く新しいものを吸収したから近代化が進んだなんてよく言われてますが、現代社会において宗教に関しては、特に新興宗教にネガティブであまり多くを語りたがらないとおもいます。
⇒ 明治期の日本の近代化産業興隆の速度は、中国、韓国、インド、ロシアに比べても速いものです。 それは宗教とは関係ないと思います。 なお、新興宗教というか、別系統の宗教をすぐさま受け入れるという社会はないと思います。 唐の場合でも、国際交流、貿易や国土拡張などで、多様な民族が入ってきて、その人々がそれぞれ宗教を持ち込んだのを禁制、排除しなかったからに過ぎません。
新興宗教でも外来宗教でも、信者はじわじわと増えるものです。 地中海周辺でも、キリスト教が信徒を獲得するにはそれなりの時間が掛かっています。政治経済が絡まない場合は、それほどの速度では広がりません。
 
大多数の日本人が精神的肉体的に究極に追い詰められた時、何を支えにするのかとても気になります。
⇒ 非定型うつが、日本でも米国でも増加しています。精神の安定には、理想、目標や戒律、習俗、道徳律で自己を位置づけることが有用です。 それが失われるとストレス障害などが起きやすくなるようです。 しかし、そうしたものや特別の支えがなくても、多くのヒトは何とかやっていけるものです。 日本にもそれなりに頼れる習俗が沢山あります。 中には、心理療法とかオカルトや医療に依存しようとするヒトもいますが、日本人の大多数というほど多くはありません。
 
私の親類の一人は宗教はあるけれども、心の支えは家族で無宗教だという答えが返ってきました。
⇒ 「家族が私の支え」「彼(女)が私の支え」「子どもが私の支え」と言う人は、どの社会でも、それなりの人数割合でいると思います。 
密教を含めて、今の日本に多いのは、大乗系の仏教の系統を引いています。(仏教と言えるかどうか疑問な点もありますが、、、) 仏教の元々は小乗あるいは上部座と言われる系統のものです。 基本は自分の解脱を目指すものです。 戒律が(少なくとも戒が)厳しいです。 (そうした戒律が厳しい宗教は、日本でも、他の社会でも、長期間、社会の中の多数の割合の人々に支持されることはありません) イスラムでも、ユダヤでも、同じです。
キリスト教でも、大衆を救済すると標榜している宗教だから信者になっているという人々の中では、宗教や信仰一途ということはまれです。 習俗として、困ったときのすがり先として宗教を使っているくらいです。 それなら無宗教というか、原始信仰、アミニズム、自然物崇拝でも似た様なものです。

この回答への補足

何から手始めに勉強しようか正直困ってました。
回答していただいた事を参考に勉強しながら、生きる道筋を立て試行錯誤しながら実行していきます。私には、アミニズムという概念もなかったので様々なキーワードを元に一つ一つ研究して、ある程度理解したら、自分の考えを表明しようと思います。

補足日時:2012/04/30 23:32
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日本にも宗教は有りますよ。



文科省によれば、神道の信者は1億1千万人
もいます。仏教は9千万人です。

特に、学者や国家が勝手に構築した神道ではなく、
古来からある神道は、殆どの日本人がその信者と
言えるでしょう。

え?
俺は、神道の信者になった覚えはない?

はい。本来の神道というのはそういう宗教なのです。
入信の儀式はおろか、信者であるという自覚すら
不要の宗教です。
先祖を想い、我々は自然の一部である、という
感覚さえ持っていれば、それでもう立派な信者です。

宗教というとすぐにキリスト教のような宗教を念頭に
置くので、奇異な感じがするだけです。


”日本人が精神的肉体的に究極に追い詰められた時、何を支えにするのかとても気になります”
       ↑
日本独自の宗教、神道はこういう時の支えに
なるんですかね。
自然に帰る、ということで死を選ぶのでしょうか。
そう言えば、日本は自殺が多いです。
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まあ、日本人が特別だとは思いませんが、無宗教の人の割合が多いことは確かなようですね。

ただそれをしっかり自覚しているわけではなくて、いわゆる宗教というものの偽善性というか、非科学性というか、ぶっちゃけ神などというものがいかにに頼りにならないか、ということを覚めた目で自覚していて、その上で割り切って彼らを利用するときは利用しているというスタンスなのでしょう。

>日本人が精神的肉体的に究極に追い詰められた時、何を支えにするのか

神様、仏さま、と祈ることはあるだろうと思います。でもそういった祈りが成就されることを信じてはいませんね。やはり自分が日ごろ信頼している様々なものを頼って、とりわけ自分の力、親族、仲間の援助にすがるのではないでしょうか。

昨年の自然の大災害が神からの罰だとマスコミでのたまった老人がいますが、彼は意外にも日本で一番大きな自治体の長に選出されたほどポピュラーな人気があるのです。私はまtったく買いませんが。
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日本人は元来、外来されたものに対して、中国、韓国より受け入れが早く新しいものを吸収したから近代化が進んだことは確かだと思います。



しかし、日本人は、理屈に合わないことを嫌う性質があるのではないかと思います。だから、理屈が通る科学や物理的なものは受け入れるのではないでしょうか。

日本人の気質として、『とにかく、神を信じなさい』と言われたとき、『はい。神を信じます。』というようなアバウトな考えになりきれないところがあるのではないでしょうか。

『神を信ぜよ』といいます。しかし、『神とは何ですか?』『神の何を信じるのですか?』『神は人間に対して何を行ってくれるのですか?』というような疑問の論理的な解答がなくては信じられない人が多いのではないかと思います。
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私は自分を無宗教だと思ってましたけど。


でも最近、自分の中にも、神様を求める心がある気がしています。

まだ、仏教なんか入って来る前、日本の古代からある信仰心。
山とか空とか、自然の中に、神様を求める心に近いみたい。
最近、ちょっと知識も欲しくなりました。


新興宗教ですか?
いや、あれは、別物。
人の信仰心につけ込むお化けです。
お化けを操るのは、一部の人間。
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宗教と信仰と布教活動が、一緒になっていませんか。



多くの日本人が宗教を、特に新興宗教を嫌うのは、その布教活動ゆえです。盲信もあるかもしれません。
質問者さまの仰るような、クリスチャンであるが、神道も仏教もというのは、現在の日本の宗教形態としてはよくありますが、信仰しているとは言えませんね。もっとも、仏教と言うのは、本来信仰するものではないとも言えますが。

多くの日本人はアニミズム的な意味合いでの信仰心は持っていると感じます。
だからこそ、宗教をベースにした行事がもてはやされるのです。
質問者さまが、復活祭を微笑ましく感じるのも、そこにあるのが信仰であって、布教活動ではないからではありませんか?もし、その方が、「なぜ日本では復活祭をしないのか、復活祭をしないなど未成熟な文化だ、野蛮だ」と言われれば、微笑ましいと感じたでしょうか。

私は、個人的に「究極に追い詰められた時」支えになるものは自分だと思っています。
以前は、神に頼ろうととしていました。どの宗教もピンと来ず、自分の中の信仰でしたが。
やがて、それは、「頼ったきたから助ける、頼らないから助けない、というのは『神』と呼べるのだろうか?私が信じる『神』はそんな、ちっぽけなセコい存在なのだろうか?」という疑問に変って行きました。
私が「究極に追い詰められた」と思っていても、もっと高い場所にいる存在からすれば、自分で勝手に煮詰まっているだけかもしれませんし、成長するための試練なのかもしれません。
自分の中に、積み上げてきたものがなければ、何に頼ろうと無意味です。実際に、仕事などで人に助けてもらうにしても、自分の中に「助けを受け入れる、助けを役立てる」力が必要なんですよ。
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