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新約・旧約聖書などに書かれる信じがたい奇跡、皆さんは信じますか?
もしも魔法や奇跡が誇張して書かれてたら、真実版の聖書って必要じゃないでしょうか?

聖書の世界観は大好きです、歴史の史実も大好きです。
そんな私の悩みです。

旧約37章の出エジプト記のダビデ以前は創作が強いとの事なので私はあまり関心がありません。
(とは言っても旧約関連もウィキペディアでついつい読みふけってしまいますが・・・笑)

皆様はいわゆる「預言者」の伝承や奇跡は正しいと思いますか?
私は読んでいて歴史がわかって楽しいし、初めは真実か否かなんて関心がなかったのですが。

色んな本やWEBを読みあさってる内に色々モヤモヤしだしたのです。

・四大聖書の食い違い
・キリスト存命当時から、ルカやマタイや書記班の全員はQ資料から照らしあわせて聴きづてで情報を集めて書いていたとされるらしい。
・そもそも現在読まれてる福音書そのものも写本であって真実かどうかは疑問。
・パンと魚が増えたのは「説法」をして人々の心を満たして空腹を和らげたんじゃないか。
・紀元後直後のローマではキリスト教は誰の目から見ても迫害されてたが、正義として書かれてるのはなぜか。2000年も経つと常識は覆されるのでしょうか?
・キリスト本人は本当に神からの声が聞こえたのか。
・今現在、見て取れる聖書のストーリーのイメージは、14世紀以降ルネッサンスの影響であって。実在の表情や背丈、身成などは当然全くの別人。キリストのロングヘアーも疑問視されてると聴きました。
・マグダラのマリア架空人物説(三人の女声がモデル)を読むと人間なんだなって思う。
.・最後の晩餐までにキリスト本人に逮捕のリークがあったのではないか。イスカリオテのユダは隠しきれなかった。
・キリストの試練や死に至る苦難の悲しいストーリーは、人間の価値観的(文化人類学)に考えれば当時のイスラエル市民にとっては逮捕された違法論者にしか見えなかったのではないか。(2012年現在では犯罪者でも未来には伝説になってる人も!?)

私は「過去の偉人達が起こした魔法がまさしく真実」だとしたら・・・
それはまさに奇跡で涙をながすかもしれません。
きっと私は感動し、聖槍を突いたロンギヌスのように改心するかもしれません。

しかし信じられません。
なぜこの2012年には奇跡が怒らないのでしょう?
私達には試練ばかりです。
過去の人間が預言や特別な力を持っていたら、現在の私達の時代も何百年に1人は目を疑うような奇跡を起こす人が生まれてもいいのではないでしょうか?

そこで私は無い知恵を絞って考えました。
人間はテキストを残す力を得、どんどん文字で詳細を残す技術を高めました。
その結果、モヤモヤも残らないほど奇跡のからくりが科学の進歩によって謎が解明され、それすらもテキストで確認できるようになりました。
2012年現在の歴史は、未来1000年以降も正確に伝承されると思います。

文字で正確に文化を記録し後世に残す技術がなかったので魔法のような、またSF映画のようなストーリーが聖書として残ってるんじゃないかと思うようになりました。

ましてや冒頭で触れた旧約聖書37章 出エジプト記以前のストーリーはまるでファンタジー映画を見てるような感覚です。
旧約では簡単に人が神と会話をして何百歳も生きて神の息吹で生きもし消えもする。
神が考えたものは具現するし7日で全てが完成した。
しかしいま現在でもアメリカの大きな都市や州でも学問としてのチンパンジーからの進化論ではなく「旧約聖書を史実として信じてる」場所も少なくないそうです。
国が何億円も掛けて子供たちに見せる天地創造博物館が在るぐらい本気です。

私は普通に日本で生まれ日本で育ち、それなりの生活で、それなりの友達、それなりの悩みを持ってます。
宗教に関しては正直親が亡くなった時にお寺で初めて知ったぐらい全く無頓着でした。

しかし映画がキッカケで聖書や歴史、考古学に興味を持ちました。
全世界の映画を見ていると、バックグラウンドに聖書が絡んでるストーリーって多いですよね?
パゾリーニ監督のテオレマやリンチ監督の訳の分からないクレイジーな内容の映画も聖書的な構成だったりエレファントマンには衝撃を受けました、アニメでもエヴァンゲリオンなんかも使徒が出てきます(正確には戦艦がストーリーの骨格らしいですが)。
今こうして私達が昔の7世紀からある教会のモザイク画で古い人間の容姿、表情、服装、文化を調べて見てるように、今のCG技術やルネッサンスの受け売りで偶像していけば1000年後にはまた全く違うキリスト像が生まれるのではないか、それでは元々の史実とは異ならないか?
と思ったわけです。
復活したメシアは使徒トマスではないのか?
湖の水面を歩いて来たのは水面が凍っていたのではないか?
そもそもイエスは本業は建築工。なぜ急にこのような才能に恵まれたのか。
なぜこれほどの人が生まれた時から奇跡を起こしていたのに、2歳から16~7歳までの記録が全く無いのでしょうか?
ヘロデ大王からの条例逃れで隠れていたにしても、これ程の人物の行動を見失うものでしょうか?
また、この謎の青年期は世界各地で同時間軸に「うちの国にいてましたよ」と謳う国が後を絶ちません。
日本では青森でキリストの様な人物がいたのではないかとの伝承があるそうです。

もちろん青森や世界各国での話はは聖典でも外伝にすら乗ってないそうです。
これではまさに宗教とはなんぞや?
疑ってしまった気持ちを恥ずかしく思いつつ、ずっと感じてたこのモヤモヤを話してみました。

人類は解ってるだけでも数万年前から壁画や石を積むだけでも何かを残しています。
自然の山を見ては蛇に例え、星を見れば動物に例え、何かしらの伝承が何万年も前から残ってるわけです。
元を辿れば大昔にどこかの誰かが道具を使い始めたのが名残でここまで進化したのなら、ほんの2000年ぐらいで人の記憶は消えるよう脳が仕組まれてるのでしょうか。
石器時代の人間もきっと同じ月を見て綺麗だなって、同じ気持ちになったのかなと思うとワクワクします。

と同時にルネッサンス絵画を数億円で取引してるのを見て、第二のマルティン・ルターが現れないか心配です。

■まとめるとこれが質問です■
みなさんは信じるものが事実でも嘘でもどっちでもいいですか?なんとも思いませんか?
今現在は犯罪者扱いされてる人が、2000年後には崇められるような人物は現代にいますか?

余談ですがマイケル・ジャクソンは数百年後再評価されたとき未来人に驚かれそうですよね(笑)

A 回答 (12件中1~10件)

超越した事例は、昔の人間用に書かれたものです。


ああすごいって。

でも、内容は、人間を守るために書かれていますので信仰なさってください。間違えなどありえません。
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キリスト教徒です。



聖書に書かれていることは、旧約・新約全66巻、すべて真実です。

神は天地万物を6日間で創造され(文字通り、1日24時間×6日の時間で、です)、7日目に休息され、第7日目を聖別されました。

人間は神が造られました。ご自身に似せて、土をこねられ、その鼻に命の息を吹き込まれました。この人物の名はアダムです。

神は、アダムを深く眠らせられ、そのあばら骨の1つを抜き取られて、もう1人の人間を創造されました。この人物の名は、エバです。

アダムとエバ、すなわち、男と女です。

アダムとエバが、神が食べてはならない、と命じておられた木の実を食べて、堕落した話は、ご存知ですね。

実際、神の前に正しい人であったノアの時代に、ノアとその妻・3人の息子たちとその妻、計8人を除いて、大洪水で滅ぼされました。

神による人類滅亡計画、という解釈は、完全に間違いで、天地万物が創造された時点では、美しかった世界を、神の前に堕落して、悪をはびこらせた人間の、自業自得です。

私たちは、アダムとエバの子孫ですが、ノアの8人の家族以外は、大洪水で滅ぼされましたので、直接的には、ノアの子孫です。

さて、主イエスキリストは、罪が入り込んで堕落した世界を救うために、2,000年前、おとめマリアを通して、この世に来られました。

主イエスキリストは、神であられ、かつ、人であられます。

地上公生涯の3年半、人々に神の教えを説かれ、病人をいやされ、罪ある人を悔い改めに導かれ、全く罪を犯されず、そして、旧約の時代に神が預言者を通して語られたように(イザヤ書53章、ダニエル書9章24~27節など、多数あります)、罪ある「私」を救って下さるために(ここが重要なところで、『私のようなものを』救って下さるために)、十字架にかかられました。

主イエスキリストは、死をうち破られて、3日目に復活され、天に昇られ、父なる神の右に座しておられ、いまも私たちを、ご自身のみもとに来るようにと、招いておられます。

主イエスキリストを通してしか、天国に入る道は、ありません。

聖霊の神様のお導きを願いながら、毎日、ほんの2~3行でよろしいので、聖書をお読みになることを、お勧めします。

そして、お祈りなさることをお勧めします。主の祈り(マタイ6章)などが良いですね。

質問者様、つたない説明で、申し訳ありません。

文字数制限の為これで失礼します。
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聖書(新、旧)の内容は 事実がなんらかの形で投影されたものと思いますが、必ずしも事実が記載されたものではないでしょう。

科学的に記載事実の実証があって 考古学範疇に入ってくるものと思います。特に奇跡の記載 あるいは 奇跡に近い記載は相当に科学的に疑っていかなければ ならないと思います。聖書を信じることは 進化論をいまだに否定するという 人をつくることになります。
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 お疲れ様



そして、そこまでいうなら、真実を証明してください

宗教という思考停止に至ることを恥じない人々の「真実」とは、”疑わたず、信じきる”ことによって、『創造』(捏造)の産物に過ぎない・・・

それ以上でもそれ以下でもない

お願いだから、真実という言葉で、価値観を押し付けないでくれ・・
迷惑だ

そして、他人にとって迷惑であることも思慮できない「思考停止」をただちにやめてほしいものである
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“みなさんは”との質問なので勝手な個人の見方です、


先ず質問に回答:
・信じているのならば事実でも嘘でも可。
 信じている女(恋人でも、妻でも)のいう事に嘘があれば頭にくる
 と言った次元のことではありませんよね。
   …これならばほとんど裏切られるのが世の常。
・2000年後になってみないと分かりません
   …答えになっていない?
・彼を見ると虫唾が走るほど嫌いです。
   当然数百年後の未来人も驚くでしょう。

ーーー以下駄弁です-------------
思うこと:
・聖書は読んだが未だに信じられない。
・全知全能の神がつくった世界になぜ悪があるか。
・全知全能の神がつくった世界になぜ他の宗教があるか。
・なぜ神は日本に恵みを垂れ賜わなかったか。
・事実だから信じるのではなく、信じる神が施したことだから事実とせざるを得ない。
・自分を益するもの(心身でも物品でも)を与えてくれたのが、たまたまOO教だった。
 信じる対象は人の置かれた環境と社会条件次第。
・宗教間で教義を争うと勝者は無い、議論の根底が異なる。
 相手を論破したところで、宗教勢力としては信者の多い方が勝ち。
すなわち、彼らの信ずることが真実とされる。
・奇跡と称するツールも古代だからこそ効果的。宗教は組織化した途端に利益誘導の世界。
 基督教の当初から、更に時代が下るとともに布教に陰湿,強制,武力,策略が伴う。
・地域の布教に成功すると、自分の選択でなく付与のものとして引き継がれるのが人間社会。
・宗教勢力版図は、人間の宗教心に付け入る布教の成否の結果であり、
 宗教宗派の教義の優劣ではなさそうな。
・キリスト教者が自己利益の為に他人を傷める事実。
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・ニーチェ『アンチクリスト』:ニーチェは神を否定していません、キリスト教が“作った神”を批判しました。キリスト教は本来の神の教えを歪めて、無知無能な階層から籠絡しローマ帝国を乗っ取った邪教。以降は教会覇権のご都合主義の成果物。
安易に読めるのは、適菜収訳『基督教は邪教です』講談社新書。一般人も分かるように、学術論文調から離れた超訳方式ですが、
東京大学大学院教授(社会経済学、相関社会科学)松原隆一郎氏が解説を書かれたくらいの信頼性はあります。
・釈徹宗著『不干齋ハビアン 神も仏も棄てた宗教者』:孔・老に造詣あり仏教各派に通じる禅僧。キリシタンに傾倒し仏教批判書『妙貞問答』を著す。佛儒論客を論破。44歳で女性修道者と共に姿をくらますが、後にキリシタン批判書『破提宇子』(キリシタン管区長が「地獄のペスト」と嫌った書)を記す。おそらく世界で初めて仏教・儒教・新党・キリスト教を比較して論じたのがハビアン。

*私は宗教を否定するものではありません。
主題の基督教について言うならば、聖書の記述の虚実よりも、基督教者や基督教国の胡散臭さ、似非聖者ぶりが嫌なのです。
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真実は個人の内面にあるもので、客観的な真実とはある意味偶像です。



>みなさんは信じるものが事実でも嘘でもどっちでもいいですか?

個人にとって信じるものは事実です。それを事実か嘘かと疑うこと自体、信じるものではないということも言えるのでは‥‥

秦の始皇帝・魏の曹操・織田信長‥‥みんな近年再評価されているようですが、これらの方々からは未来人である当方は別に驚いてはいません。

当方は信者ではありませんが、人はそれこそ神ではないので、無から何かを造る事はできません。何か記されているものがあるのなら、その根拠となる何らかの事象は必ずあったでしょう。ただしそれは伝えた人々の内面の真実が反映されているはずです。だから全ての人に対する唯物的事実ではありません。
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聖書の記述がどこからどこまで真実なのかこんなところで聞かずに、一度ご自分で調べてみたらどうでしょう。


冗談だと思うかもしれません。が私は本気で言っています。

アカデミー賞を総なめした名作映画「ベン・ハー」の作者であるルー・ウォレスはアメリカ南北戦争当時将軍でした。
ある日、彼はキリスト教が嘘であることを証明するために、探求を始めました。
最初、彼は聖書のウソを暴こうと思い、その間違いや嘘を探し始めます。非常に簡単なことだと
思っていました。

が、この探求の中で、探しても探しても聖書の決定的な誤りの証拠は見つかりませんでした。
それどころか探せば探すほど、「冗談だろ!」と思うような聖書の真実性を示す証拠ばかりが積み重なって来たのです。

彼は、その、長い探求のなかでとうとうある一つの結論に達します。イエスキリストは受肉した神であり、聖書に書かれていることは奇跡に関してまですべて真実であるということです。彼はクリスチャンになりました。「ベン・ハー」はその時の経験からインスピレーションを得て作られた作品です。

このように、非常に知的な人間が、キリスト教や聖書の嘘を暴くために証拠探しを始め、かえってその結果信仰を得てクリスチャンになるという例は枚挙にいとまがありません。
その中には著名な政治家、新聞記者、科学者なども含まれます。

あなたも、結果はともかくぜひとも信頼できる学問的な方法でキリスト教が真実かどうかを見極めてほしいと思います。聖書の「あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら, わたしを見つけるだろう」という言葉を確かめてほしいと思います。


少しだけ奇跡に関することを書いておきましょう。
現在の学術的な聖書学という分野において、キリストが奇跡かどうかは別として何か「超自然的なこと」を行ったことはもうクリスチャン、非クリスチャン、反クリスチャンすべての良心的な研究者が認めています。現在は、その「種明かし」のほうに関心が移っています。
このスタンスは、学会など行かなくても「ナショナルジオグラフィック」などの欧米のテレビ番組を見てもはっきりと読み取れます。

いま主にその根拠となっているのは
(1)キリストの死後福音書は数年以内に書かれ始めた可能性が高く、目撃者が多数生きている状態であり、物語やねつ造が発生する時間的ギャップがない。
(2)ユダヤ教の聖典タルムードなど、反キリスト教の勢力が書いた文書からもキリストが奇跡を起こしたことが示される文書が発見される。
(3)キリストの死後、12弟子のうち、11人が殉教を遂げている。また多くの初期のクリスチャンが信仰を守るために殉教を遂げている。人間、真実のためには命を投げ出すことができるが、嘘のために命を捨てることはできない。しかも、12人中11人もの人間、しかも厳格な一神教者のユダヤ教徒であった弟子たちがキリストが神だということを証明するために殉教するなど考えにくい。しかも、彼らはオーム真理教などと違い、貧しい人を助け、迫害されている人をかくまい、きわめて知的にも人格的にも優れた人間であったことがわかっている。このような人間たちが洗脳だけでここまで高確率で信仰のために命をかけるなどということは何か特別なことが起こったと考えざるを得ない。

などです。
ちなみに、(1)に関しては、よい比較例があります。イスラム教の聖典であるコーランですが、ここには実はマホメットの奇跡物語は何一つ出てきません。
彼の奇跡物語が書かれるようになるのは死後200年以上たってできた「ハーディス」(言行録)からです。
基本的に、古代の文書には奇跡物語は確かに多いのですが、かなり事実関係がいいかげんな、突拍子もない胡散臭い文書か、あるいはその人物の死後、生きている目撃者がいなくってから書かれたものに限られています。

新約聖書は古代文書として、超一級な事実関係に関する正確な資料です。このことはすべての考古学者が認めます。そのような文書において、目撃者がまだ生きているときに書かれたとしたら、そこに嘘が紛れ込んでいたら、その嘘を糾弾する文書が残るか、あるいは聖書として生き残れなかったかどちらかでしょう。が、どちらでもないのです。

あなたが、ぜひとも実り多い探求の旅に出ることを願っております。
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聖書どのように解釈しても、読む人個人個人の自由です。

 一言に聖書と言っても、旧約の方が話としては面白い内容だと思います。 聖書の内容を信じて読もうが、首を捻りながら読んでもかまわないですね。 あなたの考えを、誰にどのように評価してもらいたいのでしょうか? 
青森の”へライ”のことを言っておられるようですが、妄想的な考えから出てきたものでしょうね。キリストとか釈迦も全て
日本に来て修行を積んで、教えを広めた、と言うことをいっている人々がおられますが、如何思われますか? 2000年前の日本(現在日本と呼ばれている地域)の状態を考えたら(現在の歴史的/考古学的見地から見て)そんなことがあった、と考えられますか? 
極端なことを言えば、古事記などと同じような考えで読んだら如何でしょうか。
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はて、さて、全て事実かも知れないし、創作された事かも知れない。


今の人類文明では、解明しきれないし、文明がある程度、発達した分、かえって脳の思考範囲を、現代常識で狭められ、その常識の範疇を超えた物は、否定され打ち砕かれる!
その方が、賢い人と錯覚する傾向にある。
いずれにしろ、いかんともし難い事のように思います。
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ノンクリスチャンの大学生です。

親しい友人がクリスチャンであるのがきっかけで、高校生のころから宗教に興味を持ち始めました。あなたと同じようにキリスト教の世界観に惹かれ、聖書も読み、教会にも通っています。
しかしながら、私は神様の存在を信じませんし、聖書の世界が真実だとは全く思いません。真実であると証明するものがないからです。それどころか、キリスト教に入り込み、クリスチャンの方から聖書や神様のお話を聞けば聞くほど、その存在が人間が想像の中で作り上げたものであるという確信を深める一方という状態にいます(笑)
さて、宗教の本質は信仰です。信仰とは、望んでいることを確信しまだ見ぬものを確認することです(BYパウロ)。私見ですが、宗教において、確信する内容が事実であることはどうでもいいのだと思います。大切なことは、信憑性ではなく、ある事柄があり、それを信じる人々が精神的平安を手に入れてきたという事実、そればかりではなくそれを信じる人々が多くの人を傷つけてきたという事実があるということだと思います。

駄文申し訳ありません。
回答になっていないかもしれませんが、私も聖書についてはあれこれ考えていた時期があったのでたまらず書き込ませていただきました(笑)

ちなみに、下記URLは私が尊敬している方のお話です。よろしければ参考になさってください。

参考URL:http://www.ted.com/talks/lang/ja/alain_de_botton …
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