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例えば、
今日は交通事故により日本で10人死にました。
シリアでは100人が戦死しました。
夕食の魚は生物学的に見れば遠い従兄弟のような存在です。
夜空を見れば無数の星が死んだり生まれたりしています。この時には人類が知らない無数の命がそれこそ天文学的な数で無くなっていると思います。

しかし、多くの人は、星の瞬きを美しいと言い眺めます。
どういう神経をしているのでしょうか?

また、私自身も、多くの知らない人が死んでいるのに、この程度しか心が痛くありません。
人が他者を思いやるというのは所詮このレベルの痛みなのでしょうかね?

A 回答 (13件中1~10件)

人間そんなものですよ。


考えても見てください。
日本でも復興の進みが遅いと国を叩いていますが
復興がれきが処理もできないが他の県民の人たちは
放射能汚染されているから受け入れは嫌だという。
これじゃあ進みませんよ復興。

沖縄米軍基地の問題でもそうですよ。
みんな沖縄に押し付けている。
こう考えたら思いやりもないですよ。
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他人が殴られていても、自分は何も痛くはない。


心の痛みだからわかりにくいのであって、
体の痛みで考えればよくわかる。
本当に心が痛むのであれば、アフリカの飢餓のような
食うに困る貧困者はいない。
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まず、「人は~」とひとくくりにすることは間違っていると思います。


一般的には気にしない人が多いですが、マザーテレサやナイチンゲールのように気になさって行動なさる方もいらっしゃいます。そこまで全霊をあげてではなく、余力での寄付レベルであれば、なさっている方は多いでしょう。
そして、行動はできないまでも、気にする方も多くいらっしゃることでしょう。


私の個人的な感覚で言えば、交通事故で1人亡くなりました、100人が戦死しました、食事のおかずは命を奪っています、というのは、失礼ながら、自己満足に過ぎないと思います。

人類に限らず、生あるものが生きるというのは、何かを犠牲に踏みつけるということです。
助けようとすれば助けられたかもしれないものを見殺しにしている率でいえば、数え切れないでしょう。
しかし、じゃあ自分を捨ててまで他者を救おうとした場合、救いきれるのかといえば、絶対に無理です。むしろ救おうとすることで、別の何かを犠牲に踏みつけることになります。

単純な話ですと、目の前に、おなかをすかせた野良ネコがいたとします。
かわいそうだと、餌をあげれば、その野良ネコを救ったことになりますよね。
けれど、その餌で生き延びた野良ネコが子どもを産んだ場合、餌をあげたことで、野良ネコを増やしたことになります。
また野良ネコによって、庭の植木や花を無茶苦茶にされたり、鯉や小鳥といったペットを殺される人にとっては、野良ネコを救う人は、間接的な加害者であると言えます。

もともと、「思いやる」ということ自体が、自身の優位や安全を確保したうえで行うことです。
人間に限らず、命あるものは生きているだけで加害者です。
加害者同士が、少しでも互いを助け合うための手段、傷つけることを少しでも減らすための手段のひとつが「思いやり」です。
効率を考えるなら、知らない人を思いやるよりも、目の前の人を思いやるべきでしょうね。
知らない人は、思いやったところで何もできません。相手に思いすら伝わりません。質問者さまがどれほど心を痛めようと、何一つ感じなかろうと、見知らぬ誰かには同じことです。
目の前の人ならば、思いが伝わることも助けになることも可能です。
ころんでケガをした時に、誰かが「大丈夫?」と声をかけていたわってくれようと、無視して通り過ぎようと、指さして笑っていようと、ケガが治るわけでないのは同じですが、いたわってもらえれば心強いし、無視されれば淋しいし、笑われれば腹が立つでしょう。
そんなものだと思います。
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他人の痛みを自分のように感じる精神疾患があります。


しかしそれは単なる異常ではなく、正しい自己の社会生命
性(自分一人では生きられない=世界中の人々の営為に
依存している=助け合いとしての社会)の認識による、
完全な他己化(愛による社会行動=自律的生=生存自体
による充足=最大充足)の可能性を示唆しています。

ただし現代社会は、そうした自己存在の本質性に根ざした
自律的生ではなく、お金や出世、虚栄心といった“馬車馬
の目の前のニンジン”や、詰め込み教育のバラバラの知識
=歯車化による、他律的生(生物なのにイヤイヤ生きる=
お金をもらうために仕方なく働く)における自己チュー化が
進行していて、上記の可能性に逆行していますが。
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その通りです。


しゃかやいえすは千年に一人の奇跡です。人間は幸か不幸か他の動物とは違う、社会的な生き物です。それに覚醒した人間はかくも少ない人数でした。無理もありません。百万年前まではやはり人間も一匹のエゴイスチックなけだものだったのですし。
大昔は家族で一人前、歴史時代に入って国単位で生き残りをかけ、そして今は世界が一体となった人類の運命共同体です。ますます思いやりは重要な感覚になっています。多くの科学的なツールがそれを補助するようになってはいますが、でもその歴史は高々1世紀、まだまだ人間の意識が必要に追いつきません。
アフリカソマリアの餓死者の痛みその他を真に自分のものとして世界が自分の体の痛みと感じられるほどに人類のこころの進化が追いつくまでに、その人類自身がけだもの的な利己主義が原因で社会を崩壊させてしまうことになるのかどうか。21世紀の分かれ目だと思います。
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身近にいれば思い出もありますし恩義などもあって悲しくなったりしますが、分からない人が亡くなったら、ニュースで見るような感覚しか抱けないでしょう。

確かに誰かと情は生まれても、それが永遠にとはないはずです。
もし、もう関わらないのだと分かってしまえば「そうですか」と終わるしかありません。
人によりますが、終わるのだと分かってしまったら期待もしずらくなります。
これ以上どうにもできないのに、1人であがいても仕方ないのです。
一時期嬉しくても、相手の記憶に残ってるとは限らない。私が何か言ったところでどうにもできないのに、期待は始めからできません。その時の喜びや悲しみを永遠に分かち合えたら、素敵ですね。
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思いやりの度合いを何で測るのか


心の痛みで測るなら「その程度」となるけれど
その物差しでいいの?
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一人の人の命の終焉を、誠心誠意、我が身に重ねようとしても、完全には分かる術はない。



もし。。。
そう、もし、分かったとするなら
。。。それは、私が死ぬ時なのかも知れない

いや、それでも分からないだろう。。。

なぜなら、その人と私とは、決して同じ道を歩んではいない、それぞれの人生。。。

共感。。。そう、悲しんだり、痛みを感じることはたやすいこと。。。
(知的)共有。。。そう、(交換可能な)知識として理解することはたやすいこと。。。

しかしながら、決して越えることのできない境界。。。非同一性、交換不可能性。。。

いくら思いやることができても、無意識のうちに「違う」と叫んでいることだろう。。。
そう。。。それぞれの生命。。。それぞれの人生だから。。。

星の瞬きは、多くの生命を滅ぼすと共に、多くの生命を生み出し、育んでいることだろう。。。
遠い従兄弟のような魚を食し、いつかは滅びるこの身は、百億粒の灰となり、
いつの日か遠い従兄弟のような魚の餌に紛れ込み、その体の一部になることだろう。。。

痛ましい交通事故がくり返される背景にて、地道な努力がくり返される。。。
無意味な戦争がくり返される背景にて、地道な反戦運動がくり返される。。。

私の心臓の鼓動が止まるまでに、私の思いを封じ込めた言葉たちは、
いったいどれだけの人々の心に届くのだろうか。。。

。。。また、心臓の鼓動がトクンと跳ねた
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植物以外の動物は、生命を食べなければ生きていけません。


それを本当に苦痛に思うなら、あなたは、自らの生命を消滅させるべきです。
そうすれば、自分のために他の生命を殺すことはありません。
少なくとも、あなたは、ベジタリアンになるべきです。
あなたが現在ベジタリアンでないならば、あなたは偽善者です。

生命は、生まれたときから、死に向かって行進する運命です。
それが早いか遅いかだけの違いです。
個々の命の生死は、大きな問題ではありません。
それよりも、地球全体の生命を考えてみましょう。

全ての生命は、命を次の世代につないでいます。
受精卵が分裂を始めたときに、生命が宿ったと言いますが、その前の未受精卵は生きていないのでしょうか?
精子は生きていないのでしょうか?
そんなことは、ないでしょう。
生命は卵子や精子の中に、最初から宿っているのです。
あらゆる生命は、前の世代の生命を受け継いで生きています。
そして、今の世代は、次の世代に生命を引き継ぐために生きてます。
個々の生命が死んでも、地球全体の生命をつなぎさえすれば、その使命を全うしたのです。
つまり我々は、地球全体で、一つの生命なのです。

酷な様ですが、次の世代に命をつなぎさえすれば、今の世代の生死は全く問題ではありません。
いずれ死ぬべき運命である単一の世代の生き死にを、あれこれ悩むのは、不毛です。
それよりも、人間が増えすぎることによって、特定の種を絶滅に追い込んでいる事こそ問題にすべきです。
それを防ぐためには、多少の人間を間引いた方が、地球全体の生命の為になります。
人類は、地球の生命を根こそぎにする危険性を秘めています。
人類は、地球生命体の、癌細胞なのです。
癌細胞が増えすぎると、本体を死に至らしめます。
個別の癌細胞が死んだかどうかが、そんなに大きな問題でしょうか。

あなたは、自分が死ぬのが怖いので、他人の死にも敏感になっているだけです。
私から見ると、それは、偽善としか言いようがありません。

ちなみに、星の瞬きは、星の光が空気の揺らぎによって、光の到達が妨げられただけです。
無数の星が死んだり生まれたりしているのかも知れませんが、自分の生きている間にそれが起こるのは、天文学的に小さな確率です。
もしあったとしても、観測できないほど、遠くの出来事です。

この回答への補足

訂正:星の瞬き→星の煌めき
光の揺らぎの意味ではなく、大小マゼラン雲の様な非常に活発な銀河系の美しさという意味で使わせていただいております。また、ブラックホールからのX線を観測する限り、天文学的に小さくはなく、天文学的的な単位で生命が死んでいるように思います。

補足日時:2012/10/03 02:12
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「土木工事をしよう、というのに、ミミズを一匹一匹供養した」というのを、聞いた事があります。

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