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はい、タイトル通りの質問です。
そんなに極悪じゃないけど国を徐々に悪くしているような無数の負のベクトル、で総和は巨大。
国を良くしようとする動きはごく少なくわずかな正のベクトル。
足すと巨大な負のベクトルが勝り毎年徐々に悪いほうに進んでいるような国が今の日本のような気がします。
制度疲労という言葉も良く聞かれます。特に借金と無駄遣いですね。世界一の。国民全員の毎日の悩みの種です^^;
これを強制的に解消し、また隣国の脅威に軍事面等で迅速に対応するにはもはや独裁者しかないような気がするんですが、みなさんのご意見を賜りたいです。
なお戦争には私は絶対反対です。兵隊がどんどん死ねば徴兵制が必須になるがそこまでみな考えてない。自衛隊やアメリカが守ってくれるとしか。少子高齢化の国。
過去にいた名君、開発独裁も独裁者です。シンガポールが代表例。国を良くすれば長い目で見ればプラスになるような気がするんですが。
独裁とかはまず世襲されるので次が馬鹿だったら国を腐らせますが。

A 回答 (6件)

強力な独裁者が出現して、総ての問題を一気に


掃除してくれないかな、という気持ちは解りますが
独裁というのは、非常に副作用の強い政治体制
ですよ。
一時的に独裁にして、問題が解決したら退陣する、という
ことであれば、良いのですが、現実にやれば絶対にそうは
ならないと断言できます。


1,まず、独裁者が誕生して、それで日本をよくする
 て保障がまるでありません。
 独裁者ですから、自分のやりたいように出来る訳です。
 私が独裁者だったら、国民のことなど放置して、自分
 が栄耀栄華できるような日本にしてしまいます。
 そして、その地位が永久に続くような体制にしてしまう
 でしょう。
 あの北朝鮮のように。
 世界から選りすぐりの美女軍団をつくって大奥にします。

2,独裁政治、てのはよく間違えるのです。
 北朝鮮をみれば判るでしょう。
 日露戦争が勃発したとき、米国のルーズベルトが
 いいました。
「日本が勝つ。なぜなら、ロシアはニコライ二世の独裁だが
 日本は民主国だからだ」
 シンガポールのように成功する例もありますが、失敗する
 場合も多いのです。

3,独裁は効率が悪くなります。
 部下の仕事は、独裁者の顔色を伺うのが第一になってしまう
 からです。
 だから本来の仕事など放り出して、ごますりばかり
 するようになります。
 結果、国家が腐っていきます。

4,独裁国家は、権力が一人に集中するため、体制が非常に
 不安定になります。
 独裁者が病気になったら、それだけで国務が停滞してしまいます。

5,そもそも集団主義の日本は独裁を嫌う国民性を持っています。
 将軍の上には天皇がいるし、下には老中がいて合議制を採って
 いました。
 奉行も南と北に二つ設け、独裁を防止していました。
 それは現代も同じです。
 だから、中々決められない政治、てことになっているんですけどね。









 
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まず、制度疲労という概念に関して考察する必要性があるでしょうが、基本的には、この制度疲労という批判は実に陳腐というしかありません



というのは、確かに制度疲労と思われる事例はありえるでしょうし、現有制度として指摘しえるものもあるでしょう
では、政治的に思慮する上では、”制度疲労”をもってして改変することへの正当性にはなりえないわけです
例えば、既存制度Bがあったとして、それを制度疲労と指摘するのは勝手自由でしょう
では、その制度疲労Bを批判したとして、代替する新しい制度Aがなくては、空白によって大きな政治惨状が生まれる出てる場合もあります
要は、制度疲労であるB制度を批判する上では、それを代替するA・もしくは、B制度を廃止することによるリスク・デメリットに対するケア・マネンジメントを責任をもって論説するのが政治的には適切なわけです

この代替性の話では、日本人の多くは極めて杜撰な政治思考であることを指摘できます
例えば、Aという総理大臣に対する批判があるとして、その批判は自由ですが、ただ批判するだけで、代替する総理大臣について論説しないことには問題があるでしょう。もっと言えば、総理大臣云々ではなく、政策論で批判するのが適切なのですが、どうしても”政治を行う人間”を主体としてしまう政治思考が強いようです。

この”制度疲労論”でもっとも歴史的に回帰するべきは、幕末でしょう
例えば、幕末の『大政奉還』の場合では、維新の元勲の多くは討幕(倒幕)派だったわけですが、将軍慶喜が大政奉還(執政権を返上すること)すると朝廷が執政権を行使する立場になったわけですが、
実際には、大政奉還の後にも暫定的な国内執政権は幕府に存在したままでした。
これは、執政権を返上された朝廷の政治能力の欠如を指摘するものであり、幕府側は朝廷に大政を司る能力がないことを看破した上での、大政奉還だったことが指摘できるでしょう
つまり、大政奉還の事例は、明治元勲たちが、朝廷の政治実務能力の判定も出来ないまま、幕府への嫌悪・憎悪を念頭にしたヒステリックな話だった、という見方が出来るでしょう
もちろん、その後の朝廷・明治元勲が次第に大政を担える能力・環境を整備したわけですがね

制度疲労という指摘は案外簡単です。どのような制度でも完璧なものは存在しないのですし、時代の変化によって制度の歪みなどが生じるのは当然でしょう
しかし、その制度疲労と批判された制度以上の制度を提示できないまま、制度疲労と批判したとして、政治的空白を回避できない問題は残るわけです

以上のことから、制度疲労という概念がそもそも代替するそれ以上に優れた制度を前提にして初めて主張できるもの、という視座からは、陳腐というしかないでしょう

さて、本題の独裁者という言葉ですが、これも陳腐というしかないでしょう
歴史的には、独裁者とカテゴライズされる為政者は山ほどいます。
では、その独裁者がどこまで意思決定権を掌握していたのでしょうか?

質問者は「開発独裁」というファジーな言葉で独裁効用を指摘するわけだが、原始資本蓄積の過程で、政治的に強権力で行政の強い専決権を行使する事例は多々ある。しかし、それらは民主的過程を経て制度化した法律・行政法によって担保された意思決定である。
つまり、行政裁量権の行使という正当性がある行為が独裁という扱いになるが、その行政裁量権の行使の程度が強いから独裁という主張は果たして、どんな基準で論じているのだろうか?
小泉氏も独裁者と言われたし、東條氏もそうだった。
独裁とは、意思決定において当時の人民が反発を抱くような意思決定を行う場合においてのみ成立する概念であろう
つまり、大衆迎合するような行政裁量の専決事例を濫用しても、独裁者とは呼ばれず、むしろ大衆迎合の英雄と言えるだろう
(これは、アメリカ大統領アンドリュ・ージャクソンあたりに該当する話だが、仔細は割愛しよう)

近代国家においては、行政国家化し、行政裁量権・専決権が大きくなっている。
様々な政治意志決定において、人民にとって不満の残る意思決定が多ければ独裁者であるわけだが、様々な政治問題において全面的に大衆迎合できる意思決定は不可能に近いだろう
つまり、独裁者と呼ばれる余地は、行政国家化された現代政治では回避不可能ということである

本題に戻るが、制度疲労などのシステムの改変を独裁者と呼ばれる人が行える事例はない
実際、歴史上の独裁者というのは、連帯・紐帯関係にある為政者・官僚があって初めて立脚できるものだろう
では、現有の制度疲労と呼ばれる制度に関して、実務レベルを担当する官僚群が改変しようとするだろうか?

当方からすれば、制度疲労という批判は受忍しても、疲労部分を補強する程度で対応できるだろうと思っている
これは、官僚・事務者レベルの補強・再構築(リストラ)・制度運用改変などのレベルで応急措置出来るものが圧倒的に多いだろう
したがって、独裁者と呼ばれる人によって制度疲労を改変できるとは思えない
日本社会を改変するためには、官僚統制が可能な優れた為政者が必要であるわけだが、そのような才覚のある政治家が日本人にいるとは到底思えない

歴史的に、制度レベルの改変と改変に伴う実務レベルの調整まで担える政治家としては、数人は指摘できるが、そういう政治家を日本人は評価しない傾向にある

同時に、もっともそれらを担い得る能力のある官僚群が低脳な国民の逆上・憤怒を買って埋没している現実を考えると、とても制度改変などは不可能だと思えてならない
もっとも、抜本的法改正が可能な国会であれば期待できるが、もはや日本の立法府は実務レベルの政治情報と立法ノウハウを持っていないのだから、法制の分野での制度改変などは現実味がないだろう
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「独裁者しかないか?」となると、答えはNoしかないでしょう。



求められるものは、要は「正しい方向性のリーダーシップ」であって、それを個人が強引に発揮すれば「独裁的」となるだけです。
合議制であっても何ら問題は無いし、ソチラの方が好ましいことは言うまでもありません。

現状の問題は、その「リーダーシップの欠如」です。
リーダーシップさえ発揮すれば良いのだから、独裁である必要性など無いですよ。

幕末の長州藩主 毛利 敬親公などはご存じでしょうか?
長州藩と言えば、吉田松陰,高杉晋作,桂小五郎,久坂玄瑞,伊藤博文・・と多士済々の維新志士を輩出していますが、その藩主は、彼らから相談を受ければ「左様に致せ」としか言わず、「そうせい侯」とあだ名されつつ、敬愛を受けました。
同じ維新を名乗る政党のリーダーとは、正反対のリーダーシップを発揮してますよ。

あるいは維新の大立者と言えば、犬猿の仲であった薩・長や、そこに土佐などを絡めた坂本龍馬などが筆頭に思い浮かびますが、彼は一度も表舞台ではリーダーシップは発揮していませんし、独裁者などでは有り得ません。
オールジャパンの結集に尽力したのみで、その先に彼が目指した世界は、それこそ合議制ですよ。

そもそも現在を幕末にたとえると、中央官僚が幕府でしょう。
それに対し、現在、最も独裁者と言われる政治家でさえ、官僚による中央集権を解体することが目的で、地方分権と言っており、独裁とは全く相容れない性格です。

有事への即応性などは、リーダーシップとは余り関係はありません。
・首相判断になるならば、首相に意思決定を仰ぐまでの速さが問題。
・さもなきゃ現場の指揮官や、そこに近い地位に、権限移譲を行うか?
であり、どちらかと言うと組織論,マネジメント論です。
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一言で言えば、今突然独裁者に私はなるといって、総理になる人が出たとしても、長くは持ちません。


それでは、独裁ではなく民主制ですし、そもそも独裁者として力があるとは言えません。
むしろ、数か月もたたない間に、普通の人になり、下手をすると政治犯となるでしょう。なんせ、軍を率いるだけの力を持つ人は、今の日本にいるかというと・・・。理想も理念も日本国民では希薄だと思いますからね。私も含めて。

その発想がすでに手詰まりだと言えるかもしれません。結局のところ、どうすればよいかを直接的に考えているのではなく、神様を探しているだけですから。

誰かひとりのものを崇める、救世主を求めるというのは、どの時代にもあることで、誰にでもあることです。ただ、大事なこととして、結果的に一人の救世主は自分の好きなことを独裁的に行い、それによって良い道に誘われると思ってしまういわゆる陶酔しなければ、生きていけないということです。救世主というのは、あるものにそうであっても、その人を嫌うものからすれば、悪でしかない。

すなわち、質問者様がよい独裁者だと思うかどうかで、救世主になるか、それとも本当に独断と偏見で国を疲弊させていると思うかが変わるということを意味します。この意味は、即ちもし独裁者と意見を違えれば、死ぬか亡命するか、はたまた投獄されるかのいずれかです。


基本的に、民主国家を独裁的にするなら、クーデターでも起こして力を見せつけるしかありません。さらに、圧政を行い言論統制を一時的には、敷く必要があります。簡単に言いますと、軍事力を内向きに行使し、そのものが独裁者としての力を持っているということを、国民に示すことができて初めて、独裁者が独裁者として資質を持つといえるのです。

優しい独裁者は、はっきり言えば短時間で潰され、すぐに軍事を民主的な形で取り返されるか、または他国の侵略を許し、国家が解体される危険もあります。

尚、民主的に独裁者を決めることは難しいです。なぜなら、民主的であると皆が、否定できる権限があるためです。そのため、情報化の進んだ社会では、民主的独裁が困難になります。


最後に、国民に主権のある国家で最も疲弊しやすい状況は、自分が考えを放棄すること。
具体的でなくとも、ある程度、こうすればこういう良い社会になるのではないかと、自分で模索し続ける必要があり、それは自分の努力によって改善していくのだと意識する必要があります。
そして、何より大事なのは国という単位がもしも滅んだと仮定しても、人の命は、自分が生きている限りは続くということです。それは、会社を辞めても、生きていれば、仕事や生活を営まねばならないのと同じです。

その時に、誰かに頼れば助かるかというと、必ずしもそうではなく、場合によっては死よりも恐ろしい代価が払われるかもしれません。まあ、誰もが国の全てを考えて、憂い、変化を促すことはできないかもしれませんが、それでも、できることはあるはずです。それは、大きな社会の枠組みにとらわれずに、まずは自分の身近で、どうあればよりよい社会が構築できるのかから、考える必要があります。

それが、未来的な思考であり、小さくとも、その意見を自分なりもち、それを少しずつ形にしていれば、徐々に大きな力になるかもしれません。


いかがでしょうか?独裁政治だからプラスになるわけではりません。一般には一人の英雄より、多数の知の方が本来は、長く世を安定させる力となります。しかし、民が全般的に、理想を持たない状況になると、独裁者待望論も出てくるでしょう。ただし、もし独裁政治なると、それを望む者の考え方は2つに分れ、1つは独裁者に取り入ろうとする。もう一つは、こんなはずじゃなかったと意見を覆す。
このどちらが大半になります。

独裁政権に移行するまでは必ず、力による統制が必要で、内戦や内乱がありますので、争いを嫌う人なら、間違いなく独裁政治は、目指すべき道筋とは言えません。
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古今東西、独裁者が腐敗せずに名君であり続けた例は皆無です。

良く歴史を勉強してみて下さい。シンガポールも独裁政権ではありません。必ずしも国がうまく行っているわけではありません。
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民主主義は民衆のレベルが反映されています。

すなわち、民衆の自己責任です。
それが嫌だから独裁者? 発想が中国・北朝鮮レベルですよね。数百年に一度の名君を
当てにしないといけないレベルというのは宝くじの当たりを待つことに等しい。
政治を憂う者が、国民のレベルの底上げをするのがいちばん無難です。

スポーツ新聞やゴシップ誌しか目を通せない有権者、ラノベと大差ない発想
しかできない質問者など、まあ、大差ないと思いますよ。
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