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年齢を重ねることと自尊心との関わりについての質問です。
よろしくお願いします。

年配の方々は、それぞれの人生の中で、様々な苦労と共に経験を重ねてこられたと思います。
仕事でも、専門的な知識や技術や経験(人との対応や問題解決も含めて)を積み重ね、もはや人生についても語ることができるのだろうと思います。
しかし、退職後(退職していないでも)その積み重ねた経験もまるで尊重されず、プライドなどまったく無視される状況(人との関わり)に出会うことがあると思います。
そんなときは、いたたまれないほど腹立たしい気持ちも味わうだろうと思います。

(相手は)まるで分ったようなことを言う。そこまでよく言えるなあ。
(相手の言おうとする主旨が)大きく間違っていないときは、お前に言われなくても分っているという気持ちになるし、意見に微妙な間違いや違和感があっても、そこには昔のように急には上手く反論できない自分がいる。まったく不愉快だ!

たとえばの例で言えば、病院や老人施設やリハビリ施設に行くと、若い職員に配慮はされつつも、その配慮から子ども扱いを感じたり、そうでなくても、職業人であるときに感じた尊敬敬意や貴重な経験は全く無視される…。
言うまでも無く、リハビリ施設に職業人であるときの敬意などは不要なことであることは十分分っているのですが、尊厳・プライド・誇り・自尊心・自負心がまるで無視されている…。

特別の場でなくても日常の中で、そんな場面はありませんか。

その不快感をもとに、思いを発すれば、敬遠され「扱いにくい人」となります。
いったい貯まるストレスをどうすればいいのでしょう。

趣味で発散する?それもいいかもしれませんが、人生の先輩の方々は、心の持ちようとしてどのように受けとめて生活されているのでしょう。

別の言い方をすると、上述のような思いを持たない(あるいは内面で上手く処理されている)ステキな中年になるためには(そういう方も多くいます)どうしたらよいのでしょう。

プライド・自負心・自尊心をまったく捨て去る(それが不可能なら自分のコントロール下に置いて処理する)ためには、どんな心持ちでいたらよろしいのでしょう。

若い方や女性の方の立場からのご意見もお聞きしたいですが、
実感されて対処している年配の男性の方のご意見をぜひお聞かせください。

ややこしい質問で申し訳ありません。

A 回答 (15件中1~10件)

No5です。

再投稿失礼致します。

>そのバランス感覚が、年齢と共に微妙に崩れていく方と、歳と共に益々柔軟になっていく方がいらっしゃるように思うのです。
その違いはどこからくるのかなととても不思議に思うのです。

そうですね・・・確かに。
私の周りにいる年上の方たちの様子を思い浮かべてみました。

まず、現状に満足していらっしゃらない方たちは、他人に対して(特に年下の人間に対して)あまり寛容ではない人が多いように感じます。
年々、お仕事やご家庭が安定され幸せそうな人に、寛大な方が多いかな・・・と。
あくまで私個人が感じたことです。

また、個人的な事情は別として、柔軟な方もたくさんいらっしゃいます。
柔軟さとは、自分自身のために、
その場その場の人間関係に置いて、自分に有利に居心地が良くなる様、うまく周りの人間を扱い、自分のために配置できる人なのではないかと感じています。

私事で恐縮ですが、
前の回答で述べさせて頂きました、年下の社員(上司)と先輩たちへの対応の件。
彼らの経験を尊重したというのももちろん本心ですが、
「その方が自分にとって都合がいい」というのが本音です。
(説明不足で申し訳ございませんでした)
彼らの自尊心やプライドをくすぐり、相手の反抗心を少なくし、自分へ対応が居心地良くなる様に振舞いました。
心からの尊敬があったかないか、と言えばありません。
「態度」で示しただけです。

還暦を迎える両親も、どうやらこのように周りと仲良く仕事をしてきたようです。
自分よりも専門技術を持った年下の同僚、学歴の高い後輩や、パート先の年下上司などに対して。
職場の若い人たちにも、なかなか慕われていた様子です。
人生相談にもよく応じていました。
相手をうまく扱い(尊重し)、自分に都合がいい居心地の良いポジションを作るかどうか。
要は「自分のために相手をどう動かすか」、を考えて行動する人が「柔軟な人」なのではないかと、感じております。
それは自尊心が低いからではなく、高いからこそ自分が「尊重」されるポジションを得ようとしての行動ではないかと思っております。
周囲には寛容に見えても、実はとても「利己的」な考えからからの行動です。

それを自然に(または無意識に)できてしまうか、
自分のプライドに邪魔されてなかなかできないか、

ここに、
歳と共に益々柔軟になっていく方(年々益々人間関係上のテクニックが磨かれていく)

年齢と共に微妙に崩れていく方(年齢と共に、プライドを守りたいという心の殻が厚くなる)

両者の違いがあるのではないかと考え、再回答させて頂きました。

長々と失礼致しました。
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この回答へのお礼

「現状に満足する」ということは、あらためて年のとり方としてとても大切なことなんだと思いました。
別の言い方をすれば、現状を受け入れるということですね。

若いときには、「より良くしよう」と意気込んでいたことを思い出しながら、若い方々を見て、その意気込みを温かく見守りながら穏やかに…という感じかなあ。
年を取るということは、現状に妥協するというより、現状を受け入れる許容量が増えること。
社会的役割からある程度開放されることでそれはできそうです。

「周囲には寛容に見えても、実はとても「利己的」な考えからからの行動です。」
ということを自覚することからこそが、実は本当に相手に「寛容」になれる一歩なのかもしれません。
その自覚があれば「私はあなたのために寛容にしているのに、なんで分らないんだ」とはなりませんものね。

「それを自然に(または無意識に)できてしまう」人もいるのでしょうけれど、お若いのにそれに自覚的でいらっしゃることに失礼ながら感心しました。
自分を客観的に見ることができること、自分を知ること、自分の行動の傾向や原因・意味を知ることはなかなかできることではないと実感しているからです。
それができると、自分の中の邪魔なプライドを乗り越えて、いずれ人格の中に溶け込んでいくのかもしれません。
…それは、いい年のとり方だなあと考えさせられました。

ありがとうございました。
ご活躍ください。

お礼日時:2012/12/23 12:51

>プライド・自負心・自尊心をまったく捨て去る(それが不可能なら自分のコントロール下に置いて処理する)ためには、どんな心持ちでいたらよろしいのでしょう。



それには、本人が自分自身を見つめ直して、自分の現在持っている能力(実力)を知る事ではないかと思います。
「身の程知らず」という言葉がありますが、現在の自分の有り様と言うか、能力とか、実力のようものを把握出来ていないので、過去の自分を現在の自分と錯覚しているから、「>尊厳・プライド・誇り・自尊心・自負心がまるで無視されている…。」と感じてしまうのでは無いかと思います。

過去の栄光は、勲章でしかないですよね。
時間が経てば色褪せてしまているのに。。。気が付かないという事ではないでしょうか。

過去の自分が継続して現在の自分があるので、自分自身は、過去の自分のイメージで自分を見ているのに、過去を知らない第三者は、目の前に居る現在の自分を見ているのですから、過去に栄光を持っていた人にとっては、そのギャップは大きく感じるのでしょう。

人は、25歳前後で体力的なピーク、45歳前後で精神的なピークに達すると聞いたことがありますが、それでも5年10年のスパンでは気力や過去に蓄えた知識や経験で何とかカバー出来ても、定年世代になると自分自身でも心身共に衰えを感じ始めます。
自分で衰えを感じ始めたら、過去の栄光の衣を一枚、もう一枚と脱ぎ棄てて行ければ、自分の存在を無視される等と感じる事もないでしょう。

年取って初めて分かった事ですが。。。
心身の衰えが極限に近付いてくると、体が硬直化して来ますし、精神的な柔軟性も失われて来るのです。

例えば、細い道路で、白線で人道と車道を区別している所で歩いている時に、後ろから車が来るから気を付けてと声を掛けられても、若い時のように、素早く白線の中へ身を交わす事が出来なくなって来ます。
精神的にも同様に、現役時代に、一を聞いたら十を知れ!と言われて、話も半分ぐらい聞けば全容を知るようになっていても、悲しいかな年を取ると、時代遅れのコンピュータのように、十を聞かないと十を理解出来なくなってしまいます。

また、人でも、企業のような組織でも、国でも、そうだと思いますが、成功経験があるとそれに捕らわれて、なかなか変革するのは難しいと言われていますよね。
自覚していても変われない!というのが、世の常ではないでしょうか。
更に、年を取ると柔軟性を失って来るので尚更。。。と実感しているところですが。。。

この道は、皆が通る道です。
親が通り、私が通り、将来は子供達も通る道です。
でも、通った事のない人には、分かり難い道でもあると思います。
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この回答へのお礼

いくつになっても、「自分を知る」という課題は必要なのですね。
その年相応の自分の知り方もあるように感じました。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/24 12:28

 始めからプライド・自負心・自尊心を持つことに懐疑があった。


 なぜなら根拠もないプライド・自負心・自尊心など邪魔になるだけだから。だから自分自身として、つねに観察者であろうと考え実行してきた。観察し分析し、その背景にある論理を導きだすこと。それがいわば人生の基本行動だった。
 現在60歳直前。若い人を見ているとさまざまな場面で既視感におそわれることがある。ああ、こんなやつ昔いたな。とか。そしてそういった奴の今も、そして今後も読める。ならばわざわざトラブルを起こす必要はない。ただ無視すればいい。
 それでも中にはよく現実を理解している若い人に出会える。ならば学ばない手はない。
 多様なようで、人生の道筋は限られているように思える。いくら虚勢を張っても、いつかそのツケは自分自身に降り掛かってくる。
 
 ただ許さない奴は上下関係で人に命令しようとする奴。マナーもなく上から目線だけの奴。こういう奴は無視するだけでは飽き足らないので、ちょっと仕掛けたりもする。
 そして味方を増やすためにも、いろいろな人に支援をする。何を聞かれても答え、常に便利なやりやすい方法を教えていくことを心がけている。

 自分の人生の舵を自分で切りたければ、波に抗うのではなく適応すればいい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

波に抗うのではないけれど、ときには自分のバランス感覚を崩さないためにも「ちょっと仕掛ける」わけですね。
この「ちょっと」のさじ加減が、後味を悪くしたり教育的だったり現場の緊張感として効果的だったりするのでしょうか。
私の周りの年配の方々のさじ加減を見ると、ちょっと甘いかなと感じることも多いですが、それくらいがちょうどよいのかな。

お礼日時:2012/12/23 16:47

66歳、男子。

元会社員。

若い人に一歩譲る。これは自分だけでなく、高齢者の一般的心情ではないかと思います。「老いては子に従え」と言うように、老いる=「死を意識する」と彼らにこの世を託すしか無いと本能的に感じるからではないかと思います。

現実的に言えば、年金は現役世代に負っている訳だし・・・。個人的には、・・・引け目、よく言えば感謝を感じています。

現役世代とテニスをしますが、矢張り敵いません。これひとつをとっても、衰えていく身を否定できません。一方、市内のシルバー世代のパソコンサークルに入っています。僭越ながら教える側に入り、なんと「若手」と言われています^^;

それにしても若者に訓示を垂れる意図は全くありません。少なくとも、現役の頃の自慢をしないように心がけ、老害・老醜にまみれないよう自戒しております。
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この回答へのお礼

「若い人に一歩譲る」
「現役のころの自慢をしない心がけ」
「老にまみれない自戒」
なるほどと思います。
そして、若者にはなかなかできにくいこと=年配の方だからこそできるステキなことなんだと失礼ながら思います。
ただ、そう簡単にはできないことだということは分るので、ほんとにすごいことだと感じます。

お礼日時:2012/12/23 16:25

No.7 です。

返信拝読しました。感情的になっているようですが、生きている世界観が違うと、どこまで行っても言葉がすれ違い噛み合う事はないし、おそらく受け取る準備がないとわからないと思います。このような場所で、てっとり早く他人から人生の答えを取ろうとしても、人生は、自転車に乗るのと同じく、体で理解しないとわからないとも言えるからです。という前提で、一言だけ、誤解ないようあなたの助けになればと補足しときます。『真実はひとつ』これは割り算しようのない真理です。プライドとは、思考が捏造した偽物の感情で、自尊心は、真実という実在。これは哲学の定義です。つまり自尊心を大切に出来ると、物事の真実を理解出来るから、経験や肩書など現世利益に価値はないとわかる。年配者で人格者な方程、プライドが去勢されているので、若い人からの扱いに対して、不快不機嫌になったりせず、ありがとう。と言う感謝に生きている人が多いですよ。快不快を基準に生きていると、真実が見えなくなってしまい自己愛が肥大するのです。自己愛人間の定義は、快不快が基準なんです。ですから、自尊心(真実)に生きていると他人と争う必要が無くなる。高齢になってもプライドだ、不快だ、と言ってるならば、自分の人生が始まらないまま終わる気の毒な人なんですよ。という事です。色んな経験をされるといいですよ。応援しています。依存に繋がらないよう返信はこれで最後にさせて頂きますね。
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この回答へのお礼

わざわざ「返信はこれで最後」といただきましたので安易な返事は控えます。

3回もの返信をくださりありがとうございました。

お礼日時:2012/12/23 16:22

>そのエッセンスは何なのでしょう。




役を演じる事は、他人の気持ちを
ディフォルメして
誰にでも解りやすく伝える技術
(コレは僕の考えですが)
だから
女性の悩みや、誰かに聞いて欲しい事などを
相手の気持ち以上に、身振り手振りを交えて「共鳴」します。
すると
相手は「心も」「体も」僕に・・・・・

モテルンデス
ごめんねーーー

クエナイ
糞ジジー

良く言われます。

以上です。
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この回答へのお礼

なるほど。

きっと「女性にもてる」だけでなく、男性にも同じようにもてているんですね。
「技術」をきっと技術以上に高めて自然体になっていらっしゃるのかなと想像しましたが、でも、その背景には「自分の精神状態を1週間分析します。3日間はとても怒り狂う」があるのだと思うと、厚みを感じます。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/23 16:21

頑固で


意固地で
我侭な人間です。

自分の生き様を全否定される事が有ります。

自分の精神状態を1週間分析します。
3日間はとても怒り狂う
4日目から自分の何処が・・・・・

少し考え始める
そして
大きな心で
許してやるぜ

自分に嘯く

それらを
自分なりに分析して
第三者の立場で面白い奴だと
自分を慰める

自分の演じる主人公は
いったいどんな人間なのだろう
そして
孤独に生きるよりも
プライドを捨てた
ピエロが似合う役者だと気が付く

なので
頑固なピエロ
意固地なピエロ
我侭なピエロ

糞ジジイを演じています。

長く演じていると
どれがほんとの自分なのか
解らなくなります。
それもまた面白いです。

役者なので(一般人ですが)
女性に凄くモテマス。
コレが一番のストレス解消です。
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この回答へのお礼

なんだか理想的な「糞ジジイ」(ごめんなさい)です。
まさに人生の「役者」!
教えられること大です。

ただここ→「女性に凄くモテマス」だけが許せないのですが(^_^;)、そのエッセンスは何なのでしょう。

お礼日時:2012/12/23 13:03

 


 傾老の法則 ~ 酒場では成功談よりも失敗談が受ける ~
 
 老人だけが老いて、いつまでも若者が若々しいわけではありません。
 老人はゆるやかに、若者はいつのまにか、ともに老いているのです。
 老若男女の共存には、現実の生活感に即した工夫が必要です。
 
 多くの老人は、過去の経験や専門知識に、さほどの自信がないので、
過度の自慢は苦々しく、みえすいた社交辞令も空々しいはずです。
 いかなる人間関係にも歓迎されるのは、軽妙なユーモアだけです。
 
 見知らぬ人が、ふと心をひらくのも、気の利いたジョークです。
 老人と若者が、たがいの過去自慢で意気投合する可能性は低いのです。
 さわやかな失敗談こそが、聞く者の信頼を得るのではないでしょうか。
 
…… 全盛期の残念無念が影を落すケースもあります。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7839251.html (No.6 20121211)
 傾老作法 ~ 虚栄と虚飾は生殖願望に依存する ~
 
…… 老人は、自分の経験こそが一般論だと思いこみ(帰納法)、若者
は、一般論をもとに他人の言動を評価する(演繹法)傾向があります。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7326218.html (No.4 20120226)
 
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この回答へのお礼

年を取ると「気のきいたジョーク」がタイミングよく言えなくなりそうです。
しかし、たとえうまく言えなくても、それを言おうと考えるだけでも一息付けますし頭の体操になりますね。
そして、あとで良いことを思いついたら、タイミングは逸していますが、それを文章にするというのもよさそうです。

「失敗談」を笑いながら話すことのできる年配の方は、ほんとうに親しみやすいです。
聞く側としても、失敗談を聞いても、「この人バカだなあ」とは感じないのが年配の方の持ち味なんですね。

「たくさん成功してきたんですね。ぜひ失敗談も聞かせてください」などと若い方に語られたら、ますます失敗談を話してしまいそうです。
失敗談も自慢話になっちゃうかな(^_^;)。

お礼日時:2012/12/23 12:53

No.6 です。

返信拝読しました。不快になんてなりませんでした。あなた様が、私の回答に不快を感じたのであれば、その段階なんだと理解しましたし、反発するそれがプライド(自我の段階)だとも伝えさせて頂きます。自尊心というのは、自己肯定感、自己信頼感でありますから、自尊心があれば、他人の意見を尊重出来るので議論を吹っかける必要はありません。カテゴリーから、てっきり年配者の方かと年配者向けの発言をしましたが、若い方のようで誤解があるようなので補足しておきますね。人格形成には段階があります。自我の構築→自我の破綻→人格統合(自尊心)となるのが精神発達のプロセスで、経験値が必要なのです。準備や経験のない相手の成長を見守るのも治療者(大人)の役割なんですよ。世の中には、自己責任(成長)を回避して、思春期から抜け出せないまま孤独な老後を過ごしている人もいるんです。(ひとり暮らしが孤独と言う意味ではありませんよ。)ですから、上目線の発言でない事は、読み手の成熟度次第と申し上げておきます。しかし一番重要なのは、こちらの発言がどうであるかよりも、何故反発心が出るのか、それがあなた様の言葉に出来ない真実ではないでしょうか。と、言われて元気が出るなら、あなた様の背中には、羽がはえているといえるでしょう。あなた様の未来を応援していますよ。

議論の為の議論はしませんのでよろしくね。

この回答への補足

ここは議論の場ではないことは承知していますから、補足の質問の意味でした。

とはいえ、大変失礼な質問の仕方だったと思うのですが、不快感をお感じにならなかったということでした。
私があなたの立場(「段階」が違うわけですが)でしたら、一瞬不快感を感じてそのあとその感覚を自分の中で処理するわけです(大げさな言い方ですが)。

そこで、あなたの段階にたどり着いた場合、日常の対人関係で具体的にどのような場合・場面・言動で「不快感」を感じられるのでしょうか。
よろしくお教えください。
それとも、感じることはないのでしょうか。

補足日時:2012/12/23 12:46
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プライドと自尊心は違いますよ。

自尊心の低さが、質問の答えではないですかね。プライドと自尊心は真逆。プライドは劣等感と紙一重。これまでの人生で、経験や知識や肩書きや年齢や所有物で自我を支えて、劣等感を否認して来られた方の典型例です。自尊心の欠如を認めない限り、現象世界の奴隷になるだけ。生かされているという感謝の視点になると、何も持たなくても、矜持を持つ自負(自尊心)からおのずと慈悲深い対応が出来、豊かな人生になるのです。このような質問は、生きているー!という、傲慢さ、思春期の心理です。思春期の誇大妄想、万能感が去勢されないまま老年になると、末路は悲惨ですね。治療現場でこのようなケースを沢山見て参りましたが、大抵は変わりません。生きている内に気づいただけ、まだ救いがありますよ。浮世の全ては、変化して行く次元。変化するものに、真実無し。全ては借り物預かり物なんです。他人が自分をどう扱うかで自分が決まるのですか。幼い幻想から目覚めないと人生が不毛です。

この回答への補足

「治療現場でこのようなケースを沢山見て参りましたが、大抵は変わりません。」
とあなたが言うということは、あなたに出会った方々の「自尊心の欠如」はあなたに関わることで自覚することも(自覚させることも)、ほとんど不可能だったということですね。

あなたはその場にいながら、この点において、何の役にも立つことはできなかったということになります。

それなのに、あなたは偉そうに
「人生で、経験や知識や肩書きや年齢や所有物で自我を支えて、劣等感を否認して来られた方の典型例」
と決めつけ、
「生きている内に気づいただけ、まだ救いがありますよ。」
と人生が分ったようなことを言う。




…と、もし言われた場合、どう【お感じ】になられますか。
その【お感じ】になられたことの中に不快感が漂われたと思うのですが、その不快感の対処についてお聞かせ願いたいのです。

補足日時:2012/12/22 23:54
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