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こんばんは。

遥か2500年も昔に 釈尊はこの世界の全てを論理的に理解して 「人間が人間として自覚して生きれば 人間は自然淘汰の競争原理を克服して 永遠に滅びない」ことを悟られたようです。
しかし 今現在 人間は人間として自覚することを疎かにして自らを滅ぼそうとしています。私は 人間よ人間に戻りなさいと言いたい。

釈尊の時代 人間は神の言葉(ロゴス)を創り 言葉でお互いに対話することにより共同体という社会を構成して繁栄していました。人間は(真、善、美)も創りよりよい生き方を模索しました。
しかし 強固な共同体は神を頂点としたピラミッド構造(階級社会)となり 人間ではない者が出てきてしまいました。

釈尊は 誰もが自分の思うようにならないので苦しんでいたりするのや人間が争うのを観て どうしたらいいかと考えました。
彼は この世界を五感で「あるがまま」に観ました。なんと彼は 全ての物が移り変わる「諸行無常」であることに気づいたのです。さらに あらゆる事象の「因果律」(エントロピーや不確定性原理等も含む)にも気づきました。
当時の人間は「輪廻転生」という概念も創りだしていました。
釈尊は 神の言葉をも創りだしたり 、「慈・悲・喜・捨」(慈しみ、憐れみ、随喜、落ち着き)の心を持つ人間は 一番尊い生き物であると確信しました。「天上天下唯我独尊」
それならば 一番尊い生き物である人間は 人間として自覚して生きれば 人々は「輪廻転生」という概念を信じているので 来世も人間として生まれると思うだろう と考えました。「極楽浄土」
また 人間でないものになろうとする人々は 争い殺し合い自然淘汰されるだろうと思いました。(神になろうとする者や人間としての自覚の無い者等)

1)この世界に「神」が存在するならば (神は全知全能であるので極楽浄土も輪廻転生も存在する)
一番尊い生き物である人間は人間として自覚して生きれば極楽浄土に逝き 来世があるならば人間にしか生まれ変わらない。
人間として自覚しない生き方をすれば 来世で人間に生まれ変わることはない。

2)この世界に「神」が存在しないならば 
一番尊い生き物である人間は人間として自覚して生きれば争うことを止め助け合い その子孫は決して滅びることはない。
人間として自覚しない生き方をすれば 自ら争い殺し合い自然淘汰される。

釈尊はこの世界の全てを理解し 五感で認識できないものは考えても何も生み出さない(非我)として 人間が自ら人間として自覚して生きれば その子孫が生き残り人間は滅びないと信じたのです。釈尊の苦しみは無くなり心は静かになりました「涅槃静寂」

私は 「人間としての自覚をもって生きる」=「中道に生きる」ことができればもう何もいらないような気がするのですが。
貴方は 貴方が予想もしない災難に直面した時 「人間が人間としての自覚を持って生きるためには」 どのような新しい哲学を創った方がいいと思いますか? 
「対話」による真理の追究が哲学だとも言えますが 何かございましたら よろしくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

こんにちは。



人としての尊厳を見て、それをいかに守るか、そのように考えた時、人間本来の静けさや落ち着き、意識のまとまり、精神の明晰さ、こころの強靭さや柔軟さ等々が発揮され、人間らしく生きられるのではないかと考えます。
死や無を妄想して恐れることなく、生存の執着を克服し、(人として)活き活きとした人生を歩けるようになるのではないでしょうか。
私はそのように考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人としての尊厳を見て
人間は自らのことは 自分では観ることはできないので 他に自己を投射することにより 「慈・悲・喜・捨」(慈しみ、憐れみ、随喜、落ち着き)の心 を確認することができるということですね。
私もそのように思います。そこで 自らの健全な精神と健康な肉体を保つことにより 知彗により生きていけたらと思います。

>死や無を妄想して恐れることなく
私は 死や無は人間を生かすためにあると考えます。生存の執着は 人として生きていくこととは直接には結び付かないと思います。人は自分がやりたいことがあれば そのことに無我夢中で専念するだけです。
人間が他の生き物と違う処は 他人と喜びや悲しみを分かち合い 生きていくために協力できることだと思います。大事なことは この世界で他人がいなければ 自分が何をやったとしても虚しく感じるのではないでしょうか?

お礼日時:2013/04/29 06:39

まず人間の自覚とはなんでしょう?・・人間の本質は「我」でしょうか?


自覚とはなんでしょう?

「全知全能」この意味は?・・神仏は我々人間の知らないことも知っている・・ということは、神仏の大きさを我々は測り知ることも出来ないということですよ。

で、それらがなぜ人類が滅びないという一つの結論に到達するのか、途中がすっぽ抜けていませんか?

なにか、答えを得ているように見えて、何も得ていない・・そんな風に感じられるのですけれど。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人間の自覚とはなんでしょう
人間は 自ら環境に活かされている生き物であると認識すること。そして 健康な精神と健康な肉体を保つということ 人間は 呼吸により適度な酸素を体に運ぶことで精気を養い 適度な食物を得ることで生きることができます。
人間は 共同体を創ることで豊かさを持つことができていると認識すること。そして 「慈・悲・喜・捨」の心を失わないということです。

>「全知全能」
そうですね 人間は三位一体(「父」と「子」と「聖霊(聖神)」)によって創られています。人間は 父でもあり子でもあり聖霊でもあるのです。貴方が聖霊を信じなければどうしようもありませんが。
人間は 五感で認識できるのは目の前の僅かな時空間であることが分かりますか?ならば 何故 認識できない時空間が存在していると思えるんでしょうか?答えは 人間の精神が記憶で補っているんです。この時空間を補う行為が聖霊なんです。
よって この世界を存在させているのは 貴方であり 父であるんです。

>人類が滅びないという一つの結論に到達するのか
父であり子であり聖霊である 私達(共同体)が「慈・悲・喜・捨」の心を失わないで 一番尊い生き物として生きることができれば 一番尊い生き物は滅びないと人間(一番尊い生き物として生きることを選択できる)は滅びないと信じるでしょう。

お礼日時:2013/04/29 06:40

>「人間が人間としての自覚を持って生きるためには」 どのような新しい哲学を創った方がいいと思いますか?



 人間はどうしてセックスするのかを真剣に哲学する。

>「対話」による真理の追究が哲学だとも言えます

 「セックス」による真理の追求が哲学だとも言えます。 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「セックス」による真理の追求が哲学だとも言えます。
そうだともいえますが。ネズミ算的な人間の人口問題の解決方法は 考えないのですか?

お礼日時:2013/04/29 06:41

ブッダ自身は、信仰の対象としての神を否定し、それゆえ


初期の仏教は、偶像としての仏像を否定していました。
それまでのアニミズムに抗して、キリスト経やイスラム経、
仏教といった世界宗教が同時期に発展したのは、社会性が
発達し、個人の短絡的利己主義を、社会行動へと矯正する
必要が生じたゆえ、です。
ほぼ同時期に、社会性=分業の拡大により、それまでの
物々交換から貨幣という社会的二次的価値へと移行し、
そうしたお金=アメ(馬車馬の目先のニンジン)と並ぶ、
ムチ(外的権威)として神(モラル)や法規も発達したのです
(それまでの儀式宗教からの変質)。

「人間が人間として生きる」とは、お金や神に惑わされず、
真の自己の延長として、環境を自覚化する事です(社会
生命的自覚化=自律的社会行動=生きる事自体による喜び)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「人間が人間として生きる」とは、お金や神に惑わされず、真の自己の延長として、環境を自覚化する事です(社会生命的自覚化=自律的社会行動=生きる事自体による喜び)
そうなんですが お金がないと不便で困りますね。人間の価値をお金で決めることを法律で無くしましょう。国は国民に何かをさせることにより 生活保護を支給すべきかもしれません。(たとえば 地域の清掃活動等)

お礼日時:2013/04/29 06:42

>今現在 人間は人間として自覚することを疎かにして自らを滅ぼそうとしています。



そんなことしている人がおるのですか? アルカイダ?北朝鮮?アメリカ軍?



>私は 人間よ人間に戻りなさいと言いたい。

貴方が言おうが言わまいが、人間は人間ですがな。


>私は 「人間としての自覚をもって生きる」=「中道に生きる」ことができればもう何もいらないような気がするのですが。

私は「人間としての自覚をもって生きる」≠「中道に生きる」と思うし、それ以外にも暖衣飽食が必要、友人が必要、家族が必要、介護保険も必要、図書館が必要、自然食品を届けてくれる高速道路網も必要、基本的人権を守る政府が必要、憲法違反で無い選挙制度も必要、真実を客観的に伝えるマスメディアも必要、末期がんの苦しみを和らげてくれるモルヒネも必要。

必要なものを数えあげたらきりがないですがね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>そんなことしている人がおるのですか? アルカイダ?北朝鮮?アメリカ軍?
当事者の方々に聞いてみたら分かるかもしれません。

>人間は人間ですがな。
「慈・悲・喜・捨」の心を失わないようにということです。地球で生きる共同体としての認識が必要だということです。

>必要なものを数えあげたらきりがないですがね
そうなんですね。

>末期がんの苦しみを和らげてくれるモルヒネも必要。
これは 終末医療ですね。痛みがなければ 延命できて苦しまなくてもいいからですね。
それより 釈尊はヨーガによる 予防 健全な精神や健康な肉体を保つことを取り入れたと思います。呼吸法による細胞に適度な気を運ぶことのようですね。後 オーム(マントラ)による気でしょうか?(病気に対する免疫力をつけるということ)
病は気からとも云いますし 笑うことや他人を褒めることによる 楽観主義なのでしょうね。
今の医学では 月に一度の定期検査による病の早期発見が効果的ですし。日頃の 規則正しい生活による予防も効果的ですね。フジ医療のマッサージチェア(手足が揉める機種)は気持ちいいですね。(笑)
癌の治療は 早期発見ができれば 切らなくても一部の病院では 除去できるようですし IPS細胞もありますし。予防と早期発見による医療で 人間の限界まで生きてください。(笑)

お礼日時:2013/04/29 06:45

釈尊の話しは、ごもっともだと思います。



今ある哲学の「なるほど」と思える所(名言・格言、ことわざなども含め)を掘り下げていくと
結局の所、本質は同じ所にたどり着きます。
本質を理解するために、角度を変える形で言い表しているに過ぎない。

ならば、新しい哲学など創る必要はあるのか?と疑問が出ます。

知ることをただ積み上げ続けても、人間としての本当の自覚は持つことができません。
今、世の中に出ている物を十分に生かし、掘り下げて自分自身を再構築する。
そのプロセスが欠けているのだと思います。

このプロセスが使えなければ、新しいものとて無意味に終わります。

やった方がいいと分かっているけどやりたくない。
やらなきゃいけないけど、やる気がおきない。
そんな自己矛盾を、今あるもので解決していけばいい。

解決できないなら、今あるものを使えていないだけ。
つまりは、人間が自分自身の使い方をよく知らない人が多いと言うだけ。

人は今あるものを使いこなすに至らないと、新しいものに望みをかけやすいですが
安易にそちらに流れると、会社で自分を活かしきれないのは自分なのに会社が活かせないのだとする
そして、会社を転々としてしまう結果になる考え方と本質は同じになります。

今あるものを十分に活かしきれて、なおかつ足りない所があるのなら新しいものも必要でしょうが
活かして後に検討する必要性が出てくるのは必然です。

必然性がないものを、ある程度の理解で作ってしまうと新興宗教になりかねない。
そんな危険性を含むのも、また哲学だと思います。

少なくとも釈尊がやったように真理の追及を己の内側に向けることが必要です。
自分の中にあるものを追求する為に積み重ねた知を使う。

そこがスタートですが、どこを見ても外に求めてばかりじゃないかと思えることが日常でもあり過ぎますね。
自分のふるまいに目を向けること、自分が何をしているかの自覚からかなと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>必然性がないものを、ある程度の理解で作ってしまうと新興宗教になりかねない。
>自分のふるまいに目を向けること、自分が何をしているかの自覚からかなと思います。
ありがたいお言葉の数々に感謝いたします。

お礼日時:2013/04/29 06:46

 てふ_てふさん こんにちは。



 つぎのエピソードは バラモン階級の或る道を求める人つまりマーガンディヤが ゴータマ・ブッダにオシエを乞うたひとつの場面です。

 ▲ (スッタニパータ:§9 マーガンディヤ) ~~~
   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/su …

 835 (師((ブッダ))は語った)、

   「われは(昔さとりを開こうとした時に)、
   愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、
   かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
   糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。
   わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」

 836 (マーガンディヤがいった)、

  「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、
  が欲しくないならば、
  あなたはどのような見解を、
  どのような戒律・道徳・生活法を、
  またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 837 師が答えた、

  「マーガンディヤよ。
  『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
  諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、
  諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、
  省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 838 マーガンディヤがいった、

  「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、
  <内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、
  そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

 839 師は答えた、

  「マーガンディヤよ。
  『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかに
  なることができる』とは、私は説かない。

  『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、
  清らかになることができる』とも説かない。

  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、
  平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。
  (これが内心の平安である。)」

 840 マーガンディヤがいった、

  「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、
  戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、
  また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や
  道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、
  それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。
  教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

 841 師は答えた、

  「マーガンディヤよ。
  あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、
  執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。
  あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。
  だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。

 842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか
  考える人、
  ──かれらはその思いによって論争するであろう。
  しかしそれらの三種に関して動揺しない人、
  ──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは
  『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

 843 そのバラモンはどうして
  『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。
  またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?
  『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、
  誰に論争を挑むであろうか。

 844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、
  村の中で親交を結ぶことのない聖者は、
  諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、
  人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。

 845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、
  それらに固執して論争してはならない。
  たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、
  水にも泥にも汚されないように、
  そのように聖者は平安を説く者であって、
  貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

 846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、
  慢心に至ることがない。
  かれらの本性はそのようなものではないからである。
  かれらは宗教的行為によっても導かれないし、
  また伝統的な学問によっても導かれない。

 847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。
  智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。
  想いと偏見とに固執した人々は、
  互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ これでこの《9 マーガンディヤ》の話のぜんぶです。

 《835》は マーガンディヤが その娘のマーガンディヤーをゴータマに妻にどうかと婚姻をすすめたときのことわりの答えだそうです。

 マーガンディヤーは のちワンサ国王の第二夫人になったほど ひとつにはその美貌のほまれが高かったそうです。

 美女だからというのは確かに別の話ですが 要するにプロポーズのことわりが これです。
 別の訳で再掲するならば:

  835 「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった
  3人の魔女〕を見ても、
   彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。
   大小便の詰め込まれたこの女(=マーガンディヤー)が、
  そもそも何になるというのだ。
   われは この女の足にさえ触れようとは思わぬ」

 だったというのです。父親と母親とを前にして このようだったそうです。
 そして父親には オシエを説いています。

  837  師が答えた、

   「マーガンディヤよ。
   『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
   諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、
   諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、
   省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 ☆ 《執着》がないから 《835》という断わりの言葉を表現したのでしょうか?
 
 《固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た》ゆえに

   われは この大小便の詰め込まれた女の足にさえ触れようとは思わぬ

 と語ったのでしょうか どうでしょうか?
 それゆえに
 ★★(表題) 人間が人間としての自覚を持って生き
 ☆ きったという模範なのでしょうか ゴータマ氏の生涯は?

 ★★(趣旨説明欄) 彼は この世界を五感で「あるがまま」に観ました。
 ☆ なのですね?

 ★★(同上) 人間として自覚しない生き方をすれば 自ら争い殺し合い自然淘汰される。
 ☆ けれども 美女マーガンディヤーは このときの侮辱を忘れずにいて のちに国王第二夫人になっていたとき 第三夫人がちょうどゴータマ・ブッダのオシエに傾倒し弟子と同じほどになりました。そこで 復讐心に駆られて サーマーワティーなる第三夫人を館ごと侍女すべてとともに焼き殺したそうです。

 《人間としての自覚を持って生き》ていても そういう《争いや殺し合い》には遭うようです。




 ところで ここでゴータマとサーマーワティーとそしてマーガンディヤーとの三人の中で だれ〔の思想と行動〕がいちばん 《人間としての自覚に欠けていた》でしょう?

 むろんマーガンディヤーです。
 批判することにさえも値しないゴータマのくだらない思想を――つまり 放っておけばよいものを―― わざわざ狭い心でこだわって 敵対心をみづから煽るまでに復讐心を燃やし ついにその実行にまでおよんだ。これが 反省点です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

マーガンディヤのお話 質問されると思っていました。私には分かりませんが。
このお話は 愛憎を言いたかったのだと思いますが。
釈尊は マーガンディヤ 本人には 
   「われは(昔さとりを開こうとした時に)、
   愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、
   かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
   糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。
   わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」
とは言わなかったと思います。釈尊は婚約をお断りしただけなのに仕返しされた。愛執と嫌悪と貪欲を印象づけるために 付け足したお話ではないのでしょうか?それ程 女性の愛が憎しみに変わるのは恐ろしいということでしょう。女性には気をつけろというメッセージだと思います。

ヨーガとは 呼吸法でマントラ(OUM等の呪文)を唱えることにより全身の細胞に酸素をいきわたらせ 免疫力を向上させるという予防法だと思います。
「オーム」とキリスト教の「アーメン」やイスラム教の「アミーン」は同じ意味だそうです。

お礼日時:2013/04/29 06:47

 人間の分を守れということですよね。

宮崎駿のアニメが繰り返し言っていることと類似していますね。アニメおたくですか?

>どのような新しい哲学を創った方がいいと思いますか?

 オームとかデイダラボッチとかをつくればいいんじゃないでしょうか。そういう恐ろしいものがあれば、人間は分をわきまえるでしょう。しかし・・・原発事故があっても、人間は変わらなかったんですよねえ。実に業は深いものです。んー。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

宮崎駿のアニメいいですね まあ そんなところです。

>オームとかデイダラボッチ 
ヨーガとは 呼吸法でマントラ(OUM等の呪文)を唱えることにより全身の細胞に酸素をいきわたらせ 免疫力を向上させるという予防法だと思います。
「オーム」とキリスト教の「アーメン」やイスラム教の「アミーン」は同じ意味だそうです。
5000年昔からあります。

>そういう恐ろしいものがあれば、人間は分をわきまえるでしょう。しかし・・・原発事故があっても、人間は変わらなかったんですよねえ。実に業は深いものです。んー。
そうですね 人間は三位一体(「父」と「子」と「聖霊(聖神)」)によって創られています。人間は 父でもあり子でもあり聖霊でもあるのです。貴方が聖霊を信じなければどうしようもありませんが。
人間は 五感で認識できるのは目の前の僅かな時空間であることが分かりますか?ならば 何故 認識できない時空間が存在していると思えるんでしょうか?答えは 人間の精神が記憶で補っているんです。この時空間を補う行為が聖霊なんです。
よって この世界を存在させているのは 貴方であり 父であるんです。父であり子であり聖霊である 私達(共同体)が「慈・悲・喜・捨」の心を失わないで 一番尊い生き物として生きることができれば 一番尊い生き物は滅びないと人間(一番尊い生き物として生きることを選択できる)は滅びないと信じるでしょう。

私は 信じるしかないと思います。人間だからです。(笑)

お礼日時:2013/04/29 06:49

はじめまして。

 

人と人間、・間の意味、多々有る中の一つに、ちょうど良い折り。しおどき。ころあい。機会。(~を見計らう)って有ります。

私の勝手な解釈で余談ですが。人間(と思い込んでる)は、人(間の抜けてる)に対して・~まぬけ~・と、罵る、罵られる。
これを踏まえて以下の回答で、人・人間を表現します。

釈尊?の事よく解りませんが、・・・質問文だけでの見解です。

~人間が一番尊い生き物である。・・どんな偉い人だったか知りませんが、俺はこの考え自体どうかと思います、

何者が?一番尊い命なんて決められる?神?仏?様。・・広い宇宙で、たかが人ごときが一番なんて理解出来ない。

この世の生きとし生きる者。

生きる為に、動植物、他の命頂いて生きて(生かされて)いるのですよ?。昔から日本の食事、いただきます(感謝を込めて)、って言葉があるんだと思います。

こんなことも判らんから人は一番だと思い込み一番以下の(命)粗末に扱って、私利私欲で争い事起こす、と(俺は)思います

新しい哲学も大事ですが

人間が人間としての自覚、じゃなくて・(人)が(人間)として自覚(成長)するものだと思っています。

哲学、宗教的なこと個人の自由です。自分は先祖のお墓掃除(年数回ですが)。毎日仏壇に、お線香(おはようございます、今日も生きてます、ありがとうございます)って手を合わせる程度の事はしています。
49歳、1男の思い込みです、回答にはならないですが、生意気言ってごめんなさい。
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この回答へのお礼

こんにちは ご回答ありがとうございます。

>自分は先祖のお墓掃除(年数回ですが)。毎日仏壇に、お線香(おはようございます、今日も生きてます、ありがとうございます)って手を合わせる程度の事はしています。
たぶん 釈尊はこんなことをする人を観ちゃったんですね~ 人間以外の生き物で 同じことをする生き物はいないと思います。

それに 人間は怪我をした生き物がいた場合 共に自分の痛いという経験に合わせて痛いだろう可哀そうだなんて思っちゃうんですね。
誰かが 苦労して立派な大人になったとか聞くと一緒に喜んだりするんですよ。亡くなった人がいたらもう大変なんです 安らかに成仏してくださいと願ったりするんですから。

四無量心(しむりょうしん、skt:apramāṇāni)とは、他の生命に対する自他怨親なく平等で、過度の心配などのない、落ち着いた気持ちを持つことをいう。四梵住(skt:brahmavihāra)、四梵行ともいう。

無量というのは、「貪・瞋・痴」などと違い、限界なくどこまでも成長させることができることから言う。
慈無量心(skt:maitrī, pāli:mettā) - 「慈愛」、相手の幸福を望む心。
悲無量心(skt,pāli:karuṇā) - 「抜苦」、苦しみを除いてあげたいと思う心。
喜無量心(skt, pāli:muditā) - 「随喜」、相手の幸福を共に喜ぶ心。
捨無量心(skt:upekṣā, pāli:upekkhā) - 「浄捨」[1]、相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心を指す。なお上座部教学の集成者であるブッダゴーサは、『清浄道論』(Visuddhi Magga)において、単なる無関心を「無智捨」と呼び、捨無量心とは似て非なるものとして、修行者に注意を促している。

釈尊は 他の生き物にない相手のことを共有する人間の心を観て。「天上天下唯我独尊」=人間が一番尊いと思ったんでしょうね~

お礼日時:2013/04/29 16:50

 ひとことです。



 ★(No.7お礼欄) 「オーム」とキリスト教の「アーメン」やイスラム教の「アミーン」は同じ意味だそうです。
 ☆ ちがいますよ。

 オームは 例の《阿吽(ア-ウン)》というやつです。(ウンの ン の字は m で書くので ウム ともなります)。

 サンスクリットの音韻表の初めの《ア(阿)》とおしまいの《ン(ウン・ウム・吽)》とを取って 例のギリシャ語における《アルファ(α)とオーメガ(ω)》――つまり《世界のすべて・全部》の意味――と同じ言い表わし方によったものです。

 つまりサンスクリットの音韻表は 日本語がそれに倣って アイウエオの五十音表をつくったそうです。だから アから始まってンで終わります。

    A-UM > AUM > OOM

 たとえば

   鸚(アウ)鵡(ム・ブ) > おうむ  

   August (アウグスト) > オーガスト 

 のごとし。
 そうして アは口を広く開けており ン(ウム)は 閉じる。ゆえに 世界の一切のものごとをそのふたつの連なりの中におさめるのだとか。




 アーメンは 《しかり。たしかに。そうなれかし》の意味のふつうの語です。

 √ ’-M-N  という三つの子音から成る語根のふつうの単語です。( 記号の《 ’ 》は ア行の子音です。音はありませんが 一呼吸置くかたちで 存在しています)。《まことと思う。信じる》の意味です。

 エムーン:信用。信頼。 / 誠実。忠誠。
 エムーナー:信仰。 / 信条。教義。宗教。 / 誠実。真実。忠誠
 アーミーン:信頼できる。信憑性の高い。本物の。
   (『キリスト聖書塾:現代ヘブライ語辞典』1984)

 クルアーンのアラビア語も ヘブル語と同じ語源のことばです。

 
 ▼ ( Online Etymology Dictionary :amen ) ~~~~~
http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_f …

 amen :
 Old English,
 from Late Latin amen,
 from Ecclesiastical Greek amen,
 from Hebrew amen "truth,"

 used adverbially as an expression of agreement
(e.g. Deut. xxvii:26, I Kings i:36;
   
 cf. Modern English verily, surely, absolutely in the same sense),

 from Semitic root a-m-n "to be trustworthy, confirm, support."
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 

  
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この回答へのお礼

こんにちは 丁寧なご訂正ありがとうございます。

>オームは 例の《阿吽(ア-ウン)》というやつです。(ウンの ン の字は m で書くので ウム ともなります)。
これは ぞんじていたのですが ついつい間違えてしまいました AUMです。

>「オーム」とキリスト教の「アーメン」やイスラム教の「アミーン」は同じ意味だそうです。
そうでしたか 大変勉強になりました。ありがとうございました。私はよく間違えるのでこれからも宜しくお願いします。

お礼日時:2013/04/29 16:58

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