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クンデラの「存在の耐えられない軽さ」の中である名も無い一人の医師(トマーシュではないです。)が、
「私は人を愛している。しかし、私の愛は全体に向いており、個々へも同じように向けられるかというとそれは難しい。その個々が私に干渉し、私をほんの少しでも傷つけたり、私の障害とでもなろうものなら私はその個に対して途端に愛を失うだろう。」という内容のことを言っております。(私はその医師が言っていた言葉をこのように解釈しました。)
その医師は自分の愛は愛なのか、それとも理想を夢見ているだけの妄想なのかと葛藤しておりました。

もし医師の言葉が上記のような意味であるとするなら、それはまるきり私と同じようであると言えてしまいます。
私も全体への愛は有りますが、個々への愛はほぼ皆無なのです。(初対面の人を愛することは全体への愛に含まれると思います。)
私の個々への愛は瞬間的で形式的なものに過ぎないのです。

だとしたら私の全体への愛と個々への愛の違いはなんなんでしょうか?
私の自分勝手さが愛に現れているようでなりません。私の愛は私がひたすらに全体への愛を表明する活動に勤しんだとしても、身勝手なものなのでしょうか?

全体を愛し、個々も愛するというのは不可能だと思います。
全体への愛のために個々を犠牲にし、個々への愛のために全体を犠牲にするというのは日常的にあることです。

そもそも愛を正しいか否かで問うことがお門違いなのかもしれませんが、全体への愛と個々への愛はどちらが正しいのでしょうか?

A 回答 (3件)

>全体を愛し、個々も愛するというのは不可能だと思います。


>全体への愛のために個々を犠牲にし、個々への愛のために全体を犠牲にするというのは日常的>にあることです

個々を愛したことが無いのにどうして見も知らぬ全体を愛することが出来るのでしょう?
家族で辛苦をともにした家族、生まれてきた子供の成長を見守る無償の愛。 時にはお互いの心を傷つけることもあるが、かけがえの無い愛。 その様なものがベースになっていると思います。

>名も無い一人の医師。。。
は 「愛が全体を向いている」 「個々へ愛を向けるのは難しい」 と述べている様ですが、それは別の言い方をすれば 「自分の愛は漠然としたものを向いている」 「具体的な現実的なものへ愛を向けるのは難しい」 と言っていると思います。 つまり、はっきり言えば「現実逃避」 ではないかと思います。

個々への愛、友人への愛、同僚への愛、などと現実的な葛藤や辛苦からほんのかすかに芽生えた「愛」 を基礎にその輪を広げて行ったものが 「真の愛」 だと思うし、ひいては全体への愛になると思います。

その医師の言葉で 「愛」 の部分を 「憎しみ」 と入れ替えてみれば何かが分かると思います。
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「愛」と言う抽象語を弄んでいても,何の回答も得られません。


大切なことは「愛の心」を,実生活にどう反映させるかと言うことです。
「愛の果ての憎しみ」もあれば,「憎しみの果ての愛」も有り得ます。
昔,「愛憎の果てに」という映画がありました。それなりに反響も呼び,評価もされました。
ただ,質問者さまへ疑問を提出します。
「全体への愛と個々への愛はどちらが正しいのか?」
これは,果たして対立させなければならない課題なのでしょうか。
全体に対しても,個々に対しても,愛情表現と愛の行為は,その対処のし方が違うだけだと思いませんか。
と,回答すれば,これは哲学的回答になりますね。ご質問は「文学」のカテゴリーでした。
的外れな回答なら無視して下さい。
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どちらが正しいっていうのは無いのかもしれませんね

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