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「相対的な善悪はあるが、絶対的な善悪はない」という旨の発言をしたところ、矛盾を指摘されました。指摘をまとめると、「相対的に善いか悪いかという判断は、絶対的な善悪との比較によって可能となる。相対的な善悪の判断ができるなら、我々は絶対的な善悪を知っていることになる」ということになります。

個人的には、我々が絶対的な善悪を知っているというのは直観に反するのですが、「相対的な善悪の判断ができるなら、我々は絶対的な善悪を知っていることになる」という推論は正しいでしょうか。

また、それが正しいとすると、
・我々は絶対的な善悪を知っており、そのため相対的な善悪の判断もできる
・我々は絶対的な善悪を知っておらず、そのため相対的な善悪の判断はできない
のどちらが正しいのでしょうか。

よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

哲学(史)には詳しくないのですが、ある程度まで言えそうなことがありそうなので、書いてみます。



まず、ありがちな「疑問」だということです(だから答えがあるわけではないです)。

第一の質問「相対的な善悪判断を知っているなら、絶対的な判断を知っている(はずだ:必然的だ)は――

「2+3=5を知っているなら、二次方程式を解けるはずだ」であり、あきらかに「偽」ですが、

「解ける可能性をもつ」ならば「真」になりえます。

「嘘を言うのは悪い」(嘘をいうのが良い場合がある、は相対性をいう理由にならない)のを知っているのは

「善」とは何か(絶対性)を知ることとは別のことです。

「~は悪い」はそのつど、絶対的に悪いのです。でなければ、そう言うこと自体が自己矛盾です。

これは「道徳判断」ですから、「真偽」をいうのがそもそもおかしいのですが(善悪は真偽を超えている?)、

道徳的直観の絶対性を希求したのはカントです(知識もないのに断定しておきます)。

御質問は、カント(の見方)を正しいいかどうか、とも読めます。

カントは「そうであるはず」だとの前提で論述していきますが、もちろん、その結論を、どう判断するかこそが、

その「論理」を本当に読んだ人に課せられた「決断」としかいいようがありません。

――つまり、答えはない、ということです。(どう生きるかが答えです)


第2問は、どこか(偶然かもしれませんが)カントの「アンチノミー」に似た形式の質問ですね。

こたえは、もうご自分で考えてください(こんな鋭い質問者さまに説法jは無用)。

蛇足ですが、

あの人に嘘を言うのは「悪い」、という判断、

それは、やはり、そのままで「絶対」的なんだと思います。

その結果、あの人は絶望して自殺するかもしれない、

でもそれは、もう、そういうしかなかったんですよ。

それを悔やんで、あの判断は「いいだの、わるいだの」言うのは、どこか間が抜けているというほかないです。

第2の質問には、

――私たちの判断はつねに絶対的なのだ(でなければ、それを判断とは呼ばない)

とお答えします。

以上、あまり哲学的ではなくなりましたが。

この回答への補足

第一の問いに、「2+3=5を知っているなら、二次方程式を解けるはずだ」という例が適しているとは思えません。数学の例えに乗っかってたとえるなら、二次方程式を解けるなら四則演算を知っているはずだ、などの例えが適切かと思います。

第二の問いは二律背反にはなっていません。ただの排中律です。

皆様のご回答のおかげで自分の中で問題意識が明確になり、質問文に問題を感じ始めたので、この質問は締め切りたいと思います。

補足日時:2013/05/16 22:56
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/16 22:40

No.4です


問答集になってきてしまいましたが
個人的にこういう事は好きなので返答させていただきます

>その「思想」を共有しなければならない道理はないわけで
という事ですが
これは共有を強制はされないけれど、共有した方が楽になるはずです
(現実は法律という方法で強制されていますが)
たとえば誰かを殺すという事は、自分が殺される可能性があるという事で
それは人という基準で分類している限り消えないと思います
その危険性を減らすために「悪」という事にしてそれを共有するのではないでしょうか
はっきりと善悪の境界線が見えるのは共有されてる部分であり
境界が見えないのは、共有されていない部分と考えています
思想という言葉を使うのも上記の意味合いがあるからです

>やはり「私の思想ではその行為は悪だ」とは言えても、正当化はできないだろうと思います。
私の思想ではその行為は悪だと言って正当化出来る理由は
上記理由で共有していると思われるからです
共有していない場合は「お前は鬼だ」と言って殴ります
(いや、まあ、そこが、絶対的な善悪は存在出来ないと思う理由です)

この回答への補足

社会契約論のような感じでしょうか。整合的だと思いますし、共有していない場合殴るというのも徹底していてすばらしいと思います。

補足日時:2013/05/16 22:49
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/16 22:39

>個人的には、我々が絶対的な善悪を知っているというのは直観に反するのですが、「相対的な善悪の判断ができるなら、我々は絶対的な善悪を知っていることになる」という推論は正しいでしょうか。



プロテスタントのクリスチャンで、統一教会、エホバの証人、モルモン教とは関係ございません。しいて言えばむかし聖書に帰ろうと述べたマルチン・ルターの流れの中にいるものです。

さて自分の体験からしますと、聖書を読んでイエスと言う人物に出会うまでは、善悪とは相対的なものだと思っておりました。従いまして、ある国家にあっては善であることがたの国では悪であるという現象に対してはよく理解出来ました。しかし絶対的な善悪を知る前であっても、悪いことをすると、心が悩み、人にその罪が見つからないように、汲々としていた自分を思い出します。つまり私どもの心には何かが書き込まれていると思えるふしがございます。それゆえに悪いことをすると、うれしくなくなり、正しいあるいは善なることをすると幸いな気持ちになります。

聖書では人には良心(善悪の判断ができる)があると、たとえ絶対的な善悪を知っていなくても、良心があって、自分の行動を律していると述べています。以下の引用は聖書の中のローマ書2章14節から15節のそのままの書き写しです。

14 ―律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

*神の律法(神の善悪の規定)を持たない、生まれつきのままの人であれ、神が定めた律法(善悪の規定)を守るのは自分自身が神の善悪をもって自分を律しているのだと述べています。*

15 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。

*また上の節では神を知らない人々の心には神が定めた善悪に基づいて行動するように、書き込まれていると述べております。つまりそれは良心であると述べています。私どもには良心があるので、なにか善悪の判断がせまられたとき自分の内側で葛藤するとの述べています。

>個人的には、我々が絶対的な善悪を知っているというのは直観に反するのですが、

聖書によれば人は良心と言う善悪の判断をおこなう能力がすでに与えられていると述べておりますので、ご質問者さんの「直観に反する」というステートメントは率直にはうなずけません。むしろ少し雑踏から離れてお考えいただくと、ご自分の内に正しく生きたいとか人々の役にたちたいというお気持ちがあるのを見出されると思います。

>「相対的な善悪の判断ができるなら、我々は絶対的な善悪を知っていることになる」という推論は正しいでしょうか。

人は心のうちに良心を組み込まれておりますので、絶対的な善悪をたとえ知らなくても、相対的な善悪であれ、絶対的な善悪であれ判断が出来るだろうと思います。現在ある市長が面談した米軍関係者に「風俗云々」と語ったことで世界的なニュースになっておりますが、もし日本人のだれ一人にも遺伝的に良心がなかった(つまり絶対的な善悪の判断)が無かったのであれば、他の国の人々になにを言われようとも一瞥だにする必要はございません。しかし色めき立って反論するというのはご自分の良心に触る事柄でもあるということをいみじくも表明しているのではないでしょうか。

思うに相対的な善悪とか絶対的な善悪等と言うのは存在せず、基本的には自分の良心に反するのか、否かということに尽きると思います。神が定めた善悪、あるいは絶対的な善悪、それぞれをどのように呼ぼうとも問題は個人が絶対的な善悪からどの程度乖離しているかということではないかと思うのですが、いかがでしょうか。社会を眺めてみますと、善悪からとてつもなく離れているがゆえに同じことがらに対して、善であるとか悪であるとかという判断が生まれてしまうのではないかと思います。

日本では善悪から遠く離れた官僚や政治家が法律を作っている状況で、過去の日本の国家にあるまじき政策を笑えないような法律が今後も生まれてくるのではないかと少しばかり危惧しております。

この回答への補足

なるほど、我々は良心を生まれながらにして持っているために、善悪の判断ができるとお考えなのですね。

意見の一致を見ないことがあるのはなぜなのでしょうね。良心は持っているけど、事例への適用が下手なのでしょうか。

補足日時:2013/05/16 22:49
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/16 22:39

No.4です


誤解されてるようなので、ちょっと補足を

>殺されても、殺した人への文句を正当化できないことになりますが。
これについては
>思想というのは、人が生きていく上での事も含むので
>それによって善悪は生じるけど(人は生きているので、必ず関わる事になると思う)
という事で文句を正当化出来ると思います
(まあ、正確には自分自身によって文句をつけられる事になると思いますが)
思考を持って生存しているならば、思想というかそういうものが存在するはずで
それを元に善悪を判断してるのではないかなと
何も考えない人が居た場合、その人自身は善悪とか関係あるのでしょうか?
私は関係ないのではないかと思います
ですから善悪というのは、人が考えを持ってるゆえについてまわるモノではないでしょうか
人が考えるという事を放棄出来ない以上、人にとって善悪は存在するが
かといって人と無関係に善悪は成立しえない
ですので絶対的という事は言えないけど、人が思考して生きていく限り存在はする
と考えます
答えになってるか不安ですが、これ以上は出てこないです

この回答への補足

殺されても、殺した人への文句を正当化できないことになるのは、善悪はないと主張する人への反論です。が、これはNo.4でいただいた回答を誤読しており、そのような主張をされていなかったのですね。

撤回しようと思ったのですが、今回いただいた回答の要旨は「人にとって善悪は存在する」「人と無関係に善悪は成立しえない」というところに集約されていると思うのですが、その「思想」を共有しなければならない道理はないわけで、やはり「私の思想ではその行為は悪だ」とは言えても、正当化はできないだろうと思います。

補足日時:2013/05/16 21:10
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/16 20:59

>相対的な善悪


>絶対的な善悪

例を挙げれば理解が早いと思います。

明治時代における日本の善悪の基準と、歴史以前の社会における善悪の基準は同じではない。

国家間では善悪の基準が正反対の場合がある。だからお互いに人殺し(戦争)が出来る

善悪の基準はその時代と社会によって異なる相対的なものである。だから全時代、民族相互に共通な絶対的な善悪の基準はないということです。

>、「相対的に善いか悪いかという判断は、絶対的な善悪との比較によって可能となる。

相対的な価値観と絶対的な価値観を比較することは不可能です。

この回答への補足

普遍的な善悪はないとお考えなのですね。すると、善悪は相対的なものであって、我々は奴隷制度やアパルトヘイトを否定することを正当化することはできないのでしょうか。

「相対的に善いか悪いかという判断は、絶対的な善悪との比較によって可能となる」というのは、ある時代のある民族による善悪の判断であっても、その判断のためには、何が善かを判断することを可能ならしめる、善のイデアのようなものが要請されるという趣旨です。

補足日時:2013/05/16 19:08
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/16 18:58

決まってるのは思想による善悪であって


相対的でも絶対的でも変な感じがします

思想というのは、人が生きていく上での事も含むので
それによって善悪は生じるけど(人は生きているので、必ず関わる事になると思う)
自然現象みたいな善悪は存在しないと思うので
相対的でも絶対的でも善悪は存在しない、と思うのですが
いかがでしょうか

ちなみに
相対的な善悪の判断ができるなら、我々は絶対的な善悪を知っていることになる
というのは、そうだとも言えるし、違うとも言えると思います
善悪が個々の価値によるなら、それぞれについての良い、悪いが存在するし
大きな方向性を持っているなら、それを基準にしての良い、悪いがあると思います
ただ、善悪って何ですか?と言われると、どうなんでしょうか

この回答への補足

人間の行為も自然現象であって、そこに善悪はないという考え方は、それはそれで整合性が取れていると思います。殺されても、殺した人への文句を正当化できないことになりますが。

相対的な善悪、絶対的な善悪という表現はわかりにくかったかもしれません。たとえ、時と場合によって善悪が変わるとしても、善悪を判断できるなら、何が善で何が悪かという基準を我々はすでに知っているのでなければならない、ということです。

補足日時:2013/05/16 18:41
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/16 18:41

「絶対的な善悪」とは、『善悪』という考え自体が悪だという事。


生きる上での唯一の価値は、生きる意志=自己の充足感へ
の寄与の如何のみ。
善悪やお金、神や法規といった外的価値は、自己の選択とし
ての社会化において、自己の生存の社会生命性の自覚化の
未熟さによって自己中心性を抑えられない自己チューな意識を
他律的にコントロールするために発達した、必要悪(他律的=
自己の意志の抑圧による達成=イヤイヤ働かされる)なのだ。

この回答への補足

「『善悪』という考え自体が悪」というのは、善悪を否定しておきながら述語において悪の存在を認めていることになるし、善悪という考えに囚われていることになるのではないでしょうか。外的価値としての善悪のみ否定し、内的価値としての善悪は認めているんでしょうかね。

個人の思想としては結構だと思いますが、すべての文章が主張であり、根拠が一切示されていないので解説がほしいところです。

これは私の質問への回答なのでしょうか。

補足日時:2013/05/16 18:23
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/16 18:15

言葉遊びの感じがします。



相対的な善悪があるから、絶対的な善悪が
あるはずだ、というのは、相対的だという言葉が
あるから、絶対的だという言葉もある、という
だけではないですか?

それを「相対的」という言葉に「善悪」をくっつけて、
だから、善悪にも絶対的善悪があるのだ、という
ごまかしをしているだけだと思います。

言葉遊び、というよりも、言葉に惑わされている
のかもしれません。

この回答への補足

例えば、溺れている人を見たときに、助けることは見て見ぬふりをすることよりも善い行為だと、知っているとする。その比較が可能なのは、我々が何が善かを知っており、どちらの行為がよりその善に近いかを比べられるからである。だから、相対的な善悪の判断ができるなら、我々は絶対的な善悪を知っていることになる、とのことでした。

私としては納得させられてしまったのですが、言葉遊びになっている、あるいは言葉に惑わされていますかね。

補足日時:2013/05/16 18:12
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/16 18:04

なんでもかんでも「善」と「悪」との二元論が成り立つとは限りません。



自分を悪と自覚して悪党をやっている者ばかりではなく、双方が「自分が正義」だと思っていることもあり、「正義」の反対は「別の正義」となることも多いです。

だから個人間なら殺人や復讐だって、国レベルなら戦争の殺戮だって、正義の美談として語り継がれることもあります。

そもそも相対的な善悪に対する指標を持っているかも怪しいですね。

この回答への補足

確信犯の存在や、人によって同じ行為を別様に解釈するため、善悪は相対的である、ということでしょうか。

勝手に私の質問への回答と言う形に置き代えさせていただくなら、「相対的な善悪の判断ができるなら、我々は絶対的な善悪を知っていることになる」いう推論は正しいが、相対的な善悪の判断ができるかは疑わしく、我々は絶対的な善悪を知っているとは言えない、というところでしょうか。

また、疑問なんですが、「なんでもかんでも「善」と「悪」との二元論が成り立つとは限りません」ということは、ある場面では「善」と「悪」との二元論が成り立つということですよね。すると、どんな場面では二元論を適用し、どんな場面では適用しないのかという、より一段上の絶対的な規則が必要になるのではないでしょうか。

補足日時:2013/05/16 17:36
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/16 17:36

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